2008.09.20 (Sat)
朝日放送旧社屋の解体が始まった
大阪の大淀にある朝日放送の旧社屋の解体が始まった。今年の6月22日で放送業務が終了し、その後、福島区堂島川沿いの新社屋に移転したことにより、旧社屋が解体されることになった。
朝日放送とっいっても全国的には馴染みが無い放送局かもしれないが、同系列のテレビ朝日とは別会社である。でも朝日放送という名前はテレビ朝日誕生以前からの名前で、今では全国各地にある○○朝日放送とは違って、唯一、地名のつかない朝日放送である。別名ではABCともABC朝日放送ともいう。
ところで何故に放送局が解体されるからといって記事にしたかというと、この放送局は我々にとっては実に馴染み深い放送局だったからである。
そもそも朝日放送は1951年11月11日、大阪中之島の朝日会館(朝日新聞大阪本社の中にあった)内に設けられたラジオ局である。それが1959年6月1日、大阪テレビ放送と合併し、テレビ、ラジオ両方を放送するようになる。そして、この頃に『いとはんと丁稚どん』、ミヤコ蝶々、南都雄二の『夫婦善哉』、『てなもんや三度笠』等の放送で人気を博し、1966年6月1日に現在取り壊し中の旧大淀社屋に移転したのである。
だから私は、朝日放送というと、この大淀時代の社屋しかしらないが、まあよく行ったものである。スタジオ見学にも行ったが、この社屋の中にABCホールがあり、ここでの試写会に何度か行った覚えがある。またこのホールでは当時の人気番組、『スチャラカ社員』『てなもんや三度笠』『新婚さんいらっしゃい』『プロポーズ大作戦』『探偵ナイト・スクープ』等の生放送、収録がなされた。だから私にとっても、関西の人にとっても馴染み深い放送局であったということになる。
そういった訳で、大淀の朝日放送付近を探索してみた。
旧社屋は人っ子一人居ない。すでに塀が設けられ中には立ち入れない。いよいよ取り壊しが始まるようだ。

朝日放送旧社屋の全体。

社屋の向こう側にある鉄塔は大阪タワーと言って、朝日放送専用の電波塔である。1966年に朝日放送が、この地に移転してきた時、同時に建てられた。高さは160m。かつては一般の人も展望台に上がれたが、1997年に立ち入り禁止となった。大阪の塔というと通天閣が歴史といい知名度といい優るが、高さではこちらの方が優っている。でも、この鉄塔も社屋同様に取り壊される。

一方、こちらの建物は旧ホテル・プラザ。1969年に建てられ、翌年の大阪万国博では外国人客が多数宿泊した高級ホテルであった。運営は朝日放送の関連会社であるが、1990年代に入り、付近に
阪急インターナショナル・ホテル、ウェスティン・ホテル、ザ・リッツ・カールトン・ホテルと次々にオープンし、ホテル・プラザは老朽化と共に客足が途絶え、1999年3月末で閉鎖された。その結果、このホテルも同様に壊されることになった。

この建物はザ・シンフォニー・ホールであり、1982年秋にオープンした、日本初のクラシック・コンサート専用ホールである。そもそも朝日放送創立30周年記念事業の一環として建築され、運営も朝日放送が行なっている。
キャパシティは1704人と手頃で、日本初のアリーナ形式のホール。ステージの後ろにはパイプ・オルガンが設置してあり、ステージを囲むように客席が並んでいる。このホールの誕生後、全国にコンサート専用ホールが建設されるようになるなど、この手のホール建築ラッシュの先駆けとなった。残響2秒に拘っていたのか、響きは豊であるが、マーラーのような大編成の交響曲を演奏するとやや騒々しくなる。でも音質が豊潤で柔らかく演奏者にも評判がよいホールである。だから当然のように、朝日放送が移転しても、このホールだけは残されることが決まっている。

ザ・シンフォニー・ホールの南側にある公園から写す。ザ・シンフォニー・ホールの背景には取り壊されるホテル・プラザと大阪タワーが望めるが、この眺めも見納めか・・・・・・・・・。

テレビ局が壊されて、その跡地には何が建てられるのか私は知らない。いずれ時代の流れに沿って、風景は変るだろうが、テレビ黄金時代を知る人には忘れられない場所となるかもしれない。今の光景を記憶に留めて、私は現場をあとにした。
『てなもんや三度笠』の映像。
朝日放送とっいっても全国的には馴染みが無い放送局かもしれないが、同系列のテレビ朝日とは別会社である。でも朝日放送という名前はテレビ朝日誕生以前からの名前で、今では全国各地にある○○朝日放送とは違って、唯一、地名のつかない朝日放送である。別名ではABCともABC朝日放送ともいう。
ところで何故に放送局が解体されるからといって記事にしたかというと、この放送局は我々にとっては実に馴染み深い放送局だったからである。
そもそも朝日放送は1951年11月11日、大阪中之島の朝日会館(朝日新聞大阪本社の中にあった)内に設けられたラジオ局である。それが1959年6月1日、大阪テレビ放送と合併し、テレビ、ラジオ両方を放送するようになる。そして、この頃に『いとはんと丁稚どん』、ミヤコ蝶々、南都雄二の『夫婦善哉』、『てなもんや三度笠』等の放送で人気を博し、1966年6月1日に現在取り壊し中の旧大淀社屋に移転したのである。
だから私は、朝日放送というと、この大淀時代の社屋しかしらないが、まあよく行ったものである。スタジオ見学にも行ったが、この社屋の中にABCホールがあり、ここでの試写会に何度か行った覚えがある。またこのホールでは当時の人気番組、『スチャラカ社員』『てなもんや三度笠』『新婚さんいらっしゃい』『プロポーズ大作戦』『探偵ナイト・スクープ』等の生放送、収録がなされた。だから私にとっても、関西の人にとっても馴染み深い放送局であったということになる。
そういった訳で、大淀の朝日放送付近を探索してみた。
旧社屋は人っ子一人居ない。すでに塀が設けられ中には立ち入れない。いよいよ取り壊しが始まるようだ。

