2010.03.06 (Sat)
阪急電鉄開業100周年
阪急電鉄が開業して3月10日でとうとう100年を迎える。開業から100年というから古い鉄道会社のように思えるが、大手の私鉄としては比較的新しいほうかもしれない。日本国内では知られているように1872年(明治5年)新橋~横浜の間に鉄道が開通したのが最初だが、関西に限ってもその2年後の1874年5月11日に大阪~神戸間に現在のJR東海道線が開通している。文明開化の最中、明治の世は鉄道の建設ラッシュだったのか日本各地で鉄道を敷設が盛んだったのである。だから主要都市間で官営、民営含めて鉄道が次から次へと開通していったのだが、関西で言うならば1877年2月6日、大阪から京都まで鉄道が延伸開業(現JR東海道線)。1892年(明治25年)2月2日、湊町(現JR難波)~奈良間が開通。1903年(明治36年)3月21日、難波~和歌山市間開通(南海本線)。1905年(明治38年)4月12日、出入橋(現・阪神梅田)~神戸筒井間開通(現阪神電鉄)。このようにして関西の主要都市、大阪、神戸、京都、奈良、和歌山を結ぶ鉄道は次から次へと全て敷設されてしまい、大阪~神戸間に2路線、大阪~京都間に2路線、大阪~奈良間に2路線、大阪~和歌山間に2路線と明治時代末期までに鉄道の路線が開通していた。だから、これ以降はあまり鉄道を建設しても意味がないように思われていた。鉄道は人が乗ってくれてこそ採算が取れるのに、街のないところに建設しても乗ってくれる人がいないと儲からないからである。これ以降、鉄道を開通させるにも関西の主要都市間は全て複数の鉄道が開通していたのである。
つまり今から100年前、阪急は開通したのである。でも敷設させた場所は梅田~宝塚というから当時の人は乗る人などいるのかと思ったのではないだろうか・・・・・。今でこそ阪急宝塚線沿線は高級住宅街路線として人気があって、電車から見られる車窓は民家やマンションでぎっしり所狭しと埋まっている。でも阪急創業の頃の箕面有馬電気軌道が開業した1910年(明治43年)という時代を考えてもらいたい。現在の宝塚市は当時、武庫郡良元村、川辺郡小浜村、長尾村、西谷村という地名で、温泉はあったものの寂しい山里の村ばかりである。隣の川西市も川辺郡川西町と多田村、東谷村に分かれていた。池田市も豊能郡池田町、北豊島村、細河村、秦野村、北豊島村だったし、現在、大阪の巨大なベッドタウンである豊中市も豊能郡豊中村、中豊島村、南豊島村、小曽根村、庄内町という名であった。つまり阪急が創業した頃の沿線というのは市が一つもなく、町や村ばかりの寂しいところを電車が走っていたのである。
この箕面有馬電気軌道を開業した人が小林一三という人である。この人は関西出身ではなく山梨県出身で、慶應義塾で学び三井銀行で務めた後、先輩の岩下清周に誘われ大阪にやって来た。目的は証券会社設立のためだったが、その話は頓挫してしまう。やがて小林一三は新しい鉄道会社を建設する話を聞きつけ、鉄道会社は将来的に有望と思い、自分が経営に参画するようになる。しかし、敷設されると聞いた地域がのどかな農村だと聞いて驚いたが、目算があったのである。新しい鉄道会社は箕面有馬電気軌道。大阪の梅田から有馬温泉までと箕面までの2路線を敷設するというものであった。だが沿線に大きな街はなく、人が乗ってくれるのかといった不安があったことはいうまでもない。
