2008.04.05 (Sat)
カラヤン生誕100年

今日、4月5日はヘルベルト・フォン・カラヤンの生誕100年にあたる日である。生誕100年といっても、当の本人は1989年に亡くなっているから生きている訳ではない。でも20世紀のカリスマ指揮者として帝王として、未だに圧倒的な人気を誇る指揮者であるだけに、カラヤン生誕100年だとか何とかいってクラシック音楽界は姦しい。
ヘルベルト・フォン・カラヤンは1908年4月5日、オーストリア=ハンガリー帝国のザルツブルクで生まれた。ザルツブルクというとヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトも生まれた所だけに、音楽は盛んである。カラヤンはそんなザルツブルクの貴族の一家に生まれたのである。ギリシャ系とかアルメニア系だとか色々いわれているが詳細は解らない。地元のモーツァルテウム音楽院で学び、若くしてオペラ指揮者としてデビューし、1934年にアーヘン市立歌劇場の音楽監督に就任する。1938年にはベルリンに進出し、翌年にはベルリン国立歌劇場、ミラノ・スカラ座でオペラの指揮者として活躍。1946年にはナチスの党員であったため、一時期、公開演奏停止処分を受けた。だが1948年にはウィーン交響楽団の首席指揮者。1949年にはウィーン楽友協会の音楽監督に就任。この頃は、イギリスのフィルハーモニア管弦楽団とレコード録音を盛んに行い、カラヤンの知名度は格段に拡がっていく。そして、1955年には急逝したヴィルヘルム・フルトヴェングラーの後任としてベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者、音楽監督の座を射止め、この年から亡くなるまでクラシック音楽界の帝王として、その地位に留まることとなる。
以上、カラヤンの簡単な略歴を追ってみたが、私がクラシック音楽に興味を持ち出した頃には、すでにカラヤンの名は轟きわたっていた。帝王、カリスマ、君主・・・・色々といわれ、とにかく妥協を許さないほどオーケストラ団員への要求は厳しかったという。そもそもカラヤンが世界最高峰のベルリン・フィルの首席指揮者の地位を得るまで、ベルリン・フィル内では一悶着あったという。
1955年、フルトヴェングラーとベルリン・フィルによるアメリカ演奏旅行が決まっていた。ところが1954年にフルトヴェングラーが逝去した。ベルリン・フィル側は後継者を急いで探さねば成らなかった。候補としてはカール・ベーム、セルジウ・チェリビダッケ、ヨーゼフ・カイルベルト、オイゲン・ヨッフム・・・・・。そんな中で人気急上昇中のカラヤンの名前も当然のようにあった。団員の多くもカラヤンが後継者として引き継いでくれれば満足だった。だが、カラヤンは終身首席指揮者の地位に拘った。前任のフルトヴェングラーの亡霊があったのかもしれない。ましてやナチス党員だったカラヤンは、アメリカ演奏旅行は危険な賭けであった。元ナチス党員という色眼鏡で見られやしないか、フルトヴェングラーと比較されないか、それによりベルリン・フィルの首席指揮者の地位から転落という結果も有り得るのを危惧したのである。つまり終身ベルリン・フィルの首席指揮者である保証が欲しかったのである。結局、ベルリン・フィル側は、カラヤンの要求を呑むしかなく、アメリカ演奏旅行に旅立ったのである。
アメリカ演奏旅行は成功したが、一部の人の反感を買い、ニューヨークのカーネギー・ホールの前では、抗議の行進も行われた。600万人のユダヤ人死者を祈念する横断幕も張られたという。でもコンサートは大成功で、アメリカの聴衆はカラヤンとベルリン・フィルに大讃辞を送ったのである。これによりカラヤンはベルリンの音楽界に帝王として君臨し続けるのである。
カラヤンの音楽作りは徹底していて、団員に過酷な要求をつきつけた。オーケストラの団員に合奏の正確さを求め、音を徹底的に磨き上げ、洗練された音色を目指すのだった。レガートの使用により流麗で典雅な輝かしい音質を追求することにより、艶やかな色彩感あふれる音色を生み出したといわれる。確かにフルトヴェングラー時代のベルリン・フィルよりも音色が鮮やかになった。そして、レパートリーが広く、ドイツ、オーストリアの伝統音楽からチャイコフスキー、ドヴォルザーク、またはシベリウス、グリーグ等の北欧音楽、ヴェルディ、プッチーニのイタリア音楽、シェーンベルク、ウェーベルン等の新ウィーン楽派まで演奏するというから驚く。それは、かつてのフルトヴェングラーが、独墺系音楽を中心に演奏していたのとは違い、ベルリン・フィルにとって大きな変革となった。
