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2014.03.30 (Sun)

先週に万博公園に行ったが

 今日は朝からしっかりと雨が降っている。ときどき激しく降る時がある。とにかく春になると3日と好天の日がない。そろそろ桜の花も開花したもようである。一昨日あたりから一気に暖かくなり20℃突破で上着がいないぐらいだが、先週まではまだ寒いが続いていた。それで先週のお彼岸の日の話になるのだが、祝日ということで千里の万博公園に久々行って来た。肌寒くて時折晴れ間ものぞくが曇り空で寒かった。また小雨が降ったりしてお彼岸とは思えない寒さの日であったが、予想以上に子供連れで多くの人が訪れていたので驚いたのだが、どうやら万博鉄道まつり2014とかいう催しをやっていたので、鉄道ファンも含めてより多くの人が詰め掛けていたのだと納得。そして、かつてお祭り広場があったところを中心に色々なイベントが行われていた。それで先週のことながら今になって写真をアップすることにしたまでだが・・・・。


阪急電車を模ったミニ鉄道。子供が大勢乗っていたが泣いている子もいた。


こちらは新幹線の500系


新幹線のドクターイエロー


これは日頃から万博公園内で運行している乗り物。


これはミニSL。D51のミニチュアだが煙突だけが長い。


こちらは関西の各鉄道会社のグッズを売っているブース。たいへんな人盛り。


こちらは全国の鉄道会社のグッズを販売しているブース。


ステージでは吹田市消防音楽隊が演奏していた。定番の『A列車で行こう』はオープニングで演奏。


 その他、全国B級グルメの屋台が出ていたり、芸能人が来ていたりで賑わっていた。また万博公園内で唯一残っているパビリオンである鉄鋼館内では鉄道ジオラマがあって、これまた大盛況。まあ小生もたまたま来た時に催しと重なって、見学させてもらったが、ちょっと寒すぎたな。日向ぼっこするにもいかず雨がパラパラと降って来たので、すぐに2時間ほどで会場から立ち去ったのだが。でも万博鉄道まつり2014ということは毎年、この催しは開催しているのだな。
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2013.05.26 (Sun)

大阪の80年前の地下鉄車両が・・・

 大阪の地下鉄が開通して今年で80年だと言う。というと昭和8年(1933年)のことである。日本では昭和2年の東京で開通したのに続き2番目の地下鉄と言うことになる。そもそも地下鉄は大都市における地上の交通混雑緩和のため建設された場合が多く、従ってモータリゼーションが進んだ20世紀において盛んに建設されるようになった。殊に道路に自動車が氾濫した近年になって各都市で地下鉄が敷かれたのである。ところで世界で最初の地下鉄は1863年に開通したというからまだ日本では江戸時代。産業革命がおこったイギリスはロンドンで最初の地下鉄が開通した。既にイギリスでは鉄道が沿線を延びていくように建設されていた。でも建物が密集しているロンドンの中心部では地上に鉄道が建設できなかった。それでパディントン~ファリンドンの間の6㎞を地下化したのである。しかし当時は地下鉄と言っても蒸気機関車。苦労も多かったであろうと思われる。それ以来、世界各地で地下鉄が建設されるようになったというこである。

 さて、大阪で地下鉄が開通したのは1933年5月20日。ちょうで今年で80年になるという。大阪市営地下鉄の梅田~心斎橋間がその時に開通した。それは御堂筋拡張工事と共に行われ大規模な工事であったとされる。御堂筋を拡張しその地下に地下鉄を走らせるという当時の大阪市長関一の雄大な構想の下に計画され実現したのである。それで、それを記念してか当時に走っていた地下鉄の車両の中の1両が大阪市役所の前で展示されていたので見にいってきた。クリーム色と水色のツートンカラーの105号車両である。当時の車両といえばこげ茶、濃緑、黒と言うのが相場だったと思うが、この色で走っていたというから何とも斬新であったのか。

