2009.01.10 (Sat)
女子高生の会話を聞いて
土曜日で休日だった今日の午後、電車に乗っていると、とある駅から女子高生4人が乗り込んできて扉の前に立ち止まった。土曜日に学校があるということはおそらく私立の高校生なのだろう。ちょうど私は扉の横のシートに座っていたので彼女達の会話は聞くつもりもなかったが、否応でも聞こえてくる。話しの内容というのは他愛ない芸能ネタから始まったのだが、それが段々と高校生活の話題に移り、やがては学校の悪口、教師への不満となり愚痴、罵り、雑言の雨、霰である。ものの10、15分程度の間であったが、よくも学校に対してあれだけ不平、不満がいえるものだと思った。みんな自分達が通っている学校に誇りがもてないのかなあ・・・・。淋しいものである。
まあ、その内容というのは取り立て過激なものでもなく敢えて取り上げるほどのものでもないが、一部だけ抜粋するとしよう。
「なあ、なんでウチは土曜日も学校あるんやろ、公立の子なんか休んでんのになー」
「ほんまや、ほんまや、それにバリ校則厳しいし、自由もないし」
「髪も染められへんし、ピアスもできひん、化粧したら怒られるしメッチャむかつくわ」
「そうやそうや、ほんま最初から判ってたら、こんな糞学校なんか来いひんかったで」
「ほんまサギ学校やなー、ほんで勉強ばっかりさせといて、宿題も多すぎやで、こんなんやから一つも遊ぶ時間あらへんやん」
「先コーはウザいし、まじキモいし、家帰ったらおかんも勉強しろ、勉強しろてうっといねん。もう、何もかも面白ないわ」
「ほんまやほんまや、高校の選択ミスったわー。こんなイモ学校、潰れたらええねん」
「こんな学校なんか、いつでも辞めたるわ。芋糞学校、ウンコや!」
このように散々、4人とも学校の悪口を言いたい放題で、こきおろすだけこきおろしていた。でも聞いていて、私は思わず高校生らしいと笑ってしまった。ところで、この女子高生達は、けして乱れた着こなしをしているのでもなく、蓮っ葉な様子もなく、いたって真面目そうな女の子等である。だからそんな女の子等が、ここまで不満をぶちまけるのかと思うと笑えてくる。それに誰でも一度は通る道だと考えれば、彼女達の言い分も十分理解出来るのだ。
要約すると彼女達の不満の内容なんて実に可愛いらしいものである。まだまだ成長途上の大人になりきってない高校生、15、16、17歳といった感受性の強い多感な時期には誰もが感じる悩み、不満といったものが噴出し、それらが毎日、毎日、堪るに堪ると、上記のような本音が出てしまうということなのだろう。つまり勉強ばかり押し付けられ、校則で縛られ、自由がなく、毎日の鬱憤がこんな会話となって現れるのだろう。でも、学校においては先生の前で良い子で通し、家でも聞き分けの良い子かもしれない。それが同じ年齢の友達同士だと、ついつい日頃、鬱積している不満が愚痴として口から出てしまう。親も先生も判ってくれない。学校なんか面白くない。勉強なんか嫌いと、あの年齢の子が言いがちな当然の意見を聞いて、私は、今も昔も高校生の言う不満というのは、大して変化がないなあと思わず笑ってしまった次第なのである。
今の大人、私も含めてほとんどの人が経験してきた、踏んできた成長の過程で、どの時代の人もどこの地域の人も10代のあの頃において考えることはほとんど同じである。それは「大人は判ってくれない」ということ・・・・・・。まだ精神的にも情緒的にも不安定で、社会生活での経験値が大人とは格段に少ない高校生が、純粋な心が薄らいできた大人に対していらだつのも当然の姿だと思う。一方、大人が何故に高校生に対して、規則で縛り、勉強を押し付けようとするのかは、大人が過去に経験してきた過程で、よりベターな方法をやらせようとするからである。結局、大人と少年、少女達との間で、互いに判らない埋まらない年齢のギャップというものがあり、教育する側と教育を受ける側との溝が深く入り込んでいるから、この問題を解決するのは簡単なものではない。