朝日放送旧社屋の全体。

社屋の向こう側にある鉄塔は大阪タワーと言って、朝日放送専用の電波塔である。1966年に朝日放送が、この地に移転してきた時、同時に建てられた。高さは160m。かつては一般の人も展望台に上がれたが、1997年に立ち入り禁止となった。大阪の塔というと通天閣が歴史といい知名度といい優るが、高さではこちらの方が優っている。でも、この鉄塔も社屋同様に取り壊される。

一方、こちらの建物は旧ホテル・プラザ。1969年に建てられ、翌年の大阪万国博では外国人客が多数宿泊した高級ホテルであった。運営は朝日放送の関連会社であるが、1990年代に入り、付近に
阪急インターナショナル・ホテル、ウェスティン・ホテル、ザ・リッツ・カールトン・ホテルと次々にオープンし、ホテル・プラザは老朽化と共に客足が途絶え、1999年3月末で閉鎖された。その結果、このホテルも同様に壊されることになった。

この建物はザ・シンフォニー・ホールであり、1982年秋にオープンした、日本初のクラシック・コンサート専用ホールである。そもそも朝日放送創立30周年記念事業の一環として建築され、運営も朝日放送が行なっている。
キャパシティは1704人と手頃で、日本初のアリーナ形式のホール。ステージの後ろにはパイプ・オルガンが設置してあり、ステージを囲むように客席が並んでいる。このホールの誕生後、全国にコンサート専用ホールが建設されるようになるなど、この手のホール建築ラッシュの先駆けとなった。残響2秒に拘っていたのか、響きは豊であるが、マーラーのような大編成の交響曲を演奏するとやや騒々しくなる。でも音質が豊潤で柔らかく演奏者にも評判がよいホールである。だから当然のように、朝日放送が移転しても、このホールだけは残されることが決まっている。

ザ・シンフォニー・ホールの南側にある公園から写す。ザ・シンフォニー・ホールの背景には取り壊されるホテル・プラザと大阪タワーが望めるが、この眺めも見納めか・・・・・・・・・。

テレビ局が壊されて、その跡地には何が建てられるのか私は知らない。いずれ時代の流れに沿って、風景は変るだろうが、テレビ黄金時代を知る人には忘れられない場所となるかもしれない。今の光景を記憶に留めて、私は現場をあとにした。
『てなもんや三度笠』の映像。
2008.08.14 (Thu)
大阪のミスト散布
大阪市役所前のミスト散布

先日、大阪の都心部に出かけたが、ミスト(霧)散布なるものを行なっていた。これはヒートアイランド対策のモデル事業として、昨年から全国の街角で行なわれているものだが、水道水に通常の10倍以上の圧力を加えてノズルから数10マイクロメートルの水粒を噴射させ、水が気化する際に周囲の熱を奪う性質を利用して気温を下げるというもので、ノズルから半径4~6m程度の範囲で平均2~3℃冷却効果があるという。粒子は細かく通行人が触れても濡れないというのが特徴で、今年は大阪市内に12ヶ所設置され、気温が30℃以上、湿度が70%以上になると自動的にミストが出る仕組みになっているとのことらしい。
夏になると日本の都市は、このようなミスト散布を実施しているようだが、大阪は特に積極的なようだ。それというのも大阪の異様な暑さが原因しているのだろうが・・・・・。これはどうも大阪の地形と関係があるようで、西側は海に面しているからいいとしても、北側、東側、南側と三方向の後背を山が
囲んでいるから、熱が逃げないようだ。だから夏に関しては空気が動かなく、そこへヒートアイランド現象で、都市部の温度がより上昇するという矛盾がある。
よく大阪は沖縄より暑いというが、真夏の最高気温で言うならば沖縄は35℃以上になることはあまり無い。それは海に囲まれているからという島独特の立地条件によるもので、毎日、35℃以上が当たり前の大阪の方が夏に関しては暑いということになるのだろう。たとえば1971年~2000年における平均値によると、年間の真夏日(30℃以上)の平均日数の多さは、統計的に那覇(85.3日)、鹿児島(71.3日)、熊本(71.2日)、大阪(67.9日)の順になっている。上位は九州の都市で、そんな中に大阪が4番目に入っているというのも如何に暑いかという証明にでもなるところだろうが、那覇に関しては猛暑日を記録した日数となると、鹿児島、熊本、大阪よりも少なくて、意外と夏は涼しいということになる。それでその日の最高気温が猛暑日(35℃以上)を記録した日の多さでいうならば、熊本、大阪、京都、熊谷、岐阜の順になるそうだ。そして、8月に限っての最高気温の平均値となると、鹿児島と大阪が33℃と全国第1位で、3位が京都(32.9℃)というから数値の上でも大阪は日本でも有数の暑い都市ということがいえそうである。
よく全国の最高気温を記録したということで、昔の山形の40℃とか、埼玉県の熊谷や岐阜県の内陸部などが、よく話題に上がるが、これらの街はフェーン現象が起きて、一時的に異常なほど気温が上がるという。でも1ヶ月、2ヶ月というスパンで考えると、やはり大阪の方が暑いということになるのだろう。
だから灼熱都市の大阪でミスト散布をあちらこちらで実施しているというのも判らないでもないが、確かに近くを通ると幾分、涼しい。でもこの散布しているところから離れると、またまた猛烈な暑さが襲ってくるではないか・・・・・・。所詮は焼け石に水である。やはり地球温暖化の余波は大きく、いよいよ西日本は確実に亜熱帯地域に入ったといっても過言ではないだろう・・・・。

