2012.07.15 (Sun)
大津の中学生自殺事件について書いてみる・・・・・・
先週あたりから毎日、新聞、テレビが採り上げ何かと賑やかである大津市内で起こったいじめを苦にした中学生自殺事件について少し書いてみることにする。
ところで小生が何故、この件について書こうと思ったまでの経緯についてなのだが、こういったいじめを苦にした自殺は過去に数えきれないほどあった。またかと思った程度である。なので新聞で報道され出した当初は全く書くつもりもなかった。しかし小生、事件のあった滋賀県へ毎日、通勤していることにより少なからず情報が入る。何しろ周囲は滋賀県人ばかり。黙っていても情報はいやがうえにも入ってくる。当然のように新聞で報道されないことも耳に入って来る。ただしどこまでが真実かは判り兼ねるが、確証を得た情報も多い。それで聞けば聞くほど今回の自殺事件は根が深く陰湿で且つ悪質であることが判明してきたのだ。それで、これは看過できない事件だなと思う以前に、憤りを感じるに至り小生が判っている範囲で少し書いてみることにしたまでである。尚、人物名は敢えて伏せるが、学校名は実名を公表することにした。それは今回の学校の対応が余りにも悪いことと、教育委員会、大津市警察署を含めた一連の隠匿行為に腹立たしさを覚えたので学校名を公表する。もっとも多くの人は学校名を知っているだろうが・・・・・・。
今回の事件は大津市役所に近い大津市立皇子山中学校で起こった。この中学校の近くには近江神宮や三井寺もあり、歴史的にいっても由緒あるところである。中学校のすぐ近くには皇子山運動公園があり、皇子山球場とびわ湖毎日マラソンでお馴染みの皇子山競技場がある。琵琶湖も近く京都市内へも10分で行ける便利で且つ、風光明美なところにある中学校である。
それで自殺事件は新聞での報道の通り昨年の秋に起こっている。それが何故、今頃、新聞で大きく報道され出したのかだが・・・・・・・。昨年の10月11日朝、皇子山中学2年生の男子生徒が自宅マンションから飛び降り自殺した。これにより学校側は、この件についてアンケートを行ったという。さらに大津市教育委員会は11月2日に記者会見を行い、死亡した生徒が同級生に殴られていたり成績表を破られていた等の事実を認め、いじめと判断できるとする見解を示すに至る。しかしながらこの時の公表は一部の報道(主に地元の地方紙)にとどまっていた。
年が明け、今年の1月に新しく市長になった越直美女史は、3月13日、大津市内で一斉に行われる市立中学校での卒業式において、当初、別の中学校で挨拶予定だったのを急虚変更して皇子山中学校で挨拶する。内容は自身の生徒時代のいじめ体験を明かしながら全力でいじめのない社会に取り組むと述べるに至る。その少し前の2月24日、死亡した少年の遺族はいじめていたとされる加害生徒3人とその保護者、大津市を相手取り大津地裁に民事提訴する。息子を失った遺族の心の痛手は大きく真実を知りたいがために行った行為ともいえる。それまで学校も教育委員会も隠し通していたから、遺族も自殺して亡くなりましただけでは腑に落ちなかったのだろう。こうして5月22日、民事訴訟の第1回口頭弁論が行われ、加害者はいじめを全面否定し、大津市側も自殺との因果関係は不明とした。また訴訟の際、大津市が遺族に対し、いじめの日時や場所を原告が特定しろと無理筋の主張を行っていたことが7月になって報道される。さらに徐々に出てくる不手際が発覚。殊に死亡した生徒への悪質ないじめがあったという同級生の証言が複数ありながら、学校、市の教育委員会が公表していなかったことが判り、遂に今月の4日、新聞各紙に堂々と報道されることとなり、これ以降、事件性が増してきてテレビでも大きく採り上げれれるようになったということである。
