2014.10.02 (Thu)
新幹線開業50年
昨日の10月1日は東海道新幹線開業からちょうど50年になるという。それを聞いて、え! もうそんなになるのかと思った。そういえば新幹線開業の時、小生はまだ小学生だったのだ。それが最早、還暦の域だからな。年月の経過はおそろしく早いものである。こちらはそろそろ老後のことも考えないといけなくなってきた。
1964年10月1日と言うと東京オリンピック開幕の10日前。その開幕に合わせて確か突貫工事で完成させたのではないかな。あの頃、京都市中心部から少し離れた小学校に通っていたので、新幹線の工事を行っていたのはよく覚えている。まだ昭和30年代の中頃と言うと京都と大阪の間も田畑が多く、今のように民家がどこまでも連なっているという光景ではなかった。それで小生が幼稚園に通っている頃、今は亡き親父から夢の超特急の話を聞かされた。それは東京~大阪までを3時間で走り時速200㌔以上のスピードで走るというものだった。そういわれてもあの当時、想像すらつかなかった。何しろ当時の特急『こだま』でも東京~大阪まで6時間50分かかっていた時代だ。最高速度さえ100㌔を超えるが表定速度で言ったら約80㌔ぐらいなもので、それが時速が倍になるなんて考えられないのも当然だった。それが余りにも非現実的な話で夢のような話だった。だから夢の超特急だったのである。
小生はまもなく小学校に入学する。それと同時に夢の超特急が走ると言われていた場所の工事が始まりだした。地下深く掘っていたと思ったら、何時の間にかニョキニョキとコンクリートの柱が建ち出し、または盛り土の堤防のようなものが遠方まで伸びていった。あっという間だった。やがて2、3年が経ち、ほぼ土台が完成していた。それからレールを敷く工事に入ったのだろう。それで面白い話がある。小生はあの当時も今も阪急京都線の沿線に住んでいる(現住所よりは京都の中心部に近いところに住んでいた)。それで大阪に行くときには阪急に乗るのだが、それまで田んぼの中を走っていて各所に踏切があったもので、昭和38年の春だったかな母と姉と3人で大阪の親類の家へ行く時に阪急に乗った。すると大山崎駅の辺りから高架になりそれが水無瀬、上牧駅と高架を走り続けたのである。あれ!と思った。それまでは高架区間でもなかったのにと思いながらも・・・・・。ただこの3駅間は並行して新幹線の工事を行っていた区間である。それで、その日の帰りに確かめたのだが、何と阪急は新幹線のレールの上を走っていたのである。これはどういうことかというと、計画の段階で新幹線を何処に走らせるかと言うことになり、結局、この区間だけは阪急と併走する形となり、新幹線が全面高架ならついでに阪急もこの併走区間だけ高架することになったのだろう。それで先に高架工事の終わった新幹線のレールの上を阪急が走っていたのである。そして、新幹線が開通する翌年までに阪急の高架工事を終え元の鞘に戻したということだったのである。つまり新幹線のレールの上で最初に営業運転を行ったのは阪急だったというから面白い。
さらに翌年の1964年の4月である。初めて新幹線の車両が試運転を行うと言うので、我々、小学生はその話題で持ちきりだった。何だか鳥飼基地を出て京都方面へ試運転するという。それも朝の8時過ぎに。それで我々はどうしたかというと早めに学校へ行き、学校の2階の窓から新幹線の方角を窺っていたのである。あの当時は、高い団地もほとんどなく、学校の2階から高架の新幹線までは見渡せたものだ。すると誰かが「来た!」と叫んだ。間もなくアイボリーとブルーのツートンカラーの新幹線(6両編成)が時速30㌔のノロノロ運転で通過して行った。これが夢の超特急だったのである。ついに現実となったから夢でなくなったが超特急には程遠いスピードだった。それから毎日、新幹線は試運転を繰り返すようになり、スピードも段々と増すようになっていった。試運転初日から1ヶ月もしない間に猛スピードで試運転を行うようになり車両数も12両になった。
その年の8月が9月だったと思う。学校が休みの日だった。小生はよく行くお好み焼き屋に居た。そこには中学生や小学生が集まって漫画を読みながら何時もお好み焼きを食べていた。それで、その日、NHKが東京から新大阪まで営業後と同じ4時間に及ぶ試運転を行い、それを生中継すると言うので、お好み焼き屋のテレビを見ながらガキどもがワイワイ騒いでいた。確か当時、鈴木健二アナウンサーが新幹線に乗り込んで中継していたと思う。やがてその新幹線は京都駅に到着した。すると誰かが「テレビに映りに行こうや」と言いだした。すると「行こ、行こ」と賛同する者が多くて、小生を含めたガキども10人ぐらいが急いで新幹線が走っているところまで向かったのである。まだ新幹線は通過していなかった。