2007.12.20 (Thu)
志賀直哉の『暗夜行路』を読む
かつて小説の神様といわれた作家がいた。その作家が志賀直哉である。文章が上手く癖が無い。だから読み易い。難しい表現を故意に避けているかのように、使用頻度の高い形容詞を並べ、いたって簡潔な文体である。でも難解な形容詞を使わないからと言っても、この慣用句以外は相応しくないと感じ取れるような語句を使うのである。だから、こんな文章が巧みな志賀直哉を小説の神様というのである・・・・・?
さて、志賀直哉は主に短編小説が多く、長編といえるのは『暗夜行路』ぐらいかもしれない。『暗夜行路』という小説を最初に読んだのは、高校生の頃だったろうか・・・・・。時任謙作という運命に翻弄されながらも精神の成長を以て、自らの行路に明るい活路を見出していく主人公に共感するものの、何処か話しに違和感を感じ得なかったというのが『暗夜行路』を読んでの感想だった。
それでは簡単に『暗夜行路』の筋書きを追ってみるとする。・・・・時任謙作は母と祖父との間に生まれた子であったが、本人は知らなかった。謙作はお栄という女性に身の回りの世話をしてもらっていたが、お栄は祖父の愛人であり、祖父の死後、謙作と同居していた。謙作は小説家であったが、感情の起伏が激しく自己嫌悪に陥り易い。
謙作は、やがて孤独に耐えられずお栄と結婚を考えるが、兄に出生の秘密を明かされ、結婚を諦める。その後、謙作は京都へ行き、直子を知り結婚することとなった。謙作は幸福感はあったが、生まれた子供はすぐに死んだ。自分は呪われているのかと思う。それで謙作は人に騙されて朝鮮に行って金に困っているお栄の後を追って長期、家を空ける。しかし、その間に妻直子は従兄弟と過ちを犯してしまう。朝鮮から戻った謙作は、妻の様子がおかしいので、問い詰めると妻は過ちを認めた。謙作は直子に修行して仏門に入るといつて大山に向う。
謙作は自然の大きさと人間の小ささを感じる。でも、まもなく彼は病気になる。すると夫が病と聞いてやって来た直子を謙作が見かけるや安心して眠りについた。
以上が『暗夜行路』の粗筋である。つまり時任謙作という男は、祖父と母、妻と従兄弟との過失という二重の不幸な運命が行く手に遮られているということ・・・。それでいて時任謙作は自身の中に暴君的要素が潜み、他人を無闇に拘泥して憎むエゴイスティックな性格でもある。こんな謙作は精神的な成長を経て、自我の目覚めとともに人間として大きくなっていくのである。・・・・ということで、この『暗夜行路』の主な筋書きと謙作の辿った道を説明したつもりであるが・・・・この小説を読んだ時、どうもストーリーといい人間関係の組み立てや構成とか納得いかない部分が多く、さほど小説としての完成度が高いとは思わなかった。でも素晴らしい小説だという人は多い。そんな時、文芸評論家・中村光夫の一文を見つけた。・・・・「ここには小説の本来である人間対人間の葛藤も、それにもとづく主人公の内的な発展もなく、作者その人にも同じものが欠けている」・・・ずいぶんと手厳しい。この人は私小説を嫌い、ことに志賀直哉、谷崎潤一郎の小説を悉く批判している人である。
私は人間対人間の葛藤も、主人公の内的な発展も書かれているとは思うが、ストーリーや人間の設定にずいぶんと無理があるなあと捉えていたのである。もし、これが私小説だといえるなら、現実は小説より奇なりで、妙な家族ということになり、虚構だとするなら、おかしな人間関係を描いている奇を衒った小説ということになってしまう。このように考えると『暗夜行路』は名作なのか、駄作なのか人によっては大いに異なるかもしれない。また、ある人が言うには志賀直哉が小説の神様と言われるのは、冗談が伝わったものだという。志賀直哉の短編小説『小僧の神様』をもじって、誰かが冗談半分に『小説の神様』と言ったのが始まりだという・・・・。ガーン!
これが事実だとするなら、志賀直哉の評価はがた落ちになってしまう。でも納得いかない部分は確かに多いが、読んでいて上手い表現だなあと思える部分が各所にあることは確かだ。この辺り、志賀直哉の評価が分かれるところなのかもしれないが・・・・。
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