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2016.06.05 (Sun)

ブラッド・スウェット&ティアーズを聴く



 もう40年以上前になるがブラス・ロックというのが流行っていた。といっても僅かな期間だが、シカゴだとかチェイスだとかラジオの洋楽ヒットチャートを賑わしていたものである。この時期というのはジャズとロックがお互いすり寄ったというべきか融合しようと試みたのか判らないが、必然的な流れでこういった類いのジャンルが出てきたように思う。エレキギター・サウンドのロックと、ブラス中心のジャズが引っ付いたらこのようになったというものなのか。ジャズ界でもマイルス・デイヴィスが、これではいかんと思ったのかエレクトリックなジャズを演奏しだしたのもこの頃だったかな。もっとも、この頃は小生、あまりジャズに詳しくはなかったので知る範囲ではないが。
 ロック界でも変換期であり、かつてのビート・ポップスから細分化していき、色々と流派が出てきたというべきなのか、この1960年代後半はロック史上において最も輝いていたというか、百花繚乱だったような気がする。もともとはロックンロールが1950年代半ばにアメリカで生まれたが、1960年代になると往年の勢いがなくなっていた。しかし、それらの音楽を聴いて育ったイギリスの少年達から、その後、次々とロックスターが育っていき、新たなロック・ミュージックを生み出していったというのは不思議ではある。
 そういった中からビートルズが出て、ローリング・ストーンズが出て、アニマルズが出てきた。彼等の出現により、やがてロックンロールの元祖であるアメリカの若者達にも波及し、アメリカからも多くのロックミュージシャンが出て来るわけだが、1960年代後半は英米で影響し合って、それこそロック界は花咲いていったものである。でもどちらかという全体的にアメリカ勢はイギリス勢に押されていたという感は拭えない。この時代新たなジャンルのロックを生み出すのもイギリスであり、アメリカが後追いといった時代でもあった。そんな中で唯一、アメリカで勢いのあったのがブラス・ロックというジャンルだろう。イギリスでもブラス・ロックのバンドはあることにはあったが、有名なのはアメリカのバンドだった。日本で1番人気があったのはシカゴであるが、なんと言ってもパイオニア的なブラス・ロックはブラッド・スウェット&ティアーズではないかと思う。
 そもそもアル・クーパーという才能あるミュージシャンがいた。彼は黒人ブルースに影響を受けていて、それまでに在籍したバンド、ブルース・プロジェクトを解散し、1967年新たにブラス・ロックのバンドを結成する。それがなんと8人編成という大編成のロック・バンド。それがBROOD, SWEAT&TEARS(血と汗と涙)である。メンバーはアル・クーパー(ヴォーカル、キーボード)、ボビー・コロンビー(ドラムス)、スティーヴ・カッツ(ギター・ヴォーカル)、ジム・フィルダー(ベース)、ディック・ハリガン(トロンボーン)、フレッド・リプシウス(サックス)、ランディ・ブレッカー(トランペット)、アリー・ウェイス(トランペット)。何と管楽器が3人加わっている。当時としたらフュージョンのバンドかと思われたかもしれない。しかし、やっている音楽は明らかにロックであり、最初のアルバムが1968年2月に発売される。でも当時は斬新すぎて日本ではほとんど知られることはなかった。まだブラス・ロック的な音楽ではなく当時、最先端だったサイケデリック的な音楽だった。これはアル・クーパーの影響力が強かったから当然かもしれない。結局、数ヶ月後にはアル・クーパーと他のメンバーとの意見の食い違いからアル・クーパーがバンドを脱退する。このとき、ブラスセクションの2人も脱退しBS&Tは危機に陥る。仕方なくボビー・コロンビーが中心になってバンドの再構築をはかり、カナダ人のデヴィッド・クレイトン・トーマスをバンド・メンバーに加えたのである。彼は才能あるヴォーカリストであり、ソウルフルな声をしていて、新たなBS&Tの指標が定まったのである。さらにジェリー・ハイマン、ルー・ソロフ、チャック・ウィンフィールドとブラスセクションに3人が加わり、ヴォーカル、ギター、ベース、キーボード、ドラムスにサックス、トロンボーン、トランペット2人というよりブラス色の強いバンドになってしまったのである。こうして9人という大所帯のロックバンドのアルバム2作目として1969年1月に出されたのが『BLLOD, SWEAT & TEARS』であった。
 このアルバムは大ヒット。ビルボードのアルバムチャートで7週間連続1位に輝いたのである。一躍ブラッド・スウェット&ティアーズは有名になり、グラミー賞で三部門で受賞することとなる。日本でもアルバムの中から『Spinning Wheel』が大ヒット。1971年の2月に来日。早速、小生は大阪のフェスティバル・ホールへ聴きに行った。そして、これから外国のロック・ミュージシャンの来日が頻繁になるのであるが、このときの前座が、まだ無名だったテルマ・ヒューストンである。
 ところでBS&Tのサウンドはシカゴよりもロックの要素が低く、ロックよりもブルースぽいしジャズと言われればヴォーカルのあるジャズのように聴こえなくもない(スウィング全盛期にはジャズ・ヴォーカルは盛んだったが)。当時はジャズがフュージョン化してしまい、ロックとの垣根もなくなりつつあったから、BS&Tはジャズ・ミュージシャンにも評価されていたものである。しかし、このBS&TはDCトーマスの発言力が強まりメンバー内で確執があったのか、メンバー脱退、入れ代わり、DCトーマスの脱退、再復帰、色々あり、やがて音楽シーンから消えていった。ほんの5年か6年の間、BS&Tは輝きを放っていたかな。実は小生、同じブラス・ロックでもシカゴよりBS&Tの方が好きだったのだが、小生の周囲はハード・ロック信者ばかり。シカゴまでは聴けるがBS&Tはオジン臭い音楽と言われ揶揄されていたことを思い出す。当時、プログレッシブ・ロックやBS&T
が好きなロック少年って異端児扱いされたものである。