またカラヤンの指揮は、ある意味で格好が良かった。最初から観られることを意識してタクトを振っていたのかもしれない。目を閉じ背筋を伸ばし、棒を正面に向けず大きく振り下ろしをする。この独自のスタイルが人気を呼び、カラヤンの指揮を真似しようとする指揮者志望の青年も世界中にいたぐらいだ(小澤征爾など多数)。・・・・彼はナルシストだったのだろう。写真を片側からしか撮らせず、横顔には自信を持っていたという。自分の指揮に陶酔しているのかもしれない。
ここまでは一般的なカラヤン論だが、私もカラヤン指揮の演奏を相当数聴いてきた。私が感じるところでは、カラヤンは駄作がないというが、つまらない演奏もある。彼のベートーヴェン演奏はあまり好きにはなれない。それはブラームス、シューマンにも言えることであるが、重厚さが足りなく即物的である。やはりカラヤンよりはフルトヴェングラーの方が私の好みに合っている。でもチャイコフスキー、ドヴォルザークは好きだ。チャイコフスキーの『4番』『5番』『悲愴』『弦楽セレナード』、ドヴォルザーク『新世界』、このような色彩の溢れる曲はカラヤンは巧だ。それにワルツやポルカ、オペラ、軽い曲はそつなくこなす。このように、ありとあらゆる曲に対応できる数少ない指揮者の1人であり、その何れもが水準以上であることは認めざるを得ない。
中でも私が素晴らしいと思うのはリヒャルト・シュトラウスの演奏である。どのCDを聴いても、カラヤンの指揮するリヒャルト・シュトラウスは見事である。スケールが大きく細部にわたってまで配慮がなされていて聴き惚れてしまう。『アルプス交響曲』『ドン・ファン』『死と変容』『ドン・キホーテ』『ツァラトゥストラはかく語りき』『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』・・・・・どれも良いが、最も素晴らしいのは『英雄の生涯』ではないだろうか・・・・。一般的に85年にベルリン・フィルの演奏で録音された『英雄の生涯』の評判が高いが、私は1974年にベルリン・フィルと録音した『英雄の生涯』の演奏の方が好きである。全体的なスケールは85年版に譲るが、肌理の細かさで緩やかな弦楽器が冴え渡っている74年版の方に軍配を上げたい。さて、あなたはカラヤンの録音された曲では、どの曲がお好みですか?
リヒャルト・シュトラウス『英雄の生涯』の冒頭 リハーサル風景のカラヤン
チャイコフスキー『交響曲第5番~第4楽章』
ドヴォルザーク『新世界より~第4楽章』
*Comment
はじめまして、
グーグルで検索していたらここにいきあたりました。
思いがけずYouTubeでの貴重な映像がいろいろと観れて感謝しました。
特に私の大好きなフルトベングラーの映像が、
実は昨夜、私の彼女が大好きだというクロード・ルルーシュの
「愛と悲しみのボレロ」のビデオを観ていたら、彼女いわく、カラヤンを
モデルにしたという指揮者のお話で、NY初公演のときユダヤ人がチケットを買い占めて、sold outだったのに観客が2人の批評家を除いてだれもいなかった。という場面がありました。実際にはデモがおきたぐらいだったのですね、わたしはビデオを観ていてそこにいた批評家が羨ましくなりました。
何十人もいるオーケストラの楽員たちが2人のために演奏してくれていると思うと、
グーグルで検索していたらここにいきあたりました。
思いがけずYouTubeでの貴重な映像がいろいろと観れて感謝しました。
特に私の大好きなフルトベングラーの映像が、
実は昨夜、私の彼女が大好きだというクロード・ルルーシュの
「愛と悲しみのボレロ」のビデオを観ていたら、彼女いわく、カラヤンを
モデルにしたという指揮者のお話で、NY初公演のときユダヤ人がチケットを買い占めて、sold outだったのに観客が2人の批評家を除いてだれもいなかった。という場面がありました。実際にはデモがおきたぐらいだったのですね、わたしはビデオを観ていてそこにいた批評家が羨ましくなりました。
何十人もいるオーケストラの楽員たちが2人のために演奏してくれていると思うと、
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『愛と哀しみのボレロ』を観られましたか、長い映画で確か、モデルがカラヤンとエディット・ピアフとグレン・ミラーとルドルフ・ヌレイエフの四人だったと記憶しています。でもお互い国籍も職業も違うし、年齢にばらつきがあってお互い接触は無かったはずですが、映画では終盤のボレロへと向って行くという設定でしたでしょうか・・・・・・。。
実際にカラヤンがカーネギー・ホールで演奏した時は観衆2人ということはありませんでしたが、映画の題材としては面白いネタですね。でも自分だけのためにオーケストラが演奏してくれるのなら嬉しいでしょうねえ。
ところで、こんな下らないブログにコメントくださいまして有難うございます。また何時でも遊びに来てください。