2011.02.05 (Sat)
大相撲の八百長問題に触れてみる
・・・・・八百長とは明治時代、八百屋の長兵衛が囲碁仲間の初代伊勢ノ海五太夫と囲碁勝負をして、わざと負けてご機嫌をとっていたことから八百長というようになったと伝わっている。
このところ八百長問題で揺れる相撲界。あまり関心はないが一応、触れることにする。私が子供の頃、テレビが各家庭に出回り始めたが、その頃はプロレスの人気が凄かった。いわゆる力道山の人気である。戦後、日本は敗戦の焼け跡から立ち直りつつあったが、戦勝国アメリカに対してのコンプレックスは大きかった。ちょうど昭和30年台前半で、物資も乏しく貧しかった日本。敗戦の痛手から完全に立ち直ってなく、当時の大人たちはどこか元気がなかったように思う。そんな頃に力道山が登場し、大きな外人レスラーを力道山が空手チョップで倒す。街頭テレビの前は黒山の人盛り。ちょうどそんな頃、我が家にもテレビが来た。するとたちまち近所のガキどもが、テレビを観に我が家へ集まった。まだ、そんな時代であった。そこで我々のようなガキどもは月光仮面や鞍馬天狗等をよく観ていたが、大人たちは野球、相撲、そしてプロレスをよく観ていた。その中で断トツのヒーローが力道山であったことは言うまでもないが、そのプロレスが誰も八百長だということはあの当時もちろん知るはずもない。
八百長というと言葉は悪いが、プロレスは仕組まれたストーリーがあるということは、今日では多くの人が認めるところである。もちろん中には真剣勝負もあるだろうが、プロレス黎明期の力道山の試合の多くはショー化された格闘技であったことは確かなようである。でも我々は真剣勝負として見ていた。敵役を演じた外人レスラーたちの多くは、そういった敵役でファイトマネーを稼いでいたということである。だから、現在では純粋なスポーツとして報道されることもなく、プロレスは飽くまでも格闘技ショーという扱いになっている。いわば興行的な際物として多くの人はとらえているのである。もっともプロレスをショーだ、演出だというと怒る人もいるが、彼らは体力の極限に近いところで戦っている。いや演じているのだ。でもそれを八百長だからといって揶揄する人もいない。それはプロレスラーの体つきや技をを見ればわかるように、並大抵の鍛え方でないことは確かであって、八百長だ、ショーだと一言で片づけられない見事な試合をリング上で繰り広げてくれるから、どうしても目が釘付けになってしまうのである。つまり虚の中に実があって、実の中に虚がある。たとえ筋書きがあって最後は誰が勝つと判っていても、その試合の内容に魅せられてしまうと熱くなってしまうのである。そういった視点で見ると、所詮、素人には八百長なのか、真剣勝負なのか判るというものではない。最後にはいい勝負、いい闘いを観たという満足感の方が先に立ってしまいプロレスがショーといわれようと、そんなものはどうでもよくなるのである。さて、話は変わって大相撲の八百長問題であるが、プロレスとどう違うのかというと、多くの人は相撲は国技であって真剣勝負だと思っているということ。そこで出た膿のような八百長騒ぎで65年ぶりの本場所中止かという激震が走っているようだ。多くの相撲ファンは固唾を飲むように事の行方を見守っているようである。
ところで相撲ファンでもない私は、昔から相撲は八百長があっただろうと思っているので、何の驚きもないのだが、熱心で神聖な相撲ファンはさぞやがっかりされたことであろう。でも昔から、週刊誌が大相撲の八百長問題を記事にして、再三指摘してきたのだし、今まで表沙汰ならなかっただけで、何をいまさらという感じがしないでもない。それが今までおそらく協会からのもみ消しや、隠蔽工作もあって大きな問題ともならなかった。でも今回は3人が八百長を認め、関わった力士が14人もいるという。だとすると問題は大きのかもしれない。
昔から7勝7敗の力士は千秋楽に勝ち越す場合が多いといわれているし、カド番の力士が給金を直すことは知れ渡っている。これなんかも八百長とは言わないが相手が温情で勝たせてくれる手を抜いてくれる。つまり無気力相撲に繋がるのだ。今回の八百長騒ぎにおいても、疑惑のある力士のほとんどは何連勝もする力士ではなく、下手すれば幕下へ落ちるであろうという十両の力士である。十両か幕下で、この番付の違いが収入に天と地ほどの差があるから問題なのであろう。十両だと100万円以上の月給があるが、幕下になると15万円の手当が出るだけという。すると当然、実力で相撲をとっているといずれ幕下へ転落する。こうなる以前に十両でおれるように星勘定を試みる。ここでお互いが助け合いの精神で、勝ち星の譲り合い、金券の受け渡し、あるだろうとは昔から言われている。
今回、表沙汰になったのは野球賭博を捜査した警視庁の捜査員が押収した力士のメールに星を回し合っていたやりとりが残っていたので、動かぬ証拠として問題になったということなのであろう。でも、相撲は2人だけで取り合う格闘技である。2人にしか判らない。でも如何に真剣勝負に見せて、八百長を行うかという前提があり、真剣勝負でいて、実は演技をしていることになる。これだとひいき筋は応援しているのに裏切られた気にもなろう。でも多かれ少なかれ、スポーツには紙一重で八百長問題が絶えず付きまとっていることをお忘れなく。ただ表面に出ないだけのことの方が多いだけであって、本人が吐かなければ誰もわからないのである。
過去には大リーグのホワイト・ソックスの八百長事件があったし、日本でも西鉄ライオンズの黒い霧事件があった。サッカーでもイタリアでは度々、八百長問題が取りざたされる。いわばスポーツは表裏一体のところで、真剣勝負と八百長が絡んでいるのだ。そのことは何時の時代でもなくならないだろう。ことに大金が動けば動くほど、その可能性は高いということだろう。