だから何で高校生が私達に勉強ばかりを押し付けるの・・・・・・何で未成年だと自由が大人のようにないの・・・・・・と疑問に思うかもしれない。でもこれは、正直いって大人になってみてようやく理解できることであり、高校生の頃に、親や教師が口を酸っぱくなるほど繰り返し言ってたことが、成長し大人になってみて、ああ、なるほどと解るときがいずれ訪れるのである。ただし思慮分別が少年時代からありすぎて、親の言うことに反発もしないで、やたら出来の良い子もいることはいるが、10代の頃はある程度、親や教師の押し付けに対して、少々の不満や反発はあった方が大人になってからも子供に対して説得力のある意見を述べることが出来ると思う。それは自分が辿って来た、溜め込んできた不満や道程というものと同等な悩みが理解できるからである。
だから社会人としての生きた経験で物事を判断しているから、高校生に対して特別、無理な注文を強いているわけではないのだが・・・・・・。現実として出来の悪い親や教師もいて、理不尽な現実も時にはあるだろうと思う。だが大人というのは、高校生よりも社会というものに対して長けているのである。それだけ世間に揉まれ苦労しているということである。だから社会人として認められているのであって自由もある訳である。だが大人というのは自由もあるが、それと引き換えに自己責任というものが付いてくる。つまり法律に違反しなければ何をやってもいい。でも責任は自分でとらなくてはいけないし、場合によっては子供のやらかしたことの責任までとる必要もあるということだ。ということは自由というのは、案外、しんどいものなのである。そのことを高校生は判ってないと思う。
それに親というのが何故、子供に対してガミガミいうかというと、親は自己の子供に対して保護義務、養育義務、そして自立させる義務がある。だから責任上、自分の子供が大人として、社会人として自立するまでは責任があり、義務をはたさなくてはならないから管理するわけだ。
ここまで書くと、そんなことは判っているけど・・・・・と言われるかもしれない。でも学校が煩い校則で縛り付けるのは納得できないと思っているだろう。うん、確かに意味のない校則もある。しかし、私の高校時代と比較すると、遥かに恵まれていると思うけど・・・・。
昭和40年代の高校というとほとんどが詰め襟の学生服という時代であった。ところが京都というところは、街は古いのに先進的なところがあって、あの頃の京都市内にあった大半の公立高校は私服で通ってもいいことになっていた。また中学校の男生徒は、大阪や神戸で丸刈りが当たり前という時代に、全て髪を伸ばしていた。そういった意味で、大阪あたりの高校生から羨ましがられていた。
ただ結果からいうと、昔、自由すぎた京都の公立高校は、服装が乱れすぎて、眼に余る格好で登校する生徒が増えすぎて、時代に逆行して標準服着用が義務付けされてしまった。またそれと比例して公立高校の学力低下が顕著になり、今では中高一貫教育を始める府立高校もあって、かつての栄光を取り戻そうと躍起になっている始末である。
また大阪の話であるが、1970年頃まで大阪の公立高校は数が少ない上にレヴェルが高く反対に中学卒業生の数が今よりも断然多かった。だから当時は卒業生の1/3ぐらいしか公立高校に入れなかった。それで仕方なく学費の高い私立へ多くの生徒が流れていったものである。そこで大阪府は15の春を泣かせてはならないと、府立高校を乱立させた。これで当然、中学を出た生徒の多くが学費の安い公立高校へ進学できるようになった。だが、これが公立高校のレヴェル低下を生みだす一因となったことは言うまでもない。今まで比較的、学力の高い子が集まっていた公立高校なのに、必ずしもそうとも言い切れなくなってしまった。また、私服着用を認めた公立高校も多いが、大阪のある府立高校は数年前に廃校となってしまった。それは服装が自由になりすぎて、学校周辺の大人たちが顔をしかめるような乱れた格好で通学する生徒が目立つようになり、やがて自分の子供を、その高校に行かせるのを拒んだ親が増え、やがてその高校は風紀が乱れていき、レヴェルダウンの歯止めが利かなくなり、とうとう別の高校と統合されてしまった。