先日、大阪の都心部に出かけたが、ミスト(霧)散布なるものを行なっていた。これはヒートアイランド対策のモデル事業として、昨年から全国の街角で行なわれているものだが、水道水に通常の10倍以上の圧力を加えてノズルから数10マイクロメートルの水粒を噴射させ、水が気化する際に周囲の熱を奪う性質を利用して気温を下げるというもので、ノズルから半径4~6m程度の範囲で平均2~3℃冷却効果があるという。粒子は細かく通行人が触れても濡れないというのが特徴で、今年は大阪市内に12ヶ所設置され、気温が30℃以上、湿度が70%以上になると自動的にミストが出る仕組みになっているとのことらしい。
夏になると日本の都市は、このようなミスト散布を実施しているようだが、大阪は特に積極的なようだ。それというのも大阪の異様な暑さが原因しているのだろうが・・・・・。これはどうも大阪の地形と関係があるようで、西側は海に面しているからいいとしても、北側、東側、南側と三方向の後背を山が
囲んでいるから、熱が逃げないようだ。だから夏に関しては空気が動かなく、そこへヒートアイランド現象で、都市部の温度がより上昇するという矛盾がある。
よく大阪は沖縄より暑いというが、真夏の最高気温で言うならば沖縄は35℃以上になることはあまり無い。それは海に囲まれているからという島独特の立地条件によるもので、毎日、35℃以上が当たり前の大阪の方が夏に関しては暑いということになるのだろう。たとえば1971年~2000年における平均値によると、年間の真夏日(30℃以上)の平均日数の多さは、統計的に那覇(85.3日)、鹿児島(71.3日)、熊本(71.2日)、大阪(67.9日)の順になっている。上位は九州の都市で、そんな中に大阪が4番目に入っているというのも如何に暑いかという証明にでもなるところだろうが、那覇に関しては猛暑日を記録した日数となると、鹿児島、熊本、大阪よりも少なくて、意外と夏は涼しいということになる。それでその日の最高気温が猛暑日(35℃以上)を記録した日の多さでいうならば、熊本、大阪、京都、熊谷、岐阜の順になるそうだ。そして、8月に限っての最高気温の平均値となると、鹿児島と大阪が33℃と全国第1位で、3位が京都(32.9℃)というから数値の上でも大阪は日本でも有数の暑い都市ということがいえそうである。
よく全国の最高気温を記録したということで、昔の山形の40℃とか、埼玉県の熊谷や岐阜県の内陸部などが、よく話題に上がるが、これらの街はフェーン現象が起きて、一時的に異常なほど気温が上がるという。でも1ヶ月、2ヶ月というスパンで考えると、やはり大阪の方が暑いということになるのだろう。
だから灼熱都市の大阪でミスト散布をあちらこちらで実施しているというのも判らないでもないが、確かに近くを通ると幾分、涼しい。でもこの散布しているところから離れると、またまた猛烈な暑さが襲ってくるではないか・・・・・・。所詮は焼け石に水である。やはり地球温暖化の余波は大きく、いよいよ西日本は確実に亜熱帯地域に入ったといっても過言ではないだろう・・・・。
2008.07.19 (Sat)
夏本番
梅雨も明けて夏本番。学校も夏休みに入ったようだ。でも私にとっては一年で最も憂鬱な季節であり、それこそカンカン照りの中をうろつくだけで、頭から額から背中から腰にかけて前身ビッショリ汗まみれになる。だから気持ちが悪いは、喉は渇くは、眼に汗が入った時には、いかんともしがたい。
そんなおり今日、久々に大阪の方に出かけた。そして、梅田の地下街を歩いていたら、何処からか賑やかな笛、太鼓の音が聞こえてくるではないか・・・・・。やがてその音色はだんだんと大きくなって、その一団がやって来た。どうやら夏祭りのようだ。聞く所によると露天神社の夏祭りだという。
露天神社というのは大阪の曽根崎にある神社で、創建は西暦700年頃と古く、祭神は小彦名と菅原道真である。菅原道真が大宰府に左遷される途中、ここで京の都を偲び涙を流したからだとか、梅雨の頃に神礼の前から井戸水が沸き出たからだとかといった理由で、このような社名がついたといわれている。また、1703年には、堂島新地・天満屋の女郎はつと、船場・内本町醤油商平野屋の手代・徳兵衛が、この露天神の森で心中したからお初天神ともいわれ、後年に近松門左衛門が人形浄瑠璃『曽根崎心中』を書いたことで有名である。
さて、その露天神社、通称・お初天神の夏祭りだそうだが、地元の梅田地下街を地車囃子と獅子舞の奉納ため練り歩いている。そういえば大阪最大の祭りである天神祭もまもなくであるが、その前にお初天神の夏祭り・・・・・・。しかし、祭りの囃子を奏でる衆はみんな若い。男の子、女の子という感じだ。それに京都の祇園祭と違って囃子そのものは、豪放で猛々しい。雅やかな京都の祭りとは違っている。流石に商都の祭りだけある。でもあの若さは羨ましいかぎりだ・・・・・・・・・。
梵天・獅子舞を先頭に笠踊りに地車囃子を奏でる稚児が大勢続いている。

みんなとにかく若い。この若さが羨ましい・・・・・。

一方、24日の宵宮、25日の本宮で本番を迎える天神祭のダンジリ囃子の演奏も行なわれていた。

そんなおり今日、久々に大阪の方に出かけた。そして、梅田の地下街を歩いていたら、何処からか賑やかな笛、太鼓の音が聞こえてくるではないか・・・・・。やがてその音色はだんだんと大きくなって、その一団がやって来た。どうやら夏祭りのようだ。聞く所によると露天神社の夏祭りだという。
露天神社というのは大阪の曽根崎にある神社で、創建は西暦700年頃と古く、祭神は小彦名と菅原道真である。菅原道真が大宰府に左遷される途中、ここで京の都を偲び涙を流したからだとか、梅雨の頃に神礼の前から井戸水が沸き出たからだとかといった理由で、このような社名がついたといわれている。また、1703年には、堂島新地・天満屋の女郎はつと、船場・内本町醤油商平野屋の手代・徳兵衛が、この露天神の森で心中したからお初天神ともいわれ、後年に近松門左衛門が人形浄瑠璃『曽根崎心中』を書いたことで有名である。
さて、その露天神社、通称・お初天神の夏祭りだそうだが、地元の梅田地下街を地車囃子と獅子舞の奉納ため練り歩いている。そういえば大阪最大の祭りである天神祭もまもなくであるが、その前にお初天神の夏祭り・・・・・・。しかし、祭りの囃子を奏でる衆はみんな若い。男の子、女の子という感じだ。それに京都の祇園祭と違って囃子そのものは、豪放で猛々しい。雅やかな京都の祭りとは違っている。流石に商都の祭りだけある。でもあの若さは羨ましいかぎりだ・・・・・・・・・。
梵天・獅子舞を先頭に笠踊りに地車囃子を奏でる稚児が大勢続いている。

