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2008.05.01 (Thu)

忘れ得ぬ2000ギニー・ステークス

 今週の土曜日(5月3日)に英米で、それぞれ3歳クラシック3冠レースの第一関門の2000ギニーSとケンタッキー・ダービーが行われる。日本ではすでに3歳クラシック3冠レース第一弾の皐月賞が行なわれ伏兵キャプテントゥーレが勝ったが、レース後に骨折が判明し、ダービーの出走は不可能になった。

 一方、アメリカは、ケンタッキー・ダービーから始まって、プリークネス・ステークス、ベルモント・ステークスと一ヶ月半の間に3冠レースを全て行なってしまう。アメリカは1978年から3冠馬が出てないので、そろそろ見てみたいという気もする。対する本家のイギリスはどうかということなのであるが、イギリスも3冠馬は1970年のニジンスキーを最後に出現していない。

 ただイギリスの場合は出現していないというよりも、最初の2000ギニーを勝った馬が、次のダービーに出てこない方が多いということで、3冠馬という栄誉も存在価値がなくなっている。思えば3年前の2005年、日本ではディープインパクトが史上6頭目の3冠馬となり騒がれたのが、つい昨日のことのようである。だから日本では今もクラシック3冠馬というと名馬として最高のの称号に値するのだ。そしてアメリカでもクラシック3冠馬は価値がある。

 ところが競馬の本家であるイギリスでは、3冠馬は何の価値もなくなった。いや、価値がなくなったというよりも、三つのクラシック・レースを全て出てくる馬がいなくなったといった方がいいだろう。だから1970年に3冠馬となったニジンスキーがおそらく最後の3冠馬になるだろうと噂されているぐらいだ。それは何故かというと、アメリカの3冠レースは距離が約1911m~約2414mの間で争われるのに対して、イギリスの場合は2000ギニーが1マイル(約1609m)、ダービーが約2423m、セントレジャーが約2937mという距離で行なわれるので、違う距離で勝とうという考えが時代に合わなくなってきたためである。それで今日、これから語ろうとする話は、そういった考えが競馬社会に浸透するきっかけとなった頃の2000ギニーであると考えてもらえればいいだろう。

 私が競馬に興味を持ったのは小学生の頃である。その頃の名馬というとシンザンでありメイズイでありキーストンだった。でも外国の競馬に興味を持ったのは、少し遅れてスピードシンボリやタケシバオーが海外遠征を盛んにしていた頃である。でもほとんど勝負にならなかった。その頃のアメリカやヨーロッパの馬はとてつもなく強かった。強かったというよりも日本の馬が弱かったといった方がいいかもしれないが、日本の馬と欧米の馬とでは月とスッポンぐらいの差はあっただろう。そんな時であろうか、ニジンスキー(Nijinsky)という馬がイギリスの3冠馬になった。これは一般のニュースとしても取り上げられ、私はニュースでその映像を観て唖然としたものだ。ニジンスキーは何と35年ぶりの3冠馬だという。過去に2000ギニー、ダービーと連覇し2冠馬となっても3冠目の最長距離レースのセントレジャーで敗退するといったパターンが多く、またダービーとセントレジャーを勝っても、その前の2000ギニーに負けているため3冠馬になれなかったという場合もあって、1935年のバーラムからニジンスキーまで3冠馬の出現は皆無だったのである。それでもニジンスキーはイギリス競馬史上15頭目の3冠馬というから、まことにイギリスの競馬は歴史が長いと言うことになる。

 セントレジャーに勝って11戦全勝で3冠馬となったニジンスキーは、次の目標をフランスの凱旋門賞に絞った。10月のパリ、ロンシャン競馬場、ニジンスキーは堂々の1番人気、レース運びも悠々としていた。最後のストレートでニジンスキーは先行各馬を捉えにかかった。あと100m、ニジンスキーの横に1頭のフランス馬が競ってきた。同年のフランス・ダービーに勝っているササフラである。2頭は競ったがニジンスキーはササフラに敗れた。初の敗戦である。ところがニジンスキーは次のチャンピオンSでもロレンザチオという馬に負けてしまったのである。

 当時、私は外国競馬に余り詳しくなかったので、強い馬というのはどんな距離でも強いものだと思っていた。事実、日本の競争馬は皐月賞(2000m)に勝てばダービー(2400m)、秋には菊花賞(3000m)、古馬になると天皇賞(3200m)というのが一流馬の歩む路線であった。今のように距離別選手権というものが確立されてなかったのである。