このような現実を突きつけられると、高校生の年代の子に全て自由を与えてしまうと、済し崩しに雪崩れ現象を起こしてしまうかもしれない。ただでさえ昔の高校生よりも総体的に幼いといわれているのに、これだけ時代とはいえ私服の学校が多いというのにも驚いた。ただいえることは、服装が自由な学校は学力の高いところに多く、それだけ考えのしっかりした子が集まるところは自由度が高いということになるのだろうか。とはいえ、一般的にいって思慮分別のあやしい高校生にまで、服装の自由化を許すと、その後のことは目に見えている。だから髪型や髪の色、服装まで煩くいうのは、生徒を預かっている学校側の教育方針であって、統計的に勉学意欲のある生徒ほど服装が乱れないと出ているのだ。それに老婆心ながら言わせて貰うと、日本人の顔にあの茶髪や金髪は絶対に似合いません。不自然そのもので、あの青い目と高い鼻、ホリの深い西洋人の顔だから似合うのである。
それから、私立は土曜日も学校があるからとボヤいている子がいるが、今の子は小学校、中学校で土曜日が休日というのに慣らされてしまったのだろう。だから、私立高校が土曜日も学校があることに抵抗を感じているのに違いない。しかし、昔はといっても、そんな前ではないが、日本の学校という学校は、全て土曜日も授業があるのは当たり前であった。でも何時の間にか、土曜日が休みに成り、授業時間が減り、ゆとり教育を謳うようになった反面、日本人の児童、生徒の学力低下が生じてしまった。これは由々しき問題だが、当の児童、生徒達は知ったことじゃない。
基本的に資本主義というのは競争社会であり、民主主義だから人間みな平等というのは表面的なものであって、現実問題として弱肉強食である。ということは教育現場において、優劣をつけることから既に生存競争が始まっていて、社会淘汰という厳しい世間に将来、放り込まれるのである。だからいうのではないが、私が高校の頃を思い出せといっても、あまりいい思い出はない。高校に入って1年間は比較的のんびり出来たと思うが、2年になってから地獄が始まった。クラスの仲間が隠れて勉強をやりだすからである。大学なんか行かないよといっておきながら、自宅で猛勉強を始めるのだから・・・・・。当時のことだから塾に行く人もあまりいなくて、ほとんどは自宅で勉強をやっていたようである。すると周辺が始めると感化されていき、自分も落ちこぼれないように負けないように努力に励まなければならない。あの頃、それなりの名の通った大学に合格しようと思えば、四合五落なんていわれたりして、毎日の睡眠が4時間ならば合格するが、5時間も寝ると落ちると言われ脅かされたものである。だから高校3年になってからは楽しかった思い出なんて何一つないのだ。とにかく自由なんてものはなく、ただ一つの目的に向って毎日、味気ない受験勉強をするのみ・・・・。しかし、この時の苦しかった体験が今、生きているのである。とにかく高校生というのは勉強が本分であって、学校はけして遊びに行くところではない。それに勉強というのが楽しくないのは当たり前である。楽しければ全員、喧しく言われなくてもやるでしょう。
多くの大人も、このような経験を必ずやっている。今、高校生がつまらないと言っている日常を、大半の大人が通ってきた道だということ・・・・・・。だから本人のためを思って口喧しく言ってるに過ぎないのである。高校生というのは大人に向って行く道中のさなかであり、勉強というのも学校の煩い規則というのも、その道中のなかの与えられた試練と考えたほうがいいだろう。確かに当の高校生にとっては余計なハードルかもしれないが、現実的なことをいうと、一般社会の方が遥かに厳しいとだけ言っておくとしよう。高校の勉強も辛いけど、今から考えれば、ただ勉強さえやっていれば誰にも文句を言われなかった高校時代は、ある意味で楽だった。ということは高校の先に、もっと大きな荒波が待ち受けているということである。だからいえることは、勉強ばかりで遊べない、校則が厳しすぎて自由がない・・・・・・たった3年間だけの我慢である。長い人生での3年間である。この3年我慢できなければ、将来、何をやっても我慢できないと思うけど・・・・・。中学は3年間で1日しか休まず、高校は3年間、無遅刻、無早退、皆勤賞の小生だからいえることであるが・・・・・・・残念ながら大学は自由すぎてだらけまくりであったが・・・・・・。
でもこんなこと言っても、大人になってからでないと言ってる意味の深さが判らないと思う。だから言えるのは、今はつまらないと思っても、高校から挫折しないで卒業まで頑張って欲しいということである。きっと将来、いい思い出になると思うから・・・・・・・・・。今が大事ですよ・・・・・・。