最大のヒット曲『Spinning Wheel』


ややブルース色の強い『And When I Die』


You've Made Me So Very Happpy

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2016.05.15 (Sun)

ハーブ・・アルパートを聴く



 ハーブ・アルパートといっても若い人には聞き慣れない名前だろうが、我々の年代にとっては実になじみ深い名前である。昭和40年代初頭、この人の名前を洋楽のヒットチャートでよく耳にしたからである。当時はハーブ・アルパートがティファナ・ブラスというバンドを組織してよく彼らの曲がラジオで流れていたものである。なかでも1番ヒットしたのは『A Taste of Honey』である。この曲はカヴァー曲であるが、インスルメンタルのハーブ・アルパートとティファナ・ブラスのアレンジ版がヒットしたのである。本来はブロードウェー・ミュージカルのためにボビー・スコット書いた曲で邦題を『蜜の味』といい、何組かがレコーディングしている曲であり、面白いことに初期のビートルズがこの曲を歌っている。どうもビートルズがハンブルグで修業していた時代に、この曲をロックンロール嫌いの客用に歌っていたという。だから本来は歌付きの曲である。それがテイファナ・ブラスのインスルメンタル版が大ヒットし、この曲のイメージとして定着してしまった感がる。またそれ以外にも、上の写真に載せているアルバム『Whipped Cream And Other Delights』に『A Taste of Honey』は入っているのだが、このハーブ・アルパート&テファナ・ブラスで1番有名な曲というのは同アルバムに入っている『Bittersweet Samba』であろう。この曲は深夜ラジオ番組のオールナイト・ニッポンのテーマソングとして使われたからであって、タイトルも誰の演奏家も知らないが、曲だけは誰もが知っているという。ジャズメンのソル・レイクが作曲したものでハーブ・アルパートがそれをアルバムに収録したのであるが、まさかアジアの日本で長い間、テーマソングとして使われるとはハーブ・アルパートも思わなかったであろう。
 ハーブ・アルパートはアメリカのロサンジェルスで1935年に生まれたミュージシャンで、作曲家であり、トランペット奏者であり、テファナ・ブラスのリーダーであり、A&
Mレコードの創始者の一人でもある。両親がユダヤ系ルーマニア人で、8歳でトランペットを習い始め大学を出てから音楽の道に自然と進むようになる。やがてルー・アドラーとの共作で『Wonderful World』を書きサム・クックが歌ってヒットした。その後、プロデューサーとして活躍する傍らレコード会社を作り、自ら起こしたバンドがテファナ・ブラスである。テファナ・ブラスは1969年に解散するまで活動し、その後は新たなブラス・バンドを組織したりソロ・ミュージシャンとして今も多岐にわたり幅広い活動を行っている。
 2006年、彼はロック殿堂入りしたのであるが、これは奏者としてではなくA&Mレコードがロックに貢献したと言うことであり、また奏者としても2013年にグラミー賞を受賞するなど年老いても商業音楽の世界で活発に活躍しているのである。


