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2013.01.27 (Sun)

マリア・カラスを聴く

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 マリア・カラスと言うと小学生の頃から名前が面白いので、その名前は記憶していた。でも、あの頃、歌手は歌手でもどういった歌を歌っている人なのかは判らなかった。というのも声楽のオペラ歌手といっても小学生では知識もないし、実際にマリア・カラスが歌っている映像も見たことがなかったので、マリア・カラスが20世紀最高のソプラノ歌手だなんていうことを知るのは、それから何年も経過してからのことである。高校の頃だったか何気にNHKのテレビを放送を観ていて、そこでマリア・カラスが歌っているところを初めてお目にかかった。なんだかやけに濃い顔をしていて眼と眉に特徴のある細い女性だなというのが最初の印象だった(世間では美貌のプリマドンナと言われていた)。でも歌っている姿は堂々としたものでけして美声とはいえないものの人を引き付ける個性的な声をしていた。これがマリア・カラスかと思ったものだが、マリア・カラスの全盛期は長くなかったらしい。デビューからしてセンセーショナルだったものの、私がマリア・カラスの存在を知った頃は既に全盛期を過ぎていたという。戦前からオペラの舞台に上がったが全盛期は戦後のほぼ10年間と言われる。でも何故に全盛期がそれほど短かったのか・・・・・・。世紀のディーバと言われ空前にして絶後であろうとも評されたマリア・カラスなのに・・・・。

 マリア・カラスは1923年12月2日にニューヨークで生まれたギリシャ系アメリカ人である。このあたりオペラの本場であるヨーロッパ生まれでないというのが面白いが・・・。マリア・カラスは父が薬局を経営している家庭で次女として生まれた。母は2人の娘に音楽教育を積ませようとする。姉はピアニストに、マリア・カラスは歌手に・・・。ところが母は歌手は脂肪をつけて肥らないと美声にならないと言った俗説を信じたのかマリア・カラスに栄養をつけさせようとケーキや砂糖菓子等の甘い物をどんどんと食べさせることとなる。したがってマリア・カラスはぶくぶくと肥ってしまうのである。やがて音楽の道に子供を進めることを気に入らなかった父と母は離婚することとなり、母親は2人の娘の才能を伸ばすために故郷のギリシャに帰ることとなった。マリア・カラス13歳の時である。

 ギリシャに渡ったマリア・カラスはアテネ音楽院に入りスペイン出身のコロラトゥーラ・ソプラノ歌手であるエルビラ・デ・イダルゴのもとでレッスンを受けることとなる。後年カラスはこのイダルゴこそ一生の師であると語っていることから相当な影響を受けたのだと想像できる。イダルゴのもとでベルカント唱法やオペラの基本を学び、二年後の1938年に早くもアテナイ王立歌劇場でマスカーニの『カヴァレリア・ルスティカーナ』のサントゥツァを歌ってデビューする。さらにカラスは恩師のイダルゴから世界に認められる歌手になるにはオペラ発祥の地イタリアに行かなけらばならないと言われ続けていた。

 こうして戦後の1947年、カラス23歳の時にヴェローナ歌劇場でポンキェルリの『ラ・ジョコンダ』の主役を務め人気を博すこととなる。さらには1950年ミラノ・スカラ座でヴェルディの『アイーダ』、1956年ニューヨークのメトリポリタン歌劇場でベリーニの『ノルマ』を歌い大成功。ちょうどこのあたりがマリア・カラスの絶頂期だったのだろうか。

 それと並行して私生活の方では1949年、カラスの倍の年齢の実業家メネギーニと結婚している。カラス26歳の時である。私生活が充実しカラスは華々しく活動する。しかし、カラスは舞台に全身全霊をあげて取り組むだけでなく演目もドラマティコ、ベルカントの難しい役を歌い続けて声を酷使したため急激に声が出にくくなっていった。1950年代の終り頃には声の衰えが始まっていて、1958年ローマ歌劇場でのお得意の『ノルマ』の公演が中止になってしまうのであった。この公演ではイタリア大統領や政治家、著名人が多数出席する華やな中で始まったのであるが、第一幕を歌うと声の具合が悪いからキャンセルしたいとカラスは申し出るものの、代役を用意していなかったので劇場側が説得。でもカラスは応じずこの夜の公演は中止となる。こうしてキャンセルをすることも増え、彼女はスキャンダルまみれとなる。それ以前のことであるが、当初、肥っていたマリア・カラスはサナダ虫ダイエットで大幅な減量に成功して美しくなるなど、美貌のディーバといわれ実力、美貌を兼ね備え人気絶頂となったことはいうまでもない。ところが声の衰えはどうしようもなくソプラノの聴かせどころである高音域が不安定となりオペラの舞台から徐々に消えつつあり、リサイタルで歌うことが中心となる。カラス最晩年の1973年、1974年には来日し札幌、東京、大阪、福岡等で公演を行っているが、このころは海運王オナシスと愛人関係にあったようだ。結局、マリア・カラスは1977年9月16日、パリの自宅において亡くなった。死因は心臓発作と言われているが確証はなく謎の部分も多いとされる。まだ53歳だった。一度、ペール・ラシューズ墓地に埋葬されたが、生前の希望によりギリシャ沖のエーゲ海に遺灰がまかれたのである。

 これが世紀のディーバ、プリマドンナといわれたマリア・カラスの生涯であるが、その私生活や生き様が舞台上でのカラスに乗り移ったのか、まさに魂の歌唱力と演技力で他を圧倒したのである。かつてスカラ座のプリマドンナとして脚光を浴び、トスカニーニに天使の声とまで絶賛されていたレナータ・テバルディの代役として登場して以来、世は完全にマリア・カラスの時代となったのに・・・・・。あまりにもその活躍期は短かった。私がマリア・カラスを知った頃はすでに伝説のディーバとして轟いていた。ただパゾリーニの映画『王女メディア』に主演していたマリア・カラスを観た時は、歌を歌うマリア・カラスではなく演技をするマリア・カラスで、その時は寂しいなあと感じつつも、これが伝説のマリア・カラスか・・・・と感動したものである。すでにマリア・カラスがこの世を去って35年以上になる。でも未だに世紀のディーバとして名前が轟いているのもマリア・カラスだけといっても過言ではないだろう。ただその全盛期の映像があまり残っていないというのは残念である。世はステレオ時代になってはいたものの、マリア・カラスの残っている録音の多くはモノラル録音でしか聴くことが出来ない。せめてマリア・カラスの全盛期があと10年以上続いていたらと言うのは叶わぬ願いにしかすぎないのだろうか。


 ベリーニ『ノルマ』でのマリア・カラス コンサート形式で歌う



 プッチーニ『ジャンニ・スキッキ』~ 私のお父さんを歌う最晩年のマリア・カラス

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