2ntブログ
2024年11月 / 10月≪ 123456789101112131415161718192021222324252627282930≫12月

--.--.-- (--)

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
EDIT  |  --:--  |  スポンサー広告  |  Top↑

2012.10.26 (Fri)

中勘助の『銀の匙』を読む

IMG_0245.jpg

 最近はこの明治時代末期から大正時代初期に書かれた小説『銀の匙』がけっこう話題に成っている。2003年に岩波書店が行った『読者が選ぶ〈私の好きな岩波文庫100〉』キャンペーンにおいて『銀の匙』は夏目漱石の『こころ』『坊っちゃん』に次いで第3位に選ばれたという。また超進学校として名高い神戸の灘中学校では、国語の橋本武教諭が教科書代わりに教材として使い進学実績を飛躍的に伸ばし一躍『銀の匙』が有名になった。この授業はどのようなものかというと、1934年、東京高等師範学校を出た橋本武は私立の灘中学校に国語教師として赴任。その頃の教え子には遠藤周作がいる。戦後、新制になった1950年に教師歴10年を越えた橋本武はある試みをする。それは教科書を使わず、中学校の3年間を通して中勘助の小説『銀の匙』を一冊読みあげる授業であった。

 ただ単に作品を読破して読解力を高めるだけではなく、作品に深く入り込んで作品の出来や主人公の心情の追体験等も重視し、授業ごとに配布するプリントには頻繁に横道に逸れる仕掛けが施されていて、多角的に色々な方向へ興味を促がす工夫が成されていたという。当時、その授業を見学した山岸徳平(東京教育大学教授)が、横道へそれ過ぎではないかと批判したというが、橋本武は当初からそれが目的だったようである。結果としてこの授業を受けた最初の生徒たちの中から6年後に東大に15名が合格したのである。その後はトントン拍子に灘中学校、高校が超進学校への道を歩み出したことはいうまでもない。しかしながら、橋本武の目的は生徒を東大に合格させるのではなく、結果としてそのようになったと1984年に灘校を退任した橋本武本人は説明している。

 さてさて、ここでその教材として利用された小説『銀の匙』とはどういうものかということになるが、この小説は著者中勘助自身の自伝的小説であるとされる。主人公の私は本箱の引き出しに昔からしまってある小箱の中から銀の匙を見つけ、そこから回想に入る。この銀の匙は幼い頃に茶ダンスで見つけ母に「これをください」といったところ、「大事にとっておおきなさい」といわれ、それ以来、今まで大事にしてきた物である。この匙にいわば幼い日の想い出がこびりついているものであり、伯母と過ごしたあの日の数々が蘇ってくるのである。主人公は生まれるとき難産で、元来からひ弱で生まれるとまもなく腫物が酷く、それこそ頭から顔など一面に吹き出物があり漢方の先生にお世話に成り続けていた。漢方の先生は腫物を内攻させないため毎日、真っ黒な煉薬と烏犀角を飲ませていた。だが、幼い子に飲ませるには普通の匙では具合が悪いので伯母がどこからか小さな匙を見つけてきて、始終薬を含ませてくれたのだという話を聞き、銀の匙を今まで大事に保管していたのである。いわば銀の匙は主人公と伯母さんを繋げる想い出の物だった。伯母さんは私を育てるのがこの世に生きている唯一の楽しみだった。家はなし、子はなし、年はとってるし、何の楽しみもなかった伯母。そして伯母に何もかも頼り切っている私こと主人公。なにしろ何処に行くにも伯母の背中にかじりついている有様であった。そんな幼い日の記憶を鮮明に、子供が書いたかのような目線で描ききっているので夏目漱石が高く評価し、中勘助の『銀の匙』は陽の目を見るようになったのである。これほど大人になっても子供が書いているような文体を知らないと漱石は価値を認めたのである。この作品の独創性を誰よりも強く感じたらしい。

 小説『銀の匙』は前篇、後編とに分かれるが、前篇は中勘助が27歳の時、後編はその翌年に書かれたものである。前篇は伯母との想い出が大部分を形成し、後編は小学校から生意気盛りの中学生までの記述である。私は東京の神田で出まれた。伯母は私を縁日やお寺、神社によく連れて行ってくれた。やがて私の家は神田から小石川へと引っ越した。小石川は田舎で、私は新しい環境で色んな経験をする。隣に住んでいるお国さんと友達になった。私はお国さんが初めての友達で、それも女の子であった。やがて二人は仲好くなるが、お国さんは小学校へ上がろうとする。私も小学校へ上がらなけらばんらないが、私は小学校へ行くことを拒んだのである。それでも伯母さんのとりなしで小学校へ行くようになる。このようになにかと私のそばには何時も伯母さんがいたのだった。

 後編になると当初は伯母さんは出てこないが、白眉ともいえる伯母さんと再会するところがある。幼い日に我が子以上に可愛がってくれた伯母との再会であるが、伯母は目を悪くしていたので再会してもすぐには私とは判らなかった。私と判ると伯母は涙を流して喜んだ。私は伯母にとっては自慢の甥であったのだ。それから伯母はまもなくして死んだのである。つまり全編通して伯母さんと言うのは小説の中の最も重要な人物であり、瓶の匙は伯母さんと共に生きていると言えよう。また、これら全編が自らの想い出話でありまた美しい散文でもある。しかし、中勘助は青年の頃は詩や歌を愛読していて散文形式の書物には関心がなかったようである。それが大学で英文科から国文科に転じ、そこから散文を書くようになったみたいだが、ほとんど誰からの影響も受けず詩の形式によって独自の世界を表現することであったという。そういった形で描き切ったのが『銀の匙』であろう。

 結局、このような新鮮な文体を書いたところ、他の作家に見られない独自性と言うのが教材として使った灘校の橋本教諭の意図するところであったかもしれない。主人公の揺れ動く心を汲み取るには子供しかわからない部分がある。でも小説は大人になってから書いたものがほとんどであり、実際に中学生には判りがたい部分がある。それが中勘助の『銀の匙』にいたっては子供から見た印象をありのまま描いたような表現がいたるところに点在している。そういった感受性を認知出来る中学生の教材としては最適であると感じとれたのかもしれない。まさしく大人は自分が子供であったことを忘れているといったことを思い起こさせる小説である。
EDIT  |  20:27  |   |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

*Comment

コメントを投稿する

URL
COMMENT
PASS  編集・削除するのに必要
SECRET  管理者だけにコメントを表示
 

*Trackback

この記事のトラックバックURL

この記事へのトラックバック

 | BLOGTOP |