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2008.05.03 (Sat)

寺山修司を偲ぶ・・・・・・死後25年を経過して

 明日、5月4日は寺山修司が亡くなってから、ちょうど25年目に当る日である。昭和の詩人・寺山修司が僅か47歳で亡くなったのが1983年(昭和58年)5月4日であった。寺山修司といっても今では知らない人の方が多いかもしれないが、彼はかつてテレビの画面を通して、青森出身の朴訥とした喋り方で独特の世界を醸しだし、視聴者にとても大きな存在感与えていたものである。

 私が寺山修司という名前を意識したのは中学生の頃だったと記憶している。あの頃にザ・フォーク・クルセダーズの歌う『戦争を知らない』という曲を聴いて、いい曲で特に詩がいいなあと思い、作詞者のところに寺山修司という名前を見つけたというのが、寺山修司を知るきっかけだったのである。そして翌年、今度はカルメン・マキの歌う『時には母のな子のように』を聴いたとき、またまた作詞者の項に寺山修司の名前を見つけることができた。またその後、テレビ・アニメ『あしたのジョー』の主題曲を聴いて、これは寺山修司ではないだろうかと思ったら、やはり間違いなく寺山修司であった。このように寺山修司は彼特有の世界観がある。それが寺山修司であった。

 彼は1935年(昭和10年)青森県に生まれる。9歳の時、父が戦死したため母1人子1人の母子家庭となるが、まもなく母も経済的事情のため息子・修司を青森において1人、福岡へ出稼ぎに出る。残された寺山修司は小学校6年で自炊生活を始めるが、やがて映画館を経営しているおじさん夫婦が引き取り、以降、大学に入学するまで映画館が彼の家となる。彼が無類の映画好きなのは、どうやらこの辺に原因があるようだ。後に映画や演劇の脚本を書くようになったのも、すでにこの頃に、より多くの映画と接し、それによって養われた結果なのだろう。

 寺山修司は大学に入りまもなくネフローゼという奇病に罹り入院生活を余儀なくされる。何とか持ち直すが絶えず病とは隣り合わせだったようである。学生時代から詩や戯曲を書き、その頃からすでに競馬や賭博にも興味を持っていたようである。その後、病状がおもわしくなく早稲田も退学して、ラジオやドラマの脚本を書いて自活しだす。さらに実験映画の演出や数多くの詩集、戯曲などを出版。そして27歳の時に女優・九條映子(九條今日子)と結婚。1967年(昭和42年)、九條映子と仲間を集めて演劇実験室『天井桟敷』を創立。しかし、劇団運営に熱中するあまり離婚。その後も九條映子とは劇団のスタッフとして寺山修司が亡くなるまで親交は続く。これが私の知るところの大雑把な寺山修司の経歴である。

 この経歴を見るだけで寺山修司が如何に人と違った環境下におかれた少年時代を送っていたかがよく判る。ほとんど家庭というものは存在しない。彼の少年期というのは暖かい一家団欒とは無縁な境遇であり、およそ月並みな少年とは物事に対する洞察力、観察力に違いがあるのは、こういった家庭状況からきているものと推測される。少年期にして研ぎ澄まされた鋭利な刃物のような眼で物事を見つめ探索していく思想構造は、まさに幼くして大人の慧眼力を持っていたものと思われる。それだけに彼の著書にもある『家でのすすめ』が家庭離散を味わった疎外感のある子弟に支持され、当時の家出少年少女達のボストン・バッグには必ずこの本が入っていたという現象を巻き起こすのである。また『書を捨てよ、町へ出よう』に見られる彼の体験主義礼讃は、寺山修司がたいへんな読書好きにもかかわらず、これらを否定している。これは机上論者にありがちな書生論を打破し、さらにはエリートを粉砕しようとする仲間の先陣に立って、学歴偏重、学閥、閨閥、家柄などが形骸化した民主主義社会において、相変わらず横行する世の中へあてつけようとする意味が込められていたのではないだろうか。

 彼は世の中が負け犬だとか落ちこぼれだとか、すでに世間から疎んじられている者に対して啓開の道を切り開いているようにも思え、敗者の美学というものに執着しているふしがある。だからアンドレ・ジイドの言葉を借りて若者に対して行動を起こせと呼びかけているのかもしれない。こんな寺山修司であっただけに彼の一貫した思想や行動には、私達にとって大いに共感を呼ぶところがあった。