ところで小生が何故、この件について書こうと思ったまでの経緯についてなのだが、こういったいじめを苦にした自殺は過去に数えきれないほどあった。またかと思った程度である。なので新聞で報道され出した当初は全く書くつもりもなかった。しかし小生、事件のあった滋賀県へ毎日、通勤していることにより少なからず情報が入る。何しろ周囲は滋賀県人ばかり。黙っていても情報はいやがうえにも入ってくる。当然のように新聞で報道されないことも耳に入って来る。ただしどこまでが真実かは判り兼ねるが、確証を得た情報も多い。それで聞けば聞くほど今回の自殺事件は根が深く陰湿で且つ悪質であることが判明してきたのだ。それで、これは看過できない事件だなと思う以前に、憤りを感じるに至り小生が判っている範囲で少し書いてみることにしたまでである。尚、人物名は敢えて伏せるが、学校名は実名を公表することにした。それは今回の学校の対応が余りにも悪いことと、教育委員会、大津市警察署を含めた一連の隠匿行為に腹立たしさを覚えたので学校名を公表する。もっとも多くの人は学校名を知っているだろうが・・・・・・。
今回の事件は大津市役所に近い大津市立皇子山中学校で起こった。この中学校の近くには近江神宮や三井寺もあり、歴史的にいっても由緒あるところである。中学校のすぐ近くには皇子山運動公園があり、皇子山球場とびわ湖毎日マラソンでお馴染みの皇子山競技場がある。琵琶湖も近く京都市内へも10分で行ける便利で且つ、風光明美なところにある中学校である。
それで自殺事件は新聞での報道の通り昨年の秋に起こっている。それが何故、今頃、新聞で大きく報道され出したのかだが・・・・・・・。昨年の10月11日朝、皇子山中学2年生の男子生徒が自宅マンションから飛び降り自殺した。これにより学校側は、この件についてアンケートを行ったという。さらに大津市教育委員会は11月2日に記者会見を行い、死亡した生徒が同級生に殴られていたり成績表を破られていた等の事実を認め、いじめと判断できるとする見解を示すに至る。しかしながらこの時の公表は一部の報道(主に地元の地方紙)にとどまっていた。
年が明け、今年の1月に新しく市長になった越直美女史は、3月13日、大津市内で一斉に行われる市立中学校での卒業式において、当初、別の中学校で挨拶予定だったのを急虚変更して皇子山中学校で挨拶する。内容は自身の生徒時代のいじめ体験を明かしながら全力でいじめのない社会に取り組むと述べるに至る。その少し前の2月24日、死亡した少年の遺族はいじめていたとされる加害生徒3人とその保護者、大津市を相手取り大津地裁に民事提訴する。息子を失った遺族の心の痛手は大きく真実を知りたいがために行った行為ともいえる。それまで学校も教育委員会も隠し通していたから、遺族も自殺して亡くなりましただけでは腑に落ちなかったのだろう。こうして5月22日、民事訴訟の第1回口頭弁論が行われ、加害者はいじめを全面否定し、大津市側も自殺との因果関係は不明とした。また訴訟の際、大津市が遺族に対し、いじめの日時や場所を原告が特定しろと無理筋の主張を行っていたことが7月になって報道される。さらに徐々に出てくる不手際が発覚。殊に死亡した生徒への悪質ないじめがあったという同級生の証言が複数ありながら、学校、市の教育委員会が公表していなかったことが判り、遂に今月の4日、新聞各紙に堂々と報道されることとなり、これ以降、事件性が増してきてテレビでも大きく採り上げれれるようになったということである。
2012.07.05 (Thu)
ヒッグス粒子発見・・・・・
今朝の新聞の見出しは何処も「ヒッグス粒子」発見だった。しかし一般的にいってヒッグス粒子といわれたところで何のことだ?・・・となる。量子力学の知識もないとさっぱり見当がつかない。しかし、ノーベル賞確実と言われる発見なのだからこれは人類にとって偉業なのだろう。