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2016.03.27 (Sun)

ディープ・パープルのライヴ・イン・ジャパンを聴く



 ようやく復活して参りました。写真付きのブログなんて1年3ヶ月ぶりかもしれない。というのも友人がウインドウズXP搭載の古い古いパソコンが余っていて、長年使ってないからと無償で貰ってきたというわけで、いわば急場しのぎである。まあ取りあえずブログを始めて10年になる来年秋までは頑張りましょう。ということで復活最初のブログはディープ・パープルのライヴ・イン・ジャパンである。このアルバムは当初は日本だけの発売だったようである。というのもディープ・パープル側がライヴ・アルバムの発売に乗り気じゃなかったからである。しかし、日本の録音機器がこれほど素晴らしいとは思わず発売にYesといった模様である。ところが当時は母国のイギリスと日本で人気があったディープ・パープルであるが、アメリカではあまり人気がなかったものの、このアルバムの人気がアメリカで沸騰し、ここからSmoke on the waterだとかHighway Starとかの大ヒットに繋がり世界的人気を得るようになるから判らないものである(アメリカではMaid in Japanとして発売)。

 録音は1972年の8月15、16、17の3日間で行われ、アルバム・ジャケットから日本武道館の公演録音のように思われている。ところがよく調べていると、武道館での収録はThe mule, Lazy, Space Truckin'の3曲だけで後はすべて2日間行われた大阪のフェスティバル・ホールで録音されたものであるということが判る。それだけに日本武道館の録音だと思い込んでいた人にとってはアレッって思うだろう。当時の事情もあるが、音からしてフェスでの録音の方が武道館での録音より音がしまっているというか明瞭感がある。また武道館でのSmoke on the waterでの出だしをミスったということも囁かれていて、こういった形で発売されたのだろう。しかし、考えてみたら小生、当時は来日アーティストのロック・コンサートというとほとんど行っていたのだが、この年の8月というと一ヶ月以上北海道を彷徨っていたから、このディープ・パープルのライヴには行ってないのだ。また当時、ディープ・パープルが好きだったというのでもなく、いや、当時はレッド・ツェッペリンでさえも嫌いなバンドだったから(天国への階段だけが好きだった)、無理して行こうとも思わなかった。当時は高価だったLPレコードのアルバム(当時の2000円)も持ってなかったから、アルバム『マシン・ヘッド』を熱心に聴くようになったのは年老いてからのことであり当然CD時代になってからである。
 今聴いてみると、リッチー・ブラックモアのギターが冴えているし、これまでアメリカで人気が出なかったのが不思議なぐらいのバンドである。同じ頃出てきたブラック・サバスよりも先に日本で人気が出て、日本で録音したライ・ブアルバムを日本で発売し、そこからアメリカで評判を呼び、世界的バンドに飛躍したディープ・パープルである。まさに希有な例であるが、時々、こういった現象が見られるのであるが、今の時代は映像配信が世界同時で見られるから、こういったことは起こらないだろう。まさに古き良き時代だったといえそうだ。そんな昭和の真っ盛りのロック少年だった小生の思い出の一コマである。以上

尚、今では日本公演3日間すべて収録された完全版も売っているからマニアの人は当然のように持っているのだろう。


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2016.02.04 (Thu)

365日の紙飛行機

はっきり言おう。小生、今までAKB48って興味もないし、ソロで歌える子があまりいなくて、何時もグループのユニソンでしか歌わない糞下手なグループで下らないと思っていたのだが、この朝ドラの主題歌『365日の紙飛行機』だけは心に残る良い歌だなと思った。もっとも冒頭のヴォーカルの山本彩がソロで歌うところから惹かれたのだが、その後は何時ものようにソリや集団でのユニゾンで歌う何時ものAKBに変わってしまった。結局、昔ガールズロックバンドやってた山本彩頼みだったのか・・・・。でもあそこのグループにしてはしっとりとした心にしみる曲である。でも加藤和彦&北山修の『あの素晴らしい愛をもう一度』に冒頭が少し似ているのが気になるが。



