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2014.02.01 (Sat)

新型万能細胞とやら・・・・

 先日、朝刊の一面に新型万能細胞炸裂という見出しで大きく報道されていたので、そのことに関してちょっとだけ記事にしてみることにする。
 このほど理化学研究所発生・再生科学研究センターとアメリカのハーバード大学等の国際研究グループがマウスの体細胞に強い刺激を与え、iPS細胞(人工多能性幹細胞)のように様々な組織、臓器に変化できる万能細胞へと初期化させる手法を発見したと発表した。それは遺伝子を導入して炸裂するiPS細胞よりも簡単な方法で効率的に作製できたという。さらに今後、この研究グループは今後、人の細胞を使った万能細胞の炸裂を目指すらしい。そしてイギリス科学誌ネイチャーに論文がこのほど掲載されることになった。
 研究グループはこのような初期化する現象を「刺激によって引き起こされた多能性の獲得」Stimulus-triggered Acquisition of Pluripotencyの頭文字をとってSTAPと名付けた模様。動物細胞が自ら初期化することがないという生物学の常識を覆す画期的な手法で作製された細胞をSTAP細胞とした。
 このSTAO細胞と言うのはES細胞、iPS細胞に続く万能細胞とされ、ES細胞はアメリカで脊髄損傷患者へ臨床研究が始まっていて、既に本格的に臨床応用が進んでいるようだ。が、ES細胞は生命の萌芽で受精卵を壊して作るので、生命論理上の問題が生じ、日本では強い利用強制がある。そこでノーベル賞に輝いた山中伸弥京大教授らが作製したiPS細胞の登場となる。
 こちらは皮膚などの細胞から作ることができて、目的の細胞に変化させて移植することも可能なので、今年中に目の難病患者への臨床研究が予定されている。ただし遺伝子を細胞の核に入れて初期化を促すため、他の正常な遺伝子を傷つけてしまい癌化する可能性もある。ところが今回発見されたSTAP細胞は細胞を頻死状態に追い込むという単純な方法で初期化するので、炸裂した細胞も癌化の可能性が低いという。
 そもそも今回の発見は、同センターの小保方晴子研究ユニット・リーダーらが発表したものだが、マウスの脾増臓から採取したリンパ球を弱酸性溶液に30分間漬けて死滅寸前の状態にして、生き残ったリンパ球に特殊な蛋白質を加えて培養すると2~3日で多能性を持ったSTAP細胞に変化したという。初期化される細胞の割合も30%以上で、iPS細胞よりも高かったらしい。弱酸性の溶液以外にも細いガラス管の中にも細胞を通すなどの物理的刺激や細胞膜に穴を開ける毒素でも初期化を引き起こすことを確認し、さらに筋肉や神経などの細胞でも初期化が起きたという。そしてSTAP細胞をマウスの胚に入れて仮親の子宮に着床させたところ、全身にこの細胞が交ざった子が生まれ、あらゆる組織に変わる万能性が証明されたとのこと。
 STAP細胞は胎盤になることも分かり、ES細胞、iPS細胞では胎盤に変化できないことが知られていることからSTAP細胞はより万能性が高いという。そして何れ医療や新薬開発等の応用が期待されるが、小保方リーダーは「限定的な状況で起きたことで、まだまだ謎は多い」という。
 さてさて、これだけ書いたところで化学、物理、生理学関係が苦手な小生にはなんのことやらちんぷんかんぷん判らないが大変な発見なのだろう。ノーベル賞級の快挙とまでいわれている。しかし驚いたことにこの小保方晴子という女史はまだ弱冠30歳だという。何という若さだ。まさに最近の女性は逞しい。若い男性よりも若い女性の方が逞しいかも・・・・・・・・。それも一度、一昨年4月、世界的に権威ある科学誌ネイチャーに論文を投稿したが細胞生物学のの歴史を愚弄しているとして却下されている。それでもめげずに粘り強く解析を続け、再投稿してこのほど掲載されることとなった。
 ところで彼女の所属している研究所のスタッフは5人全員が女性だというから驚き。このような研究は女性に不向きとこれまで思われていたが、これからはどんどんこのような女性が出てくるのかもしれないな。まさにリケジョ恐るべきである。最近はテツジョだとかレキジョとか男性を押しのけて目立つ若い女性がいるが、時代はすっかりへ変わっていったのかも・・・・。そのうちに女性総理大臣が出てくるかもしれないな。
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2014.01.26 (Sun)