 大阪の地下鉄は路線や車両に関してはニューヨークの地下鉄を参考にしたといわれ、6年先に開通した東京の現銀座線の車両よりも一回り大きく造られ、今では当たり前であるが自動列車停止装置を始め当時の最新設備を備えていた。さらに付け加えるなら車内に設置されていた電照式の駅名表示装置。駅名一覧表の裏側にはモーター付きの電球が仕込んであり、次の停車駅が照らし出されるなど、現在使われている装置が既にあったという現実に驚かされる。それと大阪の地下鉄御堂筋線の梅田駅に来て何時も思うことだが、駅の天井がアーチ形になっていて柱がない。天井からシャンデリアのような照明がぶら下がっている。実はこの御堂筋線の梅田~心斎橋間は昭和8年からほとんど変わってないという。(梅田駅だけはホームが増設された)。何とも贅沢な造りだったんだなと納得せずにはいられない。その後は何処にもあるような低い天井の低コストの地下駅ばかり造ることとなるのだが、昭和8年に造った時、12両の車両が停まれるように建設されたというではないか。まだ開通当時は1両か2両で運行していた時代にである。まあ、昔の大阪の人は将来を見越して何と壮大な駅を建設したものだろうか。今じゃ考えられない。


 当時使用された100型車両10両のうちの1両。先に開通した東京の地下鉄1000型車両より一回り大きく、最大10両編成までも増結を考え、電車電圧も将来の1500Vを想定s、750Vとするなど雄大な構想のもとに製作された。
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 定員120人。座席48人。最大長17.7m、最大幅2.89m、最大高3.65m。自重40t。田中車輛KK昭和8年5月製造。
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 ところで、この車両、昭和45年の大阪万博開催直前まで、クリーム色とオレンジ色のカラーで現役として走っていたので乗ったことがある。なので懐かしかった。
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2011.05.07 (Sat)

リニア・鉄道館の続き

 昨日はリニア・鉄道館のシンボル展示の3両を紹介したが、この暗い展示場から中に入ると大きなスペースに蒸気機関車、電車、電気機関車、客車、ディーゼルカー等が所狭しと展示してあって、どの車両にも黒山の人盛り。懐かしいといってるおじいさんもいれば、おじいさんの説明を熱心に聞いている小さな男の子、やはり鉄道には男の夢、ロマンが詰まっている。それで小生もすべてではないが、展示してあった主な車両の写真を撮ったつもりであるが、人が多くてなかなかシャッターチャンスに恵まれないから往生した。親子連れは車両の前に立って必ずスナップ写真を撮るから、こちらとしたらその間は撮る事が出来ない。一般的に鉄道ファンは車両のみを撮りたいのであって、スナップ写真を撮ることはない。そこが鉄道マニアと一般入場者との違いであろう。だからといって子供に車両の写真を撮るからどいてくれとはいえないだろう。家族連れも楽しみに来ているのだし、記念に車両の前に立ってピースサインをして写真を撮るという定番スタイルがお決まりになっている。そこに鉄道マニアとのギャップがある。だからと言ったらなんだが、どうせ1年もすれば一般ファンは来なくなるだろうし、その時を狙って鉄道マニアは再度、写真を撮りにくるしかないのではと思う。でもまだまだ名古屋に出来た新名所は当分の間、多くの人が訪れるのではないかと思う。