すると間もなく撮影用のヘリコプターがけたたましい音をたててやってきたと思ったら、すぐに新幹線が通過したので我々は皆、手を振ったのである。そして、お好み焼きの店に戻っておばちゃんに聞くと、新幹線の車内カメラは我々のいた場所とは違う反対側を撮っていたようで残念ながらテレビには映らなかったのである。それから1ヶ月余りで新幹線は開業するのである。12両編成で4時間運転(翌年に3時間10分に短縮)だった。その翌年には親父と姉とで名古屋まで『ひかり』に乗ったのが最初かな。珍しいからとビュッフェに行って珈琲とトーストを食べたが、窓際の椅子に座ったが、客室の椅子よりも揺れを感じるなといった印象がある。それ以来、何十回、何百回乗ったかわからない。その後、山陽、東北、上越、長野、九州と新幹線は延伸し、乗客数も50年前とは比較にならない。それでいて、未だに乗客の死亡が0というから素晴らしい。今は外国の至るところで高速鉄道が走っているが、それこそフランスのTGV、ドイツのICE、走り始めてまだ10年にしかならない韓国のKTX、ましてや大事故を起こし大勢死者を出した中国の高速鉄道など比較にならない。運転本数も通勤電車並みに運行されていて時間も正確。乗っていても心地よいし全てに優れている。よく脱線事故を起こすフランスのTGV、死者を多数出したドイツのICE、ましてや自国だけの技術で高速鉄道を走らせることなど出来なかった中国、韓国等とは問題にならない。フランスのTCVは開通が1981年と遅いのに、けっこう揺れるし車内も狭いし便数も新幹線とは比べ物にならないほど少ない。速いだけなら新幹線よりもフランス、中国の方が速くなったかもしれないが、大陸で直線が多くスピードが出し放題の国とは一緒にできない。日本は山岳が多く、雨も多いし雪も降る。カーブも多く、坂も多くトンネルも多い。それに何よりも地震多発国である。とにかく高速鉄道を走らせるにおいて条件が厳しすぎる国なのだ。それでいてあの便数、死亡者0という安全性と正確さと快適さ、やはり世界の中でも新幹線だけは別格な気がする。開業から50年、この新幹線がどれほど日本の経済を長きに渡り支え続けたかと思うと、その役割は想像以上に大きかったと言えよう。今やShinkansenといえば世界中で通じるよになった。おそらく日本の新幹線が世界の鉄道事情を一変させたことは間違いない。それを考えれば世界初の高速鉄道が終戦後僅か19年で開業したというのは、今から考えれば偉業だったのだなと感じる今日、この頃である。
1964年10月1日と言うと東京オリンピック開幕の10日前。その開幕に合わせて確か突貫工事で完成させたのではないかな。あの頃、京都市中心部から少し離れた小学校に通っていたので、新幹線の工事を行っていたのはよく覚えている。まだ昭和30年代の中頃と言うと京都と大阪の間も田畑が多く、今のように民家がどこまでも連なっているという光景ではなかった。それで小生が幼稚園に通っている頃、今は亡き親父から夢の超特急の話を聞かされた。それは東京~大阪までを3時間で走り時速200㌔以上のスピードで走るというものだった。そういわれてもあの当時、想像すらつかなかった。何しろ当時の特急『こだま』でも東京~大阪まで6時間50分かかっていた時代だ。最高速度さえ100㌔を超えるが表定速度で言ったら約80㌔ぐらいなもので、それが時速が倍になるなんて考えられないのも当然だった。それが余りにも非現実的な話で夢のような話だった。だから夢の超特急だったのである。
小生はまもなく小学校に入学する。それと同時に夢の超特急が走ると言われていた場所の工事が始まりだした。地下深く掘っていたと思ったら、何時の間にかニョキニョキとコンクリートの柱が建ち出し、または盛り土の堤防のようなものが遠方まで伸びていった。あっという間だった。やがて2、3年が経ち、ほぼ土台が完成していた。それからレールを敷く工事に入ったのだろう。それで面白い話がある。小生はあの当時も今も阪急京都線の沿線に住んでいる(現住所よりは京都の中心部に近いところに住んでいた)。それで大阪に行くときには阪急に乗るのだが、それまで田んぼの中を走っていて各所に踏切があったもので、昭和38年の春だったかな母と姉と3人で大阪の親類の家へ行く時に阪急に乗った。すると大山崎駅の辺りから高架になりそれが水無瀬、上牧駅と高架を走り続けたのである。あれ!と思った。それまでは高架区間でもなかったのにと思いながらも・・・・・。ただこの3駅間は並行して新幹線の工事を行っていた区間である。それで、その日の帰りに確かめたのだが、何と阪急は新幹線のレールの上を走っていたのである。これはどういうことかというと、計画の段階で新幹線を何処に走らせるかと言うことになり、結局、この区間だけは阪急と併走する形となり、新幹線が全面高架ならついでに阪急もこの併走区間だけ高架することになったのだろう。それで先に高架工事の終わった新幹線のレールの上を阪急が走っていたのである。そして、新幹線が開通する翌年までに阪急の高架工事を終え元の鞘に戻したということだったのである。つまり新幹線のレールの上で最初に営業運転を行ったのは阪急だったというから面白い。