ゼロ戦を考える

 ゼロ戦を考えるなんて大袈裟なタイトルだが、このところ百田尚樹の小説『永遠の0』が売れに売れ、映画の方も大ヒット。さらにいうならばスタジオ・ジブリの作品で宮崎駿最後の作品となるであろうアニメ映画『風立ちぬ』がゼロ戦の主任設計者である堀越二郎の話であることから、最近は何かにつけゼロ戦のことが話題になる。それで私としてもゼロ戦というとどうしても子供の頃の思い出として蘇ってくるのだった。当然、私は戦争を体験したのでもないし戦後世代だからゼロ戦の思い出と言っても直接あるわけでもない。ところが何故かゼロ戦というと子供のころの郷愁として懐かしくなってくるのだ。それはおそらく当時の少年向け漫画雑誌の影響であろう。
 私が字が読めるようになって漫画というものに夢中になったのは小学生に上がる頃である。当時は月刊誌、週刊誌共に数多くの漫画雑誌が出版されていた。そんな環境下で私は漫画を読んで育った世代である。それこそありとあらゆる種類の漫画を読んでいた。この辺りはアニメで育った私よりも後の世代とは大きく違っている。それでどういう訳か当時の漫画週刊誌にはよく太平洋戦争(最近は大東亜戦争と言う言い方が一般的になっているが敢えてここでは太平洋戦争で統一する)及び第二次世界大戦の特集を組んでいた。少年マガジンなんて表紙にまで戦艦長門や大和を載せていたぐらいだから・・・・・。どういう意図があったのか判らない。今なら子供に悪影響を与えるとか戦争を肯定するなんて批判が起きそうだが、当時は煩くなかったのかな。まだ10才未満の子供だった私には判りかねるが、そういったおおらかな時代だった。でも、まだ戦後20年もなってなくて戦争経験者が社会の中軸に居た時代なのに今から考えると不思議である。それで、そういった特集記事で第二次世界大戦がどのように行われたか、またどのような戦いだったかと言うのを知ることになるのだが、悲惨だとか凄惨を極めていたかということなど考えることもなく、ただ漠然と読んでいた。また同様に当時の漫画としても戦記物が多かったのも事実だ。
 『0戦はやと』辻なおき、『大空のサムライ』九里一平、『大空三四郎』吉田竜夫、『ゼロ戦レッド』貝塚ひろし、『忍者部隊月光』吉田竜夫、『紫電改のタカ』ちばてつや・・・・・・。これらは全て、第二次世界大戦が舞台になるのだが、不思議とゼロ戦のパイロットの話が多かった。ただ『大空のサムライ』は陸軍の加藤隼戦闘隊の話で、『紫電改のタカ』は紫電改のパイロットの話である。
 まあ、なんだかんだとこのような漫画雑誌で第二次世界大戦、太平洋戦争というものや戦艦大和、武蔵、ゼロ戦、隼、飛燕、月光、空母赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴、飛龍、グラマン、ボーイングB-29、スピットファイア、メッサーシュミット、ノルマンディー上陸作戦、真珠湾攻撃、ガダルカナル島、原子爆弾等を知ることとなるのである。当時、深い意味も考えず読んでいた覚えがあるが、戦争の悲惨さよりも英雄的な描き方をしている話も多かった。それで当時、戦争の大義とか時代背景でこうなったとかのことはあまり書かれてなかったように思う。ただ人物を中心に描いていて、そんな中で戦争とはいけないものだという漠然とした考えで捉えていたというのが実情だと思う。もっとも私が色々なことを知るのは高校以降、より多くの書物を読むに当たり色々と考えさせらることになるのであるが・・・・・・・・。それで今回はゼロ戦の話である。
 今、上映中の映画『永遠の〇』でゼロ戦を知った女子高生がいると聞いて私は驚いたのである。もうそんな時代になったのだと・・・・。私がゼロ戦を知ったのは小学校に上がった頃の漫画雑誌でだが、今の漫画雑誌には第二次世界大戦のことを記事に載せるようなことはほとんどないから無理もない。時代も違っているから当然だ。今の高校生なら親の世代でも戦争体験がないから実際にどのような戦争であったかは体験者から直に聞くことはないだろう。そして、ゼロ戦のパイロットから多くの若者が神風特攻隊として散っていく現実を知って今の女子高生が涙することになった。もう70年以上前の話だ。でもまだ約70年ほど前の話なのだ。
 日本が焼け野原になって無条件降伏して復興。すっかり当時とは社会環境も時代背景も生活様式も様変わりしてしまった。この約70年で日本と言う国はひたすら平和で在り続け、他国からの攻撃も受けず戦禍も関係ない民主主義国家である。それもこれもあの敗戦からのトラウマがあったのかもしれない。もう過ちは犯さないと。それで戦争の悲惨さを後世に伝え、平和を保ち続けるのはいいことである。ただ、それは当然のこととして捉えるのではなく過去には、こういったお国のためにだとか天皇陛下様バンザイといった滅私奉公、皇国史観の精神と共に、このような死に方で消えていった多くの人がいたということと、それらの戦死者の礎で今日の日本という国家が存在するということはけして忘れてはならないということである。今の日本があるのも計り知れない壮絶な過去があっての話であるということ。それ故にもう同じ轍を踏まないと肝に銘じても、日本を戦争と言う愚かな行いからは避け続けてきたという現実は知っていてほしいいのである。
まず、何故、日中戦争、太平洋戦争に至るかの話なのだが、これは話し出すと文面が幾らあっても語れるものでもないので、これ等は自分自身でより多くの書物を読んでもらうしかない。それも一方向から読むのではなく多方面から書物は読んだ方がいい。そうでないと客観視出来ないからである。まあ、戦争に至るまでの話は割愛するとして、ゼロ戦が登場した経緯についてここでは書いてみたいと思う。

