2015.05.10 (Sun)
不発弾撤去
昨日の朝、大阪の繁華街・なんばからほど近いマンションの建設現場から太平洋戦争末期、アメリカ軍の空襲で投下された1トン爆弾の不発弾の撤去作業が行われ、辺り周辺が警戒地域となり物々しい雰囲気となった。そもそも先日、更地になっているマンションの建設作業場で掘削作業中に見つかったもので、昨日の朝に撤去作業を行うことになっていた。それというのも辺りは繁華街で、すぐ近くには南海の難波駅もあり商業施設も多いし電車も走っている。したがって不発弾を撤去するには半径300mを立ち入り禁止にしなくてはならない。そしてなによりも電車までを停めなくてはならないのである。そうなると平日だと通勤・通学に影響するので土曜日の朝に撤去することが決まり、昨日、陸上自衛隊員が起爆装置となる信管を除去し無事に午前9時36分、爆発の危険がなくなったのでクレーンで搬出された。その間、およそ2時間。立ち入り禁止区域には1600世帯、2200人が暮らしていて、大阪市は住民に区域外への外出や避難を呼びかけ近くの小学校2校に避難した。また南海電車は午前7時半から2時間半、難波駅を発着する電車の運転を見合わせた。これにより周辺の商業施設も開店を午後からとし、出入りが禁止された地域は普段の賑わいが嘘のように人影が消えた。この日は土曜日、人出がとても多い地域で、とんだお騒がせな爆弾騒動だった。とばっちりを食らったのは何も知らない観光客で関空に向かう電車が停まるなど大騒ぎだった模様。
このほど見つかった不発弾は長さが1.8m、重さが1トン。まさに1トン爆弾。おそらく昭和19年末から始まった空襲で落された爆弾だろうが、戦後70年経った今でもこうして見つかるということは、まだ見つかる可能性もあるということだ。以前にも大阪市内で不発弾が見つかって同様の騒ぎになったから、まだ全国の何処かの都市で同じような騒ぎが起こるかもしれない。今年は戦後70年と言う節目の年であるから余計に思うところがあるのかも知れないが、まだ戦後処理が完全に終わってないなと痛感する。
ところであの太平洋戦争で、日本は200以上の街が空襲を受けた。よくマスコミで採り上げられる昭和20年3月10日の東京大空襲だが、それ以外はあまり知られていないものの3月12日に名古屋大空襲があり、3月13日に大阪大空襲、3月17日には神戸大空襲と軒並み大きな街が空襲に遭っているのだ。それ以降は北海道を除く日本の主要都市は全てと言ってもいいほど絨毯爆撃を受けて死者、負傷者も甚大。よくこんな愚かな戦争を続けたものだと言いたいが、いまさら言っても始まらない。
一般的に知られてないが、京都も20回以上の空襲を受け、主なものは6回の空襲で死者300人も出ている。それに原爆投下第一候補都市だったというと、ほとんどの人は驚かれる。またポツダム宣言受諾された8月14日に落された大阪砲兵工廠での爆撃。これにより亡くなった人ほど莫迦らしいものはない。もう日本の敗戦が決まっていたのに爆弾が落されたのだ。アメリカも指示命令が徹底していたのかと思うが何ともふざけた話である。これは軍需工場が大阪城内にあり、そこをめがけて落したのだが、近くの省線の京橋駅に落ち、一般市民が大勢死んだのである。結果、翌日に天皇の玉音放送がラジオを通じて放送された。日本は無条件降伏をした。それから70年、日本は復興した。だが今も不発弾が発見される。戦艦武蔵が発見される。巨大潜水艦イ400がハワイの沖で発見される。戦後70年というがまだ太平洋戦争の余波は残っているなあと感じる今日である。
このほど見つかった不発弾は長さが1.8m、重さが1トン。まさに1トン爆弾。おそらく昭和19年末から始まった空襲で落された爆弾だろうが、戦後70年経った今でもこうして見つかるということは、まだ見つかる可能性もあるということだ。以前にも大阪市内で不発弾が見つかって同様の騒ぎになったから、まだ全国の何処かの都市で同じような騒ぎが起こるかもしれない。今年は戦後70年と言う節目の年であるから余計に思うところがあるのかも知れないが、まだ戦後処理が完全に終わってないなと痛感する。
ところであの太平洋戦争で、日本は200以上の街が空襲を受けた。よくマスコミで採り上げられる昭和20年3月10日の東京大空襲だが、それ以外はあまり知られていないものの3月12日に名古屋大空襲があり、3月13日に大阪大空襲、3月17日には神戸大空襲と軒並み大きな街が空襲に遭っているのだ。それ以降は北海道を除く日本の主要都市は全てと言ってもいいほど絨毯爆撃を受けて死者、負傷者も甚大。よくこんな愚かな戦争を続けたものだと言いたいが、いまさら言っても始まらない。
一般的に知られてないが、京都も20回以上の空襲を受け、主なものは6回の空襲で死者300人も出ている。それに原爆投下第一候補都市だったというと、ほとんどの人は驚かれる。またポツダム宣言受諾された8月14日に落された大阪砲兵工廠での爆撃。これにより亡くなった人ほど莫迦らしいものはない。もう日本の敗戦が決まっていたのに爆弾が落されたのだ。アメリカも指示命令が徹底していたのかと思うが何ともふざけた話である。これは軍需工場が大阪城内にあり、そこをめがけて落したのだが、近くの省線の京橋駅に落ち、一般市民が大勢死んだのである。結果、翌日に天皇の玉音放送がラジオを通じて放送された。日本は無条件降伏をした。それから70年、日本は復興した。だが今も不発弾が発見される。戦艦武蔵が発見される。巨大潜水艦イ400がハワイの沖で発見される。戦後70年というがまだ太平洋戦争の余波は残っているなあと感じる今日である。
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