2008.03.09 (Sun)
『限りなく透明に近いブルー』村上龍著を読む
村上龍の『限りなく透明に近いブルー』が世に出て30年以上なるだろうか。まだ二十歳を少し出たばかりの若者が書いた小説ということで話題になり、1976年上半期の芥川賞を受賞した作品である。戦後生まれとしては中上健二に次いで二人目の受賞だった。でも店頭にこの本が出回って評判になっていたあの頃、手にとってページをパラパラと捲りわずかに読んでみたが、すぐに嫌になり買う気も起こらなかったことを覚えている。
小説の内容はリュウという19歳の若者を中心に、彼を取り巻く男女が、ハウスと呼ばれる米軍基地の周辺にある家で、日夜、何をするでもなく、ただ、ドラッグ、SEX、パーティーに明け暮れるという話で、ストーリーらしきものが無い。話の中では、登場する人物・・・・・リュウ、リリー、オキナワ、レイ子、モコ、ケイ、カズオ、ヨシヤマ・・・・等が淡々とヘロイン、LSD、ハシシ、ニブロール、モルヒネといった薬に手を染め、酒をあおり乱交パーティーを繰り広げ、ジャズやロックを聴く。でもやがて、彼らは徐々に散り散りになっていく・・・・・・。
村上龍がこの小説を何のために書いたのか私は今でも理解できない。何を言いたかったのかも釈然としない。私は村上龍とさほど歳は違わないから、彼の感性は判らないでもないが、小説として読んでいると面白くもなんとも無い。ただ目的の無い男女が集まって、毎日、ダラダラと薬をやり、酒を飲み、たまにレッド・ツェッペリンやローリング・ストーンズ、マイルス・デイヴィスといったロックやジャズを聴き、時にはSEX三昧、また米軍基地からやって来た黒人兵も加わって乱交パーティーを繰り広げる。ただあるのは詩的な文体と、日常的な生産性からの逃避、堕落的会話・・・・。およそ主体性の無い無秩序な若者を描く上で、彼等の生き様を視覚的な表現で捉えきった文体には見るべき物はあるが、ただ意味の無い彼等の日夜の行動、及び言動は到底、私の理解しうる範疇を逸脱していて、この小説の意図するところは私には判明しない。
この小説は1970年頃の、まだ全共闘運動が盛んだった頃の話であるが、当時の熱い革命ごっこをやっていた連中の裏ではノンポリシーの若者が大勢いたことも確かであり、一方で麻薬に手を染め、ドロップアウトしていった少年少女も多く、高度経済成長期という日本が繁栄して行く過程の陰で、このような闇の部分も少なくは無かったということなる。
村上龍自身、東京都下の福生に住んでいて、そこは米軍横田基地の周辺にあるハウスという住居の多い地域であったという。それこそ米軍兵が往来し、彼らを通してドラッグが手に入る。必然的にそのような輩が集まる。いわば日本の中の反日本的な社会で生活する間に、どっぷりと浸かってしまう。それが何時しか社会から隔離されたような、何ら経済性のないアナーキーな世界。このような世界を知り、このような小説を書くに至らせたのであろうが・・・・・。小説の中では、リュウはこのような仲間達の中で、クールに彼らを鳥瞰図的に見ているようなところがあり、したがって自分を見失っていたものの、遂に自己というものを発見することとなる。
全編的にドラッグの世界にいるような、非現実的な表現で覆われていて、けして読み易いという小説ではなく、とくに常人の世界に浸かりきっている私のような凡人では、麻薬の世界は想像の域を超えているだろうし、村上龍の持つ感性には到底到達できそうもないので、この小説を吸収しきれることは一生有り得ないだろう。現に『限りなく透明に近いブルー』の評価は真っ二つに別れ、芥川賞選考の時は、大いに揉めたという。でも村上龍の世界に共鳴できる人は同様にいる訳だから、人の意見は尊重すべきである。よく小説のなかで全体に一貫しているテーマはと何かと考える時があるが、この小説の中では鳥がキーワードになると思う。主人公リュウは言う「リリー、鳥が見えるかい? 今外を鳥が飛んでいるだろう?」「俺は知ったんだ、ここはどこだかわかったよ。鳥に一番近いとこなんだ、ここから鳥がきっと見えるはずだよ」「俺は知ってたんだ、本当はずっと昔から知ってたんだ、やっとわかったよ、鳥だったんだ」「鳥は殺さなきゃだめなんだ、鳥を殺さなきゃ俺は俺のことがわからなくなるんだ、鳥は邪魔してるよ、俺が見ようとする物を俺から隠してるんだ。俺は鳥を殺すよ、リリー鳥を殺さなきゃ俺が殺されるよ」・・・・リュウは鳥に何を連想していたのだろうか・・・・・。
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