さらに翌年の1964年の4月である。初めて新幹線の車両が試運転を行うと言うので、我々、小学生はその話題で持ちきりだった。何だか鳥飼基地を出て京都方面へ試運転するという。それも朝の8時過ぎに。それで我々はどうしたかというと早めに学校へ行き、学校の2階の窓から新幹線の方角を窺っていたのである。あの当時は、高い団地もほとんどなく、学校の2階から高架の新幹線までは見渡せたものだ。すると誰かが「来た!」と叫んだ。間もなくアイボリーとブルーのツートンカラーの新幹線(6両編成)が時速30㌔のノロノロ運転で通過して行った。これが夢の超特急だったのである。ついに現実となったから夢でなくなったが超特急には程遠いスピードだった。それから毎日、新幹線は試運転を繰り返すようになり、スピードも段々と増すようになっていった。試運転初日から1ヶ月もしない間に猛スピードで試運転を行うようになり車両数も12両になった。
その年の8月が9月だったと思う。学校が休みの日だった。小生はよく行くお好み焼き屋に居た。そこには中学生や小学生が集まって漫画を読みながら何時もお好み焼きを食べていた。それで、その日、NHKが東京から新大阪まで営業後と同じ4時間に及ぶ試運転を行い、それを生中継すると言うので、お好み焼き屋のテレビを見ながらガキどもがワイワイ騒いでいた。確か当時、鈴木健二アナウンサーが新幹線に乗り込んで中継していたと思う。やがてその新幹線は京都駅に到着した。すると誰かが「テレビに映りに行こうや」と言いだした。すると「行こ、行こ」と賛同する者が多くて、小生を含めたガキども10人ぐらいが急いで新幹線が走っているところまで向かったのである。まだ新幹線は通過していなかった。すると間もなく撮影用のヘリコプターがけたたましい音をたててやってきたと思ったら、すぐに新幹線が通過したので我々は皆、手を振ったのである。そして、お好み焼きの店に戻っておばちゃんに聞くと、新幹線の車内カメラは我々のいた場所とは違う反対側を撮っていたようで残念ながらテレビには映らなかったのである。それから1ヶ月余りで新幹線は開業するのである。12両編成で4時間運転(翌年に3時間10分に短縮)だった。その翌年には親父と姉とで名古屋まで『ひかり』に乗ったのが最初かな。珍しいからとビュッフェに行って珈琲とトーストを食べたが、窓際の椅子に座ったが、客室の椅子よりも揺れを感じるなといった印象がある。それ以来、何十回、何百回乗ったかわからない。その後、山陽、東北、上越、長野、九州と新幹線は延伸し、乗客数も50年前とは比較にならない。それでいて、未だに乗客の死亡が0というから素晴らしい。今は外国の至るところで高速鉄道が走っているが、それこそフランスのTGV、ドイツのICE、走り始めてまだ10年にしかならない韓国のKTX、ましてや大事故を起こし大勢死者を出した中国の高速鉄道など比較にならない。運転本数も通勤電車並みに運行されていて時間も正確。乗っていても心地よいし全てに優れている。よく脱線事故を起こすフランスのTGV、死者を多数出したドイツのICE、ましてや自国だけの技術で高速鉄道を走らせることなど出来なかった中国、韓国等とは問題にならない。フランスのTCVは開通が1981年と遅いのに、けっこう揺れるし車内も狭いし便数も新幹線とは比べ物にならないほど少ない。速いだけなら新幹線よりもフランス、中国の方が速くなったかもしれないが、大陸で直線が多くスピードが出し放題の国とは一緒にできない。日本は山岳が多く、雨も多いし雪も降る。カーブも多く、坂も多くトンネルも多い。それに何よりも地震多発国である。とにかく高速鉄道を走らせるにおいて条件が厳しすぎる国なのだ。それでいてあの便数、死亡者0という安全性と正確さと快適さ、やはり世界の中でも新幹線だけは別格な気がする。開業から50年、この新幹線がどれほど日本の経済を長きに渡り支え続けたかと思うと、その役割は想像以上に大きかったと言えよう。今やShinkansenといえば世界中で通じるよになった。おそらく日本の新幹線が世界の鉄道事情を一変させたことは間違いない。それを考えれば世界初の高速鉄道が終戦後僅か19年で開業したというのは、今から考えれば偉業だったのだなと感じる今日、この頃である。
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