みんなとにかく若い。この若さが羨ましい・・・・・。

一方、24日の宵宮、25日の本宮で本番を迎える天神祭のダンジリ囃子の演奏も行なわれていた。

2008.07.12 (Sat)
祇園祭の山鉾建てが始まった
京都の夏の風物詩、祇園祭の山鉾建てが始まった。
伝統の京都三大祭の一つ、祇園祭の山鉾建てが10日から始まり、いよいよクライマックスの山鉾巡行(17日)に備えて、四条烏丸付近の各鉾町で鉾や山が徐々に姿を現しだした。
まだ鉾も山も骨組みだけの状態で、動く美術館といわれる鉾の姿にはほど遠いが、組み立てている途中を覗くのも面白いものである。
祇園祭の山鉾巡行には32基の山鉾が巡行するが、例によって先頭を行くのは長刀鉾で、唯一、生きたお稚児さんが乗っている鉾である。でも長刀鉾といっても、この姿だと見慣れている者も長刀鉾なのかどうか判らない。(四条烏丸東入ル)

長刀鉾を正面から見る。

長刀鉾と後ろのビルと比較すると大きさが判る。

ここは西陣織の胴懸が垂らされて覆い隠される部分だが・・・・・。

ここに町衆が乗り込んで、祇園囃子を奏でるが、35人から40人は乗り込むという。でも全員が男性に限られている。

まだ車輪がはめ込まれてなくて車軸ごと台座に乗せられている。

32基中、最大の鉾がこの函谷鉾(かんこぼこ)である。地上から鉾頭まで約25m、屋根まで約8m、車輪直径が約1.9m、重量が約12トン。ここはかなり組み立てが進んでいる。
※長刀鉾の重量を12日の午後、史上初めて計量してみたところ7トンの重さがあることが判りました。

四条室町から上がったところには菊水鉾が・・・・・。まだ骨組みだけで・・・・・。

四条室町から西へ入ると月鉾が・・・・・。ここもまだまだ・・・・。

山鉾を建てるのには釘を使わないで、全て縄で縛る。縄でぐるぐる巻きにされている。でも特別な巻き方があるようだ。

綾小路新町を下がったところには船の形をしている船鉾が建てられているが、まだ始まったばかりであった。

明日か明後日までには建てられて、宵宵山、宵山、山鉾巡行でクライマックスを迎え、また山鉾は解体される。なにしろ平安時代に京都で疫病が流行った時に、それを鎮めるために869年に始まったとされる八坂神社のお祭りである。とにかく歴史が長く、こんなことを京都の人は、1100年以上も続けてきたのである。
尚、山鉾巡行のスタートは17日の午前9時である。そういえば私が山鉾巡行を現場で見たのは、大学生の頃だから、30年も昔のことになってしまった。暑い時だから行く気も起こらないが・・・・・・・。
伝統の京都三大祭の一つ、祇園祭の山鉾建てが10日から始まり、いよいよクライマックスの山鉾巡行(17日)に備えて、四条烏丸付近の各鉾町で鉾や山が徐々に姿を現しだした。
まだ鉾も山も骨組みだけの状態で、動く美術館といわれる鉾の姿にはほど遠いが、組み立てている途中を覗くのも面白いものである。
祇園祭の山鉾巡行には32基の山鉾が巡行するが、例によって先頭を行くのは長刀鉾で、唯一、生きたお稚児さんが乗っている鉾である。でも長刀鉾といっても、この姿だと見慣れている者も長刀鉾なのかどうか判らない。(四条烏丸東入ル)

長刀鉾を正面から見る。

長刀鉾と後ろのビルと比較すると大きさが判る。

ここは西陣織の胴懸が垂らされて覆い隠される部分だが・・・・・。

ここに町衆が乗り込んで、祇園囃子を奏でるが、35人から40人は乗り込むという。でも全員が男性に限られている。

まだ車輪がはめ込まれてなくて車軸ごと台座に乗せられている。

32基中、最大の鉾がこの函谷鉾(かんこぼこ)である。地上から鉾頭まで約25m、屋根まで約8m、車輪直径が約1.9m、重量が約12トン。ここはかなり組み立てが進んでいる。
※長刀鉾の重量を12日の午後、史上初めて計量してみたところ7トンの重さがあることが判りました。