まあ、その内容というのは取り立て過激なものでもなく敢えて取り上げるほどのものでもないが、一部だけ抜粋するとしよう。
「なあ、なんでウチは土曜日も学校あるんやろ、公立の子なんか休んでんのになー」
「ほんまや、ほんまや、それにバリ校則厳しいし、自由もないし」
「髪も染められへんし、ピアスもできひん、化粧したら怒られるしメッチャむかつくわ」
「そうやそうや、ほんま最初から判ってたら、こんな糞学校なんか来いひんかったで」
「ほんまサギ学校やなー、ほんで勉強ばっかりさせといて、宿題も多すぎやで、こんなんやから一つも遊ぶ時間あらへんやん」
「先コーはウザいし、まじキモいし、家帰ったらおかんも勉強しろ、勉強しろてうっといねん。もう、何もかも面白ないわ」
「ほんまやほんまや、高校の選択ミスったわー。こんなイモ学校、潰れたらええねん」
「こんな学校なんか、いつでも辞めたるわ。芋糞学校、ウンコや!」
このように散々、4人とも学校の悪口を言いたい放題で、こきおろすだけこきおろしていた。でも聞いていて、私は思わず高校生らしいと笑ってしまった。ところで、この女子高生達は、けして乱れた着こなしをしているのでもなく、蓮っ葉な様子もなく、いたって真面目そうな女の子等である。だからそんな女の子等が、ここまで不満をぶちまけるのかと思うと笑えてくる。それに誰でも一度は通る道だと考えれば、彼女達の言い分も十分理解出来るのだ。
要約すると彼女達の不満の内容なんて実に可愛いらしいものである。まだまだ成長途上の大人になりきってない高校生、15、16、17歳といった感受性の強い多感な時期には誰もが感じる悩み、不満といったものが噴出し、それらが毎日、毎日、堪るに堪ると、上記のような本音が出てしまうということなのだろう。つまり勉強ばかり押し付けられ、校則で縛られ、自由がなく、毎日の鬱憤がこんな会話となって現れるのだろう。でも、学校においては先生の前で良い子で通し、家でも聞き分けの良い子かもしれない。それが同じ年齢の友達同士だと、ついつい日頃、鬱積している不満が愚痴として口から出てしまう。親も先生も判ってくれない。学校なんか面白くない。勉強なんか嫌いと、あの年齢の子が言いがちな当然の意見を聞いて、私は、今も昔も高校生の言う不満というのは、大して変化がないなあと思わず笑ってしまった次第なのである。
今の大人、私も含めてほとんどの人が経験してきた、踏んできた成長の過程で、どの時代の人もどこの地域の人も10代のあの頃において考えることはほとんど同じである。それは「大人は判ってくれない」ということ・・・・・・。まだ精神的にも情緒的にも不安定で、社会生活での経験値が大人とは格段に少ない高校生が、純粋な心が薄らいできた大人に対していらだつのも当然の姿だと思う。一方、大人が何故に高校生に対して、規則で縛り、勉強を押し付けようとするのかは、大人が過去に経験してきた過程で、よりベターな方法をやらせようとするからである。結局、大人と少年、少女達との間で、互いに判らない埋まらない年齢のギャップというものがあり、教育する側と教育を受ける側との溝が深く入り込んでいるから、この問題を解決するのは簡単なものではない。
だから何で高校生が私達に勉強ばかりを押し付けるの・・・・・・何で未成年だと自由が大人のようにないの・・・・・・と疑問に思うかもしれない。でもこれは、正直いって大人になってみてようやく理解できることであり、高校生の頃に、親や教師が口を酸っぱくなるほど繰り返し言ってたことが、成長し大人になってみて、ああ、なるほどと解るときがいずれ訪れるのである。ただし思慮分別が少年時代からありすぎて、親の言うことに反発もしないで、やたら出来の良い子もいることはいるが、10代の頃はある程度、親や教師の押し付けに対して、少々の不満や反発はあった方が大人になってからも子供に対して説得力のある意見を述べることが出来ると思う。それは自分が辿って来た、溜め込んできた不満や道程というものと同等な悩みが理解できるからである。