 ところで寺山修司というといったい何を職業としていたのだろうか・・・・・。詩人、歌人、作家、脚本家、演出家、随筆家、評論家等、彼につけられた肩書きはこれだけでは終わらない。彼は自分の職業を寺山修司と言っていた。劇団の主宰者としては彼が死去するまで続いていたし、映画もいくつか作品があったようだ。それに彼の著書の見られる広範囲における博覧強記ぶりは、我々を感嘆させずにはおられないぐらいだった。ちょっとした評論、批評の類は数え切れないぐらいである。文学、映画、演劇等はもちろんのこと、社会、政治等から果ては野球、ボクシング、そして競馬がある。しかし、彼の場合はただ斜に構えて評論するだけに留まらず、その世界に没頭してしまい、挙句の果ては現実を越えてしまうといった純粋性があり、それがまた興味をそそられるのである。かつて漫画『あしたのジョー』の中の登場人物である力石徹の葬式を催した人々がいて、中心になっている人の中に寺山修司の名前を発見してみたり、プロボクサーのファイティング原田が無敵の世界チャンピオン、エデル・ジョフレに挑戦する前で、たいへんな減量に苦しんでいた頃、原田に鰻重をご馳走した人がいて、それが実は寺山修司であったというのは、今となっては笑えるエピソードである。

【More・・・】

 それで私が寺山修司における最も理解している側面としては、競馬人としての彼である。彼の競馬に対する思い入れというものは、これがまた相当なものであった。寺山修司が競馬に興味を持ち出したのは昭和30年代の後半らしい。それ以前から競馬のような賭け事は好きだったということはすでに書いたが、本格的に競馬へのめり込んでいったのは、彼の友人であり作家であった山野浩一の影響によるものが大きいという。今でこそ競馬関係の著書も多く、血統批評には特にうるさい山野浩一であるが、当時は新進気鋭のSF作家だったのである。その山野浩一について徹底的に競馬を仕込まれたということらしいが、たとえ山野浩一と知り合わなかったとしても、寺山修司におけるその後の生き様を見ていると、いつかは競馬の世界に没入していったであろうと想像ができるのである。

 寺山修司の競馬観というものは、これがまた彼、特有の世界がある。『馬敗れて草原あり』『競馬への望郷』等を読んでいると、やはりその時代の競馬観が現れてくる。ミオソチス、カブトシロー、ニホンピローエース、モンタサンといった彼が好きだった馬の名前が無数に出てくるが、それらの馬に一貫して言えることは、強いようでどこか頼りなく、悲愁、哀傷に包まれ、それがまた郷愁を誘うといった陰のある馬に思い入れがあるようだ。たとえば伝貧(致命的な馬の伝染病)に罹ったクモワカから、その孫テンポイントに至るまで、一族の悲劇を扱った話や、一代のヒーローであったハイセイコーに関する一連の文言は、巷に氾濫する常套的なサクセス・ストーリーではなく、どこかペシミズムを感じさせ、敗者には敗者の哲学があり、敗者としての誇りを描出させている。競争馬の物語を語る上では、少なくともシンザンやシンボリルドルフいったような完全無欠の競争馬は寺山修司の趣向に合わなかったのであろう。そして寺山修司の世界における競馬観は、勝者よりも敗者の方にドラマを感じとっていたのかもしれない。また寺山修司の競馬というのは、人生そのものかもしれない・・・・・。

 人間の一生なんて、たかが競馬の一レースにいかすぎない・・・・・・・・・・寺山修司は絶えず口にしていたが、彼の競馬観はこれによって要約されていると思う。それだけに彼の競馬に対する思い入れというのは、馬券を買ったときでも1頭の馬に惚れ込んで、そこに全ての人生を投影するのである。

 ・・・・・人は自分に似た馬に賭ける・・・・・これこそ彼の人生観であり競馬観である。おそらく彼は次のように思っていたのではないだろうか。・・・・・人はすべてが成功者では有り得ない。大多数の敗者の上に一握りの勝者がいるに過ぎない。それだけに敗者にも立派に存在する価値があり、生きていく美学というものはある(どこかデカルトの『方法序説』みたいだが)。

