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2018.06.16 (Sat)

映画『サウンド・オブ・ミュージック』を観る

『サウンド・オブ・ミュージック』1965年制作、アメリカ映画

監督 ロバート・ワイズ

出演 ジュリー・アンドリュース
    クリストファー・プラマー
    ペギー・ウッド
    エリノア・パーカー
    ダニエル・トルヒット
    ニコラス・ハモンド
    へーザー・メンジャース

【あらすじ】オーストリアのザルツブルク。時は1938年。妻を亡くしたトラップ大佐と子供7人が生活していた。この家に修道院からマリアが家庭教師としてやって来た。実は退役軍人のトラップ氏は今までどの家庭教師も長続きしないので困っていた。そこへやってきたのがマリアである。マリアは伸び伸びとした教育法で厳しくはなかった。そのことにトラップ大佐は最初、反感を持つがマリアが来てから逆に家庭内が明るくなったのでトラップ大佐は感謝の念を抱くようになる。いつしかマリアはトラップ大佐を愛するようになるが、その重荷から修道院へ逃げ帰る。しかし、トラップ大佐の子供達が押しかけてきてマリアに戻ってくれるように頼み込む。修道院の院長の励ましもあって結局マリアはトラップ家へ戻る。
 ちょうどその頃ヒトラーのナチスが台頭し、オーストリアをドイツと併合するべき瀬戸際にあった。そのきな臭さはトラップ家にも迫ってきた。トラップ氏には男爵夫人という婚約者がいた。彼女はナチスへの併合もやむを得ないと考えている一人。結局、トラップ大佐とはそりが合わず男爵夫人はトラップ家から去る。そんな大佐であったが自分がマリアを愛していることに気がつく。やがてトラップ大佐とマリアは祝福されて結婚。一家は祖国オーストリアへの愛を貫くためには亡命するしかないと結論に達しアメリカへの亡命を考える。こういった中で行なわれた音楽祭。トラップ家は音楽祭で合唱。大佐も『エーデルワイス』を歌う。一家の優勝が決まった頃、トラップ一家は自由を求めて山道を歩いていた。

 この映画は日本で一番人気のあるミュージカル映画であろう。この映画を観たのは小生は小学校6年の時ではないかな。姉と一生に観に行ったのである。『ウエストサイド物語』が大好きだった姉が同じ監督のミュージカル映画『サウンド・オブ・ミュージック』を観に行くのは判っていた。それに便乗して小生もついていったというわけだ。でも当時の姉はビートルズに狂っていたのだが、ミュージカルだけは好きだったな。
 実はこの話は実話であってマリア・フォン・トラップの自叙伝『トラップ・ファミリー合唱団』から来ている。この原作が映画化され『菩提樹』(1956年、西ドイツ映画)として知られている。これがアメリカではミュージカル化されたのである。1959年、リチャード・ロジャース、オスカー・ハマースタイン二世の作詞作曲によってブロードウェー・ミュージカルとして上演され大ヒットしたのである。物語もさながら音楽が良かったのであろう。このミュージカルから『ドレミの歌』『私のお気に入り(My Favorite Things)』『ひとりぼっちの山羊飼い』『エーデルワイス』といったスタンダードナンバーが生まれた。『My Favorite Things』はジョン・コルトレーンが1960年に録音しジャズのスタンダードとなった。『ドレミの歌』は1961年にペギー葉山が日本語で歌い、これも日本ではなじみの歌となった。つまり映画化されたのが1965年であるが、その6年前にブロードウェー・ミュージカルとして既に作品や曲が有名になっていたので映画化されたときは曲が知られていたと言うことである。ただブロードウェー・ミュージカルで有名だったジュリー・アンドリュースが映画のマリア役を演じて歌ったので、より映画が栄えたと言うことだろう。ジュリー・アンドリュースは4オクターブが出る声の持ち主で、ブロードウェー・ミュージカルでは『マイ・フェア・レディ』のイライザを演じていた。しかし『マイ・フェア・レディ』が映画化されたとき、イライザ役を演じたのはさほど歌えないオードリー・ヘプバーンだった(歌は有名なゴースト・シンガーであるマーニ・ニクソンが吹き替え)。理由はジュリー・アンドリュースは映画出演をしたことがないというだけだった。結局は同年に制作されたミュージカル映画『メリー・ポピンズ』で映画初出演を果たしアカデミー賞主演女優賞まで受賞することになり、映画『サウンド・オブ・ミュージック』のマリア役を演じることになる。これも当時としては当然の配役あったと思われる。映画はアカデミー賞の作品賞に輝いたのだが、ジュリー・アンドリュースの主演女優賞はノミネートだけに終り2年連続オスカー女優とはなれなかった。
 さて最後に、この映画で原作者のマリア・フォン・トラップ自身が通行人として出演していることを書いておこう。

