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2009.03.04 (Wed)

福永洋一を思い出す

 今から30年前の昭和59年(1979年)3月4日、阪神競馬場で行われた第26回毎日杯で落馬事故が起きた。競馬というのには落馬がつきものだから、別段、驚くことではないが、この日の落馬事故後の周辺は慌ただしかった。第4コーナーを回ってから直後、中団にいたハクヨーカツヒデが落馬した。そこへすぐ後ろにいたマリージョーイが避けようとしたものの接触。マリージョーイは前脚を払われるように転がった。ハクヨーカツヒデの斉藤博美騎手は無事だったが、マリージョーイの騎手は馬場に頭から叩きつけられ、跪き顔面を地面に擦りつけたような姿勢で動こうとしなかった。

  騎手の名前は福永洋一、30歳。当時、リーディングジョッキーを9年連続続けていて、天才と称されていた騎手である。目前で起こった出来事に競馬関係者も競馬ファンも我が目を疑った。何故なら福永洋一だけは落馬をしないと思っていたからだ。いや、彼も人の子、落馬だってする。現にこれまで数度となく落馬している。でも、その度に「いてー!」といって、何事もなかったかのように苦笑いしながら起き上がってきた彼を、多くの人が目撃してきたからだ。つまり福永洋一なら大丈夫と感じていた。なのに落馬して馬場に落ちた時の姿勢のまま彼は全く動かない。1分、2分、3分、暫くして救急車が現れた。この時、観衆が福永洋一の身の上に不幸が訪れたことをようやく覚ったのである。福永洋一は尼崎の労災病院に運ばれ、すぐさま手術が施された。舌を噛み切っていて、脳挫傷と診断された。一命を取り留め、当初は植物人間という可能性もあったが奇跡的に回復した。・・・・これが30年前の毎日杯で起こったときの私が覚えている範囲での大まかな様子である。

 福永洋一といっても、今、どれだけの人が認知しているのだろうか。競馬ファンに聞いても、おそらく福永祐一の間違いなのでは・・・・・・と問われるかもしれない。仕方が無い。彼がターフを去ってから既に30年。彼の現役時代を知る人は、すべて40代半ば以上の年齢にさしかかっているだろう。だが、彼を知る世代の多くの人は、本当に天才と言われる称号を与えてもいい騎手は、福永洋一ただ1人であるという。またそういった騎乗ぶりが目立つ唯一の騎手であった。

 最近、三浦皇成がたいへんな勢いで勝ち星を伸ばし、天才という声もあがりだしたし、武豊が天才騎手として、名声を確立して20年、今や前人未踏の勝ち星をどんどんと更新中である。でもオールド競馬ファンにしてみると、天才と呼べる騎手はたった一人。福永洋一だけだという。このように言うと、若い世代から当然のように反論はあるだろう。でも天才と感じさせる騎手は、どのように考えても福永洋一をおいて、ほかにいないだろう。

 武豊はとにかく上手い。よく勝つ。それは三浦皇成にもいえるだろう。でも彼らは天才というよりも秀才タイプである。また、過去においても名人、達人、職人、豪腕、業師といったような称号を与えてもいい騎手は大勢いた。だが、天才となると、福永洋一がもっとも適しているというのは、私を含めて、古い競馬ファンが持っている感想である。

 福永洋一は1948年12月18日に高知県で生まれ、中学を卒業するや馬事公苑騎手養成長期課程に入校。同期には岡部幸雄、柴田政人、伊藤正徳らがいて、花の15期といわれた。彼らは1968年にデビューし、その出世頭が福永洋一であったことはいうまでもない。福永洋一は1968年に14勝、1969年に45勝するが、騎乗ミスも多く、ポカの多い若手騎手として師匠にあたる武田文吾にいつも説教されていた。だが吸収も早く、3年目に勝ち星が86勝。この年、中央競馬会の全国リーディングジョッキーに輝き、この年から落馬負傷、引退を余儀なくされる1979年の前年まで9年連続、全国リーディングジョッキーの栄誉に輝くのである。1977年に126勝をあげ、野平祐二の年間最多勝記録を更新し、1978年には131勝で、さらに記録を更新。まさに全盛期といえる頃に、彼は競馬界から去ったといえるだろう。ところで、131勝しか勝ってないのに何で天才なの? と思われるかもしれないが・・・・・・・・。

 30年前と今とでは、騎乗システムが違うので所詮、比較は無理だろう。2005年に武豊は212勝もしているから、福永洋一の131勝など問題にならない数字ではあるが、当時と最大の違いは、厩舎所属馬に乗るか、フりーの立場で勝てそうな有力馬に乗れるかどうかということだ。それにより勝ち星の数がおのずと変わってくる。現在のように上手い騎手に、良い馬があてがわれるというのではなく、飽く迄も自分が所属する厩舎の馬を優先的に乗らなければならないといったことが、慣習として残っていた時代だったのである。だから福永洋一という騎手は、大レースでも人気の無い馬に乗ることが多く、それでいて大向こうを唸らす騎乗ぶりで勝ち星をあげ、ファンをアッといわせたのである。だから現在の騎乗システムであれば、福永洋一の勝ち星はさらに増えていただろう。

