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2009.10.06 (Tue)

特急『こだま』

 先週の土曜日、神戸の新長田駅前の『鉄人28号』のモニュメントを見に行ったついでに、そこから1kmほど行った所にある川崎重工業の兵庫工場へ立ち寄った。目的は、そこの本館前に新幹線の0系車両と在来線の181系車両が並べてあるから見に行ったまでだ。

 川崎重工業とは神戸に本社のある企業で、明治時代から日本の重厚長大産業の花形・造船を支えた一角であった。その後、色々な企業と合併、分離を繰り返し、現在では主に2輪、航空機、船舶、建設機械、エンジン、タービン、鉄道車両などを製造している大企業である。そして、この神戸にある兵庫工場は主に鉄道車両を作っていて、新幹線や在来線及び、私鉄、海外の鉄道車両といった様々な車両を製造しているのである。

 暑い中、新長田から東へ国道2号線沿いを約1㎞ほど歩き、そこから南の方角へ歩くと懐かしい鉄道車両が見えてきた。181系車両である。181系といっても判りにくいだろう。それなら新幹線が開通するまで、在来線で走っていた特急『こだま』型の車両といえば判るだろう。あの肌色に赤い帯が入ったボンネット型電車である。かつて東京~大阪間を6時間30分で走っていた花形特急であった。

 その昔、在来線の東京~大阪間といえば日本の特急列車の実験場のような路線であり、最も最新の列車がこの区間に何時も導入されたのである。つまり日本の鉄道の歴史を物語っているといってもよく、絶えず東京~大阪間を何時間で走ったという表現がなされ、その所要時間で大体のスピードが判ったという。そもそも特急列車が国鉄に登場したのが1930年10月で、その時に特急『つばめ』が東京~神戸間を走っている。そして東京~大阪を何と8時間20分で突っ走ったのである。余りの速さに当時の人は驚いたという。それでこの当時の機関車は当然、蒸気機関車である。

 1934年12月、丹那トンネル開通により特急『つばめ』が東京~大阪を8時間で走るようになった。ところがこれ以上の時間の短縮は不可能となり、戦後の1956年11月、とうとう東海道本線全線電化完成により、東京~大阪を電気機関車が牽引する特急『つばめ』が7時間30分で走破するようになる。でもさらに時間短縮を望もうとすれば、機関車が引っ張るのではなく、電車型特急を走らせて見るしかないだろう。このように181系の電車型特急が現れてから時間が短縮されるようになり、東京~大阪を6時間50分で走るようになったのである。その後、ビジネス特急といわれ、6時間30分で東京~大阪を走破するが、1964年9月30にてビジネス特急『こだま』のお役目は新幹線によって引き継がれることになったのである。


 お! 特急『こだま』車両だ。最初は20系とも『こだま』車両とも言われたが、その後に車両称号規定改正で151系と呼ばれるも、1965年から181系と変更される。
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 0系と181系が並んでいた。どちらも『こだま』では?・・・・・
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 もう、どちらの車両も走っている姿を拝めなくなった。かつての栄光車両が、今ここに・・・・・。
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2009.03.20 (Fri)

阪神なんば線開通

 朝まで降っていた雨がやみ、その後は風が吹きすさぶ肌寒い1日となった春分の日の今日、阪神なんば線が開通した。阪神なんば線というのは阪神電車の西大阪線の、これまでの終点だった西九条駅から延伸して近鉄の終点だった近鉄難波駅とドッキングしてしまい、その結果、開通した新線のことである。これにより、近鉄と阪神という、これまで皆目、接点のなかった2つの私鉄が一本の線で繋がった。その結果、両社の相互直通運転が始まったということなのである。

 つまり近鉄の奈良から阪神の三宮まで両社の電車が直通運転されることとなった。・・・ということは、阪神電車が奈良まで走ることになり、近鉄電車が神戸の三宮まで走ることとなった。このような私鉄同士が相互乗り入れすることは珍しいことではないが、阪神なんば線開通によって、神戸から奈良へ、また奈良から神戸へと乗り換えせずに直通で行けることになったという意味は案外、大きいかもしれない。なにしろこれまで両都市とも、何が何でも大阪の梅田経由じゃないとお互い行けなかったのだから、便利になったし大幅な時間の短縮も可能になったのだから。