 ゼロ戦って何だと『永遠の0』を観て疑問を持つ子は多いだろう。ゼロ戦とは三菱零式艦上戦闘機の愛称である。そもそもゼロ戦が制作された経緯は次のようなものである。昭和12年に大日本帝国海軍が艦上戦闘機(航空母艦から発艦する戦闘機)を新しく開発してくれと三菱重工業と中島飛行機に依頼したのが始まりである。計画では十二式艦上戦闘機計画要求書として書かれてあって、それには長大な飛行距離と卓越した格闘性能を持つ戦闘機ということであり当時の技術では不可能とされた。それで中島飛行機側は「こんな過酷な要求では造れない」と辞退してしまう。ところが三菱の主任設計技師である堀越二郎は「ないものねだり」といいながらも設計に取り掛かり昭和14年4月に試作機が完成して岐阜県の各務原で初飛行したのである。そして翌、昭和15年の皇紀2600年に海軍の正式戦闘機として採用されたのである。名称は神武天皇即位から2600年に当たるということで下二桁の00の数字を名称として零式と呼ばれたのである。零式だから『れいしき』が正しいのだろうが、ゼロ式という呼び方も当時の日本人兵士には大勢いたのでゼロ戦と言う通り名称が一般化したのだろう。実際に坂井三郎というゼロ戦の名パイロットの著書『大空のサムライ』でもゼロとして使っているし、連合国側でもゼロファイターとして轟いていたからこの祭、ゼロで統一することにする。
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2014.01.13 (Mon)