小生は理系の頭脳を持ちあわせてないので皆目、理解に苦しむが、人類の有史以来、様々な物資を解明してきた中で、物資を構成する基本的な単位がある。それらの単位において、それ以上分割できない最小単位と言われるのが素粒子だといわれている。その素粒子が発見せるのは1897年のこと。それが発展して1911年に原子は電子と中心部にある原子核で構成されていることが解明された。そして電子と原子核を作る陽子、中性子の三つが素粒子と考えられていて、1964年になるとさらに研究が進み、陽子と中性子がさらに基本的な粒子のクォークからなると理論が提唱された。そこでヒッグス粒子の存在を提唱することになるのだが、長い間、その存在を確認できないでいたらしい。それが今回、欧州合同原子核研究機関がヒッグス粒子とみられる新粒子を発見したと発表。
まあ、大変なことなのだろうが、如何せんこういった分野の知識に乏しい者にとっては何のことやら漠然としていてさっぱり判らない。とはいえ、新しい物理学が幕を開けたという。さらに次の理論に進むだろうし、今後の展開次第でこの分野が大きく飛躍することにもなる。しかし・・・・・・人類史上に残る大きな成果であるとはいえ、我々にとっては、この発見で我々の生活に影響があるのかと考えたら何ら影響はないだろう。でも人類の頭脳の可能性を考えた場合、限界はないのだと思うに至り、小生も50の手習いではないけれども、加齢に負けず今後も精進するべきであるという思いに至ったのである。
小生は理系の頭脳を持ちあわせてないので皆目、理解に苦しむが、人類の有史以来、様々な物資を解明してきた中で、物資を構成する基本的な単位がある。それらの単位において、それ以上分割できない最小単位と言われるのが素粒子だといわれている。その素粒子が発見せるのは1897年のこと。それが発展して1911年に原子は電子と中心部にある原子核で構成されていることが解明された。そして電子と原子核を作る陽子、中性子の三つが素粒子と考えられていて、1964年になるとさらに研究が進み、陽子と中性子がさらに基本的な粒子のクォークからなると理論が提唱された。そこでヒッグス粒子の存在を提唱することになるのだが、長い間、その存在を確認できないでいたらしい。それが今回、欧州合同原子核研究機関がヒッグス粒子とみられる新粒子を発見したと発表。
まあ、大変なことなのだろうが、如何せんこういった分野の知識に乏しい者にとっては何のことやら漠然としていてさっぱり判らない。とはいえ、新しい物理学が幕を開けたという。さらに次の理論に進むだろうし、今後の展開次第でこの分野が大きく飛躍することにもなる。しかし・・・・・・人類史上に残る大きな成果であるとはいえ、我々にとっては、この発見で我々の生活に影響があるのかと考えたら何ら影響はないだろう。でも人類の頭脳の可能性を考えた場合、限界はないのだと思うに至り、小生も50の手習いではないけれども、加齢に負けず今後も精進するべきであるという思いに至ったのである。
2012.05.21 (Mon)
金環日食
あまりこの話題については書きたくなかったのだが、日本国内で見られるのが久しぶりだったので、何時起こったのかを書き留めておこうと思ったまでだが・・・・それにしても騒ぎ過ぎ。
今回の金環日食は何と東京では173年ぶり、京都、大阪では282年ぶり、名古屋にいたっては何と932年ぶり。つまり三大都市圏で全て観測されたというのは932年ぶり。つまり1080年以来ということになるから、テレビも新聞もこれほど騒いでいるのだろうが・・・・・・。でも金環日食は毎年、地球のどこかで必ず見られるのだから、その気になれば毎年、見ることができるのだ。ただし外国へ出かけるのも金がいるし暇もいる。会社勤めは無理だ。
ところで西暦1080年というと平安時代の真っ只中。白河天皇の時代である。八幡太郎義家こと源義家が頭角を現していた頃で、後三年の役が3年後に起こっている。でも当時の人は天文学の知識がないから、突然のように太陽が欠け始め、金環日食の瞬間はさぞや驚いただろう。おそらく不吉なことが起こると思って、その場でお祈りでもしたのではないだろうか。