 これで阪神も近鉄も念願の未踏の地域へ乗り入れすることになり、新たな乗客を開拓しようということなのだろう。いわば両社とも悲願だった。特に阪神のなんば乗り入れ計画は大昔からあって、なかなか実現しなかったのが、本日をもちまして計画が実行されたのであります。

 でも阪神の西九条から近鉄の難波駅までといっても、たったの3.8㎞。ただこの僅かな距離だけでも実現にこぎつけるまで勘案辛苦であったのだ。まず大阪の都心を走るということ。それにより土地買収の問題があり、また騒音問題だとか、クリアーしなくてはならない問題が山積していたのである。結局、計画が本決まりになってから、完成まで7年を要している。工事も難工事の連続で、まず高架の大阪環状線を跨がなければならず、環状線を跨ぐと、今度は安治川に鉄橋を架けなければならず、安治川を越えると、すぐに下って地下へ潜り、九条駅を設置しなければならない。さらに九条駅からドーム前駅へと進むが、ここでは地下鉄長堀鶴見緑地t線と交差するのでその下へ潜ることになり、次の桜川駅との間には木津川、道頓堀川の下を掘削し、地下鉄千日前線とも交差するので、大変な難工事の連続であった。こうしてようやく開通にこぎつけたということなのだが、よく考えてみたら、これで近鉄の名古屋から、山陽電鉄の姫路まで、一本の線路で繋がったことになる。距離にして314.8㎞。いずれ何らかの形でイベント電車でも走るようになるかもしれないが、当分の間は、奈良~難波~尼崎~三宮に限って近鉄、阪神の電車が走ることになる。でもこれでさえ、独立独歩の精神が強かった関西の私鉄としては画期的なことである。

 ただ、阪神電鉄の本線側は最大6両の電車しか走らせることが出来ず、10両運転している近鉄とでは、車両や駅の設備において相違点が多く、近鉄の車両がそのまま三宮まで入っていく訳にもいかず、尼崎で切り離し運転を行なっているという。だから今日、西九条から難波まで乗車したが、桜川駅の途中で、暫く停車していた。桜川の駅で両社の乗務員が交代するという。なんだかんだと初日は、電車が全般的に遅れていて、不慣れな点が目立っていたが、これも何れ解消してくれると信じている。でも、何れにせよ、私はほとんど利用することのない路線ではある・・・・・・。


 西九条の駅。JR西九条を跨いでいるので、プラットホームは地上からかなり高い位置にある。
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 西九条駅で近鉄の5820系車両(左側)と阪神の1000系車両(右側)が並んでいる。昔では考えられない光景である。
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 西九条駅に到着した尼崎行きの普通(近鉄5800系)。
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 かたや難波駅は地下駅である。
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 難波駅発の名古屋行き特急アーバンライナー21020系。
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 難波駅に阪神電車の車両が到着というのも妙ではあるが、しばらくすると慣れるであろう。
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EDIT  |  18:06  |  鉄道  |  TB(0)  |  CM(2)  |  Top↑

2008.12.01 (Mon)

サヨナラ0系新幹線

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 写真はこれから新大阪駅を発車しようとする0系新幹線車両(写真提供MM氏)

 昨日の11月30日をもって0系新幹線車両が定期ダイヤから完全に姿を消した。あとはイベントのような形で僅かの便だけ臨時運転されるらしいが、それも年内中のことで、いずれにしても夢の超特急といわれた初代新幹線車両の0系がレール上を疾走する姿が見られなくなる。

 思えば私が走る新幹線の姿を初めて見たのは昭和39年の春だった。その数年前から工事にかかっていて、何もないところに、あれよあれよと土手が出来上がり、やがてそれが一本の線となり、万里の長城のように高い壁となり、長く長く連なっていき見事な高架鉄道として姿を表したのである。 昭和38年頃だったと思うが、阪急と新幹線が数㎞にわたって並走するところがあるが、先に高架工事の終わった新幹線のレールの上を阪急電車が走るといった珍しい光景も今は懐かしいかぎりだ。

 このようにして昭和39年の春までには、ほぼレールの敷設は終わっていたのだろうか、東京~新大阪間の営業運転を半年後に控え、いよいよ試運転することが決まったのである。そんな春の日だったろうか、6両編成の新幹線車両が時速30㎞程度のノロノロ運転で私達の前にやって来た。これが夢の超特急か・・・・・と小学生の私は、目をかっぴらいて注目したものである。