成人の日とかで・・・

 今日は成人の日とかで月曜日なのにお休み。それで朝から買い出しに出て行ったのだが、これから成人式に行くのだろうという晴れ着を着た若い女性何人かに出会った。みんな振袖姿で一生に一度の成人式に臨むのだろう。こちらは微笑ましいなあと思いながら、心の中でおめでとうという気持ちで見ていた。だが、一つ気になったことがある。今の若者の多くは薄く髪を染めているのだなあということ。時代といえば時代だが、我々の頃は髪を染めるなんて者はいなかった。何の影響なのだろうか。今時、西洋かぶれっと言うのでもないだろうが。酷いのになると金髪に晴れ着と言うアンバランスの女性までいた。何だかな・・・・・・。
 それはそうと今年の新成人は121万人だとさ。随分と少ないなという印象だ。統計を取り始めた1968年からだと史上で最も少ないらしい。それだけ少子化が進んでいるということであって、悩める老人大国日本の問題点が浮き彫りにされた形となっている。1970年の20歳人口は246万人だから当時の半分以下ということになる。つまり日本という国家は、今後において問題が山積していて、老人がますます増え労働人口が減って行き、経済成長もあまり期待できない。その上で若者たちは、今後ますます膨らんでいく借金大国の経済を背負っていかないといけないなんて可哀そうでもある。
 ところで新成人はどのように考えているのかということで、とある媒体がおこなった意識調査というものがある。それによると今年の新成人が成人式に出席するかどうかという問に対して81.6%が出席すると答えたという。これは高いのかどうなのか判らなかったが、今の40歳が成人の時は60.7%だったらしい。さらにいうと我々の年代に近い今の60歳の人が成人の時の成人式への出席は48.8%というから半分も出席しなかったということになる。すると今の若者はこういった行事に積極的に参加するのだなと思った。そういえば私なんかも成人式には参加しなかったし参加する意味も見いだせなかった。当時は大人が与えた格式ばった下らない儀式なんか出ていけるかといった、今から思うと莫迦らしい反骨精神みたいなものを持っている若者が大勢いたりして、何か不満を抱えていたように思う。我々の世代は団塊の世代の後のしらけ世代と言われたりしたが、それでも世の中に不満を持っていたし自身でも何処かに不安を抱えていたように思う。ただ考えてもしょうがないので前に進むしかなかったが、今の若者は概ね世の中に満足しているかやや満足しているという人が多いうという。これを聞くとやはり我々のころとは違うかなと思ったりするが、こればかりは今の時代の若者ではないので判らない。
 考えてみれば今の20歳の子っていうのは生まれた時が既にバブル崩壊後で、ゆとり世代と言われ、それでいて失われた時代に育ってきた。つまり良い時代の日本というものを体験していない。それでいて既に物質的には恵まれていた。ただ今後成長があまり期待できない国内にあって生き続けていかなくてはならない。大きい希望もないかもしれないが贅沢さえしなければ生きてはいける。そういう時代なのかもしれない。でも今後、どのような時代になって行くのかそれは判らない。いずれにせよ20歳の若者に明るい未来があるような世の中になればいいのだが、今の現実は厳しいというしかないだろう。
 
EDIT  |  12:49  |  時事  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2013.09.08 (Sun)

東京オリンピックに物申す

 2020年の東京オリンピック開催が決定した。でも小生は口が腐ってもおめでとうとはいわない。むしろオリンピックに嫌悪感さえ抱いた。小生はオリンピックが嫌いなのは当ブログで再三に渡って書いてきたから当然の意見ではあるが、それに引き換えマスメディアのあの騒ぎようは一体どうなっているのだ。万歳、万歳のオンパレードだ。日本はここまで民度の低い国家になり下がってしまったのか。安部首相なんかわざわざアルゼンチンまで招致へのプレゼンテーションへ行ってしまったではないか。アホか・・・。そもそもオリンピックは国が開催するものではなく都市が開催するものである。なのに一国の宰相がアピールしにいくとは何事だ。そんなもの都知事に任しておればいい。本当に最低の首相だな。これでオリンピック誘致に成功したから、消費税も上げやすくなっただろう。もしかして、そのための招致ではなかったのか。それにオリンピックを起爆剤に経済の活性化を目論んでいることはありありだ。最早、オリンピックに頼るしか方法がなかったというよりも、それが一番手っ取り早いのだろう。

 そもそもこれは石原慎太郎がアドバルーンを上げたのが始まりだ。その本人は今は都知事ではない。それで2016年にも東京はオリンピック招致に名乗り出て失敗している。それでホッとしていたらまた懲りもせず、またオリンピック招致に立候補した。それで今回はマドリード、イスタンブールが相手なので、何れも問題を抱えている都市が相手だから開催都市に選ばれる可能性が高かったのは判る。しかし、日本国内で抱える山積した問題を後回しにしてまでオリンピックを開催する意味があるのかどうか。既に2016年の招致運動で150億円~200億円もの無駄な税金を浪費しているというのに今回の招致運動でさらに75億円もの無駄金を使おうとしている。それで招致に成功したからオリンピックの経済効果でそれに穴埋め出来ると思っているのか・・・。確かにインフラ整備やその他のことで経済が活性化するかもしれない。実際に東京都の開催実行委員は3兆円の経済効果が見込まれると試算しているらしい。

