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2009.01.12 (Mon)

チェ・ゲバラのこと・・・

 私の少年時代は、全共闘といって学生を中心にエセ革命家気取りの人が多かった。彼らの多くはマルクス=レーニン主義と言って、左翼運動、共産党運動に感化され、帝国主義打倒などと叫んで、シュプレヒコールを繰り返しデモを頻繁にやっていた。だから私は、京都の中心街を行進する学生デモ隊にも出くわすことが度々あった。そのデモ隊が或る日、過熱化して、挙句の果ては警察の機動隊と正面衝突してしまうのだから困ったものである。こんな光景を見たのは、一度や二度ではなかったから、当時の京都という街はよほど左翼思想にのめりこんだ若者が多かったということになるかもしれない。

 あれからおよそ40年近くなるだろうか、あの当時にヘルメットを被り、デモの中心にいた人たちは、もう還暦を越えた人が大半であろう。団塊の世代を中心とした全共闘運動に参加した若者達もそろそろ初老の域に差し掛かっている。あれほど盛んだった全共闘運動も、今ではすっかり影を潜め、日本の若者は怒ることを忘れてしまったかのように大人しい。思えば昔、大学の先輩に、かつて左翼運動に奔走した人がいたことを思い出す。その人の下宿先を訪れた時、ボロ屋のアパートの部屋の壁に一枚のポスターが貼ってあったことが忘れられない。ポスターには1人の男の写真が大写しになっていた。その男はベレー帽を被り、帽子の正面には星のマークが光ってあり、いかにもラテン人らしい風貌をしてある一点を凝視している。その男こそ革命家チェ・ゲバラである。

 私は最近までチェ・エバラのことを忘れていた。だが降って湧いた様にチェ・ゲバラの伝記映画が今年になって上映されるというので、今から35年位前に見た、あのチェ・ゲバラのポスターを思い出してしまった。でも今ではチェ・ゲバラといっても多くの若い人は名前さえ知らないだろう。チェ・ゲバラとは革命家である。革命家という職業など存在しないが、彼は天性の革命家ではなかったかと思う。

 1928年6月14日、人ロ60万人のアルゼンチン第2の都市ロサリオでチェ・ゲバラことエルネスト・ゲバラは生まれる。父はエルネスト・ゲバラ=リンチで建築技師。母セリア・デ・ラ・セルナはスペイン系であった。また父の父ファン・アントニオ・ゲバラは、1835年から17年間にわたってアルゼンチンを支配した独裁者ホアン・マヌエル・ロサスと戦った人物である。つまりチェ・ゲバラというのは、祖父の闘争家としての遺伝子が既に彼の血脈に組み込まれていたのかもしれない。

 チェ・ゲバラは幼い時は信じられないが病弱で、喘息が酷く小学校には就学できなかった。それで仕方なく母のセリアがABCを教えていた。こんな状況で、チェ・ゲバラは2年と3年のみ通学したが、5年、6年の時はまばらにしか学校に通えなかった。1941年にコルドバに一家は転居し、チェはデアン・フネス中学に入学。この年の7月、休暇を利用してチェ・ゲバラは最初の放浪の旅に出る。好奇心旺盛な彼は、13歳になったばかりであったが、自転車に小さなモーターを取り付け、古ぼけた皮のウインドブレーカーをひっかけ、ナップザックの中にマテ茶と湯沸しを放り込み、75ペソを所持して旅に出たという。日本の8倍の面積があるアルゼンチン国内放浪の旅に出て、チェは北部一帯を9月まで放浪し、ラテン・アメリカ大陸国家に眠る矛盾を垣間見て、色々な思いを巡らしたというが、この時の貴重な体験が、後の彼を形成する要因となったような気がする。

 チェ・ゲバラの父は3000冊の蔵書を有する読書家であったが、中心は社会学、哲学、数学、工学のもので、カトリックと軍事に関するものはなかった。母も無宗教で、彼女がカトリックの修道尼によって運営されている極端に厳格な学校に通わされたからの反動だとされている。でもチェ・ゲバラは形式的に洗礼を受けているので、僅かながら信心する気はあったのだろう。

 チェは高校に入る頃から、かなりの読書家になっていて、ジュール・ベルヌ、アレキサンドル・デュマ
が愛読書であった。それが、やがてフロイトを読んだりボードレールを読んだりしたが、最も熱心に読んだのがチリ生まれの詩人パブロ・ネルーダの、スペイン戦争をテーマにした詩であったらしい。この詩に接し、チェはスペイン戦争からの亡命者のことや虐げられた人の哀歌が自然と身についたものと思われる。