だから社会人としての生きた経験で物事を判断しているから、高校生に対して特別、無理な注文を強いているわけではないのだが・・・・・・。現実として出来の悪い親や教師もいて、理不尽な現実も時にはあるだろうと思う。だが大人というのは、高校生よりも社会というものに対して長けているのである。それだけ世間に揉まれ苦労しているということである。だから社会人として認められているのであって自由もある訳である。だが大人というのは自由もあるが、それと引き換えに自己責任というものが付いてくる。つまり法律に違反しなければ何をやってもいい。でも責任は自分でとらなくてはいけないし、場合によっては子供のやらかしたことの責任までとる必要もあるということだ。ということは自由というのは、案外、しんどいものなのである。そのことを高校生は判ってないと思う。
それに親というのが何故、子供に対してガミガミいうかというと、親は自己の子供に対して保護義務、養育義務、そして自立させる義務がある。だから責任上、自分の子供が大人として、社会人として自立するまでは責任があり、義務をはたさなくてはならないから管理するわけだ。
ここまで書くと、そんなことは判っているけど・・・・・と言われるかもしれない。でも学校が煩い校則で縛り付けるのは納得できないと思っているだろう。うん、確かに意味のない校則もある。しかし、私の高校時代と比較すると、遥かに恵まれていると思うけど・・・・。
昭和40年代の高校というとほとんどが詰め襟の学生服という時代であった。ところが京都というところは、街は古いのに先進的なところがあって、あの頃の京都市内にあった大半の公立高校は私服で通ってもいいことになっていた。また中学校の男生徒は、大阪や神戸で丸刈りが当たり前という時代に、全て髪を伸ばしていた。そういった意味で、大阪あたりの高校生から羨ましがられていた。
【More・・・】
ところがである。京都の高校は髪型も自由度が高く、私服も認められていたが、今では大阪と逆転現象が起きてしまい、現代、京都の公立で私服公認の高校は確か1校か2校だけだったと思う(私立は同志社高校、立命館高校等が私服)。なのに大阪は公立高校の私服公認が相次ぎ、今ではかなりの高校で私服を着てもいいことになっている。それで、私立の校則が厳しい高校に通っている子等は、それを羨ましいと思うのかもしれない。髪を染めている子もいるし、ピアスをいっぱい付けている子もいる。それを自由ととるのは世の中の常であろう。ただ結果からいうと、昔、自由すぎた京都の公立高校は、服装が乱れすぎて、眼に余る格好で登校する生徒が増えすぎて、時代に逆行して標準服着用が義務付けされてしまった。またそれと比例して公立高校の学力低下が顕著になり、今では中高一貫教育を始める府立高校もあって、かつての栄光を取り戻そうと躍起になっている始末である。
また大阪の話であるが、1970年頃まで大阪の公立高校は数が少ない上にレヴェルが高く反対に中学卒業生の数が今よりも断然多かった。だから当時は卒業生の1/3ぐらいしか公立高校に入れなかった。それで仕方なく学費の高い私立へ多くの生徒が流れていったものである。そこで大阪府は15の春を泣かせてはならないと、府立高校を乱立させた。これで当然、中学を出た生徒の多くが学費の安い公立高校へ進学できるようになった。だが、これが公立高校のレヴェル低下を生みだす一因となったことは言うまでもない。今まで比較的、学力の高い子が集まっていた公立高校なのに、必ずしもそうとも言い切れなくなってしまった。また、私服着用を認めた公立高校も多いが、大阪のある府立高校は数年前に廃校となってしまった。それは服装が自由になりすぎて、学校周辺の大人たちが顔をしかめるような乱れた格好で通学する生徒が目立つようになり、やがて自分の子供を、その高校に行かせるのを拒んだ親が増え、やがてその高校は風紀が乱れていき、レヴェルダウンの歯止めが利かなくなり、とうとう別の高校と統合されてしまった。
このような現実を突きつけられると、高校生の年代の子に全て自由を与えてしまうと、済し崩しに雪崩れ現象を起こしてしまうかもしれない。ただでさえ昔の高校生よりも総体的に幼いといわれているのに、これだけ時代とはいえ私服の学校が多いというのにも驚いた。ただいえることは、服装が自由な学校は学力の高いところに多く、それだけ考えのしっかりした子が集まるところは自由度が高いということになるのだろうか。とはいえ、一般的にいって思慮分別のあやしい高校生にまで、服装の自由化を許すと、その後のことは目に見えている。だから髪型や髪の色、服装まで煩くいうのは、生徒を預かっている学校側の教育方針であって、統計的に勉学意欲のある生徒ほど服装が乱れないと出ているのだ。それに老婆心ながら言わせて貰うと、日本人の顔にあの茶髪や金髪は絶対に似合いません。不自然そのもので、あの青い目と高い鼻、ホリの深い西洋人の顔だから似合うのである。