 その頃、本家のイギリスで言われていたニジンスキーの敗因は、セントレジャーに勝つためのトレーニングをしたため、保持していたスピードと瞬発力が弱まったからという意見が支配的であった。そして結局、この年を境目にして、ヨーロッパの一流馬は長い距離を敬遠するようになったといわれる。それは、ニジンスキーが3冠馬に輝いた1970年だから、今から38年前のことになる。でも翌年になると、ダービーでさえ距離は長いという馬が出現するので私はさらに驚くのである。

 ニジンスキーがターフを席巻していたこの年、ある3頭の2歳馬がデビューしていた。マイスワロー、ミルリーフ、ブリガディアジェラードである。

 マイスワロー(My Swallow)は、1970年5月にデビューし2連勝。ミルリーフ(Mill Reef)も同じ1970年5月にデビューし2連勝。ブリガディアジェラード(Brigadier Gerard)は、1ヶ月遅れの1970年6月にデビューし当然のように勝つ。

 さて、1970年7月20日、フランスのメゾンラフィット競馬場のロベール・パハン賞(1100m)にマイスワローとミルリーフの両雄が早くも激突する。スタートから飛び出したマイスワローを前に見てミルリーフが待機策をとる。でもマイスワローは予想以上のスピードを持っていた。ミルリーフは猛然と追い込んだが、アタマ差まで詰めたところがゴールでマイスワローが勝った。

 1970年の3頭の成績は、マイスワローが7戦7勝。ミルリーフが6戦5勝2着1回、ブリガディアジェラードが4戦4勝であった。

 翌年の1971年、3頭とも3歳馬となり、イギリス競馬の3歳クラシック・レース2000ギニー・ステークス(約1609m)で、お互いが顔を揃えることとなった。5月1日のニューマーケット競馬場の直線コースに6頭が出走してきた。これは2000ギニーとしては希に見る少なさである。それは余りにも3頭が強すぎるということで、他の陣営が勝ち目無しと出走を見合わせたからである。

 1番人気は8戦全勝のマイスワロー、2番人気は7戦6勝のミルリーフ、3番人気は4戦4勝のブリガディアジェラードだった。

 レースはたった6頭なので静かにスタートが切られた。マイルの直線コース。でも当初から3頭の競馬と目され、唯一ニジンスキーの全弟ミンスキーが一角崩しを狙っていた。レースは戦前から世紀のレースになるだろうという評判が立っていたが、実際のレースも見応えがあった。スタートからマイスワローが飛ばす飛ばす、それを2歳時の借りを返そうとばかりミルリーフがマイスワローの直後につけてマークする。それを見るようにブリガディアジェラードが追走する。いよいよ仕掛けどころに入る。マイスワローが懸命に逃げる。それをミルリーフが追う。ブリガディアジェラードが虎視眈々と追走する。早くも4番手のミンスキーは脚色が怪しい。後の2頭は勝負にならない。

 さあ、マイスワローを逃がすまいとミルリーフが並びかけようとした時、猛然とブリガディアジェラードがスパートした。あっという間に前の2頭を差しきり、3馬身差をつけてゴールイン。2着にはミルリーフが入った。マイスワローは3着。 

【More・・・】

 2000ギニー史上に残るレースは終わった。でもこのレースが世紀のレースと呼ばれるのは何故かというと、勝ったブリガディアジェラードと2着になったミルリーフの2頭が、その後、20世紀史上に残る名馬へと成長していくから、この2000ギニーが史上最高の2000ギニーと言われるのである。

 とりあえずブリガディアジェラードは最初の3冠レースを無敗で勝った。だから私は、ダービーに行くものだとばかり思っていた。でもダービーにブリガディアジェラードの姿はなかった。あの頃、外国の競馬などの中継はあるはずもなく、私は競馬週刊誌のコラムや海外情報のコーナーで、その種の記事を拾い読みしていただけなので、何故、ブリガディアジェラードがダービーに出てこなかったのかというのは、その後に知ったのである。つまり陣営はスタミナに不安があるということで、マイル路線を専門に走らせることにしたということだった。私は何と勿体無いと思ったもので、強い馬は短い距離も長い距離も強いものだとばかり考えていた。