 さて、それでは小生が撮った車両写真を掲載することにしよう。ただし客車の写真は撮っていないのであしからず。それでは、まずは0系新幹線から。いわゆる初代新幹線。ついこの前に引退したばかりである。昭和39年に東京~大阪間を4時間で走った超特急ひかりと特急こだまに使われた車両である。でも長い間、現役で走っていたが、開通当時は流線型で未来の乗り物だと思ったが、今となってはやっぱり古臭い。
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100系新幹線車両。0系の後継車両として1985年に東海道、山陽に登場。0系よりもスピードアップされ、ちょうど国鉄時代からJRに移行する頃に登場した。このとき2階建て車両も出現。
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 270㎞/h運転を実現した300系新幹線車両。1992年に東海道、山陽に登場したが最初はトラブルが多く不評だった。
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 922形車両。通称でドクター・イエロー。新幹線の安全運転を保つため走行しながら架線、信号、軌道の検査を行う。
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 モハ1形。1922年、鉄道省が製造した木製電車。京浜線、中央線で走り通勤用の標準となる。
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 クモハ12形。1927年に製造された鉄道省初の鋼鉄製電車で幾度か改造され長い間、走っていた。
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 モハ63形。1944年という戦時中に製造が始まった通勤用電車で、省線から国鉄時代にかけて大量に製造された。いわゆる下駄電のはじまりである。
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 モハ52形。鉄道省が京阪神を走る急行に使用することを目的に1936年から製造した。当時、世界的流行であった流線型を取り入れた。
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 ED11形電気機関車。鉄道省が電化区間が延びていく東海道線に走らせるため、1923年にアメリカのGE社に発注製造した電気機関車。
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 EF58形電気機関車。1946年に登場した機関車で、戦後の日本を高度経済成長とともに突っ走ってきた。C62形蒸気機関車のあと特急つばめを牽引した。我々の子供のころはこの電気機関車が主流であった。
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 キハ11形気動車。1955年に登場。トイレ付き両運転台車で寒冷地のローカル線で主に活躍した。
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 クモハ165系電車。153系の構造を受けつつ1963年に登場した直流急行用電車。我々にはお馴染の車両で過去にどれだけ乗ったことか。
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 クハ111系電車。1962年に東海道の通勤用に登場したいわゆる湘南電車。でも短命で、この改良型の113系が主力になる。滋賀県では未だに113系が走っている。
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 クハ381系電車。1973年に登場した振子式直流特急電車。中央線や紀勢線の特急として活躍。
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 キハ82形気動車。1961年にキハ81を改良して無電化区間の特急用として登場した気動車。一時は気動車特急の代名詞的存在であった。
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 ホジ6005形式蒸気気動車。1912年に登場した古い気動車。動力源が蒸気で、客室内に小さな蒸気機関を組み込んだもので、ディーゼルが登場するローカル線で主に走っていた。
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 ケ90形蒸気機関車。1918年製造の蒸気機関車。東濃鉄道に所属していた特殊狭軌用蒸気機関車。
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 117系電車。1979年に登場した直流近郊電車。そもそもは京阪神を走る私鉄に対抗するために製造された車両で、クロスシートとなっている。でも豪華さでは阪急、京阪に及ばなかった。その後、関東、東海で色を変えて走っていた。今でも湖西線で使われている。
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 以上、報告は終わるが、なんか物足りなかったような気がする。80系の展示もなかったし、101系なんていうのも展示すべきでは(まだ走ってはいるが)。ただし東海地方とあまり関係がないから意味もないか。何年後かに来たらさらに展示車両が増えているかもしれないが・・・・・。


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2011.05.06 (Fri)

リニア・鉄道館

 先日、名古屋に新しくオープンしたリニア・鉄道館に行って来た。リニア・鉄道館は名古屋駅からあおなみ線に乗って終点の金城ふ頭駅を降りたところにある。あおなみ線とは正式には名古屋臨海高速鉄道西名古屋港線といい、国鉄時代からある貨物専用の支線を全面高架、電化、複線化して電車を走らせるようにしたもので、2004年営業開始の比較的新しい鉄道である。全長15.2㎞で、途中に懐かしい公営の名古屋競馬場がある。20年ほど前になるがオグリキャップの妹オグリホワイト(このときはシンワコウジに負けての2着だった)が走るというので、この競馬場に来たことがある。あのときは地下鉄で東海通まで行きバスに乗り換えて競馬場まで行ったものだが、今は競馬場の西側に駅が出来て便利になったものだ。ただ公営競馬はどこも経営難で今後、廃止するかどうかの瀬戸際に追い込まれているところが多いので、名古屋競馬場の先行きは不透明である。

 さて、約25分ほどあおなみ線に揺られて終点の金城ふ頭に到着した。駅で降りてから5分ほどでリニア・鉄道館に着いた。でも着いたのはいいが長蛇の列。行った日は平日なのに、なんでこんなに人が並んでいるのか理解できない。それも小学生らしき子供がとても多い。まさか、この日の名古屋は学校がお休みではないだろうし、なんでこんなに子供が多いのかは不明。それに女性も多い。これだけ鉄子が世の中に増えているのだろうか。それともただ珍しいものが出来たので見に来ただけなのか判らないが、呆れかえるほど人が並んでいる。でも意外と早く、30分ほどで館内に入れたのである。

 1000円で入館券を買い館内へ。すると真っ暗。ここがシンボル展示場である。C62と300X、MLX01-1の車両が展示してある。いわばテーマ館見たいなところである。過去、現在、未来というところであろうか。