それから、私立は土曜日も学校があるからとボヤいている子がいるが、今の子は小学校、中学校で土曜日が休日というのに慣らされてしまったのだろう。だから、私立高校が土曜日も学校があることに抵抗を感じているのに違いない。しかし、昔はといっても、そんな前ではないが、日本の学校という学校は、全て土曜日も授業があるのは当たり前であった。でも何時の間にか、土曜日が休みに成り、授業時間が減り、ゆとり教育を謳うようになった反面、日本人の児童、生徒の学力低下が生じてしまった。これは由々しき問題だが、当の児童、生徒達は知ったことじゃない。
基本的に資本主義というのは競争社会であり、民主主義だから人間みな平等というのは表面的なものであって、現実問題として弱肉強食である。ということは教育現場において、優劣をつけることから既に生存競争が始まっていて、社会淘汰という厳しい世間に将来、放り込まれるのである。だからいうのではないが、私が高校の頃を思い出せといっても、あまりいい思い出はない。高校に入って1年間は比較的のんびり出来たと思うが、2年になってから地獄が始まった。クラスの仲間が隠れて勉強をやりだすからである。大学なんか行かないよといっておきながら、自宅で猛勉強を始めるのだから・・・・・。当時のことだから塾に行く人もあまりいなくて、ほとんどは自宅で勉強をやっていたようである。すると周辺が始めると感化されていき、自分も落ちこぼれないように負けないように努力に励まなければならない。あの頃、それなりの名の通った大学に合格しようと思えば、四合五落なんていわれたりして、毎日の睡眠が4時間ならば合格するが、5時間も寝ると落ちると言われ脅かされたものである。だから高校3年になってからは楽しかった思い出なんて何一つないのだ。とにかく自由なんてものはなく、ただ一つの目的に向って毎日、味気ない受験勉強をするのみ・・・・。しかし、この時の苦しかった体験が今、生きているのである。とにかく高校生というのは勉強が本分であって、学校はけして遊びに行くところではない。それに勉強というのが楽しくないのは当たり前である。楽しければ全員、喧しく言われなくてもやるでしょう。
多くの大人も、このような経験を必ずやっている。今、高校生がつまらないと言っている日常を、大半の大人が通ってきた道だということ・・・・・・。だから本人のためを思って口喧しく言ってるに過ぎないのである。高校生というのは大人に向って行く道中のさなかであり、勉強というのも学校の煩い規則というのも、その道中のなかの与えられた試練と考えたほうがいいだろう。確かに当の高校生にとっては余計なハードルかもしれないが、現実的なことをいうと、一般社会の方が遥かに厳しいとだけ言っておくとしよう。高校の勉強も辛いけど、今から考えれば、ただ勉強さえやっていれば誰にも文句を言われなかった高校時代は、ある意味で楽だった。ということは高校の先に、もっと大きな荒波が待ち受けているということである。だからいえることは、勉強ばかりで遊べない、校則が厳しすぎて自由がない・・・・・・たった3年間だけの我慢である。長い人生での3年間である。この3年我慢できなければ、将来、何をやっても我慢できないと思うけど・・・・・。中学は3年間で1日しか休まず、高校は3年間、無遅刻、無早退、皆勤賞の小生だからいえることであるが・・・・・・・残念ながら大学は自由すぎてだらけまくりであったが・・・・・・。
でもこんなこと言っても、大人になってからでないと言ってる意味の深さが判らないと思う。だから言えるのは、今はつまらないと思っても、高校から挫折しないで卒業まで頑張って欲しいということである。きっと将来、いい思い出になると思うから・・・・・・・・・。今が大事ですよ・・・・・・。
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