 しかし、こんなの仮に経済が潤っても東京の周辺だけの話だろう。東京以外はどうなってもいいのか。石原慎太郎が都知事時代にオリンピック開催に乗り出した。理由は閉塞感の打破である。今の日本を活性化するには東京でオリンピックを開催することだというものだった。小生はアホかと思った。東京でオリンピックを開催したところで日本が活性化すると思っているのか。東京だけは物と金がどんどん集まって、確かに活性化して豊かになるが、地方との格差はそれ以上広がるばかり。結局は東京のためのオリンピックでしかない。それと過去に一度開催しているのに、また開催するという厚かましさ。これを厚顔無恥という・・・・・・。

 そもそも政治、経済、文化の一局集中が地方の衰退の最大の要因だとされるのに、それを助長する今回の開催決定。それは何も地方だけの問題ではない。東京都だってオリンピック特需を見計らって再開発をするにあたり貧困層を締め出そうとしているのだ。2008年の北京オリンピックがそうであったように、臭いところには蓋をしよという試みが当然、行われるだろうし、富裕層と貧困層の二極化が今後、一層強まるのは確実だろう。今の日本には夢が必要だといって開催するらしいが、どなたのための夢なのだろうか。ただアスリートのための夢だろう。あとはこの巨大プロジェクトで潤う人、及び関係者だけの話である。ただ国威発揚のためなら止めてほしい。最早オリンピックなんて20世紀以前の遺物でしかないのだから。それでも開催するのだから困ったものだが、何も東京都民だっていいことばかりではないだろう。オリンピックによって警官や自衛隊が大量に動員される。ことにテロ対策には敏感だ。それにより東京はより街の管理が進む。そこら中、警備員が蔓延ることになることは目に見えている。今でも東京は電車に乗っても街に出ても、何処かしこも人が多過ぎて小生はもう行くのが嫌になっているのに、今後、行かないといけない事情が出来てもおそらく断るだろう。今後、さらにオリンピック開催に向けて集中度が増すことが明確になった。それに対処するために警備がさらに強化されるのだ。まだ7年後とはいえ、もう準備に入るだろうし、何処も大混雑で更に住みにくい街になるだろうな。本来から住む気はないが以前は出張とかで度々、行っていた。もう最近は行かなくなったし行く気もない。それでオリンピック開催決定で、余計に行く気が失せた。

 ところで話は変わるが福島の原発問題はどうなったのだ。東日本大震災への復興支援はどうなったのだ。これらの震災難民という人たちが未だに故郷を追われてひっそりと仮住まいで暮らす状況が続いているという。それらを差し置いてオリンピック招致成功か。今後、負の方は忘却され、オリンピック一色になってしまうのかもしれない。困ったものだ。まあオリンピックは大嫌いであるが東京以外で開催するなら、ここまでは小生も物申さなかったのだが、開催が決まってしまった以上、何を言ってもしょうがない。しかし、これ以上、国の税金を無駄遣いしないでほしい。東京都のお金だけで開催してほしいと思う。こう言っても国がいらん大金を投入するだろうが・・・・。最も小生、最近は健康状態があまり良くないので、あと7年五体満足で生きていられるかどうか、そちらの方が気になるので東京オリンピックがどうのこうのと言ってる場合ではないが・・・・・。
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2012.12.16 (Sun)

2012年衆議院総選挙

 今日は衆議院の総選挙の投票日。流石に街宣カーが出現せず静かだったが、その代わりに朝から電話と来客が多くてどうしようもなかった。来客といってもこちらにとってはどうでもいい客なので、招かれざる客である。来客とは何れも選挙関係。電話もそうである。電話が鳴るのでとってみると「○○党をよろしく」だkら鬱陶しいことこの上ない。来客も同様である。近所に○○党を熱心に支援している人がいるのだろうか。選挙になると度々我が家を訪ねてくる。若いころなら喧嘩になっているだろうが、最近はこちらも丸くなったので「はい、判りました」と言って追い返すことにしている。つまりこちらも無駄に話などして時間をつぶしたくないからだ。それにしてもせっかくの日曜日だというのに静かにしてもらいたいものだ。

 先週は家を出て最寄り駅に行くまでにビラ配りをしている者が何組かいいるし、滋賀県の職場の最寄り駅でも同様で、こちらは街宣カーで喧しく演説しておられる。ほとんどは他党の批判か候補者の応援演説であるが、喋っている内容は何処も大差はない。今回は既存政党を含め何と12党も乱立しての選挙だというが、これというのも乱世の時代だからか?