このところ八百長問題で揺れる相撲界。あまり関心はないが一応、触れることにする。私が子供の頃、テレビが各家庭に出回り始めたが、その頃はプロレスの人気が凄かった。いわゆる力道山の人気である。戦後、日本は敗戦の焼け跡から立ち直りつつあったが、戦勝国アメリカに対してのコンプレックスは大きかった。ちょうど昭和30年台前半で、物資も乏しく貧しかった日本。敗戦の痛手から完全に立ち直ってなく、当時の大人たちはどこか元気がなかったように思う。そんな頃に力道山が登場し、大きな外人レスラーを力道山が空手チョップで倒す。街頭テレビの前は黒山の人盛り。ちょうどそんな頃、我が家にもテレビが来た。するとたちまち近所のガキどもが、テレビを観に我が家へ集まった。まだ、そんな時代であった。そこで我々のようなガキどもは月光仮面や鞍馬天狗等をよく観ていたが、大人たちは野球、相撲、そしてプロレスをよく観ていた。その中で断トツのヒーローが力道山であったことは言うまでもないが、そのプロレスが誰も八百長だということはあの当時もちろん知るはずもない。
八百長というと言葉は悪いが、プロレスは仕組まれたストーリーがあるということは、今日では多くの人が認めるところである。もちろん中には真剣勝負もあるだろうが、プロレス黎明期の力道山の試合の多くはショー化された格闘技であったことは確かなようである。でも我々は真剣勝負として見ていた。敵役を演じた外人レスラーたちの多くは、そういった敵役でファイトマネーを稼いでいたということである。だから、現在では純粋なスポーツとして報道されることもなく、プロレスは飽くまでも格闘技ショーという扱いになっている。いわば興行的な際物として多くの人はとらえているのである。もっともプロレスをショーだ、演出だというと怒る人もいるが、彼らは体力の極限に近いところで戦っている。いや演じているのだ。でもそれを八百長だからといって揶揄する人もいない。それはプロレスラーの体つきや技をを見ればわかるように、並大抵の鍛え方でないことは確かであって、八百長だ、ショーだと一言で片づけられない見事な試合をリング上で繰り広げてくれるから、どうしても目が釘付けになってしまうのである。つまり虚の中に実があって、実の中に虚がある。たとえ筋書きがあって最後は誰が勝つと判っていても、その試合の内容に魅せられてしまうと熱くなってしまうのである。そういった視点で見ると、所詮、素人には八百長なのか、真剣勝負なのか判るというものではない。最後にはいい勝負、いい闘いを観たという満足感の方が先に立ってしまいプロレスがショーといわれようと、そんなものはどうでもよくなるのである。さて、話は変わって大相撲の八百長問題であるが、プロレスとどう違うのかというと、多くの人は相撲は国技であって真剣勝負だと思っているということ。そこで出た膿のような八百長騒ぎで65年ぶりの本場所中止かという激震が走っているようだ。多くの相撲ファンは固唾を飲むように事の行方を見守っているようである。
ところで相撲ファンでもない私は、昔から相撲は八百長があっただろうと思っているので、何の驚きもないのだが、熱心で神聖な相撲ファンはさぞやがっかりされたことであろう。でも昔から、週刊誌が大相撲の八百長問題を記事にして、再三指摘してきたのだし、今まで表沙汰ならなかっただけで、何をいまさらという感じがしないでもない。それが今までおそらく協会からのもみ消しや、隠蔽工作もあって大きな問題ともならなかった。でも今回は3人が八百長を認め、関わった力士が14人もいるという。だとすると問題は大きのかもしれない。
昔から7勝7敗の力士は千秋楽に勝ち越す場合が多いといわれているし、カド番の力士が給金を直すことは知れ渡っている。これなんかも八百長とは言わないが相手が温情で勝たせてくれる手を抜いてくれる。つまり無気力相撲に繋がるのだ。今回の八百長騒ぎにおいても、疑惑のある力士のほとんどは何連勝もする力士ではなく、下手すれば幕下へ落ちるであろうという十両の力士である。十両か幕下で、この番付の違いが収入に天と地ほどの差があるから問題なのであろう。十両だと100万円以上の月給があるが、幕下になると15万円の手当が出るだけという。すると当然、実力で相撲をとっているといずれ幕下へ転落する。こうなる以前に十両でおれるように星勘定を試みる。ここでお互いが助け合いの精神で、勝ち星の譲り合い、金券の受け渡し、あるだろうとは昔から言われている。
今回、表沙汰になったのは野球賭博を捜査した警視庁の捜査員が押収した力士のメールに星を回し合っていたやりとりが残っていたので、動かぬ証拠として問題になったということなのであろう。でも、相撲は2人だけで取り合う格闘技である。2人にしか判らない。でも如何に真剣勝負に見せて、八百長を行うかという前提があり、真剣勝負でいて、実は演技をしていることになる。これだとひいき筋は応援しているのに裏切られた気にもなろう。でも多かれ少なかれ、スポーツには紙一重で八百長問題が絶えず付きまとっていることをお忘れなく。ただ表面に出ないだけのことの方が多いだけであって、本人が吐かなければ誰もわからないのである。
過去には大リーグのホワイト・ソックスの八百長事件があったし、日本でも西鉄ライオンズの黒い霧事件があった。サッカーでもイタリアでは度々、八百長問題が取りざたされる。いわばスポーツは表裏一体のところで、真剣勝負と八百長が絡んでいるのだ。そのことは何時の時代でもなくならないだろう。ことに大金が動けば動くほど、その可能性は高いということだろう。
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