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2010.08.12 (Thu)

高校野球の思い出②

 今日は朝から台風の影響で雷は鳴るは雨が激しく降るはで、耳鼻咽喉科に行くつもりだったが仕方なく日を変更した。日本海を北東に向って進んでいた台風が近畿に1番近づいたのが今朝の6時頃だった。上陸していないので直接の影響はないが、それに伴った雨が激しく降り、午前9時頃までは雨が降っていた。でも甲子園では早目に雨が上がったのか、試合時間を遅らせて敢行したらしい。さて、昨日は高校野球に初めて行くまでの話をしたが、今日は、その試合のことを書いてみるとする。

 1961年の夏、親父に連れられて甲子園にやってきた。それで、その日に観た試合は法政二VS浪商の試合である。法政二というと神奈川の強豪。田丸監督という近代的ベースボールの実践者が監督の時代にメキメキと頭角を現し、1960年に最強チームを率いて甲子園にやってきた。この年、法政二高は圧倒的強さで優勝し戦後最強とまで言われた。1961年の春にも優勝。戦後初の夏春連覇を達成。そして1961年夏、圧倒的強さで神奈川を制し史上初の春夏連覇、また夏春夏の3連覇がかかっていた。

 一方の浪商は古くからの大阪の強豪である。戦前から強く、浪華商業(なにわしょうぎょう)時代には選抜で2度、選手権で一度優勝している。また送り出した名選手も多く、平古場、山本八郎、勝浦、坂崎、樋口、張本らがOBである。もっともその頃、私は法政二も浪商も知るはずがない。親父が話していたのを記憶しているが、とにかく高校野球史に残る試合になるかもしれないようなことを言っていた。事実としてこの試合は三度目の対決であった。前年の夏、法政二高が優勝したとき、浪商は2回戦で対決している。浪商は1年生エース、ハト胸、でっ尻の体型から物凄い剛球を投げる尾崎行雄投手が7回まで、強打の法政二打線を0に抑えていた。でも法政二高の2年生エース柴田勲のドロップ(大きなカーブのこと、当時はドロップといった)とスライダー、外角の速球を巧に使い分ける投球に浪商も手が出ない。互いに0対0だったが、8回に疲れの見える尾崎を法政二高がたたみ掛けて一挙4点を奪い勝ち、そのまま優勝まで突っ走る。

 翌1961年春、法政二高と浪商は再び準決勝で対決した。柴田は3年生、尾崎も2年生になっていた。この時は浪商が先制した。でも、その後に法政二が尾崎を巧く攻め、1点ずつ小刻みに得点し、3対1でまたも法政二高が勝ち、その勢いで決勝も快勝。戦後初の夏春連覇を達成した。こうして、因縁の対決は三度目を迎えていたのである。

 ところで、この試合のことを私はよく覚えていないのだが、とにかく尾崎の投げる球の速さだけは覚えている。なにしろ一塁側スタンドの上の方で観ていたのだが、球が見えないのである。投げたと思ったらあっという間にキャッチャーのミットの中。砂塵が舞う剛球と形容されたが大袈裟ではなかった。ロッキングモーションという手を2回振り下ろす独特のワインドアップからふりかぶるや、やや横手から出てくる右手が撓ると白球が唸りをたてて向って行くといったような印象である。当時はスピードガンがない時代なのでどれ程のスピードが出ていたかは判らないが、未だに最速のピッチャーだという人がいる。そこで尾崎の東映フライヤーズ時代の映像を元に分析した人がいて、その結果、159㎞出ていたということらしい。尾崎はこの年の夏、優勝投手になるのだが、2年中退でプロ入りし、1年目からいきなりの20勝で新人賞。当時の大毎のミサイル打線の中心打者である山内や榎本がボールになかなか当らなかったことを考えると、横浜高校の松坂以上の凄さがあったのではないだろうか。それほど印象度があり怪童の名を与えられた選手は、後にも先にも中西太と尾崎行雄だけである。

 話は長くなったが、この日の試合について語ろう。1回の裏、法政二高は先制した。一塁に柴田をおいて、次打者との間でエンドランが決まった。球はレフト前に飛び、レフトの野手が緩慢なプレーをし、その球を二塁に返球した。その間、一塁走者の柴田は俊足を活かし一気にホームまで生還。浪商は唖然とした。この時、緩慢なプレーをした左翼手が高田繁である。野球センスがあり、この大会から1年生ながらレギュラーに抜擢されたのだが、柴田の抜け目ない走塁を予感していなかった。この時の屈辱から這い上がり、やがて巨人入りしてからは名外野手として名を成すようになる。余談だが、この時のライバルだった柴田も巨人入りして、高田と共にセンター、レフトを長い間守っていたことは、周知の通りであろう。