 各党の公約なんて似たようなものだろうが、まずこれらは果たせないだろうな。3年前に政権を担うようになったが、全く機能せず今やガタガタの民主党。2030年に原発稼働ゼロ。消費税を社会保障財源に。議員定数を衆院75減、参院40減だと主張しているが、まず実現は出来ないだろう。今回政権を奪い返すであろうと言われている自民党は、原発再稼働の可否は3年以内に結論。デフレ・円高対策で大胆な金融緩和。事前防災を重視した国土強靭化だとさ。これも3年後になれば覆っているかもしれない。

 おそらく与党になるであろうと予想できる2党の主張を見てみても、あまり新鮮味はない。もっとも第三極と言われている中でも注目されている日本維新の会であるが、そもそも橋下徹と石原慎太郎が手を結んで上手くいくのかどうか・・・。原発の問題でも橋下は原発廃止で石原は存続だったのに、それが合体するとフェードアウトだというから意味がわからない。原発がだんだんと消えていくという意味か・・・・・。何れ内部分裂してしまうのでは?

 何れにしても妙味はないが、とにかくどこかが政権を握ってまつりごとを捌いていかなくてはならない。財政が火の車の日本丸。外交も下手で断崖絶壁に追い込まれている。経済もガタガタ。教育改革も必要に迫られている。さらに社会保障制度も綱渡り状態・・・・。もう何かにつけお先真っ暗なのだ。こんな国に誰がしたのだ。もう後には引けないところまで来ている。派閥争いやくだらない論争ばかりしていないで、もう本気で将来を構築していく方法論を見つけ出さないと本当に日本は沈没してしまうのではないだろうか。あと30年、いや50年、今よりも酷い国になっているのでは・・・・・と危惧するのも辛いものがある。あまりぼやいてもしょうがないが、取り敢えず出来ることといえば、国会・政府のスリム化から手始めにして歳費を出来る限り抑えてもらいたいということである。
EDIT  |  20:17  |  時事  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2012.07.29 (Sun)

オリンピックって何だ?

 ロンドン・オリンピックが始まった。テレビはどこもこればかり。前回の北京オリンピックはあまりにも国威発揚が露骨過ぎて小生はほとんどテレビ中継を観なかった。それで今回オリンピックの故郷と言ってもいいイギリスで行われることに何かがあると思い朝早くから開会式を観ていたのだが、あまりにもイベント化された巨大ページェントにやや食傷気味になってしまった。

 本来は選手が主にならなけらばならないのに、選手入場がなかなか始まらない。これでは待っている選手も草臥れそうである。それと開会式の姿も以前とはすっかり変わってしまったなという思いを強くした。何時の頃からかオリンピックの開会式がショー化され、段々と派手になってきている。おそらく1984年のロサンジェルス・オリンピック辺りからであろうが、この当時はまだ開会式は明るい昼間にやっていた。それが1992年のバルセロナ・オリンピックから夜に開会式を行うようになり、より一層派手になりショウ化されたように思う。ことに炎を使った演出に聴衆を酔わす作用がある故、より派手になってきたのではないだろうか。かつては昼間の開会式で、選手入場がメインであり、各国の選手が整然と並んで行進する姿がオリンピックであるという認識があった。それが夜の開会式になり、選手が整然と行進することはなくなった。各国とも一応は並んでいるが、一糸乱れずとはほど遠く、バラバラの隊列でそれも各自カメラを持って撮影している選手が実に多い。ここらあたり全く昔とは変わってしまった。