 結局、ダービーに出てきたのはミルリーフのみで、マイスワローはその後、短い距離を2戦して2着、2着で引退してしまった。ミルリーフはダービーに圧勝し、次に古馬相手のエクリプスSに出走、ここも圧勝し、とうとうイギリス競馬最高峰のキング・ジョージⅥ世&クイーン・エリザベスSに駒を進めてきた。でもここでも2着オルティス(前年のイタリア・ダービー馬)に6馬身という決定的な差をつけ大勝。この頃には前年の3冠馬ニジンスキーより上の評価がなされていた。

 一方、マイル路線に的を絞ったブリガディアジェラードは、セント・ジェームズS、サセックスS、グッドウッド・マイル、クイーン・エリザベスⅡ世Sと全勝、やや距離の長いチャンピオンS(約2011m)も快勝。通算成績10戦10勝で3歳時を終えたのである。

 キング・ジョージを勝ったミルリーフは、その年の締めくくりにヨーロッパ最高峰の凱旋門賞に出走、ピストルパッカーに3馬身差をつけレコードタイムで快勝した。

 翌年の1972年も2頭は現役に留まり、ミルリーフは緒戦のガネー賞で2着に10馬身差をつけ、ますます強くなっている印象を与えた。ブリガディアジェラードもロッキンジS、ウエストベリS、プリンス・オブ・ウェールズS、エクリプスSと全勝。通算成績は14戦14勝。

 ミルリーフはコロネーションCで珍しく辛勝した。いつものような圧勝ではなかったので、どうしたのかというとインフルエンザに罹っていたという。でも通算成績は14戦12勝2着2回。この時点で歴史的名馬との声が上がっていた。そして、いよいよキング・ジョージでブリガディアジェラードと再戦するということが決まった。

 私はそのニュースを聞いて胸をワクワクしていた覚えがある。でもミルリーフは熱がぶり返し、出走を見合わせた。仕方なく、ブリガディアジェラードのみが出走した。スタミナに不安があるブリガディアジェラードであるが、初の12ハロン(約2414m)も克服して快勝。通算成績が15戦15勝となる。これでいよいよリボーの持つヨーロッパ記録の16連勝に並ぶかと思ったが、何と伏兵のロベルトに次走のベンソン&ヘッジス・ゴールドCで逃げ切りを許してしまい初の2着に敗退した。でもその後、2連勝して引退。通算成績18戦17勝2着1回。たった一度の敗戦も距離が約2112mと不得手な距離であったからで、得意の距離だと全て楽勝している。

 その頃、熱が治まったミルリーフは2連覇をかけて凱旋門賞に出走すべく調教を開始した。だが好事魔多し、調教中に左前肢を骨折し引退した。それはちょうどミュンヘン・オリンピックが開催中の1972年8月30日のことであった。

 以上、話が長くなったが、1971年の2000ギニーが何故、世紀のレースであったかということがこれで解ったと思う。でも私が、当時、1番驚いたのが、どんなに強いと思っても距離が合わないと思ったらどんな大レースでも出走を見合すという考えが、ヨーロッパの競馬人には根付いているということだった。もしダービーでブリガディアジェラードとミルリーフが対決していたらどうなっただろうと考えるのは楽しい。でも前年のニジンスキーの凱旋門賞敗退の例もあって、全ての距離で勝つことの意味よりも、国際レースで勝つことの方が大切であると時代が教えてくれたことと、競馬の価値が変わりだしたこと、すべて転換期はこの頃にあったのだと最近になって思う。

 今も日本では3冠レースに勝つことが名誉であるという。でも日本の場合は皐月賞の距離が2000mとイギリスの2000ギニーよりも約400m長い。だから2000mから3000mという距離の中で戦うので比較的に楽だ。もし皐月賞が1600mという距離で行なわれていたとしたら、3冠レースもとっくに死滅していたかもしれない。だから日本の場合は、イギリスのように3冠レースが形骸化していなくて、今も価値があるというのは救いかもしれない。ただ菊花賞のような長距離レースは、やはり時代遅れという指摘も多く、今後、菊花賞が生き残れるかどうかは出走馬の格次第ということになる。

 伝説の1971年の2000ギニー。逃げるマイスワローを懸命に捉まえようとするミルリーフ。でも虎視眈々とチャンスを狙っていたブリガディアジェラードが、一気にスパートして前の2頭を差しきってしまう。

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