2010.03.13 (Sat)
EXPO70から40年
明日、3月14日はEXPO70の開会式が行なわれてから、ちょうど40年目にあたる。EXPO70とは1970年、大阪の千里丘陵で半年間、開催された日本万国博覧会の通称である。当時、日本初の国際博覧会として183日間開催され、77ヶ国、4国際機関、1政庁、9州市、50以上の民間企業・団体が参加した。350haの広大な会場に述べ入場者6421万8770人がつめかけ未だに万国博覧会史上空前の記録として残っている。
それで今日、1970年の日本万国博覧会から40年を記念して、EXPO70パビリオンなるものがオープンした。だからというのでもないが、その話を聞いて突如、訪れてみようと思い立ったのである。そういえば私も長い間、万国博覧会の跡地がどのようになっているのか気になった。この付近、よく来るのだが会場跡に来ることは皆目ない。近くの万博競技場にサッカーを観に来たり、万博球場に高校野球の予選を観に来たりしたことはある。また、かつて公園内にあった国立国際美術館(旧・万博美術館)や国立民俗学博物館に用があって来ることもあった。でも過去の遺産であるような万国博の跡地である公園内をくまなく散策したことはほとんどない。でも40年経ったのかと考えると、何か青春時代の忘れ物を捜しに来るような思いに囚われてしまった。あの頃、まだ10代半ばのガキだった自分にとって、あのEXPO70とは何だったのかと、振り返ってみたくなったということだろうか・・・・・。
今から40年前の3月15日、一般入場者に開放された最初の日に、私は大学生の姉と会場に訪れたことを思い出す。肌寒くて人が多くて何処のパビリオンも行列だらけであった。40年前、会場に足を踏み入れた途端、そこは未来都市が広がっているような錯覚におちいったものである。でも一般的な生活様式は40年経った今も劇的に変化したというのでもなく、相変わらず電車に乗って通勤するし、帰ってテレビを観る、新聞を読む、音楽を聴く、食事をする、風呂に入る。やっていることはほとんど変わらない。車の構造も飛行機も船も当時とは大差はない。しかし1970年当時、今とどのように違うかを考えた場合、大きな違いは携帯モバイルだろう。当時は勿論、携帯電話もなく家庭には黒電話しかなかった。それもまだ全家庭に行き渡っていなかったように思う。だから連絡方法はどうするのかといった疑問を若い人は持たれるだろうと思う。そういった場合は街の公衆電話から家に連絡するしか方法がない。もっとも携帯電話が一般化したのも、この10年ぐらいではあるが・・・・・。それと電話以外にもメールといった連絡方法があるし、パソコンといった便利な物が今はある。40年経って大きく変化したといえば、このような分野に関してである。
思い返せばあの当時、こういった携帯電話がこれだけ普及するなんて予測できただろうか。あの当時、展示されていたものとして人間洗濯機だとか電気自動車だとか、未来を予測した色々な展示物があった。人類の進歩と調和というテーマの下に開催されたEXPO70だから、20年後の世界、30年後の世界はこうだといった展示物が多かった。でも実際に40年経った現在、あの当時に予測した世界とは大きく違っているようにも感じる。それは時代は進み、科学も進化しあの当時に予測した多くの物は現在では存在しつつある。でも経済発展まで恒久的に続く訳でもなく、公害といったものが、それらを阻んでいることを当時は計算に入れてなかったように思える。フロンガスやCO2といった地球温暖化なるものが新聞紙上を賑わすなど、あの頃、考えていただろうか。それを考えた場合、人類の進歩と調和なんてテーマは今、考えれば滑稽ではある。結局、1970年という時点で考えた近未来の地球像という形で会場は造られたのだと思えば実に面白い。それで当時の記憶のまま、私は今の万国博記念公園内を歩いてみた。
未だに残る太陽の塔。岡本太郎作の記念碑である。会場のシンボルとして残されたが、当時はメイン・パビリオンとして中も入れたし、大屋根がこの辺り一帯を覆っていた。

太陽の塔の裏側である。

まだ会場内にあった人工池と噴水が当時の姿で残っていた。右の丸い噴水は回転しながら水を吐き出していた。

パビリオンで唯一残されたのが、この鉄鋼館である。この建物がEXPO70パビリオンとして今日リニューアル・オープンした。

太陽の塔の裏にあったお祭り広場は当時のままであったが、会期中はこの辺りも大屋根で覆われていた。

太陽の塔を中心としたシンボルゾーン一帯を覆っていた大家根の鉄組みが残っていた。大屋根は当時、太陽の塔の手の先から上がれるようになっていた。

かつてカナダ館? 韓国館? があった辺りだと思うが梅園になっていた。

この辺りにはオーストラリア館があったと記憶している。いや西ドイツ館だったかなあ。西ドイツ館ではライトナー指揮、ケンプ(ピアノ)、ベルリン・フィル演奏のベートーヴェンの皇帝のLP盤を買って帰った思い出がある。今は木々が鬱蒼と繁っている。その向こうには太陽の塔が・・・・。

