2008.09.06 (Sat)
モディリアーニ展に行く

モディリアーニ展
今、大阪・中之島の国立国際美術館で催されているモディリアーニ展に行った。暑さがぶり返し、テクテクと中之島の会場まで歩くが、陽射しは強烈。またまた30℃突破の真夏日となったが、こんな日にアスファルト・ジャングルのようなところを歩くとたまらない。ただでさえ、国立国際美術館は交通の便の悪いところにある。最寄の駅となると地下鉄の肥後橋駅かJR東西線の新福島駅だろうが、どちらからも徒歩で10分以上はかかる。10分以上というと1㎞弱はあるから、炎天下に歩くとけっこうつらいものがある。でもこの催しは来週で終わってしまうから、しかたなく今日行ったまでだ。でも真夏に美術展なんてあまり気乗りはしない。それでブラブラと堂島川沿いを歩いて、会場まで行ったが、人がそこそこ来ているではないか。やはり人気画家の一人ではあるなあと妙に感心する。
1階のエントランスを通ってエスカレーターで地下1階に行き、そこでチケットを買い、地下3階の展示会場まで降りて行く。
モディリアーニというと、私が高校の頃、定期入れにモディリアーニの人物画を入れている女の子がいた。やはりその頃から、一部の人に人気があったのだ。彼の描く人物画というものは、一目瞭然で誰が見てもすぐに判る。アーモンド型をした黒目の無い眼。長い首と長い顔。あまりにも特徴的である。こういった画風は何処から影響を受けてこのような絵画に到達したのだろうかと、昔はよく想像したものだが、彼の原点にはプリミティヴィズムにあるといわれる。つまりアフリカやオセアニア、東南アジアにあるような原始美術の影響を色濃く受けているという。
アメデオ・クレメンテ・モディリアーニは1884年にイタリアはトスカーナ地方の町リヴォルで生まれ、21歳の時にパリに来ている。両親はユダヤ人で当初は彫刻家を目指していたのだ。それが画家に転じ、色々と模索している中でカリアティッドというものに出会う。ここからモディリアーニ風の絵が生まれてくるのであるが、他のエコール・ド・パリ派の画家と同様、なかなか世に出てこれるものではなかった。そんな時、彼は有力なパトロンて出会う。それがポール・アレクサンドルである。アレクサンドルは医師で美術愛好家だったが、モディリアーニの作品に最初に関心を持った人として知られ、暫くの間モディリアーニのパトロンであった。このようにしてモディリアーニが世に出てくるようになるのだが、自身が35歳という年齢で亡くなったのは至極残念である。
ところで今回の展覧会は、モディリアーニといっても油彩は20数点に過ぎず、大部分が裸婦を描いた鉛筆のデッサンで構成されている。展示順序としてはモディリアーニがプリミティヴィズムの発見からパリに到着して、ポール・アレクサンドルと出会うまでと、実験的段階への移行、カリアティッドの人物像及び前衛画家の道へ進もうとしていた。
その後、モディリアーニはカリアティッドからの変遷を余儀なくされ、仮面を描いていたりして何かを模索している中、トーテム風の肖像画を描き出す。でも志半ば、35歳の時にモディリアーニは結核性髄膜炎に罹り、まもなく死亡した。でも長い顔と長い首、一色に塗られた細い目が印象的なモディリアーニの絵は、徐々に人気が出たようである。それはそれまでのヨーロッパに無かったカリアティッドとして熟し、一際人気を博した。
このようにモディリアーニは、西洋美術だけではない地域の影響を作品に色濃く残し、それでいて古典的肖像画との統合等、新しい試みを絵に反映させていった。結局、それがモディリアーニ独自の画風を生み、エコール・ド・パリの一派として彼の名は知れ渡ることになったのだろう・・・・・。結局、モディリアーニの展覧会に行ったものの、あまり印象に残ることもなく、私は淡々と観て周り、早めに会場出てしまった。でも油彩画は400点しか描いてないモディリアーニでも、まだ日本に来ていない絵は無数にあるのだろうなあ・・・・・。
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