そこで小林一三は、まず路線通過予定の沿線の土地を買収し、大規模な宅地造成を試みて沿線の付加価値を高め、大阪市内に住む富裕層に住宅ローンで分譲したのである。手狭な大阪市内の家に住むよりも大きな庭付きの一戸建ての良い所を謳い富裕層を呼び込んだ。こうして沿線に住宅を増やし電車で通勤してもらうという手法をとった。さらに小林一三は終点の宝塚に宝塚新温泉(後の宝塚ファミリーランド)、そのアトラクションとして女性ばかりによる歌劇団である宝塚歌劇団を創設した。また一方の終点である箕面には動物園も造った。こうして沿線を高級住宅街にしてしまった小林一三の計画は成功。箕面有馬電気軌道は、同じやり方で神戸線も開通。ここから社名が阪神急行電気鉄道に変わり、通称で阪急と言われるようになったのである。さらに起点の大阪・梅田駅にはターミナル百貨店を営業。過去、鉄道会社が百貨店を開いたことなど例がなく、成功するのか疑問視されていたというが、その後、真似をした鉄道会社が各地に出来たことを考えれば大成功といえるだろう。さらに小林一三は東京に宝塚劇場を建設、また東京宝塚映画(後の東宝)を設立。文化事業にも手を染め、ホテル事業も含め事業を拡大。プロ野球球団・阪急ブレーブスを設立等、阪急グループとして大きな企業群を形成するに至ったのである。
この小林一三の方式を模したのが、東急の五島慶太、西武の堤康次郎だといわれる。このように奇抜な方式で、今日の阪急電車の地位を築いたのが小林一三である。今では関西で高級イメージのある阪急電鉄。確固たる地位を保っている。でもちょうど100年前は、新参者の鉄道会社であり、田舎路線で赤字覚悟のスタートだったようである。それが現在、沿線は高級住宅地として、関西セレブの憧れの街が並んでいる。
大阪の繁華街・梅田から出発して中津を過ぎて淀川を渡る。そして十三。ここで京都線と神戸線と分かれて宝塚線は真っ直ぐ北へ向かう。新幹線と交差して三国を通過、間もなく神崎川にかかり、ここから豊中市へと入る。そして庄内、服部、曽根、岡町、豊中、蛍池、石橋と停まる。もう石橋は池田市に入っている。ここから箕面行きの電車が出発する。次の駅は池田、さらに猪名川を渡ると兵庫県に入る。兵庫県に入っての最初の駅は川西能勢口である。ここは能勢電鉄の始発駅でもある。川西能勢口を出ると雲雀丘花屋敷という面白い名前の駅に到着する。ここはもともと雲雀丘駅と花屋敷駅に分かれていた。それが大型車両導入と、駅のホームを延ばすことにより、両駅間があまりにも近くなりすぎたため、両駅の間に雲雀丘花屋敷駅を設けたのである。それが1961年のことで、開業当初は単両で走っていた電車が今では10両連結となり、このような結果になったのである。雲雀丘花屋敷を出るといよいよ宝塚市内に入る。ここからはJRと併走する形で電車は走る。山本、中山、売布神社(めふじんじゃ)という変わった読み方の駅を抜けて、清荒神を過ぎると終点・宝塚に到着する。
阪急宝塚線、駅にして19駅、距離にして24.6㎞でしかない路線である。でもこれが100年前に開通した阪急電鉄の最初の路線である。沿線風景も様変わりしてしまい、100年前の光景は何処にも見られない。でも街は鉄道が造るということを、この箕面有馬電気軌道という例が示している。今の宝塚及びこの沿線の街々は阪急抜きにしては考えられない。それだけに阪急をステータスとして沿線の人は誇りに思っているのだ。これは他の私鉄沿線ではあまり考えられないことである。良くも悪くも阪急電鉄あっての宝塚沿線ということがいえるだろう。