 そして昭和39年10月1日、東海道新幹線は開通した。東京~大阪が4時間というかつてない短い時間で行けるようになったのである。それまでは在来線のビジネス特急『こだま』に乗って6時間50分もかかっていたのに、何という速さだったろうか。最高速度210㎞、12両編成で高速運転され、そのスピードには驚いたものである。まさに未来の電車が現実のものになった感があった。私は親父に頼んで、翌年の夏、姉と一緒に名古屋まで乗せてもらったが、そのときの印象は今でも忘れられないものである。

 あれから44年、当時の夢の超特急は今ではすっかり時代に取り残された旧式の乗り物といった風情がある。あの頃、最新の流線型をした未来的な電車だと思ったが、その後の後継車両の登場の前では色褪せてしまったかのような、時の流れには逆らえない趣が支配している。

 開通時、東京~大阪を4時間で走っていたが、その後、3時間10分で行けるようになり、16両編成となり、1985年には後継の100系車両が登場し、その後に、300系、500系、700系、N700系といった新型車両が登場するに及び、旧式の0系は、どんどんと隅に追いやられるように、東海道から姿を消してしまった。でも各駅に停まる『こだま』として、山陽新幹線では細々と運行していた。でも今や時速300㎞が当たり前の新幹線。最高速度210kmでは邪魔になるのだろうか、とうとう山陽新幹線からも姿を消してしまうこととなった。これも時代の流れとはいえ、やはり一抹の淋しさはある。

 まるで飛行機の先端のような形をしていた0系車両。あの頃は格好いいと思ったが、今見ると確かに古臭いしスピードも遅い。でもレトロで懐かしい。それに日本の戦後の高度経済成長を支えた偉大なる乗り物なのである。どれだけ時代が進もうとも、どれだけ速い乗り物が登場しようとも、我々に与えたインパクトはその後の、どの乗り物よりも優っていた。まさに夢の超特急とは、この0系車両のことを指すのである。つまりジス・イズ・シンカンセンこそ、この古臭い0系だったのである。これまで、わたしは何度乗っただろうか・・・・・・それこそ数え切れないほど乗っている。だからこそ言う、サヨナラ0系新幹線・・・・・・。
 
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2008.10.25 (Sat)

京阪中之島線

 この前の日曜日(10月19日)に京阪電鉄中之島線が開通した。そこで鉄道マニアでもある小生はさっそく開通した天満橋~中之島間を乗ってきた。それで京阪電鉄というのは、関西以外の人には判りにくいと思うので、簡単な説明をしておくとする。

 関西には近鉄、阪急、阪神、南海、京阪という大手私鉄があるが、京阪というのは名前のとおり大阪と京都間を走っている私鉄である。でも大阪と京都間というと阪急も同様に路線がある。でも淀川水系の右岸を走っている阪急に対して、京阪は淀川水系の左岸を走っているので競合することは無い。それに落ち着いた色合いと上品な雰囲気な阪急に対して、派手な色合いと庶民の町・北河内を貫く京阪とでは会社に対するイメージも違っている。でも目新しいことを何かとやってしまうのが京阪で、時々、この電車に乗ると面白い発見があるのでユニークな鉄道会社という印象を小生は持っている。

 たとえば昭和29年に本放送が始まって間もないテレビを設置した電車を走らせたり、昭和39年に日本で初の駅冷房(地下の淀屋橋駅)に踏み切ったり、5ドア車両を走らせて見たり、とにかくアイデアに富んでいる。こんな調子で京阪が色んなことを試みるので、他の関西の私鉄も負けじとアイデアを働かせ、お互い切磋琢磨して発展し、それで今日の関西の私鉄を築き上げてきたのである。