ドレミの歌


私のお気に入り


エーデルワイス


ひとりぼっちの羊飼い

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2018.06.12 (Tue)

Justifyがアメリカ三冠馬

 このところ競馬の記事が多くなっているが全て海外競馬の話。前の記事二つはディープインパクト産駒がイギリス、フランスで3歳のグループⅠのレースを勝ったと言う話だが、今回はジャスティファイという競争馬がアメリカ史上13頭目の三冠馬になったという話である。
 さる6月9日、ニューヨーク郊外のベルモントパークで行なわれた3歳クラシックの最終レース第150回ベルモントS(GⅠ・12f)に三冠をかけて出走したジャスティファイがマイペースで逃げ切ってアメリカンファラオ以来3年振りの三冠馬となった。しかし、アメリカンファラオが出るまでアメリカには1978年のアファームドから2015年もの間、クラシック3歳馬の三冠馬がでなかった。そのアメリカで、3年ぶりに出るって、出る時は続けて出るものである。そういえば小生が若いときには1973年セクレタリアト、1977年シアトルスルー、1978年アファームドと6年で3頭も出現したのを思い出した。ただしセクレタリアトの前となると1948年のサイテーションがまで遡らないと三冠馬は出てなかったから、出ないときはなかなか出ない。出だすと比較的出やすい傾向にあるみたい。これは日本も同様な気がする。もっとも本家のイギリスでは3歳クラシック三冠馬そのものが有名無実化してしまい、セントレジャーに2000ギニー勝利馬は当然としてダービー馬さえも出て来ることがほとんどなくなった。それだけイギリスではクラシック三冠馬が重要視されなくなったのである。なのでイギリスで1970年のニジンスキーが最後の三冠馬となっている。その前はというと1935年のバーラムだからな。
 もしかして日本もそのようになるかもしれない。すでに菊花賞の距離が長すぎるといって日本ダービーを勝ったからと言って出走してこないケースも増えてきたので・・・・。昨今の菊花賞や春の天皇賞が見応えの無いレースになってきたのも出走馬の質の低下が一因でもある。そのことを考えると距離延長があまりないアメリカの3歳クラシック三冠レースは出走馬の質の低下はあまりない。ただヨーロッパや日本と違い、ダート、小回り、すべて左回り、短期間で行なうというアメリカ独自のものがあるので同一に考えられない。
 しかし、今回のジャスティファイは6戦無敗で三冠馬となった。これはシアトルスルー以来、史上2頭目で3歳になってからデビューで三冠馬というのも珍しい。この馬はほとんど逃げきりで、ケンッターキー・ダービーはどろんこの中、2頭で逃げ、3コーナーから先頭。プリークネスSもどろんこの中、2頭併走の逃げから単騎になりそのまま逃げ切り、初めてどろんこでは無いベルンモンとSは最初から先頭で逃げ切った。このあたり前に行った方が有利なアメリカの競馬だなと思った。まあダートで小回りだから後方一気で勝つなんて滅多に無いが、観ていてあまり面白くない。観ていて面白かったのはセクレタリアトのレースだが、一般的にヨーロッパとは別の競馬があるって感じではある。
 ところでジャスティファイは父がスキャットダディ、母ラヴスタイルであるが、父系も母系も遠くはノーザンダンサーの系統である。アメリカはダート主体の短中距離に強い種牡馬が強く、ヨーロッパの芝に強い種牡馬と違っているのもまた面白い。まあジャスティファイは今年で引退だろうが、あと何戦するのかな。それら全て勝って無敗で行けるのか。そこが気になるな。