 菊花賞でニホンピロムーテーに騎乗したときは、向こう正面から先頭に立ち、そのまま1000mの競馬にしてしまい逃げ切ってしまった。また3200mの東京の天皇賞では、人気薄のヤマニンウエーブに乗り差し切ってしまい、天皇賞史上初の連勝複式万馬券という大穴をあけたり、やはり天皇賞で人気薄のエリモジョージに騎乗し、それまで追い込んでいた同馬で逃げきってしまったことや、ハードバージに騎乗した皐月賞では、とても出られないような馬ゴミの間隙をついて、インコースからあっという間に抜け出してきた。とにかく手が付けられないといった騎乗を試みるのが福永洋一だったのである。だから優等生的な騎手のイメージにはほど遠い。しかし、閃きがあり、何をしでかすか判らない。それが福永洋一であり、唯一の天才だという人が多い所以なのである。 

 

【More・・・】

 武豊のように人気馬を確実に正攻法で勝たせるというのも、ある意味で天才かもしれないが、彼がどのように騎乗するか大体は判る。やはり常人の騎乗ぶりだ。だがアッといわせるような騎乗で、度々、人気薄の馬を勝たせるというのが、福永洋一だったのである。

 ただ残念なことに、彼は余りにも早くターフを去りすぎた。年齢的にいっても、あと20年ぐらいは乗れた筈である。もし福永洋一がその後も現役を続けていたとしたら、武豊と当然のように凌ぎを削ったであろう。そういった光景を一度、観てみたかったというのは、私だけの願いではないだろう。もし、彼があの時、落馬事故に巻き込まれなかったら、武豊は福永洋一の作った記録を追いかけているといった状況になっているのではと思う。

 福永洋一が去ってから、息子の福永祐一が騎手としてターフに帰ってきたが、やはり天才は2代続かないものだと感じた。あれから30年、最近はテレビでも福永洋一のことを取り上げなくなった。彼は今でも、椅子に座って、競馬中継を観ながら何も言わずに微笑んでいるのだろうか・・・・・・。

 1976年秋の京都記念。福永洋一が乗った馬の中で、最も印象深いのがエリモジョージだろう。気まぐれジョージといわれ、天才・洋一が最も手を焼いた馬である。この時、エリモジョージは2400mで、2分25秒8という日本レコードで快走した。このタイムは、その後、第1回ジャパンCでメアジードーツに破られるまで、5年間、日本レコードとして残っていた。


 最後に貴重な映像を貼り付けてみた。昭和53年のダービーに望む、福永洋一、岡部幸雄、柴田政人の同期の騎手にスポットライトを浴びせている。なお、インタビューをするのは、故・寺山修司である。

 ダービーの日1


 ダ-ビーの日2


 ダービーの日3

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*Comment

でめ徳さん、コメントありがとうございます。先日、高知競馬場で福永洋一記念というレースが設けられ、ひさしぶりに彼の姿を拝見しうれしく思います。リハビリは今でも続けているようで、60歳をこえましたが、まだまだ元気で、言葉はしゃべれないものの顔は何かを言いたそうで、競馬場に来ると血が騒ぐのでしょうか、昔の自分の姿を思い出しているみたいで懐かしく思いました。
uncleyie |  2010.05.21(金) 18:08 |  URL |  【コメント編集】

 翌年の落馬事故のことを思うと 中尾師との約束でさつき賞馬をけって騎乗したホリタエンジェルか大外突っ込んだこの映像のカンパーリにダービーをとらせてあげたかったですな、事故の年がお手馬のカツラノハイセイコ
ですし、だれかが書いていましたが、本当に
神様は時にひどいことをなさる。
福永洋一 誠にすごい馬乗りでした。

内からインターグロリア 福永洋一怖い怖い
これはうまく乗った一馬身開いている
桜花賞馬の貫録かそれとも福永洋一か
でめ徳 |  2010.05.19(水) 22:14 |  URL |  【コメント編集】

♪コメント有難うございます

 どなた様かコメント有難うございます。
確かに今と比較すると福永洋一の騎乗回数は少ないですね。空きがあれば声がかかるという時代ではなかったですから仕方が無いですけど、30年でこんなにシステムは変わってしまったのですね。
uncleyie |  2009.03.16(月) 21:09 |  URL |  【コメント編集】

今と年間の勝利数が違う一番の要因は騎乗回数ですね。
福永洋一の年間騎乗回数は400回~500回に対して、
今の騎手は800回~900回も乗っています。
福永洋一の5086戦983勝は武豊の記録と比較したら
武豊が1994年終了時点で5201戦928勝だから。
武豊を上回るペースで福永洋一は勝っていたけどマスコミ
はそのことは言わない。
 |  2009.03.16(月) 15:41 |  URL |  【コメント編集】

♪はじめまして

 TTGさん、はじめまして。コメント有難うございます。この映像は昭和53年にNHKで放送されたものですが、この翌年に福永洋一は落馬事故でターフを去りました。また、寺山修司は、この5年後に亡くなりました。今となっては貴重な映像ですね。

 この後、岡部も柴田も名騎手として出世していきました。でも2人は同期の福永洋一の背中を、絶えず追いかけていたといいます。このレースの6年後に岡部はシンボリルドルフと出会い、ダービージョッキーになり、柴田も15年後にはウイニングチケットで念願のダービージョッキーとなりました。結局、福永洋一だけが、ダービージョッキーになれず、競馬界の表舞台から去りました。本当に人の運命というものは判らないものです。
uncleyie |  2009.03.09(月) 20:52 |  URL |  【コメント編集】

福永洋一さんの映像がなかなか見れる機会がなかったので、ありがとうございます。岡部さんも若くて凛々しいですね。また、福永洋一さんの映像がありましたら是非とも見たいです!
TTG |  2009.03.09(月) 06:34 |  URL |  【コメント編集】

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