四条室町から上がったところには菊水鉾が・・・・・。まだ骨組みだけで・・・・・。

四条室町から西へ入ると月鉾が・・・・・。ここもまだまだ・・・・。

山鉾を建てるのには釘を使わないで、全て縄で縛る。縄でぐるぐる巻きにされている。でも特別な巻き方があるようだ。

綾小路新町を下がったところには船の形をしている船鉾が建てられているが、まだ始まったばかりであった。

明日か明後日までには建てられて、宵宵山、宵山、山鉾巡行でクライマックスを迎え、また山鉾は解体される。なにしろ平安時代に京都で疫病が流行った時に、それを鎮めるために869年に始まったとされる八坂神社のお祭りである。とにかく歴史が長く、こんなことを京都の人は、1100年以上も続けてきたのである。
尚、山鉾巡行のスタートは17日の午前9時である。そういえば私が山鉾巡行を現場で見たのは、大学生の頃だから、30年も昔のことになってしまった。暑い時だから行く気も起こらないが・・・・・・・。
2008.06.29 (Sun)
紫式部という人は・・・・・
今年、2008年は『源氏物語』千年紀だそうな・・・・・・・・・。でもそんな古い話なのに本当かなという疑問が成り立つが、確認されている記録の上ではちょうど物語が完成して1000年ということになるのだそうだ。
『源氏物語』というと、平安の才女・紫式部が書いた54帖(桐壺、空蝉、夕顔など)からなる大長編小説であり、これだけ古い時代に、このような大巨編小説が存在したというのは、世界でも類を見ないという。
この話は、帝の御子であるのに源氏という臣下という低い身分に落とされたうえ皇位継承権をも失った皇子(光源氏、紫の上)の王権復活の物語で、平安時代の王朝貴族の絢爛たる華やかな世界を背景に描いている物語である。
ところで『源氏物語』を書いた紫式部という女性は一体どんな人だったのだろうか・・・・・。これはあまりにも古すぎて謎だらけである。本名も不明なら生年も没年も判っていない。だからありとあらゆる文献、資料から凡そ推測すると979年頃の生まれで1016年頃に亡くなったのではないかといわれている。すると『源氏物語』を完成させたのが30歳前後ということになる。(生年については970年説、978年説があり、没年にしても1014年説、1017年説がある)
越後守藤原為時の娘で母は摂津守藤原為信女と記述がある。幼少期に母を亡くし、兄弟もいたというが明確ではない。幼少の頃から天才肌の女性で、漢文を読みこなし『源氏物語』以外にも『紫日記』『紫式部集』が彼女の作であると伝えられていて、998年頃、山城守藤原宣孝と結婚。賢子(かたこ)を儲けたがまもなく藤原宣孝と死別。その後、一条天皇の皇后・中宮彰子に女房兼家庭教師(この女房とは王朝・貴族に仕える人のこと)として仕えた。つまり、この頃に『源氏物語』を書いていたものと思われる。でも時代が1000年も前で、ましてや当時の女性というのは、男性よりも扱いが軽かったので記述としては謎だらけである。一般的に呼ばれている紫式部という名称も、『源氏物語』の作中人物が『紫の上』であり、父が式部大丞だったことに由来するのであり、女房名は藤式部であった。でも1000年経ってもこのように色々と話題になるということは、よほど『源氏物語』が歴史的に見ても優れた文学作品であるということなのだ。ところが現在の我々、大方の人がこの『源氏物語』の一端を触れることも無く手に取ることも無い。つまり分量といい難しさといい、1000年前の女性がよくぞここまで書いたなあとは思う。
ところで紫式部が『源氏物語』を書いたのは石山寺ともいわれるし、石山寺で構想を練ったとか、思いついたとか言われるが、これも定かではない。でもおそらく物語の大部分は本人の邸宅で書いたのではないだろうか。そういえば京都御苑の東側に寺町通が南北に走っているが、その通りに面したところに『ろ山寺』(ろの漢字が変換されないので仮名で書きます)があり、この寺は紫式部邸の址に建立された寺院である。
紫式部邸址に建立された『ろ山寺』の庭。正面から眺めたところである。紫式部もこんな風景を眺めていたのであろうか・・・・。

角度を変えて眺めてみた。通称『桔梗の庭』『源氏庭』と呼ばれ、今の季節はちょうど桔梗が咲いている。

北大路堀川を下がったところに紫式部の墓がある。現在の敷地は島津製作所の一部にあり、堀川通に面している。私が訪れた時は、ちょうど観光バスがやって来て、中からバスガイドに連れられた観光客が、どっと墓の中にやって来て、バスガイドの説明を聞くや写真を各自撮りまくってさっさと帰っていった。

紫式部の右隣には小野相公(おののたかむらの事)の墓がある。この人は平安初期の歌人で役人、学者であり、書家の小野道風の祖父にあたり、小野小町との関係でも祖父に当ると伝えられている。
~わたのはら 八十島かけて こぎ出ぬと 人には告げよ あまの釣船
この歌で有名な人である。

『源氏物語』というと、平安の才女・紫式部が書いた54帖(桐壺、空蝉、夕顔など)からなる大長編小説であり、これだけ古い時代に、このような大巨編小説が存在したというのは、世界でも類を見ないという。
この話は、帝の御子であるのに源氏という臣下という低い身分に落とされたうえ皇位継承権をも失った皇子(光源氏、紫の上)の王権復活の物語で、平安時代の王朝貴族の絢爛たる華やかな世界を背景に描いている物語である。
ところで『源氏物語』を書いた紫式部という女性は一体どんな人だったのだろうか・・・・・。これはあまりにも古すぎて謎だらけである。本名も不明なら生年も没年も判っていない。だからありとあらゆる文献、資料から凡そ推測すると979年頃の生まれで1016年頃に亡くなったのではないかといわれている。すると『源氏物語』を完成させたのが30歳前後ということになる。(生年については970年説、978年説があり、没年にしても1014年説、1017年説がある)
越後守藤原為時の娘で母は摂津守藤原為信女と記述がある。幼少期に母を亡くし、兄弟もいたというが明確ではない。幼少の頃から天才肌の女性で、漢文を読みこなし『源氏物語』以外にも『紫日記』『紫式部集』が彼女の作であると伝えられていて、998年頃、山城守藤原宣孝と結婚。賢子(かたこ)を儲けたがまもなく藤原宣孝と死別。その後、一条天皇の皇后・中宮彰子に女房兼家庭教師(この女房とは王朝・貴族に仕える人のこと)として仕えた。つまり、この頃に『源氏物語』を書いていたものと思われる。でも時代が1000年も前で、ましてや当時の女性というのは、男性よりも扱いが軽かったので記述としては謎だらけである。一般的に呼ばれている紫式部という名称も、『源氏物語』の作中人物が『紫の上』であり、父が式部大丞だったことに由来するのであり、女房名は藤式部であった。でも1000年経ってもこのように色々と話題になるということは、よほど『源氏物語』が歴史的に見ても優れた文学作品であるということなのだ。ところが現在の我々、大方の人がこの『源氏物語』の一端を触れることも無く手に取ることも無い。つまり分量といい難しさといい、1000年前の女性がよくぞここまで書いたなあとは思う。
ところで紫式部が『源氏物語』を書いたのは石山寺ともいわれるし、石山寺で構想を練ったとか、思いついたとか言われるが、これも定かではない。でもおそらく物語の大部分は本人の邸宅で書いたのではないだろうか。そういえば京都御苑の東側に寺町通が南北に走っているが、その通りに面したところに『ろ山寺』(ろの漢字が変換されないので仮名で書きます)があり、この寺は紫式部邸の址に建立された寺院である。
紫式部邸址に建立された『ろ山寺』の庭。正面から眺めたところである。紫式部もこんな風景を眺めていたのであろうか・・・・。

