2017.03.21 (Tue)
チャック・ベリーが亡くなった
先日、GS界の大御所かまやつひろしが亡くなったことを記事にしたと思うが、今度はロックンロール界の大御所チャック・ベリーが3月18日に亡くなった。90歳だったという。1926年生まれだから日本流で言うと大正15年である。この年は大正天皇が崩御した年でもあり一週間だけ昭和元年だった。アメリカ人なので関係ないけど大正生まれの生き残りと言うことになる。随分と昔の人なんだと驚いている。小生の母親世代だからな。
小生がチャック・ベリーの名を知ったのはビートルズのカバー曲によってである。『ロール・オーヴァー・ベートーヴェン』『ロックン・ロール・ミュージック』とパンチのある曲で、当初、ビートルズってこんな音楽ばかりかと思っていた時があって、オリジナルがチャック・ベリーと知ってビートルズもかなり影響を受けたのだなと後になって思ったものだ。だから当然、チャック・ベリーの全盛時代を小生は知らない。チャック・ベリーが颯爽と音楽シーンに現れたのは1950年代半ばだろう。この頃にロックンロールという音楽が席巻することとなる。それまでのゆったりとした音楽から、ビートのきいた煩い音楽(少なくとも当時の大人はそう思っただろう)が出現した。映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で1955年にタイムスリップした主人公マーティが高校生のダンスパーティでエレキギターを手に持ってチャック・ベリーの『ジョニー・B・グッド』を演奏して場内を唖然とさせる場面があったのを思い出すが、当時、ロックンロールは激しい音楽として扱われていたのだろう。
チャック・ベリーは1926年10月にセントルイスで生まれた。家は中流であり音楽には小さいときから接し聖歌隊に加わったり人前で演奏したりしていたものの、不良仲間の影響で悪事にも手を染め18歳から3年ほど感化院に入っている。当時は人種差別が公然としてあった時代でありやむを得ないところもあるだろう。ただ周囲の環境もあり素行の良い少年ではなかったようだ。
27歳の時サー・ジョン・トリオにギタリストとして参加。ここから彼のプロとしての音楽人生がスタートする。間もなくして彼がバンド・リーダーに変わるが、マディ・ウォーターズ(ブルースのシンガーでギタリスト)の口利きでレコードデビュー。『メイビリーン』(1955年)はいきなりの全米5位。この頃、時を同じくしてこういった激しいリズムの音楽を演奏するミュージシャンが大勢現れた。こrをロックンロールというようになるが、その創始者の1人がチャック・ベリーであり、また後生に最も影響を与えたのもチャック・ベリーだろう。最も当時で一番人気があったのはエルビス・プレスリーで日本にロカビリー・ブームが襲来するのはプレスリーの影響が大きい。でもロカビリーというのはどちらかというと白人音楽である。黒人のチャック・ベリーは同じロックンロールでもブルース色が強く白人の音楽であるカントリーの要素も含まれ、チャック・ベリー独自のサウンドを作り上げたのである。これは当時、出現したモダン・ジャズにも言えるが、商業音楽の変遷期であり、あたかも電気ギターが広まると同時にロックンロール文化が花咲いた最初の頃だろう。ビル・ヘイリー、ジェリー・リー・ルイス、ロイ・オービソン、リトル・リチャード、バディ・ホリー、ジーン・ヴィンセント、エディ・コクラン、カール・パーキンス等、大勢出現した。そんな中でチャック・ベリーの曲の持つ独自さは出色していたのだろう。プレスリーほどの大衆の人気は得れなかったものの後生のロック・ミュージシャンに与えた影響力を考えたら、チャック・ベリーこそがロックンロールの最初の偉大なるミュージシャンと言えるかもしれない。ただその後、アメリカでロックンロールは下火になる。1959年チャック・ベリーは少年時代の素行の悪さが出てしまい売春強要の容疑で3年間の刑務所暮らしを余儀なくされてしまい、彼が出所した頃、すでにロックンロールの時代は過ぎ去っていた。ところがチャック・ベリーの影響を受けた少年達の多くがイギリスでバンドを組み育っていた。ビートルズ、ローリング・ストーンズ等である。ジョン・レノンはチャック・ベリーのカバー曲をビートルズで録音しているし、ローリング・ストーンズのデビュー曲『カム・オン』もチャック・ベリーのカバーだった。こうして逆輸入という形でロックンロール・ブームが再びアメリカを席巻するようになる。ただしこのときはイギリスのバンドが主流になってしまっていた。でもビートルズやローリング・ストーンズの大活躍があって、チャック・ベリーがアメリカで再評価を受けるようになるという珍現象となった。そして現在、『ジョニー・B・グッド』『スウィート・リトル・シックスティーン』『キャロル』『リトル・クイニー』等、色々なミュージシャンのカバーによってチャック・ベリーの曲は現在でも愛され続けていた。日本でも内田裕也や矢沢永吉などは影響を受けているし、チャック・ベリーはまさにロックンロールの黎明期に現れた一等星だろう。