今日の金環日食は朝の7時半ごろということで小生は電車に乗っている時間だから、太陽を拝もうという気も起らず、むさくるしい車内で吊革につかまりながら身体を揺れにまかしていた。だが、滋賀県内を走行中、外がいくらか暗くなったので、時計を眺めたらちょうど7時30分だった。つまり月が太陽の光線をさえぎるように前に覆いかぶさった時間帯だった。やはり晴れてはいても少し暗くなるのだな。でも電車内から外を見上げている連中が大勢いたが、不思議と上を見ると人間というのは口をポカンとあけるようだ。その面はバカっぽいが・・・・。
さて、太陽のリングが見える金環日食だが、これも大宇宙の不思議がなせる技なんだろう。偶然が偶然を呼ぶ。地球から月までの距離が38万4千㎞。地球から太陽までの距離が1億5千万㎞。つまり月までの距離の約400倍先に太陽がある。そして、月の直径が3470㎞。太陽の直径が140万㎞。月の直径の約400倍。それで太陽と月の直径がほぼ重なる訳である。ただし月がもっと地球に近い軌道を通っていたら完全に太陽が隠れる皆既日食となる。だから日食とは偶然の産物なのである。ただし月は毎年、地球から3.8㎝ずつ離れて行っているので、いずれは月が小さくなってしまい、日食も迫力がなくなっていくだろうし、月も地球の引力から脱し宇宙の彼方へ消えていくだろう。ただし何億年も先のことであって、我々が生きている間のことではないのでどうでもいいが、大宇宙とは実に不思議であるから興味も注がれるのだろう。でも今日、自転車に乗りながら空を見上げている御仁がいたが、危険極まりないのでやめていただきたい。
今回の金環日食は何と東京では173年ぶり、京都、大阪では282年ぶり、名古屋にいたっては何と932年ぶり。つまり三大都市圏で全て観測されたというのは932年ぶり。つまり1080年以来ということになるから、テレビも新聞もこれほど騒いでいるのだろうが・・・・・・。でも金環日食は毎年、地球のどこかで必ず見られるのだから、その気になれば毎年、見ることができるのだ。ただし外国へ出かけるのも金がいるし暇もいる。会社勤めは無理だ。
ところで西暦1080年というと平安時代の真っ只中。白河天皇の時代である。八幡太郎義家こと源義家が頭角を現していた頃で、後三年の役が3年後に起こっている。でも当時の人は天文学の知識がないから、突然のように太陽が欠け始め、金環日食の瞬間はさぞや驚いただろう。おそらく不吉なことが起こると思って、その場でお祈りでもしたのではないだろうか。
今日の金環日食は朝の7時半ごろということで小生は電車に乗っている時間だから、太陽を拝もうという気も起らず、むさくるしい車内で吊革につかまりながら身体を揺れにまかしていた。だが、滋賀県内を走行中、外がいくらか暗くなったので、時計を眺めたらちょうど7時30分だった。つまり月が太陽の光線をさえぎるように前に覆いかぶさった時間帯だった。やはり晴れてはいても少し暗くなるのだな。でも電車内から外を見上げている連中が大勢いたが、不思議と上を見ると人間というのは口をポカンとあけるようだ。その面はバカっぽいが・・・・。
さて、太陽のリングが見える金環日食だが、これも大宇宙の不思議がなせる技なんだろう。偶然が偶然を呼ぶ。地球から月までの距離が38万4千㎞。地球から太陽までの距離が1億5千万㎞。つまり月までの距離の約400倍先に太陽がある。そして、月の直径が3470㎞。太陽の直径が140万㎞。月の直径の約400倍。それで太陽と月の直径がほぼ重なる訳である。ただし月がもっと地球に近い軌道を通っていたら完全に太陽が隠れる皆既日食となる。だから日食とは偶然の産物なのである。ただし月は毎年、地球から3.8㎝ずつ離れて行っているので、いずれは月が小さくなってしまい、日食も迫力がなくなっていくだろうし、月も地球の引力から脱し宇宙の彼方へ消えていくだろう。ただし何億年も先のことであって、我々が生きている間のことではないのでどうでもいいが、大宇宙とは実に不思議であるから興味も注がれるのだろう。でも今日、自転車に乗りながら空を見上げている御仁がいたが、危険極まりないのでやめていただきたい。