 こうして法政二高は1点を先制。さらに4回、またも制球の乱れた尾崎を巧く攻め2点目を法政二高が入れる。こうして2対0のまま、とうとう9回表となりそれも二死である。あと一人の打者を抑えれば法政二高は史上初の春夏連続優勝をかけての決勝進出である。でも打倒法政二高の執念に燃える浪商は、そこから粘りを見せる。まず3番の住友がヒット、4番の前田もヒット。勝ちを意識した柴田は投げ急いだようだ。二死1塁2塁で5番バッターに回ってきた。それが尾崎であった。尾崎はこの頃、カーブしか打てず、これまで柴田に対し10打数0安打だった。でも必ずカーブを投げると信じて待っていた。柴田も当時の高校野球の水準から言うと超高校級のピッチャーであって、速球のスピードは尾崎ほどではないが速かった。そこへカーブとスライダーを投げ分ける巧みなピッチングで相手を翻弄してきた。そこでカーブを巧く叩いた尾崎の打球は三遊間に飛んだ。二死だったのでランナーはスタートを切っていたこともあって一気に二者が生還した。同点となった。こうなると追いついた浪商側が俄然に勢いずいた。延長11回表、浪商の攻撃、連打で1
、2塁とし、次打者が打った内野ゴロで併殺を狙ったが、慌てたショートの長嶋が1塁へワンバウンドの送球をしてしまい打者はセーフ。その間にランナーは生還してしまう。さらに尾崎が外野へ犠牲フライを上げ追加点。その裏の法政二高の攻撃を尾崎は抑え4対2で雪辱した。さらに、浪商は決勝に進み、和歌山の桐蔭高校を相手にシャットアウト。とうとう念願だった真紅の大優勝旗を手にしたのである。

 ところでこの頃の両チームは凄いメンバーが揃っている。法政二は柴田(巨人)、幡野(阪神)、是久(東映)、的場(大洋)、五明(法政大監督)、村上(南海、サンフランシスコ・ジャイアンツ)等。一方の浪商は、2年中退でプロ入りした尾崎(東映)を始め、大熊(阪急)、住友(阪急)、大塚(大毎)、高田(巨人)等。対戦した両チームともこれだけの選手がプロ入りしている。だから両チームともこれだけ強かったのである。お互い対戦して勝った方が優勝している。共に対戦するまで絶対に負けなかったのである。それほど図抜けていた2校であったといえよう。最近の高校野球でこれほど一つのチームからプロ選手を送り出したといえば、1987年に春夏制覇したPL学園(立浪、片岡、野村、橋元、宮本)ぐらいしか思い当たらない。それなのに超高校級の選手をこれだけ擁したチームが同じ年に2チームも現れるなんて稀有なことである。

 しかし、これだけ全盛を誇った両校だが、その後、夏の甲子園から縁がなくなってしまう。法政二高の名監督・田丸仁はプロ野球入りして1966年には東京オリオンズ(現ロッテ)の監督に就任。それ以来、法政二高は神奈川予選も勝てなくなった。一度、1982年に出場したがかつての強かった法政二高ではなかった。また、大阪の強豪だった浪商も夏の大会に出れなくなった。その後の大阪は明星、大鉄、近大附属、北陽、興国、PLが浪商に替わって出場するようになり、ドカベン香川と牛島コンビで復活したのが18年ぶりのことであった。でも、それ以降は全く出場できず、やがて大阪はPLの天下となり、その後には上宮、そして大阪桐蔭の躍進。浪商はすっかり影が薄くなってしまった。今年2010年の夏、それこそ31年ぶりに大阪府予選の決勝に大阪体育大学浪商高校と名前が変われど、昔のユニフォームそのままに進出して懐かしかった。

 あの49年前の死闘から大阪対神奈川代表は名勝負を繰り広げるようになり、その後も何度か対戦があるようだ。過去、春では16回の対戦で大阪が9勝、神奈川が6勝、1引き分け。夏の大会は10度の対決で大阪が6勝、神奈川が4勝。大阪がリードしているが、最近は大阪の中学を出た多くの有力選手が遠方へ野球留学するために大阪の高校が弱体化していると問題になっている。今後、過去の名勝負が繰り広げられたようにはいかないかもしれないが、1961年の夏観た浪商VS法政二の試合は、木製バット時代の高校野球名勝負として必ず語られる試合なのである。
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