 一般的に京阪というのは大阪の淀屋橋から京都の出町柳の間を走っている路線であるが、この前に開通した路線というのは、大阪の天満橋から数えて、なにわ橋、大江橋、渡辺橋、中之島という4駅間、たった2.9kmである。だから小生にとっては今後とも乗ることも無いだろうし、開通したところで何の恩恵も受けないが、京阪沿線の人にとっては中之島西部地区への乗り入れは歓迎すべきことかもしれない。でも何故、この路線を京阪が開通させたかという本当の意味は、おそらく将来的に、西九条までの延伸と、その後のUSJのある桜島、さらには舞洲、夢洲への延伸を視野に入れているということだろう。来年には阪神と近鉄が総合乗り入れして奈良~神戸間の直通電車が走ることになりそうなので、京阪も何れ大阪西部への路線延長を考えているものと思われるからである。しかし、どちらにしても、その頃には小生は、この世にはいないとは思うが・・・・・。

 さてさて、京阪電車というと特急がマンダリン・オレンジとカーマイン・レッドのツートンカラーで、一般車両がライトグリーンとダークグリーンのツートンカラーであったが、今回の新線開通にあわして、徐々に新しいカラーに塗り替えていくという。だから今回の中之島線開通で京阪のカラーも変っていきそうである。

 中之島駅は玉江橋付近にある。この写真は堂島川に架かる玉江橋と、福島、堂島付近を望んだ風景である。
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 中之島駅にはリーガ・ロイヤル・ホテルと大阪国際会議場が隣接している。
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 中之島駅への入り口。木材を多めに使用していてなかなかシックである。
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 地下駅への階段。
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 京阪の6000番型車両。ライトグリーンとダークグリーンのツートンカラーというと京阪のトレードマークだが、何れ塗り替えられる運命にあるようだ。
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 新型の3000番型車両。エレガントブルー、スマートシルバー、アーバンホワイトに塗られているが、徐々にこの配色が一般化するのだろう。
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 京阪の5000番型車両。この車両は日本最初に登場した5ドア車両である。
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 通勤時のラッシュ用ドアである。昼間は扉が開かずシートが倒されている。
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 5000番型車両の内部。平常時は3ドアである。それでは、この電車に乗って出発~
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 疾走する京阪電車。見納めのツートンカラーで走っています。

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2008.10.21 (Tue)

桂川駅

 先週の土曜日にJR東海道線(京都線)の西大路~向日町間に桂川駅が開業した。所在地は京都市南区久世で、西大路駅からだと2.8km、向日町駅からだと1.1kmのところに設置された。しかし、何故、こんな何も無い場所に新駅が設けられたかというのは、この駅の西側600mのところに阪急・洛西口駅があり、また当駅の西南には、かつてキリンビールの京都工場があった。それでキリンビール工場は数年前に立ち退いて、現在は広大な空き地になっているが、何れ複合商業施設と高層マンションが建つことになっていて、乗客の需要が見込めるということで建設されることになったようだ。

 最近は私鉄もJRも駅数を増やし、より乗客を増やそうという考えかもしれないが、私なんか一言言わせて貰うとするならば、駅を増やすのは良いけども、通勤時間がより長くなるのは御免被る。それに停車駅が増えただけ電車がより混むので願い下げである。だから停車駅を増やすのは、何も良いことばかりではなく、この駅を利用する乗客以外にとってはいい迷惑でもある。でも日本の人口が今後、あまり増えないということは、こうでもしないと将来、乗客増が見込めないということなのであろう。とはいうもののこの駅の西側にある阪急・洛西駅も何年か前に設けられた駅で、この付近の住民は大いに喜んだことだろう。

 ところで昔、このあたりは久世郡といわれ京都市ではなかった。久世郡は京都市の南部に隣接する一帯の地域で、宇治町、小倉村、大久保村、淀村、寺田村、富野荘村、その他からなり、昭和の時代になって、人口増から宇治町は宇治市、その後に小倉村や大久保村は宇治市に編入、寺田村や富野荘村は城陽市、淀村は京都市伏見区とかに編入され、現在において久世という地名が見られるのは、この付近だけとなってしまった。かつて『竹田の子守唄』に唄われた久世というのは、この周辺のことをいうのだろう。とにかく今でも京都の田舎といった雰囲気のある地域であるが、駅の新設により何れこの周辺も都市化が進んでしまうのだろう。新駅が出来ると駅前に商業施設が建ち、急速に街は発展する。それが時代の流れというものである。

 真新しい桂川駅の駅舎。
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 ホームが一つの島型の橋上駅で、普通電車しか停まらない。
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 ちょうど西明石行き207系の普通電車が到着したところである。
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