150th Belmont Stakes

EDIT  |  19:53  |  競馬(海外レース)  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2018.06.08 (Fri)

フランス・ダービーをスタディオブマンが勝つ

 この前、英国の2000ギニーをディープインパク産駒サクソンウォリアーが勝ったというのを記事にしてみたけど、今度は6月3日、フランス・ダービー(Prix du Jockey Club)をディープインパクトの産駒が勝った。ただし6月2日のイギリス・ダービーに出ないと思っていたサクソンウォリアーが出てきて一番人気に支持されたが4着に終った。タッテナムコーナーを周り直線に入る。エプソムの直線は約700mある。中団につけていたサクソンウォリアーは追い出しにかかるも前が開かず、前が開いたときは脚色が悪くそこから伸びなかった。エプソムというのはタフなヨーロッパの中でも最もタフなコースだろう。直線でも下って最後に上る。結局、最後の登りで伸びなかった。これは懸念されていたことで驚かないが、これからどの路線に進むのかな。
 一方、フランスダービーはシャンティで行なわれ日本産馬ではないが、ディープインパクト産駒であるStudey Of Manは勝った。これは最後の200mで横4頭、5頭のたたき合いから最後にぬけて勝った。ただし仏ダービーは英国と違って2005年から距離が2100mに短縮されているので欧州での2400mのGⅠをディープインパクト産駒が勝ったというのではない。でも2000mぐらいならディープインパクトの瞬発力が十分活きてくるように思う。今後、サクソンウォリアーもそうだが、このスタディオブマンが経験を積んでどういったレースを見せるのか興味が及ぶところである。まだヨーロッパの競馬主要国では愛ダービーが残っているがこの2頭はどうするのかな。今年は日本のダービーもなんだかんだでワグネリアンというディープインパクト産駒が勝ったし、これで同年に日仏のダービーを制したのはディープインパクト産駒である。昔なら考えられないことだが、日本の競走馬が強くなったのはもう20年ほどまえからだが、最近は種牡馬としても世界で活躍しだしたと言うことかも知れない。まあこれが世界での競馬発展に日本馬が一角を形成すると言うことに意味があるんだろ。狭い日本だけで活躍馬を出さず、いい種牡馬は世界中で産駒が走って欲しいという小生が夢見たことがようやく現実になりつつある。こりゃ面白い。
 ただ日本産馬扱いだったサクソンウォリアーと違い、スタディオブマンは母セカンドハピネスが日本に来て受胎するやすぐにアイルランドに帰りそこで生まれたからアイルランド産扱いになる。ただ母のセカンドハピネスは名牝ミエスクの仔という良血。ミエスクはアメリカ産馬だがヨーロッパで走り16戦12勝。イギリス1000ギニー、Poule d'Essai des Pouliches(仏1000ギニー)を始めマイル戦で強く、マイル戦では11戦9勝2着2回という成績。母のセカンドハピネスはアメリカで3戦未勝利とたいした成績をあげなかったが、その仔のスタディオブマンが見事に仏ダービーを制した。ここで良血の血が開花したってことかも。そこに日本のディープインパクの血が加わってなんともグローバルな血統であると言えよう。

馬群中央に構える白い帽子がスタディオブマン。直線でのデッドヒートを制する。

EDIT  |  19:46  |  競馬(海外レース)  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2018.06.03 (Sun)