今ではJR線の北側に梅田駅が存在する。9号線までホームがある私鉄では最大の駅である。1~3は京都線。4~6は宝塚線。7~9は神戸線の発着ホームとなっている。したがって梅田~十三間は三複線となっている。

『ひばりがおかはなやしき』とは長い名前の駅であるが、もともと別れていた駅をくっつけたからこのような名前になったとのこと。

阪急・宝塚駅の外観。ホームは3階にあり、周辺はお洒落な店が多く気品のある街である。ここから花の道といって、宝塚大劇場へ行くまでの道路の周辺は独自の雰囲気がある。本当はこの先の有馬まで伸ばす予定だったが・・・・・・。

宝塚歌劇団の本拠地である宝塚大劇場。タカラジェンヌがこの周辺をよく歩いているという。たいへん人気があって、この歌劇団に入るのは、女性にとっては東大よりも狭き門だという。でも私は一度も観劇したことがない。これからも観ることはないだろうとは思う・・・・・。

梅田~十三間の展望映像。
十三~蛍池の展望映像。
売布神社~宝塚間の展望映像。
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間を省略して申し訳ございません。
つまり今から100年前、阪急は開通したのである。でも敷設させた場所は梅田~宝塚というから当時の人は乗る人などいるのかと思ったのではないだろうか・・・・・。今でこそ阪急宝塚線沿線は高級住宅街路線として人気があって、電車から見られる車窓は民家やマンションでぎっしり所狭しと埋まっている。でも阪急創業の頃の箕面有馬電気軌道が開業した1910年(明治43年)という時代を考えてもらいたい。現在の宝塚市は当時、武庫郡良元村、川辺郡小浜村、長尾村、西谷村という地名で、温泉はあったものの寂しい山里の村ばかりである。隣の川西市も川辺郡川西町と多田村、東谷村に分かれていた。池田市も豊能郡池田町、北豊島村、細河村、秦野村、北豊島村だったし、現在、大阪の巨大なベッドタウンである豊中市も豊能郡豊中村、中豊島村、南豊島村、小曽根村、庄内町という名であった。つまり阪急が創業した頃の沿線というのは市が一つもなく、町や村ばかりの寂しいところを電車が走っていたのである。
この箕面有馬電気軌道を開業した人が小林一三という人である。この人は関西出身ではなく山梨県出身で、慶應義塾で学び三井銀行で務めた後、先輩の岩下清周に誘われ大阪にやって来た。目的は証券会社設立のためだったが、その話は頓挫してしまう。やがて小林一三は新しい鉄道会社を建設する話を聞きつけ、鉄道会社は将来的に有望と思い、自分が経営に参画するようになる。しかし、敷設されると聞いた地域がのどかな農村だと聞いて驚いたが、目算があったのである。新しい鉄道会社は箕面有馬電気軌道。大阪の梅田から有馬温泉までと箕面までの2路線を敷設するというものであった。だが沿線に大きな街はなく、人が乗ってくれるのかといった不安があったことはいうまでもない。
そこで小林一三は、まず路線通過予定の沿線の土地を買収し、大規模な宅地造成を試みて沿線の付加価値を高め、大阪市内に住む富裕層に住宅ローンで分譲したのである。手狭な大阪市内の家に住むよりも大きな庭付きの一戸建ての良い所を謳い富裕層を呼び込んだ。こうして沿線に住宅を増やし電車で通勤してもらうという手法をとった。さらに小林一三は終点の宝塚に宝塚新温泉(後の宝塚ファミリーランド)、そのアトラクションとして女性ばかりによる歌劇団である宝塚歌劇団を創設した。また一方の終点である箕面には動物園も造った。こうして沿線を高級住宅街にしてしまった小林一三の計画は成功。箕面有馬電気軌道は、同じやり方で神戸線も開通。ここから社名が阪神急行電気鉄道に変わり、通称で阪急と言われるようになったのである。さらに起点の大阪・梅田駅にはターミナル百貨店を営業。過去、鉄道会社が百貨店を開いたことなど例がなく、成功するのか疑問視されていたというが、その後、真似をした鉄道会社が各地に出来たことを考えれば大成功といえるだろう。さらに小林一三は東京に宝塚劇場を建設、また東京宝塚映画(後の東宝)を設立。文化事業にも手を染め、ホテル事業も含め事業を拡大。プロ野球球団・阪急ブレーブスを設立等、阪急グループとして大きな企業群を形成するに至ったのである。