せせらぎが・・・・・・。

もうかつての未来都市の姿は何処にもない・・・・・。

自然に出来た小川のように。

40年前、ここにアメリカ館があった。東京ドームのように白いエアドームで造られていた。館内はアポロ飛行船が持ち帰った月の石が展示され、待ち時間2時間とか当たり前だった。でも私は待ち時間、10分ほどで入れたような・・・・・。私にとっては往年の大リーガーのユニフォームの展示の方が興味深かった。

こんな森林公園が大阪の中心部にあればいいのにとは思うが・・・・・。

人工の森のようには見えないほど密生している。

ここにはソビエト連邦館があった。今やソビエト連邦は崩壊し、ロシアを始め多くの国に分裂した。時代を偲ばせるなあ。

ソビエト連邦館は高さが130mもあり阪急電車からも見えていた。館内はスプートニク、ボストーク、ソユーズの各宇宙船が展示してあって、アメリカとの宇宙開発競争が熾烈だったことを思い出させた。私はチャイコフスキーが使っていた展示品のピアノを触って係員に注意されたことを思い出す。

この付近はベルギー館があったと思う。今では憩いの場になっている。ここからだと太陽の塔までかなりの距離がある。

何か天然の沼のようだが人工の池である。水鳥の生息地になっている。

会場の中央を東西に目抜き通りがあったことを思い出した。その通りは今でも使われている。

かなりの距離を歩いたと思う。当時は会場内にそれこそ100以上の巨大なパビリオンが建ち並んでいた。でもさほど会場が大きいとは感じなかった。でも今、何もない会場跡を歩いてみると如何に巨大な会場だったということを痛感させる。当時、甲子園球場83個入るといわれた。もともとは千里丘陵という竹林の多い手の加えられてない丘だった。それが突如として万国博覧会の会場として整備され、今、また自然の森に戻っていった。やはり人間は自然と共棲してこそ生きていけるのだ。科学ばかりを信仰していては何時か反動がくると会場址を訪れて改めて感じた次第である。
EXPO70の映像
それで今日、1970年の日本万国博覧会から40年を記念して、EXPO70パビリオンなるものがオープンした。だからというのでもないが、その話を聞いて突如、訪れてみようと思い立ったのである。そういえば私も長い間、万国博覧会の跡地がどのようになっているのか気になった。この付近、よく来るのだが会場跡に来ることは皆目ない。近くの万博競技場にサッカーを観に来たり、万博球場に高校野球の予選を観に来たりしたことはある。また、かつて公園内にあった国立国際美術館(旧・万博美術館)や国立民俗学博物館に用があって来ることもあった。でも過去の遺産であるような万国博の跡地である公園内をくまなく散策したことはほとんどない。でも40年経ったのかと考えると、何か青春時代の忘れ物を捜しに来るような思いに囚われてしまった。あの頃、まだ10代半ばのガキだった自分にとって、あのEXPO70とは何だったのかと、振り返ってみたくなったということだろうか・・・・・。
今から40年前の3月15日、一般入場者に開放された最初の日に、私は大学生の姉と会場に訪れたことを思い出す。肌寒くて人が多くて何処のパビリオンも行列だらけであった。40年前、会場に足を踏み入れた途端、そこは未来都市が広がっているような錯覚におちいったものである。でも一般的な生活様式は40年経った今も劇的に変化したというのでもなく、相変わらず電車に乗って通勤するし、帰ってテレビを観る、新聞を読む、音楽を聴く、食事をする、風呂に入る。やっていることはほとんど変わらない。車の構造も飛行機も船も当時とは大差はない。しかし1970年当時、今とどのように違うかを考えた場合、大きな違いは携帯モバイルだろう。当時は勿論、携帯電話もなく家庭には黒電話しかなかった。それもまだ全家庭に行き渡っていなかったように思う。だから連絡方法はどうするのかといった疑問を若い人は持たれるだろうと思う。そういった場合は街の公衆電話から家に連絡するしか方法がない。もっとも携帯電話が一般化したのも、この10年ぐらいではあるが・・・・・。それと電話以外にもメールといった連絡方法があるし、パソコンといった便利な物が今はある。40年経って大きく変化したといえば、このような分野に関してである。
思い返せばあの当時、こういった携帯電話がこれだけ普及するなんて予測できただろうか。あの当時、展示されていたものとして人間洗濯機だとか電気自動車だとか、未来を予測した色々な展示物があった。人類の進歩と調和というテーマの下に開催されたEXPO70だから、20年後の世界、30年後の世界はこうだといった展示物が多かった。でも実際に40年経った現在、あの当時に予測した世界とは大きく違っているようにも感じる。それは時代は進み、科学も進化しあの当時に予測した多くの物は現在では存在しつつある。でも経済発展まで恒久的に続く訳でもなく、公害といったものが、それらを阻んでいることを当時は計算に入れてなかったように思える。フロンガスやCO2といった地球温暖化なるものが新聞紙上を賑わすなど、あの頃、考えていただろうか。それを考えた場合、人類の進歩と調和なんてテーマは今、考えれば滑稽ではある。結局、1970年という時点で考えた近未来の地球像という形で会場は造られたのだと思えば実に面白い。それで当時の記憶のまま、私は今の万国博記念公園内を歩いてみた。
未だに残る太陽の塔。岡本太郎作の記念碑である。会場のシンボルとして残されたが、当時はメイン・パビリオンとして中も入れたし、大屋根がこの辺り一帯を覆っていた。

