2009.03.31 (Tue)
ヘミングウェイの『老人と海』を読む
アーネスト・ヘミングウェイ晩年の作品に『老人と海』がある。文庫本にして100頁を少し出るぐらいの短い小説であるが、この作品を初めて読んだときの新鮮さは未だに忘れない。もともと西洋文学はシェークスピア、ディケンズで代表されるイギリス文学、バルザックやモリエール、スタンダール、ユーゴー、デュマ、ジド、ロマン・ロラン等のいるフランス文学、ゲーテやリルケ、トーマス・マン、カフカのドイツ文学、ドストエフスキー、トルストイ、ゴーゴリ、チェーホフ等、重厚なロシヤ文学、ホメーロス、ダンテ、セルバンテスといった古典を読んでいれば充分で、アメリカ文学なんて内容がなくて重みがないから読むに値しないと若い頃は思っていた。そんな或る日、友人が読んでいたヘミングウェイの『老人と海』を借りて読んだ。そして、目から鱗が取れたというのか、ヨーロッパ文学にない新鮮さと親しみやすさに触れたものである。
それこそ小説の骨組みを形成する文体というものが簡潔で明瞭、虚飾に満ちた表現を極力避けて、より判り易い語彙で綴られているから何の違和感もなく、冒頭からいきなりヘミングウェイの世界へ引きずり込まれてしまったのである。それがヘミングウェイというものかもしれないが、それまで先入観として残っていたアメリカ文学の軽佻浮薄な浅墓さが見事に吹っ飛んだという覚えがある。ヨーロッパの伝統に比べれば、アメリカの歴史なんて短いから、彼らの書く文学なんて捉え方が甘すぎると感じ、長い間、アメリカの作家の書いた小説なんか読む気さえ起こらなかったというのが正直なところである。
ところが若い頃に読んだ『老人と海』で、短い小説にもかかわらず簡潔な文体の中に複雑で奥深い心理描写が鏤められていて、アメリカの小説をも悪くないなあと思った次第である。それでは簡単に『老人と海』の粗筋を紹介するとしよう。
・ ・・・・・・・・キューバの老漁夫サンチャゴは、少年と一緒に小船に乗り漁に出るが、皆目、魚が獲れなかった。40日を過ぎると少年は、とうとう別の船に移ってしまう。老人は、たった一人で出漁する。でも当たりがない。ところが85日目、遠い海に漕ぎ出て残り僅かな餌で巨大なカジキがかかったのである。そして、そこから老人とカジキの4日間に及ぶ死闘が繰り広げられ、遂に老人はカジキを仕留めるのだった。でもカジキはとんでもなく巨大で、老人の小船にはとても収容できなかった。仕方なく老人はカジキを船に縛り付け曳航した。カジキは1500ポンドをこえる大きさで、1ポンド30セントで売ると幾らになるだろうかとソロバンを弾いていたが、今度はカジキを狙う鮫が出現した。鮫は船に繫がれてあるカジキを食いちぎった。鮫は一匹だけではなかった。別の鮫が現れまたカジキに食いついた。老人は鮫の頭に棍棒を叩きつけるが効果がなく、鮫はさらにカジキを噛み千切る。とうとう鮫は群れをなしてやってきた。
結局、これだけ悪戦苦闘してまで獲った獲物なのに、全てが無になるという結末に、この小説の意味するところがあるのだろう。男というものはくよくよしない。ハードボイルドのような骨太さのある文学である。・・・・・サンチャゴ老人はカジキと長い間、死闘を演じ勝利を得るが、そこから鮫という敵と新たな戦いが始まり、こちらの方は敗北を喫してしまった。常々、ヘミングウェイは、このような男性的な人間像を描くのが上手く、外面的な描写を用いる中で、その内面的な描写を登場人物に独白させる形で描いたりするが、彼らは概ね闘争的で勇敢である。結局、ヘミングウェイ文学というのは、一見、簡潔なストーリーなので、人間描写が動的に感じられることが多いが、実はその中に潜む内的な心理描写を巧に描ききり、それらを判り易く表現しているのだから、ヨーロッパ文学にある異様な理屈っぽさを感じることもなく、爽やかな読後感を持つことが多い。重みといったものに欠けるという人もいるが、出来る限りの贅肉をそぎ落としてしまった後の、煮詰まった筋肉で構成された骨っぽい文学だと私は思う。
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