2018大阪城JAZZ Festival

 何年か前に記事にしたと思うけど(2015年5月24日の記事)、あのときは来年以降はこの催しが行なわれるかどうか危ぶまれていたものの、どうにか細々と開催されていた。一昨年は大阪城という名称が付いているのに神戸のハーバーランドで開催されたり何が何だかわからない。つまりスポンサーが付かないと言うことか、その後は協賛企業が増え開催も続いている。これも良かったんではないかな。とにかく学生の自主運営の催しだから続けるだけでも大変だ。そういうことで昨日久しぶり行ってみたんだが暑すぎた。
 以前は5月開催だったのに6月開催。今の時期は晴れると炎天下では暑い。大阪城の野外音楽堂だから椅子の上に座っているだけで熱中症になりそう。若いときなら平気だったけど、色々と疾患を患っている小生は途中で退散した。何しろ午後1時から6時ぐらいまでやっているから時間は長い。休憩挟んで出演バンドも今日は7バンド。明日も開催があり、明日も出演バンドは7バンド。全員大学生なんだが企画バンドが5つ。残りの9が大学のサークルのバンド。順にいうと佛教大学、関西学院大学、天理大学、京都大学、甲南大学、同志社大学、立命館大学、神戸大学、大阪大学。関東からの遠征組もある。
 今日は1日目で最初から観たが必ずしもその大学所属ばかりではなく他大学のメンバーも奏者に入っているみたい。佛教大学もピアニストは同志社大学生だし、その他の大学もそういう所もある。このあたりは大学の体育会系の運動部に比べてかなり自由でいいんではないだろうか。服装も雑多で各自の個性がありふれている。楽器を演奏してなかったらそこらの若者だ。
 演奏の方はと言うと大学生になると上手いね。プロ級の奏者がうじゃうじゃいる。トランペットもハイノートなんて当たり前。曲はカウント・ベイシー、デューク・エリントンとその他が多い。コンテンポラリーな曲を演奏するときもある。関学はすべてカウント・ベイシーのナンバーだった。企画バンドの全員浴衣姿のガールズ・バンドはオバタラなんて演奏していた。そのあと野郎ばかりのバンド。これがノリノリでお調子者の集まり。しかし楽器を持たせると辣腕揃い。もうプロのバンドと言ってもいいぐらい。会場に着ていた外国人もリズムに乗って大喜び。その後、休憩に入るが暑すぎてへばったので後半の天理大学の演奏途中で退散した。炎天下だと軽く30度を超えている。いくら水を飲んでもおいつかない。みんな椅子に座らず後ろの芝生席に座っている。ここは木陰があり、みんな炎天下を避けている。直射日光のあたる椅子席の中央はハンディカムを持った人が動画を撮っているか、暑さが平気な若者達がいるが、頭にタオルを乗せている。でもみんな日陰のあるところへ集まっているので端っこの方が混雑しているのだ。この後、日が西によっていくと日陰も多くなり椅子席へみんな移動するのだろうが、、小生は午後1時から会場にいるので、午後3時にはへばってきたので退去した。まあ目当てのバンドがあるって言うのでもないが、パンフレットのメンバー表を見るとところどころ高校時代から名前の知っている奏者が各大学に散らばっている。だから上手いんだな。ただ室内の会場というわけにはいかず、夕方からなら観れるが日中で聴くには暑すぎた。なにしろ座席表面からして熱いのだから。

3年前の同催しの雰囲気

EDIT  |  09:31  |  音楽(ジャズ)  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2018.05.30 (Wed)