角度を変えて眺めてみた。通称『桔梗の庭』『源氏庭』と呼ばれ、今の季節はちょうど桔梗が咲いている。

北大路堀川を下がったところに紫式部の墓がある。現在の敷地は島津製作所の一部にあり、堀川通に面している。私が訪れた時は、ちょうど観光バスがやって来て、中からバスガイドに連れられた観光客が、どっと墓の中にやって来て、バスガイドの説明を聞くや写真を各自撮りまくってさっさと帰っていった。

紫式部の右隣には小野相公(おののたかむらの事)の墓がある。この人は平安初期の歌人で役人、学者であり、書家の小野道風の祖父にあたり、小野小町との関係でも祖父に当ると伝えられている。
~わたのはら 八十島かけて こぎ出ぬと 人には告げよ あまの釣船
この歌で有名な人である。

2008.05.26 (Mon)
青葉繁れる桜井の
こんな歌をご存知だろうか。
~青葉繁れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ
木の下陰に駒とめて 世の行く末をつくづくと
忍ぶ鎧の袖の上に 散るは涙かはた露か
正成涙を打ち払い 我が子正行呼び寄せて
父は兵庫へ赴かん 彼方の浦にて討死せん
いまはここ迄来つれども とくとく帰れ故郷へ
これは題名を『桜井の訣別』といい、全部で6番まであり、楠木正成と息子・楠木正行(まさつら)の別れの情景を歌った唱歌である。作詞が落合直文、作曲が奥山朝恭で、歌が出来たのは何と1899年(明治32年)というから驚く。この歌は今では誰も歌はなくなったし歌の存在さえ知らない人が大半である。でも戦前の日本では誰もが知っている歌であったという。それなら何故、戦前に国民がみんな知っていたのかというと、それは皇国史観の下、戦死を覚悟で大義のため戦場に赴く姿が『忠臣の鑑』『日本人の鑑』として讃えられ、修身教育で祀られたからである。
当時の天皇を中心とした皇国史観の教えを日本国民に浸透させるため利用されたといえば言葉は悪いが、とにかく楠正成という人物は崇められたのである。だから楠木正成と縁もゆかりもない東京に大きな楠木正成像があるのはおかしいと思うが、天皇家に忠誠を尽くしたからということで皇居前広場に大楠公像が存在するのである。でも一般的に楠木正成という人は何をやった人なのだと問われると、今では名前さえ知らない人の方が多いかもしれない。
時は鎌倉幕府が危うい頃の話で、腐敗しきった幕府を倒幕しようと後醍醐天皇の論旨を受けて足利高氏を始めとする諸国の武士が立ち上がった。そんな中に河内の豪族・楠木正成がいる。当初は幕府軍に属していた新田義貞等の軍が楠木正成の居城である赤坂城を攻めるが、城を焼いて姿をくらましてしまう。再起した楠木正成は赤坂城の背後に千早城を建て、今度は数万とも数十万ともいわれる幕府軍に対し、100日間篭城し撤退させている。その間に新田義貞は幕府を見限って手薄となった鎌倉を攻め、幕府は滅亡してしまうのである。
鎌倉幕府滅亡の後、後醍醐天皇は朝廷の復権を計ろうと建武の新政を実現する。だが、この新政は武士達の不満を招き足利尊氏が離反してしまったのである。次第に権力を拡大している足利尊氏に対し、朝廷側は工作し足利尊氏を九州に追いやったのであるが、足利尊氏は大軍を率いて京都に再び攻め上ってくるのであった。
そんな時、後醍醐天皇に当初から忠誠を尽くしていた楠木正成の話が持ち上げられるのである。楠木正成は朝廷側の新田義貞の才能を見限っていて、後醍醐天皇に尊氏と和睦するように勧め、一旦、京都を離れて比叡に登り、空になった都に足利軍を封じ込め兵糧攻めをするべきだと色々、進言するが受け入れられずやむなく勝算の無い戦いに挑もうとしていた。
こうして1336年5月、後醍醐天皇の信任を得た楠木正成は足利尊氏の大軍を迎え撃つべく兵庫の湊川へ向うこととなる。いわば決死の覚悟で京の都を発った楠木正成は、山城の国から摂津の国に入ったがまもなく桜井の駅に到着する。この時、楠正成は11歳の息子・楠木正行に河内の国・千早赤坂に帰るように言い渡すのである。・・・・・自分が討ち死にした後は足利尊氏の世になる。だが、助命を願って降伏したりすると楠木家の長年の奉公が泡と消える。たとえ一兵になろうとも最後まで千早赤坂に籠もり天皇を助けるように諭すのである。このようにして正行は、この桜井の駅で父と別れ、淀川を渡って樟葉に出て千早赤坂へ帰って行ったという。つまりこれが桜井の別れである。
戦前はこういった皇国史観の下、修身教育が盛んであり、忠誠という滅私奉公の精神が謳われ、大いに国民の涙を誘ったという。でも結局、戦後に民主主義が導入され、時代と共に大楠公、小楠公の話は忘れられていったのである。
ところで何故このような話をしたかというと、先日、その桜井の駅跡を訪れたからである。桜井の駅とは古代律令制度下の駅家(うまや)の跡で、大阪と京都を結ぶ交通の要所だから駅家が置かれていたという。またこの駅家は711年(和銅4年)に駅家が所在した記述が残っているから、すでに古代からあったとされる。
実は桜井の駅跡を訪れたのは偶然からである。昔から桜井の駅跡の場所は知っていたし、楠公父子訣別の地であることも知っていた。それに阪急電鉄の水無瀬駅から歩いて400mほどのところなので、今まで何度も来ている。しかし、今回JR東海道線の島本駅が開業して、何気なく新設の駅に降り立ってみたのである。するとこの島本駅の駅舎はなんと、桜井の駅跡の西側の一部に建てられていたのである。以前、訪れた時は青々とした森であったが、今回は半分ほど史跡が削られていて、駅跡の西側の一部は駅前のロータリーと駅舎に変っていた。
私は島本駅を降りて桜井の駅跡に行ってみると、そこには乃木希典筆による楠公父子訣別の所と書かれた石碑があり、すぐ側には大楠公、小楠公の像があり、その台座には滅私奉公と書かれてある。これは近衛文麿の筆によるもので、如何に大日本帝国時代には楠正成が崇められていたかということの証明であろう。今では右翼団体ぐらいしか~青葉繁れる桜井の~なんて歌は歌はないだろうが、戦前の人達は誰もが知っていた歌と聞くと、何だか複雑な心境に陥るのであった。
そんな新設の島本駅は東海道線の山崎と高槻の間に出来た駅である。所在地は大阪府三島郡島本町で、山崎~高槻の間、8㎞も駅がなく地元住民が長い間、嘆願してようやく新設された駅である。でも駅名も島本に決まるまで、喧々囂々と議論がなされたという。近くの阪急電鉄には水無瀬駅という名の駅があるが所在地は島本町である。でも島本よりも水無瀬神宮のお膝元だから水無瀬の方がいいという意見もあったり、桜井の駅駅という話もあったらしいが、結局は島本駅に治まったらしい。
また、この島本駅はJR西日本管内の駅では珍しく、電車の到着の際にメロディが流される。そのメロディが小林亜星作曲のサントリー・オールドのCMで使われる曲なのである。でもサントリー山崎蒸留所は確かに島本町にあるが、山崎蒸留所からだと約2㎞弱は離れている。山崎蒸留所はどちらかというと隣の山崎駅の方が遥かに近く島本駅からだと遠い。でも、サントリーの山崎蒸留所が所在する自治体だから電車の到着メロディをサントリー・オールドのCM曲に決めたといっても強引だなあと思ってしまう。せっかく、桜井の駅跡の側に駅があるのに何故、曲を青葉繁れる桜井の・・・・・ではなく、サントリー・オールドの曲に決めたかというのは、やはり皇国史観の教えで伝わった曲では今の時代にマッチしないということだろうか。でもサントリー・オールドの曲を使うのもおかしい気がするが・・・・・。この度、桜井の駅跡を訪れてみて色々な歴史観というものを考えさせられた。
桜井の駅跡には楠公父子訣別の所と書かれた石碑がある。この字は乃木希典の筆によるものだという。