山本彩のギター弾き語りバージョン


中学生ロックバンドMad Catz 右でギターを弾いているのが山本彩(2008年5月 大阪城天守閣前ステージ)

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2015.06.21 (Sun)

BABYMETALのCDを買った




 笑わないでほしい。べつにロリコン趣味でもないが、このほど発売されたBABYMETALの輸入版CDを買った。小生、1980年以降にリリースされたCDを買うのは初めてである(クラシック、ジャズの系統は除く)。ましてや日本のアイドル系のCDを、この歳になって買うなんて今まで想像も出来なかった。でも買ってしまった。自分でも何故だか判らない。所謂ポップ・ミュージックと言う流行りの音楽ジャンルは1970年台で聴くことを止めているので興味もわかなかった。当然、日本のJ-POPなんて論外な音楽だった。それが小生に手を出させるというのはBABYMETALに何かがあるからだろう。10代の少女たちが辣腕のミュージシャンをバックに踊って歌いまくる。アイドル文化の盛んな日本では珍しいことではない。アイドル・グループは数えきれないぐらいある。でも何故かBABYMETAL以外は興味がいかない。つまり小生に興味を持たせたのだ。だからアイドル・ユニットのCDを買うという前代未聞の行いをやってしまったのだ。ただ国内版なら買わなかっただろう。そして、先日とうとうアメリカ版とヨーロッパ版のCDが発売された。その結果、日本のグループのCDを輸入版で買うというおかしなことになってしまった。国内版より価格が安いからなのだが、おかしなものだと自分でも思う。それ以前にBABYMETALは今まで海外で正式にCDが発売されたことがないのだから不思議だ。それでいて昨年と今年、欧米ツアーを行っている。昨年はフランス、ドイツ、イギリス、アメリカ、カナダ、レディ・ガガのアメリカ・ツアーのサポート・アクト。今年はメキシコ、カナダ、アメリカ、ドイツ、フランス、スイス、イタリア、オーストリア。そしてイギリスでメタルのバンドに与えられる賞を二つ頂いてドラゴンフォースとコラボ演奏をした。とにかく海外での話題ばかりが先行するグループと言うかアイドル・ユニットである。こんなグループも珍しい。
 今まで外国でCDが発売されてないのに海外ツアーをこれだけ行うのも異例なのに、単独コンサートでこれだけ集客力があると言うのも珍しい。またあちらの人が日本語で一緒に歌う。映像を観ていても実に不思議である。最初に何でこんなにBABYMETALのことを知っているのだと思ったが、その要因はYou Tubeにあったということだろう。2010年に組まれたユニットだが、マイナー・デビューでミュージック・ビデオをYou Tubeで配信した。すると海外の人が繰り返し観るようになった。そして徐々に知れ渡っていき、昨年の初頭にギミ・チョコがYou Tubeで配信されるや否や海外で爆発的にクリックされるようになり、このミュージック・ビデオは既に2800万回以上再生されている。でもAKB48だとかモーニング娘だとかももいろクローバーZとかいったアイドル・グループに比べると再生回数は少ないだろう。BABYMETAL関係の動画は全て合わせても7000万回はいってないらしい。これは仕方がないだろう。とにかく日本の国内でのマスコミへの露出が極度に少ないからこの程度のもなのだ。おそらく日本人でも、まだ知らない人の方がはるかに多いぐらいだ。でも驚くのは、この再生回数の60%は海外で再生されているという現実だ。それも世界中から。北米、南米、ヨーロッパ、アジアとコメントの欄を見るとドイツ語、フランス語、ロシア語で書かれているのやらアラビア語まで交ざっている。ほとんどは英語だが、とにかく海外での人気が日本より優先されていることが判る。これも稀有な例だろう。何故なのかなあと思う。英語ではなく日本語で歌っているのに、その歌詞を外国人が知っている。You TubeでBABYMETALのcoverをやり、それを投稿している人の数の多さにびっくりする。歌のカバーから、ダンスのカバー、楽器のカバー。何でこんなに海外で受け入れられたのだろうか・・・・・。