太陽の塔の裏側である。

まだ会場内にあった人工池と噴水が当時の姿で残っていた。右の丸い噴水は回転しながら水を吐き出していた。

パビリオンで唯一残されたのが、この鉄鋼館である。この建物がEXPO70パビリオンとして今日リニューアル・オープンした。

太陽の塔の裏にあったお祭り広場は当時のままであったが、会期中はこの辺りも大屋根で覆われていた。

太陽の塔を中心としたシンボルゾーン一帯を覆っていた大家根の鉄組みが残っていた。大屋根は当時、太陽の塔の手の先から上がれるようになっていた。

かつてカナダ館? 韓国館? があった辺りだと思うが梅園になっていた。

この辺りにはオーストラリア館があったと記憶している。いや西ドイツ館だったかなあ。西ドイツ館ではライトナー指揮、ケンプ(ピアノ)、ベルリン・フィル演奏のベートーヴェンの皇帝のLP盤を買って帰った思い出がある。今は木々が鬱蒼と繁っている。その向こうには太陽の塔が・・・・。

せせらぎが・・・・・・。

もうかつての未来都市の姿は何処にもない・・・・・。

自然に出来た小川のように。

40年前、ここにアメリカ館があった。東京ドームのように白いエアドームで造られていた。館内はアポロ飛行船が持ち帰った月の石が展示され、待ち時間2時間とか当たり前だった。でも私は待ち時間、10分ほどで入れたような・・・・・。私にとっては往年の大リーガーのユニフォームの展示の方が興味深かった。

こんな森林公園が大阪の中心部にあればいいのにとは思うが・・・・・。

人工の森のようには見えないほど密生している。

ここにはソビエト連邦館があった。今やソビエト連邦は崩壊し、ロシアを始め多くの国に分裂した。時代を偲ばせるなあ。

ソビエト連邦館は高さが130mもあり阪急電車からも見えていた。館内はスプートニク、ボストーク、ソユーズの各宇宙船が展示してあって、アメリカとの宇宙開発競争が熾烈だったことを思い出させた。私はチャイコフスキーが使っていた展示品のピアノを触って係員に注意されたことを思い出す。

この付近はベルギー館があったと思う。今では憩いの場になっている。ここからだと太陽の塔までかなりの距離がある。

何か天然の沼のようだが人工の池である。水鳥の生息地になっている。

会場の中央を東西に目抜き通りがあったことを思い出した。その通りは今でも使われている。

かなりの距離を歩いたと思う。当時は会場内にそれこそ100以上の巨大なパビリオンが建ち並んでいた。でもさほど会場が大きいとは感じなかった。でも今、何もない会場跡を歩いてみると如何に巨大な会場だったということを痛感させる。当時、甲子園球場83個入るといわれた。もともとは千里丘陵という竹林の多い手の加えられてない丘だった。それが突如として万国博覧会の会場として整備され、今、また自然の森に戻っていった。やはり人間は自然と共棲してこそ生きていけるのだ。科学ばかりを信仰していては何時か反動がくると会場址を訪れて改めて感じた次第である。
EXPO70の映像
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