 まず、入ってすぐにC62型の蒸気機関車が置いてある。昭和23年に登場した最後の蒸気機関車で、日本の蒸気機関車としては最速を誇る。花形である東海道線の特急つばめを牽引していたことでも有名で、東京~大阪までを8時間で走破したという。昭和31年に東海道線が全線電化され電気機関車にその役目を譲るが、大きな三つの動輪を動かして疾走する様はさぞや迫力があったことだろうと想像できる。小生が物心がついて鉄道に乗る時は、もう東海道線も電気機関車の時代であったから蒸気機関車は馴染みがない。ただ幼少のころ(昭和30年代前半)両親の田舎であった九州に行くと蒸気機関車がまだ当たり前のように走っていたという記憶がある。
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 新幹線955形電車。JR東海が300系に続く次世代の新幹線関連の技術を実験するために1995年(平成7年)に製作した高速試験用電車である。通称は300X。
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 MLX01-1。この車両はリニア・モーターカーで、山梨の実験線で最高速度581km/hを記録したのはMLX01-2dearu.
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この3両だけがシンボル展示場に並んでいて、これより先は在来線及び新幹線車両の展示となっている。だたし続きはあす以降にする。
EDIT  |  11:54  |  鉄道  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2010.03.06 (Sat)

阪急電鉄開業100周年

 阪急電鉄が開業して3月10日でとうとう100年を迎える。開業から100年というから古い鉄道会社のように思えるが、大手の私鉄としては比較的新しいほうかもしれない。日本国内では知られているように1872年(明治5年)新橋~横浜の間に鉄道が開通したのが最初だが、関西に限ってもその2年後の1874年5月11日に大阪~神戸間に現在のJR東海道線が開通している。文明開化の最中、明治の世は鉄道の建設ラッシュだったのか日本各地で鉄道を敷設が盛んだったのである。だから主要都市間で官営、民営含めて鉄道が次から次へと開通していったのだが、関西で言うならば1877年2月6日、大阪から京都まで鉄道が延伸開業(現JR東海道線)。1892年(明治25年)2月2日、湊町(現JR難波)~奈良間が開通。1903年(明治36年)3月21日、難波~和歌山市間開通(南海本線)。1905年(明治38年)4月12日、出入橋(現・阪神梅田)~神戸筒井間開通(現阪神電鉄)。このようにして関西の主要都市、大阪、神戸、京都、奈良、和歌山を結ぶ鉄道は次から次へと全て敷設されてしまい、大阪~神戸間に2路線、大阪~京都間に2路線、大阪~奈良間に2路線、大阪~和歌山間に2路線と明治時代末期までに鉄道の路線が開通していた。だから、これ以降はあまり鉄道を建設しても意味がないように思われていた。鉄道は人が乗ってくれてこそ採算が取れるのに、街のないところに建設しても乗ってくれる人がいないと儲からないからである。これ以降、鉄道を開通させるにも関西の主要都市間は全て複数の鉄道が開通していたのである。

 つまり今から100年前、阪急は開通したのである。でも敷設させた場所は梅田~宝塚というから当時の人は乗る人などいるのかと思ったのではないだろうか・・・・・。今でこそ阪急宝塚線沿線は高級住宅街路線として人気があって、電車から見られる車窓は民家やマンションでぎっしり所狭しと埋まっている。でも阪急創業の頃の箕面有馬電気軌道が開業した1910年(明治43年)という時代を考えてもらいたい。現在の宝塚市は当時、武庫郡良元村、川辺郡小浜村、長尾村、西谷村という地名で、温泉はあったものの寂しい山里の村ばかりである。隣の川西市も川辺郡川西町と多田村、東谷村に分かれていた。池田市も豊能郡池田町、北豊島村、細河村、秦野村、北豊島村だったし、現在、大阪の巨大なベッドタウンである豊中市も豊能郡豊中村、中豊島村、南豊島村、小曽根村、庄内町という名であった。つまり阪急が創業した頃の沿線というのは市が一つもなく、町や村ばかりの寂しいところを電車が走っていたのである。

 この箕面有馬電気軌道を開業した人が小林一三という人である。この人は関西出身ではなく山梨県出身で、慶應義塾で学び三井銀行で務めた後、先輩の岩下清周に誘われ大阪にやって来た。目的は証券会社設立のためだったが、その話は頓挫してしまう。やがて小林一三は新しい鉄道会社を建設する話を聞きつけ、鉄道会社は将来的に有望と思い、自分が経営に参画するようになる。しかし、敷設されると聞いた地域がのどかな農村だと聞いて驚いたが、目算があったのである。新しい鉄道会社は箕面有馬電気軌道。大阪の梅田から有馬温泉までと箕面までの2路線を敷設するというものであった。だが沿線に大きな街はなく、人が乗ってくれるのかといった不安があったことはいうまでもない。