 キャッチーな曲、激しいリズム、それでいてKAWAII。まさに日本の文化なのだろう。アイドル文化のない欧米では異色な存在として採り上げられ度々、論争の的ともなっている。持ち上げる人も多いがヘイターも多い。メタルと言っているがこんなのはメタルじゃないという声は相変わらず多い。まあ、メタルだろうがメタルじゃないだろうが、どうでもいいことだとは思うが、本人たちはKAWAII METALだといいonly oneを目指しているというから意に介してないようだ。でも確かに面白い音楽をやっているね。だから小生が興味を持ったのであるが、これから真似をするバンドが出てくるかもしれない。韓国に既にパクっているなあと思えるグループが存在する。でもあのバックバンドのようなメンバーを揃えられるのかな。大村孝佳、Leda、藤岡幹大、BOH、青山英樹、前田遊野といったサポート・バンドがあるからこそBABYMETALは映えるのだが、そこに中元すず香(SU-METAL)のヴォーカルが上手く融合して成り立っている。そこへ水野由結(YUIMETAL)、菊地最愛(MOAMETAL)が絶妙な合いの手を入れ、不思議な空間が辺りを支配する。妙に音楽は攻撃的であり可愛らしくもある。これが魅力なのかな。でも思うところCDを聴く限りライブの方が面白いだろうと思わせるグループである。また露出が極端に少ないからベールに包まれていて、これが却って興味を注がれる。握手会だとかサイン会だとか、変にサブ的なもので人気を挙げるようなことを一切やらず、音楽のみで細々と活動を行っているアイドルと言うのもあまり見かけない。だから露出はミュージック・ビデオとライブのみと言うことなのだろう。
 ところで今回買ったCDだが以前出された国内版と収録曲は変化ない。ただ違うのは歌詞カードが入っていて、これがローマ字で書かれていること。でもあちらの人には歌いにくいだろうな。それとボーナス・トッラクスとして昨年11月ロンドンのアカデミー・ブリクストンで行われたライヴ録音『Road of Resistance』『Gimme Chocolate!!』の2曲が入っている。さらにDVDが入っていて、こちらはOfficial Video Clipsとしてお馴染みの6曲が入っている。ただ聴いて思ったことを言おう。既にYou Tubeで聴いて周知の曲ばかりなのだが、音質はあまり良くないなあと感じた。バンドの音が喧しすぎる。これならYou Tubeで聴いている方が音のバランスは良い。でも持ってても悪くないなあとは思う。
 さて、このBABYMETALというのは期間限定アイドル『さくら学院』から出てきた派生ユニット(重音部)だというのは知られているのだが、このヴォーカルを務める中元すず香と言う子はキャリアが長いのだね。広島のアクターズ・スクール出身で、2008年には可憐Girl’sとしてアニメ・ソングを歌ってCDを出しているし、ミュージカルにも出ている。さくら学院の一員として活動する傍らでBABYMETALとしてデビュー。どうりで度胸が据わっているはずだ。でも一つ上の姉・中元日芽香がアイドル・グループ乃木坂46にいるというが、ほとんど見かけたことがない。同じく芸能生活していて妹ばかりが大きくなっていくが、姉としての本心はどうなんだろうか。このあたり気になるが。