この小林一三の方式を模したのが、東急の五島慶太、西武の堤康次郎だといわれる。このように奇抜な方式で、今日の阪急電車の地位を築いたのが小林一三である。今では関西で高級イメージのある阪急電鉄。確固たる地位を保っている。でもちょうど100年前は、新参者の鉄道会社であり、田舎路線で赤字覚悟のスタートだったようである。それが現在、沿線は高級住宅地として、関西セレブの憧れの街が並んでいる。
大阪の繁華街・梅田から出発して中津を過ぎて淀川を渡る。そして十三。ここで京都線と神戸線と分かれて宝塚線は真っ直ぐ北へ向かう。新幹線と交差して三国を通過、間もなく神崎川にかかり、ここから豊中市へと入る。そして庄内、服部、曽根、岡町、豊中、蛍池、石橋と停まる。もう石橋は池田市に入っている。ここから箕面行きの電車が出発する。次の駅は池田、さらに猪名川を渡ると兵庫県に入る。兵庫県に入っての最初の駅は川西能勢口である。ここは能勢電鉄の始発駅でもある。川西能勢口を出ると雲雀丘花屋敷という面白い名前の駅に到着する。ここはもともと雲雀丘駅と花屋敷駅に分かれていた。それが大型車両導入と、駅のホームを延ばすことにより、両駅間があまりにも近くなりすぎたため、両駅の間に雲雀丘花屋敷駅を設けたのである。それが1961年のことで、開業当初は単両で走っていた電車が今では10両連結となり、このような結果になったのである。雲雀丘花屋敷を出るといよいよ宝塚市内に入る。ここからはJRと併走する形で電車は走る。山本、中山、売布神社(めふじんじゃ)という変わった読み方の駅を抜けて、清荒神を過ぎると終点・宝塚に到着する。
阪急宝塚線、駅にして19駅、距離にして24.6㎞でしかない路線である。でもこれが100年前に開通した阪急電鉄の最初の路線である。沿線風景も様変わりしてしまい、100年前の光景は何処にも見られない。でも街は鉄道が造るということを、この箕面有馬電気軌道という例が示している。今の宝塚及びこの沿線の街々は阪急抜きにしては考えられない。それだけに阪急をステータスとして沿線の人は誇りに思っているのだ。これは他の私鉄沿線ではあまり考えられないことである。良くも悪くも阪急電鉄あっての宝塚沿線ということがいえるだろう。
【More・・・】
久しぶりに阪急宝塚線に乗ってみた。始発は当然、大阪の梅田駅である。かつて梅田駅は現在・阪急百貨店のある前辺りに駅があったという。それが後に高架となり、開業当初の路線は北野線として残っていたが、やがて廃線となった。でも、昭和40年代前半までは、この阪急百貨店の1階に梅田駅があった。そして、その事実を知る人は少なくなった。写真は現在の阪急百貨店である。41階ある建物で下層部に百貨店が入っている。
今ではJR線の北側に梅田駅が存在する。9号線までホームがある私鉄では最大の駅である。1~3は京都線。4~6は宝塚線。7~9は神戸線の発着ホームとなっている。したがって梅田~十三間は三複線となっている。

『ひばりがおかはなやしき』とは長い名前の駅であるが、もともと別れていた駅をくっつけたからこのような名前になったとのこと。

阪急・宝塚駅の外観。ホームは3階にあり、周辺はお洒落な店が多く気品のある街である。ここから花の道といって、宝塚大劇場へ行くまでの道路の周辺は独自の雰囲気がある。本当はこの先の有馬まで伸ばす予定だったが・・・・・・。

宝塚歌劇団の本拠地である宝塚大劇場。タカラジェンヌがこの周辺をよく歩いているという。たいへん人気があって、この歌劇団に入るのは、女性にとっては東大よりも狭き門だという。でも私は一度も観劇したことがない。これからも観ることはないだろうとは思う・・・・・。

梅田~十三間の展望映像。
十三~蛍池の展望映像。
売布神社~宝塚間の展望映像。
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間を省略して申し訳ございません。
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