アメリカン・フットボールに関する話題

 なんだかこのところ日本大学と関西学院大学とのアメリカン・フットボールの交流試合で、日大選手の悪質プレーがあり、連日、そのプレーについてテレビや新聞で報道されない日はない。小生は最近はほとんどスポーツに関心がないから、報道の文面しか読んでないから、どれほど悪質なプレーだったのどうかよくわからないので、録画された映像を2、3日前に何度か見た。
 うん確かにあれは酷い。しかし問題は選手が自主的にやったというのではなく、監督、コーチが意図的にやらせたということで問題になっているようだ。だとするとこれは大変なことだなと感じた。いったいどうなってるんだろう。悪質プレーを行なった日大の選手が出てきてコーチの支持によるものだったというが、監督とコーチの会見によると選手との間に乖離があったというから話にならん。まあ往生際が悪いというか誰が考えてもやらせているとしか思えないのに記者会見と声明文では選手と言ってることが違う。結局、関東学生アメリカンフットボール連盟がこの監督とコーチを除名するという。当然と言えば当然だが未だに、こういった体質の大学の運動部があることに驚いた。まさに昭和の体育会系の悪い縦社会そのものだなと思った。これはプロでもなく飽くまでが学生の運動部での話である。どうも強ければ良いという大いなる勘違いがこういった監督やコーチを増長させるのかも。またよりによってこの監督は日大の常務理事でもある。どうも胡散臭い。大学の在り方をもっと考えるべきだな。
  それはそうとアメフトというと40年以上昔、小生には関西学院大学のアメリカン・フットボール部でランニング・バックをやっている友人がいた。その彼が試合を観に来いと言ったから観に行ったことがある。そのとき相手はよりによって小生の大学だった。あーあ!と思ったが関学は強く小生の大学はボロ負け。50点以上の大差を付けられた。小生はどうせ関学には逆立ちしても歯が立たないので友人のプレーばかり観ていた。彼はポジション柄とにかく速く走る。確かタッチダウンも決めたと思う。そのときに感じたがラグビーと似ているようで全然、似てないなあと感じた。攻撃側と守備側で分れ、4回の攻撃で10ヤード進めないと攻撃権が変わる。そしてセットプレーの連続ですぐに試合が止まり、ラグビーのような流れではない。どちらかというと野球に似ていると感じた。1人1人のポジションの意味合いがあり、野球で言うピッチャーが所謂アメフトで言うとクォーターバックなのだろう。野球がピッチャーが良いとある程度、勝てる。それはアメフトで言うところのQBなのだろう。とにかく攻撃のときにQBがパスを出す。その確実性が高ければ高いほどパスが通る。だから日大の首脳陣がQBを倒せと言ったのだろう。QBというと49ersにジョー・モンタナというスーパースターがいた。彼のプレーはテレビでよく観たが、スーパーボウル4回制覇という見事さは語り尽くせないほどだ。つまりQBはアメフトの核心部に当たる選手なのである。11分の1ではなく、QBの出来によって11分の5にもなってしまう。それこそ野球で言うピッチャーと同じぐらい重要のポジションと言えそうだ。この選手を潰せというのは、こういった軍隊調の先祖返りした監督なら言いそうなことだが、それに反旗を翻せない運動部の体質も問題がある。これから色んな事実が解明されるだろうが、今の時代に相応しくない運動部が存在したもんだ。やれやれ。だから小生はスポーツ中継をだんだんと観なくなったのだが、日本にはまだこんな運動部が大学や高校では存在するみたいだ。困ったもんだ。
EDIT  |  20:26  |  スポーツ  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2018.05.27 (Sun)