今年1月、埼玉スーパー・アリーナでのライブ映像『Road of Resistance』(この映像6.43あたりで「かかってこいや!」というところがあって、勇ましいと感じた)


かつて可憐Girl’sとしてアニメソング『Over the Future』を歌う。1番小さくて口もとにほくろのある子が中元すず香。当時、小学校5年生。


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2015.04.19 (Sun)

加山雄三を聴く

 このタイトルからして珍しく思われるかもしれない。小生は洋楽一辺倒で聴いてきたから日本の歌手の曲なんてほとんど聴いてない。が、幼少の頃は親がラジオを聴いていたので春日八郎や三橋美智也、美空ひばり、島倉千代子なんていうのはよく知っていた。また当時の家にハンドル式の蓄音器があってSP盤で藤山一郎、ディック・ミネ、淡谷のり子、東海林太郎の曲なんてよく歌っていた。それが家にテレビが来た。昭和33年のことである。その頃に覚えた曲は『月光仮面』『まぼろし探偵』『少年ジェット』『鉄腕アトム(実写版)』『赤胴鈴之助』『少年探偵団』といった少年向けドラマの主題曲。または『ローハイド』『スーパー・マン』『ララミー牧場』等のアメリカの輸入ドラマのテーマ曲だった。またテレビでは歌番組が頻繁にあって、このころに多くの歌手を知ることとなる。やがて小生は小学校に上がる。
 あれは昭和36年の秋だった。宝塚ファミリーランドという今はない遊園地に学校から遠足に行った時、当時に人気のあった坂本九と森山加代子が来ていたのを思い出す。みんなギャーギャー言い出す始末。小学校の低学年ならこんなものかな。高学年ならもっとワーワーキャーキャー言いだすだろうが・・・・。ちょうどその頃に『上を向いて歩こう』だとか『じんじろげ』『パイのパイのパイ』が流行っていたのでガキどもも顔と名前は知っていた。また映画にも連れて行ってもらって、時々は外国映画も観にっていたものだ。学校の仲間と東宝の怪獣映画を観に行ったのを覚えている。それが『大怪獣モスラ』だった。そもそも怪獣映画は『ゴジラ』から始まったのだが、その頃はまだ小生が生まれた頃で知る筈もなく、リアルタイムで観た最初の怪獣映画としては『モスラ』だったのだ。この時に双子歌手ザ・ピーナッツを知り、『シャボン玉ホリデー』をよく観るようになる。そしてクレ-ジー・キャッツの歌もよく歌った。また東宝映画で若大将シリーズの加山雄三の映画を何本か観ることとなる『ハワイの若大将』『海の若大将』『エレキの若大将』等。この時に母から戦前の大物俳優である上原謙の息子であることを教えられ、加山雄三の母も小桜葉子という女優で、芸能人の両親で生まれた加山雄三。映画を観てその名を知ることとなったのだが1966年(昭和41年)だった。ちょうそビートルズが来日すると言うので大騒ぎしていたころに加山雄三が颯爽とテレビの歌番組で出てきた。『君といつまでも』『夜空の星』『蒼い星くず』『お嫁においで』『夜空を仰いで』『旅人よ』・・・。時期も時期、スパイダースやブルー・コメッツ、寺内タケシといったエレキサウンドのグループ(GSと言われ出したのはもっと後だった)が出だした頃と時を同じくして。一方ではジョーン・バエズやPPMの影響でフォーク・ソングが密かに歌われ始めていた時代である。
 加山雄三は盛んにヒット曲を連発していたので矢鱈テレビに出ては歌っていた。それもエレキを弾きながら。また曲名と作詞、作曲のテレップが画面に出て作詞・岩谷時子、作曲・弾厚作が気になって当時調べてみたら、加山雄三の作曲の時のペンネームであることを知る。加山雄三が尊敬する團伊玖磨、山田耕作、2人の名前を合わせてペンネームにしたという。つまり日本のシンガー・ソング・ライターの先駆け的な人であり、ちょうどビートルズが来日した時でもあり、自作自演することがステータスの様になっていた頃である。人気俳優の子として生まれ、ちゃっかり親の七光を利用しているようで実は親以上に色んな才能を持っていたというから羨ましい限りだ。光進丸という自ら設計した船舶を保有し操る姿が映画やテレビで披露され、日本で最初にサーフィンをした人として採り上げられ、スキーも上手く、ピアノも弾き、ウクレレも弾く、絵も描き、料理の腕も素人の域ではないというから、当時は恰好のいい兄貴的存在であり、多くの少年があのようになりたいと思っていたのも事実であろう。それ以外にも加山雄三の逸話は幾らでもあるが、ここでは語りきれない。ビートルズが来日した時に4人と一緒に会食したというし、何かとエピソードの事欠かない人である。本来は俳優なのだが、小生なんか加山雄三の映画は若大将シリーズの数本以外は黒澤明の『椿三十郎』『赤ひげ』ぐらいしか観たことがないので、テレビで自作の曲をランチャーズと共に歌っている姿ばかりが記憶にある。ヴェンチャーズと共演していたのもこの頃かな。その後はワイルド・ワンズを生みだし共演したり、今はバラエティ番組でよく顔を見かける。もう80歳近いというのに何時までも気が若いなあと敬服するばかりである。本当に~かわらないいつまでも~
 なお加山雄三と言う芸名(本名・池端直亮)は加賀、富士山、英雄、小林一三(阪急・東宝創設者)から一字ずつ採られたと言われていたが本人曰く、祖母に姓名判断で付けてもらった名前らしい。、


『エレキの若大将』で『君といつまでも』を歌う。後にシングル盤が発売されたが~いつまでも~のところのメロディが違っている


『お嫁においで』


つい最近のテレビ番組でBABYMETALが好きだと言っていた。いや何時までも気が若いねえ(7.38あたり)。

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