同じく桜井の駅跡には大楠公、小楠公の像があり、その台座には滅私奉公という今では死後といってもいいような文字が書かれてある。この筆は近衛文麿によるものだそうだ。

真新しい島本駅の駅舎。この付近も以前は史跡の一部であった。

複々線でひっきりなしに電車、列車が通るが、この駅は島型式といってプラットホームが一つしかない。

京都方面行きの普通電車が到着しようとしている。12両連結の電車がやって来たが、新しい駅だから10両以上連結されていても停車出来るように造られている。

この島本駅はサントリー・オールドのCM曲が電車到着の時のメロディとして使われている。
~青葉繁れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ
木の下陰に駒とめて 世の行く末をつくづくと
忍ぶ鎧の袖の上に 散るは涙かはた露か
正成涙を打ち払い 我が子正行呼び寄せて
父は兵庫へ赴かん 彼方の浦にて討死せん
いまはここ迄来つれども とくとく帰れ故郷へ
これは題名を『桜井の訣別』といい、全部で6番まであり、楠木正成と息子・楠木正行(まさつら)の別れの情景を歌った唱歌である。作詞が落合直文、作曲が奥山朝恭で、歌が出来たのは何と1899年(明治32年)というから驚く。この歌は今では誰も歌はなくなったし歌の存在さえ知らない人が大半である。でも戦前の日本では誰もが知っている歌であったという。それなら何故、戦前に国民がみんな知っていたのかというと、それは皇国史観の下、戦死を覚悟で大義のため戦場に赴く姿が『忠臣の鑑』『日本人の鑑』として讃えられ、修身教育で祀られたからである。
当時の天皇を中心とした皇国史観の教えを日本国民に浸透させるため利用されたといえば言葉は悪いが、とにかく楠正成という人物は崇められたのである。だから楠木正成と縁もゆかりもない東京に大きな楠木正成像があるのはおかしいと思うが、天皇家に忠誠を尽くしたからということで皇居前広場に大楠公像が存在するのである。でも一般的に楠木正成という人は何をやった人なのだと問われると、今では名前さえ知らない人の方が多いかもしれない。
時は鎌倉幕府が危うい頃の話で、腐敗しきった幕府を倒幕しようと後醍醐天皇の論旨を受けて足利高氏を始めとする諸国の武士が立ち上がった。そんな中に河内の豪族・楠木正成がいる。当初は幕府軍に属していた新田義貞等の軍が楠木正成の居城である赤坂城を攻めるが、城を焼いて姿をくらましてしまう。再起した楠木正成は赤坂城の背後に千早城を建て、今度は数万とも数十万ともいわれる幕府軍に対し、100日間篭城し撤退させている。その間に新田義貞は幕府を見限って手薄となった鎌倉を攻め、幕府は滅亡してしまうのである。
鎌倉幕府滅亡の後、後醍醐天皇は朝廷の復権を計ろうと建武の新政を実現する。だが、この新政は武士達の不満を招き足利尊氏が離反してしまったのである。次第に権力を拡大している足利尊氏に対し、朝廷側は工作し足利尊氏を九州に追いやったのであるが、足利尊氏は大軍を率いて京都に再び攻め上ってくるのであった。
そんな時、後醍醐天皇に当初から忠誠を尽くしていた楠木正成の話が持ち上げられるのである。楠木正成は朝廷側の新田義貞の才能を見限っていて、後醍醐天皇に尊氏と和睦するように勧め、一旦、京都を離れて比叡に登り、空になった都に足利軍を封じ込め兵糧攻めをするべきだと色々、進言するが受け入れられずやむなく勝算の無い戦いに挑もうとしていた。
こうして1336年5月、後醍醐天皇の信任を得た楠木正成は足利尊氏の大軍を迎え撃つべく兵庫の湊川へ向うこととなる。いわば決死の覚悟で京の都を発った楠木正成は、山城の国から摂津の国に入ったがまもなく桜井の駅に到着する。この時、楠正成は11歳の息子・楠木正行に河内の国・千早赤坂に帰るように言い渡すのである。・・・・・自分が討ち死にした後は足利尊氏の世になる。だが、助命を願って降伏したりすると楠木家の長年の奉公が泡と消える。たとえ一兵になろうとも最後まで千早赤坂に籠もり天皇を助けるように諭すのである。このようにして正行は、この桜井の駅で父と別れ、淀川を渡って樟葉に出て千早赤坂へ帰って行ったという。つまりこれが桜井の別れである。
