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2009.10.19 (Mon)

ザ・フォーク・クルセダーズを聴く

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 先週の土曜日(10月17日)、加藤和彦が軽井沢のホテルで首吊り自殺をしたという。まさかと思ったが本当だった。彼の身の上に何があったのか知らないがとにかく驚いた。でも今の若い人は加藤和彦といっても知る人は少ないだろう。かつて昭和40年代の前半に一世を風靡した音楽制作集団ザ・フォーク・クルセダーズの中心的人物であったといえばいいだろうか。とにかくやることなすこと全てが斬新でお洒落であった。

 思えば私は少年の頃からポップスは洋楽一本で聴いてきたが、唯一、日本ではザ・フォーク・クルセダーズに興味を持った。何故かと言うと余りにも衝撃的に音楽シーンに登場したからである。昭和42年の秋だろうか、私の姉がラジオで洋楽を聴いていたと思ったら、或る日、ラジオから聴こえてくるのは日本語のおかしな歌だった。

~おらは死んじまっただ おらは死んじまっただ おらは死んじまっただ
 天国に行っただ
 長い階段を 雲の階段を おらは登っただ ふらふらと・・・・・

 何だこれはと思った。テープを早回しした奇妙な声で歌っている。こんな変な歌が流行っているのかと思った。いわばこれがザ・フォーク・クルセダーズとの出会いだった。姉に聞くと、京都の大学生仲間で結成されたフォーク・グループが自主制作で作って自ら歌っているという。それがシングル盤で280万枚売れた大ヒット曲『帰って来たヨッパライ』だった。メンバーは加藤和彦、北山修、平沼義男、芦田雅喜の4人だという。

 そもそも1965年の夏、龍谷大学の学生だった加藤和彦が雑誌『メンズクラブ』に「フォーク・グループを作りませんか」という呼びかけをした。すると京都府立医科大学の学生だった北山修が、その呼びかけを見て急遽、妹の自転車に飛び乗って、何と京都駅の近くにある自宅から、伏見区深草にある加藤和彦の家まで会いに行ったという。こうして結成されたのがザ・フォーク・クルセダーズである。その後、メンバーの移動があったものの、約2年間アマチュア・グループとして活動し、彼らが大学を卒業する間際になって、解散するのだから、記念に自主制作アルバムを作ろうということになり、アルバム『ハレンチ』を300枚製作する。だが名もない素人集団のアルバムなど売れるわけがない。それで仕方なく自ら関西の放送局にアルバムを持って行き置いていったという。するとラジオ関西(現ラジオ神戸)で『ハレンチ』の中の曲『帰って来たヨッパライ』をかけて電波に流したところ、凄い反響でリクエストが殺到したのである。ちょうどその頃、私の姉は聴いていたということになる。

 こうして彼らの名は一躍、全国的に知れ渡り、レコード会社からプロデビューの話が持ち上がり、加藤和彦、北山修に端田宣彦を加えて、1年だけという期限付きで新生ザ・フォーク・クルセイダーズがスタートしたのである。

 その後、『イムジン河』の発売禁止があり、その代わりに出した曲が『イムジン河』のテープ逆回しから生れたという『悲しくてやりきれない』・・・・・そして『水虫の唄』『さすらいのヨッパライ』『戦争は知らない』『何のために』『青年は荒野をめざす』等・・・・。結局、一年だけ活動してザ・フォーク・クルセダーズは解散する。つまり、これが伝説のフォーク・グループ『ザ・フォーク・クルセダーズ』である。そして、その音楽的支柱が加藤和彦だったのである。その後、加藤和彦は一度、北山修とのコンビで『あの素晴らしい愛をもう一度』をヒットさせているが、主に表舞台に登場せず、新人歌手への楽曲提供、またはプロデュースをするようになった。その後、サディスティック・ミカ・バンドなんていう私的なバンドも持ったが、彼の曲は他人に提供した『白い色は恋人の色』(ベッツィ&クリス)、『初恋の人に似ている』(トワ・エ・モア)、『妖精の詩』(アグネス・チャン)等で聴くことが出来たのであるが、そういえば井上陽水がアンドレ・カンドレという名前で歌っていた頃に『花にさえ鳥にさえ』という加藤和彦から曲の提供を受けているし、吉田拓郎のヒット曲『結婚しようよ』や泉谷しげるの『春夏秋冬』の音楽プロデュースをやっていたのも加藤和彦である。

 結局、フォークル解散後は、自分自身あまり積極的な演奏活動をせず、他のシンガーへの楽曲提供、または音楽プロデュースを手がけていた加藤和彦である。彼から影響を受けたシンガー・ソング・ライターが非常に多く、加藤和彦がいなければ、その後のフォーク・ブームもニューミュージックももっと違ったものになっていたかもしれず、日本のポップス界に与えた影響力は大きいだろう。でも何故に自殺したのだろうか・・・・・。もうやる音楽がなくなったと書かれた遺書が見つかったらしいが、私から言わせて貰うならば、音楽性の欠片もない曲が大手を振るう昨今を見ると思わず納得してしまう。もはやレコード大賞なんて何の意味もなさない・・・・・・。だから私はジャズやクラシックばかり聴いているのだが・・・・・・。




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