 なんだか一見だらけたように見えるが選手は楽しんでいるようで、かつての国家を支えている国を代表していると言った趣とは異なっていて実にフレンドリーに思える。これはかつて近代オリンピックの理念を掲げたクーベルタンの意志と通じるものがあり微笑ましく思える。近代オリンピックの父ともいえるクーベルタンは「オリンピックの理想は人間を作ること、つまり参加までの過程が大事であり、オリンピックに参加することは人と付き合うこと、すなわち世界平和の意味を含んでいる」と言った。スポーツを通して心身を向上させ、さらには文化・国籍等、様々な差異を超え、友情、連帯感、フェアプレーの精神を持って理解し合うことで、平和でよりよい世界の実現に貢献するというものである。

 そもそもフランス人であるピエール・ド・クーベルタンは、若き日の頃のフランスは普仏戦争の敗戦を引きずり重苦しい沈滞ムードが蔓延っていたという。この状況を打開するには教育改革しかないと考え、その道での先進国イギリスへ視察に出かけたのである。目的はイギリスのパブリックスクールを見るためである。フランスと違って当時イギリスの学生は、積極的に紳士的にスポーツに取り組んでいた。このことに感銘を受けたクーベルタンは「服従を旨として知識を詰め込むことに偏っていたフランスの教育では、このような青少年は育たない。即刻スポーツを取り入れた教育改革を推進する必要がある」と確信に至るのである。さらに新興国であるアメリカにも行き受けた刺激も強烈であった。アメリカではヨーロッパのように階級、伝統、慣習に縛られてなく古代ギリシャの都市国家の自由さに似ていると感じたのである。そこでスポーツを通じて教育改革を推し進める上で、より国際的競技会の構想が膨らんでくるのであった。世界各地を視察し、海外からの選手の招聘、交流試合等に携わることで、スポーツが果たしうるもう一つの役割である国際交流、平和が見えてきたということである。こうして古代オリンピックに倣い4年に1回、各国の選手が1か所に集結し、平和の祭典であるスポーツ競技大会を開く。即ち近代オリンピックが1896年にアテネで開催されることとなったのである。

 ここで考えられるのは今から100年以上前に近代オリンピックが始まっているということである。つまり、まだ人類の歴史に飛行機が存在しなかったという現実につきあたる。こんな時代にクーベルタンは国際的なスポーツ競技大会の開催を開いたことに意義があったのだと思う。これにより平和の意味がより助長されるのだ。おそらく当時はそれこそ船や鉄道での移動となるので、オリンピックの開催地まで何週間もかかっただろう。それでも開催する意義があったのだと思う。それに世界中から選手が集まってスポーツ競技大会を開くことなど初めてのことだっただろう。この状況そのものが偉大で在り行う価値があったものだと思う。

 さて、それから100年以上経過し21世紀の現在であるが、大陸間の移動も簡単になった。国際交流も容易になった。そして、ありとあらゆるスポーツの大会が世界中で年から年中開かれるようになり、各競技それぞれのプロが闊歩する時代である。今やオリンピック以外にも各競技に世界選手権、ワールドカップ、ワールドグランプリといった名の大会が存在する。オリンピックが唯一の世界大会でもなくなっている。何も今更、世界中の人が集って平和の祭典の中で国際交流をといったところで絵空事でしかない。それにメダル至上主義になり、参加までの過程が大事といって美化しても無意味である。そこで思うのだが、現代においてオリンピックが必要なのかどうかという問題を考えた場合、はたしてどうだろうか。

 正直なところ小生はもうオリンピックなんていらないと考える。もう本来のオリンピックの果たす意味は20世紀で終わっているような気がするのである。でもオリンピックは今も開催され続けている。それもより巨大になりイベント化され、よりショウ的要素を含め、金のかかるイベントとして、また儲かるイベントとしてまかり通るようになった。要は本来の目的から逸脱し、都市や国の発展、且つ潤うイベントとしてオリンピックは利用されるようになってしまったのである。それで現在はオリンピックの開催を立候補する都市が溢れてしまい、開催の招致にも大金が動く時代である。その招致には裏話があり駆け引きがある。結局は平和の祭典、国際交流の場だといっても本末転倒の巨大イベントでしかなくなってしまった。

 ただ中継すれば誰もが観てしまうし人を熱くする。オリンピックが嫌いだと言っておきながら、悔しいが知らぬ間にテレビ画面にくぎ付けになっている。それがオリンピックと言うものかもしれない。ただ小生はスポーツ中継はもとから好きだったのだが、だんだんと関心がなくなってきたというのもあるが・・・・・・・。
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