戦前はこういった皇国史観の下、修身教育が盛んであり、忠誠という滅私奉公の精神が謳われ、大いに国民の涙を誘ったという。でも結局、戦後に民主主義が導入され、時代と共に大楠公、小楠公の話は忘れられていったのである。
ところで何故このような話をしたかというと、先日、その桜井の駅跡を訪れたからである。桜井の駅とは古代律令制度下の駅家(うまや)の跡で、大阪と京都を結ぶ交通の要所だから駅家が置かれていたという。またこの駅家は711年(和銅4年)に駅家が所在した記述が残っているから、すでに古代からあったとされる。
実は桜井の駅跡を訪れたのは偶然からである。昔から桜井の駅跡の場所は知っていたし、楠公父子訣別の地であることも知っていた。それに阪急電鉄の水無瀬駅から歩いて400mほどのところなので、今まで何度も来ている。しかし、今回JR東海道線の島本駅が開業して、何気なく新設の駅に降り立ってみたのである。するとこの島本駅の駅舎はなんと、桜井の駅跡の西側の一部に建てられていたのである。以前、訪れた時は青々とした森であったが、今回は半分ほど史跡が削られていて、駅跡の西側の一部は駅前のロータリーと駅舎に変っていた。
私は島本駅を降りて桜井の駅跡に行ってみると、そこには乃木希典筆による楠公父子訣別の所と書かれた石碑があり、すぐ側には大楠公、小楠公の像があり、その台座には滅私奉公と書かれてある。これは近衛文麿の筆によるもので、如何に大日本帝国時代には楠正成が崇められていたかということの証明であろう。今では右翼団体ぐらいしか~青葉繁れる桜井の~なんて歌は歌はないだろうが、戦前の人達は誰もが知っていた歌と聞くと、何だか複雑な心境に陥るのであった。
そんな新設の島本駅は東海道線の山崎と高槻の間に出来た駅である。所在地は大阪府三島郡島本町で、山崎~高槻の間、8㎞も駅がなく地元住民が長い間、嘆願してようやく新設された駅である。でも駅名も島本に決まるまで、喧々囂々と議論がなされたという。近くの阪急電鉄には水無瀬駅という名の駅があるが所在地は島本町である。でも島本よりも水無瀬神宮のお膝元だから水無瀬の方がいいという意見もあったり、桜井の駅駅という話もあったらしいが、結局は島本駅に治まったらしい。
また、この島本駅はJR西日本管内の駅では珍しく、電車の到着の際にメロディが流される。そのメロディが小林亜星作曲のサントリー・オールドのCMで使われる曲なのである。でもサントリー山崎蒸留所は確かに島本町にあるが、山崎蒸留所からだと約2㎞弱は離れている。山崎蒸留所はどちらかというと隣の山崎駅の方が遥かに近く島本駅からだと遠い。でも、サントリーの山崎蒸留所が所在する自治体だから電車の到着メロディをサントリー・オールドのCM曲に決めたといっても強引だなあと思ってしまう。せっかく、桜井の駅跡の側に駅があるのに何故、曲を青葉繁れる桜井の・・・・・ではなく、サントリー・オールドの曲に決めたかというのは、やはり皇国史観の教えで伝わった曲では今の時代にマッチしないということだろうか。でもサントリー・オールドの曲を使うのもおかしい気がするが・・・・・。この度、桜井の駅跡を訪れてみて色々な歴史観というものを考えさせられた。
桜井の駅跡には楠公父子訣別の所と書かれた石碑がある。この字は乃木希典の筆によるものだという。

同じく桜井の駅跡には大楠公、小楠公の像があり、その台座には滅私奉公という今では死後といってもいいような文字が書かれてある。この筆は近衛文麿によるものだそうだ。

真新しい島本駅の駅舎。この付近も以前は史跡の一部であった。

複々線でひっきりなしに電車、列車が通るが、この駅は島型式といってプラットホームが一つしかない。

京都方面行きの普通電車が到着しようとしている。12両連結の電車がやって来たが、新しい駅だから10両以上連結されていても停車出来るように造られている。

この島本駅はサントリー・オールドのCM曲が電車到着の時のメロディとして使われている。