 そこで小林一三は、まず路線通過予定の沿線の土地を買収し、大規模な宅地造成を試みて沿線の付加価値を高め、大阪市内に住む富裕層に住宅ローンで分譲したのである。手狭な大阪市内の家に住むよりも大きな庭付きの一戸建ての良い所を謳い富裕層を呼び込んだ。こうして沿線に住宅を増やし電車で通勤してもらうという手法をとった。さらに小林一三は終点の宝塚に宝塚新温泉(後の宝塚ファミリーランド)、そのアトラクションとして女性ばかりによる歌劇団である宝塚歌劇団を創設した。また一方の終点である箕面には動物園も造った。こうして沿線を高級住宅街にしてしまった小林一三の計画は成功。箕面有馬電気軌道は、同じやり方で神戸線も開通。ここから社名が阪神急行電気鉄道に変わり、通称で阪急と言われるようになったのである。さらに起点の大阪・梅田駅にはターミナル百貨店を営業。過去、鉄道会社が百貨店を開いたことなど例がなく、成功するのか疑問視されていたというが、その後、真似をした鉄道会社が各地に出来たことを考えれば大成功といえるだろう。さらに小林一三は東京に宝塚劇場を建設、また東京宝塚映画(後の東宝)を設立。文化事業にも手を染め、ホテル事業も含め事業を拡大。プロ野球球団・阪急ブレーブスを設立等、阪急グループとして大きな企業群を形成するに至ったのである。

 この小林一三の方式を模したのが、東急の五島慶太、西武の堤康次郎だといわれる。このように奇抜な方式で、今日の阪急電車の地位を築いたのが小林一三である。今では関西で高級イメージのある阪急電鉄。確固たる地位を保っている。でもちょうど100年前は、新参者の鉄道会社であり、田舎路線で赤字覚悟のスタートだったようである。それが現在、沿線は高級住宅地として、関西セレブの憧れの街が並んでいる。

 大阪の繁華街・梅田から出発して中津を過ぎて淀川を渡る。そして十三。ここで京都線と神戸線と分かれて宝塚線は真っ直ぐ北へ向かう。新幹線と交差して三国を通過、間もなく神崎川にかかり、ここから豊中市へと入る。そして庄内、服部、曽根、岡町、豊中、蛍池、石橋と停まる。もう石橋は池田市に入っている。ここから箕面行きの電車が出発する。次の駅は池田、さらに猪名川を渡ると兵庫県に入る。兵庫県に入っての最初の駅は川西能勢口である。ここは能勢電鉄の始発駅でもある。川西能勢口を出ると雲雀丘花屋敷という面白い名前の駅に到着する。ここはもともと雲雀丘駅と花屋敷駅に分かれていた。それが大型車両導入と、駅のホームを延ばすことにより、両駅間があまりにも近くなりすぎたため、両駅の間に雲雀丘花屋敷駅を設けたのである。それが1961年のことで、開業当初は単両で走っていた電車が今では10両連結となり、このような結果になったのである。雲雀丘花屋敷を出るといよいよ宝塚市内に入る。ここからはJRと併走する形で電車は走る。山本、中山、売布神社(めふじんじゃ)という変わった読み方の駅を抜けて、清荒神を過ぎると終点・宝塚に到着する。

 阪急宝塚線、駅にして19駅、距離にして24.6㎞でしかない路線である。でもこれが100年前に開通した阪急電鉄の最初の路線である。沿線風景も様変わりしてしまい、100年前の光景は何処にも見られない。でも街は鉄道が造るということを、この箕面有馬電気軌道という例が示している。今の宝塚及びこの沿線の街々は阪急抜きにしては考えられない。それだけに阪急をステータスとして沿線の人は誇りに思っているのだ。これは他の私鉄沿線ではあまり考えられないことである。良くも悪くも阪急電鉄あっての宝塚沿線ということがいえるだろう。


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2010.03.01 (Mon)