 6年制の高校に入りチェはラグビーの選手としてならし、次第と病弱の体は逞しくなっていく。ちょうどその年、太平洋戦争が勃発。全面的に世界戦争へと突入していくが、南米のアルゼンチンには間接的な影響でしかなかった。またアルゼンチンではペロン政権に入り、大規模な工業計画、社会改革に乗り出し、農園主として収入を得ていたゲバラ一家も打撃を受けた。この時、チェはブエノスアイレス大学の医学部に進学している。そして1951年の年末から、チェはオートバイに跨って1年間南米縦断の旅に出る。結局、この体験が生きてきて、広く世界を見ることによって世の中の理不尽、矛盾が彼の中に大きくしこりとなって残っていくのである。

【More・・・】

 1953年チェは大学を卒業し博士号を受ける。この年、ペロン政権の軍医に徴用されることを嫌い、友人グラナドスの働いているカラカスの病院を目指して旅に出て、ボリビアのラパスで下宿。ここで反ペロン派の弁護士リカルド・ロホと知り合う。この時のチェは明らかに社会主義革命というものに、なんらかの形で触発されたのであろう。この頃、多くの革命家と出会い、接触を繰り返している。医師でありながら、徐々に革命家としてのチェ・ゲバラが頭を擡げだしたのがこの頃かもしれない。そして、必然的にフィデル・カストロと知り合うことと成る。

 フィデル・カストロ・・・・説明の必要はないだろう。キューバ革命の英雄であり、キューバの前国家元首で現在もキューバ共産党第1書記である。当時、亡命していたメキシコでカストロがチェ・ゲバラと出会うことと成るが、ここからキューバ革命が出発するといっても過言ではない。医師でありながら南米の各国を放浪する間に、次第と社会主義の思想に触れ、亡命者や革命家と知り合う間に政治闘争へと目覚めていったということである。

 当時のラテン・アメリカは何処の国も、革命を必要としていた。程度の差こそあれ、どこも低開発国と呼ぶのに相応しく、一握りの地主が農地の大半を支配し、農民は虐げられていた。政府の高官、軍部の実力者、資本家、大地主たちの生活は豪奢を極め、中間的な階層というものは存在しなかった。とりわけチェ・ゲバラにとって身近に存在した狼火はキューバの現状であった。結局、時のキューバの権力者バチスタ打倒のため、チェはキューバを追われてきた同志フィデル・カストロに力を貸すことと成る。

 キューバ革命軍に加わったチェ・ゲバラは、ゲリラ戦の訓練を受け、戦士として闘争家として、ほぼ2年間、バチスタ政権と戦い、1959年1月、遂にバチスタ政権を打倒し、キューバ革命を成功させるのである。

 その後、チェはキューバに留まり、キューバ政府の一員として、社会主義国家建設のための礎を築き、各国を歴訪し外交などもこなすが、何時の間にかキューバを去っている。何故、キューバを去ったかは色々な説があるが良くは判らない。キューバの工業相として失敗したからだとか、カストロと不仲になったからだとか、チェが中国よりだったからだとか言われていたが、どれも明確なものではない。でもいえる事は、チェ・ゲバラは生まれついての理想家であり、革命家であったことである。彼はロマンチストであり、理想のためならば異国の空の下で死んでも悔いはないというほどのロマンチストであるからして、革命家としての生涯を貫いたのである。それはチェ・ゲバラが生前に行なった演説でも明らかである。

 ・・・・・私はアルゼンチンに生まれた。それは誰にとっても秘密ではない。私はキューバ人であるがアルゼンチン人でもある。・・・・(中略)・・・・・ラテン・アメリカの諸国のいずれの国でもその解放のために、喜んで私の命を投げ出すだろう。何人にも頼まれず、何も求めず、何人にも利用せず、そのような力強い心構えは、総会の臨時代表を務めている私独りのものではない。キューバ全人民はそのような心構えでいるのである・・・・・・・・

 結局、チェ・ゲバラはボリビアに入り、時の政府軍と戦い、1967年10月9日戦死する。つまりチェ・ゲバラは自分が必要とされているところならば、自らの危険をかえりみず、理想を追い求め、虐げられている人民がいるところあれば何処へでもいくのである。だから革命の英雄とされるのだが、テロリストが英雄扱いするのとは、ちょっと違うとは思うけど・・・・・。

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