ジョン・レノンがチャックベリーと共演する。小野洋子もいる。
小生がチャック・ベリーの名を知ったのはビートルズのカバー曲によってである。『ロール・オーヴァー・ベートーヴェン』『ロックン・ロール・ミュージック』とパンチのある曲で、当初、ビートルズってこんな音楽ばかりかと思っていた時があって、オリジナルがチャック・ベリーと知ってビートルズもかなり影響を受けたのだなと後になって思ったものだ。だから当然、チャック・ベリーの全盛時代を小生は知らない。チャック・ベリーが颯爽と音楽シーンに現れたのは1950年代半ばだろう。この頃にロックンロールという音楽が席巻することとなる。それまでのゆったりとした音楽から、ビートのきいた煩い音楽(少なくとも当時の大人はそう思っただろう)が出現した。映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で1955年にタイムスリップした主人公マーティが高校生のダンスパーティでエレキギターを手に持ってチャック・ベリーの『ジョニー・B・グッド』を演奏して場内を唖然とさせる場面があったのを思い出すが、当時、ロックンロールは激しい音楽として扱われていたのだろう。
チャック・ベリーは1926年10月にセントルイスで生まれた。家は中流であり音楽には小さいときから接し聖歌隊に加わったり人前で演奏したりしていたものの、不良仲間の影響で悪事にも手を染め18歳から3年ほど感化院に入っている。当時は人種差別が公然としてあった時代でありやむを得ないところもあるだろう。ただ周囲の環境もあり素行の良い少年ではなかったようだ。
27歳の時サー・ジョン・トリオにギタリストとして参加。ここから彼のプロとしての音楽人生がスタートする。間もなくして彼がバンド・リーダーに変わるが、マディ・ウォーターズ(ブルースのシンガーでギタリスト)の口利きでレコードデビュー。『メイビリーン』(1955年)はいきなりの全米5位。この頃、時を同じくしてこういった激しいリズムの音楽を演奏するミュージシャンが大勢現れた。こrをロックンロールというようになるが、その創始者の1人がチャック・ベリーであり、また後生に最も影響を与えたのもチャック・ベリーだろう。最も当時で一番人気があったのはエルビス・プレスリーで日本にロカビリー・ブームが襲来するのはプレスリーの影響が大きい。でもロカビリーというのはどちらかというと白人音楽である。黒人のチャック・ベリーは同じロックンロールでもブルース色が強く白人の音楽であるカントリーの要素も含まれ、チャック・ベリー独自のサウンドを作り上げたのである。これは当時、出現したモダン・ジャズにも言えるが、商業音楽の変遷期であり、あたかも電気ギターが広まると同時にロックンロール文化が花咲いた最初の頃だろう。ビル・ヘイリー、ジェリー・リー・ルイス、ロイ・オービソン、リトル・リチャード、バディ・ホリー、ジーン・ヴィンセント、エディ・コクラン、カール・パーキンス等、大勢出現した。そんな中でチャック・ベリーの曲の持つ独自さは出色していたのだろう。プレスリーほどの大衆の人気は得れなかったものの後生のロック・ミュージシャンに与えた影響力を考えたら、チャック・ベリーこそがロックンロールの最初の偉大なるミュージシャンと言えるかもしれない。ただその後、アメリカでロックンロールは下火になる。1959年チャック・ベリーは少年時代の素行の悪さが出てしまい売春強要の容疑で3年間の刑務所暮らしを余儀なくされてしまい、彼が出所した頃、すでにロックンロールの時代は過ぎ去っていた。ところがチャック・ベリーの影響を受けた少年達の多くがイギリスでバンドを組み育っていた。ビートルズ、ローリング・ストーンズ等である。ジョン・レノンはチャック・ベリーのカバー曲をビートルズで録音しているし、ローリング・ストーンズのデビュー曲『カム・オン』もチャック・ベリーのカバーだった。こうして逆輸入という形でロックンロール・ブームが再びアメリカを席巻するようになる。ただしこのときはイギリスのバンドが主流になってしまっていた。でもビートルズやローリング・ストーンズの大活躍があって、チャック・ベリーがアメリカで再評価を受けるようになるという珍現象となった。そして現在、『ジョニー・B・グッド』『スウィート・リトル・シックスティーン』『キャロル』『リトル・クイニー』等、色々なミュージシャンのカバーによってチャック・ベリーの曲は現在でも愛され続けていた。日本でも内田裕也や矢沢永吉などは影響を受けているし、チャック・ベリーはまさにロックンロールの黎明期に現れた一等星だろう。
ジョン・レノンがチャックベリーと共演する。小野洋子もいる。
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