 これほど競馬が好きだった寺山修司であるが、人生は馬のように短かった。昭和58年5月4日に亡くなったが、これは突然だった。・・・というのもおかしいが、亡くなる僅か半月前の4月17日には、フジ・テレビの競馬中継にゲスト出演していたのである。彼が贔屓にしていた吉永正人騎手の乗るミスターシービーが皐月賞に勝って喜んでいたところを、私は画面を通して見ていたのだから、驚かずにはいられなかった。ところが、翌日の18日の夜に発熱。21日に意識不明のの重体に陥る。そして意識も回復する事もなく5月4日正午過ぎ死去。死因は肝硬変に急性腹膜炎を併発して悪化したということである。まさに生き急いだ戦後の石川啄木の終焉だった。彼はミスターシービーが3冠馬になるところも、シンボリルドルフの快進撃も、もし生きていたら夢中になったのではないかと思えるオグリキャップの出現も、メジロマックイーンもトウカイテイオーもナリタブライアンもサイレンススズカもテイエムオペラオーも、当然のようにディーブインパクトも知らずして死んでいった。もし彼が現在まで生きていたとしたら、これらの馬に対してどのような名文句を残していただろうか・・・・・・・。今となっては知る由もない。実に残念である。

 ザ・フォーク・クルセダーズが歌う『戦争は知らない』(動画はなし)


 カルメン・マキの歌う『時には母のない子のように』


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ゆめパパ |  2008.05.06(火) 09:55 |  URL |  【コメント編集】

♪こんばんは

 JACKさん、こんばんは。
寺山修司の競馬エッセイというのは、どこにでもありがちな話で、彼のエッセイに登場するスシ屋の政とか、トルコの桃ちゃん、バーテンの万田、予想屋のフルさんというのは、おそらく彼の創作の人物でしょう。たぶん寺山修司が彼らの人物設定を使って、色々と語りたかったのだと思います。彼は競馬一つとっても演出家らしいドラマ仕立てにしてエッセイを書きます。だから読んでいても面白いのです。

 しかし一般的に言って日本の競馬ジャーナリズムは貧困です。競馬ライターと言っても、やっていることは予想行為ばかりで、当れば官軍・・・・これが現実です。私は記者の予想を見て馬券を買うことなんかないので、彼らの予想は見ますが、そんなものどうでもいいのです。

 ジャーナリズムとは物事の事象に対して、本質を見抜き、真理を追究しなければならないのに、日本の競馬関係の記者はただの予想屋稼業に陥っています。少なくとも文筆業の端くれなら、もっと問題提起して色々な難題を論じなければ、ジャーナリストとはいえないと思うのですが、実に困ったものです。

 日本の競馬記者がこの程度だから、競馬が何時までたっても偏見の目で見られるかもしれません。だから私は、競馬を正面から捉えず、側面から様々な捉え方をしている寺山修司の読み物に興味を持ったのです。だから最近は、寺山修司のようなタイプの書き手がいないのは寂しいですね。でもひとときよりは競馬記者のレベルも上がったと思います。ただ彼らの書く記事なんか私は読みたいとも思いませんが・・・・・。最近は、ほとんどの競馬記者が私よりキャリアが浅いなあと感じます。長いこと見続けると、こんなことも起こりうるのでしょう。
uncleyie |  2008.05.05(月) 20:11 |  URL |  【コメント編集】

♪われに5月を

uncleyieさん、こんばんは。
寺山さんが亡くなったのは、私が高校生の頃です。当時そのことは知らなかったのですが、大学生になってから彼の世界に触れました。

私が、競馬に興味を持ち始めた3年ほど前から、寺山さんの競馬エッセーも読むようになりました。
『寿司屋の政』などを通して語られる競馬は、今読んでも楽しめます。uncleyieさんのブログに時々登場する、昔のレースの話も多く残されています。

寺山さんは、競馬が人生の比喩ではなくて、人生が競馬の比喩である、とも語っていました。
競馬に対する偏見があまりなかったのは、寺山さんの競馬観を知っていたからかもしれません。

寺山さんのように様々な分野で活躍する方はそれほどいません。演劇や文学界にとっても彼の死は痛手でした。彼のように独自の視点で競馬の奥深さを伝える書き手がいないのも、淋しいことです。
テンポイントが果たせなかった海外遠征の夢に、毎年のように挑戦する馬が現れるなど、25年で競馬界も様変わりしました。競争馬に寄せる人の想いは、何も変わっていないのかもしれません。

毎年、今頃になると寺山さんのことを思います。今年は、このブログを読んで、より思いを強くしました。
JACK |  2008.05.04(日) 23:12 |  URL |  【コメント編集】

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