サム・クックを聴く

 昔にサム・クックという黒人歌手がいた。でも小生はこの人の現役時代に聴いたことがない。1964年に亡くなっているから当然だ。でもその翌年に亡くなったナット・キング・コールの『LOVE』はラジオで聴いたことあるので知っていた(日本語バージョンがあったんだが)。しかし、サム・クック自身の歌を聴いたことがない。ただし曲は知っていた。というよりもカバーによって後にサム・クックのことを知るのだが・・・・。
 最初にサム・クックの曲を聴いたのはアニマルズが歌う『Bring It On Home To Me』によってである。このときは印象に残ったがサム・クックの曲だとは知らなかった。もっともアニマルズはカバー曲が多く黒人の曲を取り上げるのでもローリング・ストーンズと一緒で、イギリスのグループらしくなかった。ニーナ・シモンの曲も歌っていたが小生は当時、小学生である。アニマルズがオリジナルと思っていた。
 次にサム・クックの曲を聴いたのはこれもハーマンズ・ハーミッツが歌う『Wonderful World』によってである。これも印象に残ったがサム・クックの曲だとは知らなかった。このハーマンズ・ハーミッツもカバー曲が多かったかな。当時はカバー曲が当たり前の時代だったけど良い曲は他のミュージシャンがカバーをよくしていて後代まで曲が残っていくものである。こういった曲でサム・クックのことを知るのである。でも日本ではサム・クックのことを取り上げることはほとんどなく小生も名前は聞いたことはあるが本人が歌っているのを聴いたのはその後、何年かしてからである。
 最初に聴いたときは白人かと思ったほどで黒人特有の歌い方とは同様とは思わなかった。当時、音楽雑誌で初めて写真を見て若いなあと感じた。当たり前だ。亡くなったのが33歳だから早死になのである。フランク・シナトラの黒人版と言われてたそうである。1931年1月にミシシッピ州で生まれたがすぐにシカゴに移住。父が牧師だった関係から幼少から聖歌隊で歌い10代後半でゴスペルを歌うようになり19歳になってゴスペルのグループ、スターラーズのリードヴォーカルとして脚光を浴びる。その後にR&B転向してソロ歌手となる。これが1957年の頃でありプレスリーの全盛時代。でもサム・クックも人気があったそうだ。徐々に洗練された歌い方が評価され後代、白人の多くにカバーされる様になったからサム・クックの名前を知ることになるのだろう。でも実生活では公民権運動にも関わりマルコムXやモハメド・アリとも親交があったという。それで初めて写真を見たとき、ああこの人かと思ったものだ。歌よりも先に顔を知っていた・・・・。
 たとえば彼が死んだ1964年に出した『A Change Is Gonna Come』はボブ・ディランの『風に吹かれて』に影響を受けて作ったメッセージソングと言われる。ただ1964年の12月、ロサンジェルスのモーテルで泥酔していた彼は発砲され死亡。33歳だったという。活躍期間は10年もなかった。でもこの頃から彼の曲をカバーするミュージシャンが急増。それで名前が日本にも轟くようになっていたのだろう。オーティス・レディング、アレサ・フランクリン等の黒人歌手は当然としても先ほど述べたアニマルズ、ハーマンズ・ハーミッツのイギリスのグループがカバーで小生は曲と名前を知るようになった。その後にはなんとポール・マッカートニーやジョン・レノンまでが『Bring It On Home』歌っているし、面白いところではアート・ガーファンクルが『Wonderfull World』を歌っている。日本ではウルフルズが『ワンダーフル・ワールド』をカバー。彼等が歌っているのを聴いてこの曲を知ったという若い人も多いだろう。このときは面白い日本語で一部歌っていた。英語の歌詞に発音が似ていてなんだか面白いと感じたものだ。
Don't know much about history
Don't know much biology
サム・クックの原曲はこうなんだがウルフルズは
どの街まで行けば君に会えるだろう
どの街を歩けば君に会えるだろう
 と歌っている。Don’t know muchが日本語ではどの街に聞こえるからな。ということで、そろそろお終いにしたいが、正直言ってサム・クックの曲を聴くようになったのはCD時代になってアルバムの輸入盤を店頭で見つけてからである。アナログ時代はさほどサム・クックのアルバムを見かけることも少なかったしたとえ見つけてもLP盤は高価で買えなかっただろうけど。

Bring It On Home To Me


Wonderful World

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