阪急6300系

 疾走する6300系河原町行き特急
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 6300系の車内。全面クロスシートで、扉付近には折りたたみ用の補助椅子がついていた。
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 阪急電鉄京都線の名物車両だった6300系がとうとう昨日をもって京都線から引退した。1975年のデビューから34年間も走り続けた名物電車である。私はこの車両に随分とお世話になった。私が若い頃に2800系の後継車両として6300系はデビューした。全面、2人がけの転換式クロスシートで贅沢な車両だった。私は若い頃、京都の市内から大阪の繁華街へ行く時には、汚い国鉄の電車に乗るのを避けて、この綺麗な阪急京都線の6300系車両に乗るのが常だった。とにかく阪急特有の落ち着いたマルーンにアイボリーが入った車両で、車内は例の木目調に緑色のシート、白いカバー、これで特別料金などいらず、普通乗車券だけで乗れたのだからボロい国鉄車両には乗る気が起こらなかったものだ。それでいて停車駅は河原町を出ると烏丸、大宮と停まり、そこから大阪の十三(じゅうそう)まで停まらなかったので、終点の梅田まで39分で行けたのである。考えてみれば随分と贅沢な車両であった。東京の私鉄で同様の車両に乗ろうとすると、ほとんどは特別料金を徴収されるから、阪急の6300系は評判が高かった。だから1976年に鉄道友の会ブルーリボン賞を6300系は受賞している。

 その後、私は就職し働くようになったが、大阪市内の会社へ行くのにも必ず6300系で通勤したものだ。ただし通勤時は途中で高槻市駅に停車するので車内は超満員となる。この時だけは通勤に向かない車両であることは感じていた。やがて時代が進み、国鉄がJRに名前を変え、JRも新型車両を導入するようになった。そして130㎞/h運転というスピードアップを図る。すると阪急は次第とJRに客を奪われるようになる。こうなると阪急はこれまで十三、大宮の間を停めなかったのに、高槻市を常時停めるようにした。でも客足は減らず、やがて阪急は特急の停車駅を増やしだした。特急の停車駅がかつての急行並みになってきた。すると2枚扉で乗客の出入りに時間のかかる6300系は時代のニーズにだんだんと合わなくなっていく。それでも阪急は朝の通勤特急として使っていた。通勤特急は高槻市を出ると十三まで停まらないからである。だが、入り口の補助椅子に人が座ってしまい評判が悪かった。

 6300系には入り口に折り畳みようの補助椅子が設置されてある。これは京阪電鉄の特急やJRの新快速にもあるが、ラッシュ時は電気仕掛けで触れないようになっていた。ところが阪急は乗客の判断にまかせ、座ろうと思えば何時でも補助椅子を利用できたのである。これが満員時には不評で、どれだけ込んでいようが平気で補助椅子を倒して座ろうとする者が後を絶たないので余計に車内が混雑するようになってしまったのである。思い出せば私が通勤で6300系に乗り出した20代の頃は、乗客のマナーも良くて満員時には補助椅子に座ろうとする者はいなかった。それが30年経ち乗客のマナーが低下。最近は混雑時でも座らないと損とばかりに補助椅子を倒して居眠りする輩だらけになってしまったのである。そうこうするうちに私は大阪市内から滋賀県の方へ職場が移動、阪急の6300系から縁遠くなって阪急に乗ることも無くなっていた。

 6300系も長い間、走り続けて車両も古臭くなってきたのか2003年10月に、阪急は9300系という新型車両をデビューさせた。これでいずれ6300系は主力車両から引退するであろうということは判っていた。現在、阪急は新駅を増やし、さらに乗客を拾おうという方法に変更したようだ。こうなると2枚扉のクロスシートという贅沢な6300系は、時代遅れのお荷物車両として煙たく思われるようになっていたのも確かである。乗り降りに不便なので通勤時には向いていない。でも社の方針は停車駅を増やすというものだから、贅沢なクロスシート車両は厄介者でしかなく、とうとう引退の運びとなってしまった。残念だが仕方が無いだろう。でも私が長い間、お世話になった6300系は贅沢な車両として、阪急の一時代を築いたことはみんなの記憶に留まるだろう。阪急京都線のシンボルとして・・・・・。阪急を代表した車両として長い間、輝いていた。

 ・・・・・ただし6300系は車内を改装(4両)してローカルの嵐山線で当分は走るらしい。6300系が完全に廃車になるのではないからご安心を・・・・・。


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