2012.04.14 (Sat)
タイタニックの遭難から100年
ブログ更新は一週間ぶりとなる。どうも4月になってから残業が多くて忙しくブログ更新が満足にできなくなってしまった。帰宅時間が遅くなるからどうしても書く時間がないのだが・・・・・・。
大阪の桜は散りかけているようだが京都周辺の桜がようやく満開になった(3日前が一番見応えがあったようだが)。でも朝から今にも雨が降りそうな雲行きだったので桜の花を見には行かなかった。どうも今春は土曜日に成ると雨がよく降る巡りあわせのようだ。朝から快晴だったらカメラを持って写真でも撮ろうかとも思ったが、はっきりしない天気では行く気も起らず雑用を済ませに出かけた。午後からは晴れてきたが何をいまさらである。まあ、しょうがないか・・・・・・・。
ところで今日はタイタニック号の話をするとしようか・・・・。今からちょうど100年前の1912年4月15日午前2時20分、北大西洋において当時、世界最大と言われた豪華客船タイタニック号が沈没した。犠牲者の数は1513人(諸説あり)で海難史上もっとも大きな事故である。詳しく言うとイギリスのホワイト・スターライン社のオリンピック型豪華客船2番船であるタイタニック号。建造当時、全長269.1m、全幅28.2m、全高53m、46328総トンという世界最大の客船であった。船底は2重構造となっていて船体も喫水線上まで防水隔壁で16の区画に分けられていて、もしそのうち2区画に浸水しても沈没しないように設計されていて、100年前の水準では世界最高のハイテク客船であり浮沈船と言われていた。
さて、そのタイタニック号であるが、1909年3月31日に起工された。造船を請け負ったのは、北アイルランドのベルファストにあるハーランド&ウルフ造船所である。2年後の1911年5月31日に進水し、1912年初頭にはほぼタイタニックは完成。そして1912年4月10日、いよいよイギリスのサウザンプトン港からニューヨークに向け処女航海に出発したのである。エドワード・J・シミス船長以下、乗員乗客合わせて2200人以上を乗せ一路、北大西洋へ・・・・・。まだ航空機の存在がなかった当時、ヨーロッパと北アメリカを結ぶ航路は花形でありドル箱の航路であった。ただ気に成る事は双眼鏡が行方不明だったことと北大西洋海上において流氷群が目立っていたということだった。タイタニックは何事もなく順調に航行してスピードを上げていた。最高速度23ノットのフルスピードでニューヨークに向かっていた。しかし、ホワイト・スターライン社のライバル会社であるキューナード・ラインの高速客船ルシタニア、モーリタニア(共に26ノットを誇る)に比較するとスピードでは劣っていた。でも豪華さでは勝っていたが、何故かこの処女航海の時のタイタニックはブルーリボン賞受賞(大西洋を最も速く横断した船舶に与えられる賞で東回りも西回りも当時はモーリタニア号が持っていた)を目指すかのようにフルスピードでモーリタニアの記録に挑戦するかのようにニューヨークに向かっていたという。そして、4月14日の深夜11時40分、北大西洋ニューファンドランド沖に達したとき前方450m先に高さ20mに及ぶ氷山を見張り台にいる船員が肉眼で発見。運悪くこの日は靄がかかっていたので発見が遅れたという説もあり、もし双眼鏡を使っていたとしても氷山を発見するのは難しかったかもしれない。なにしろレーダーがない時代の航海である。慌てた見張り員フレデリック・フィリートは鐘を鳴らしブリッジへ電話で連絡。22.5ノットで進んでいたタイタニックは急いで全力後進。しかしあまりにも氷山までの距離は近すぎた。左に旋回するように舵をとって避けるが船首からの衝突を逃れたものの右舷を氷山はこするようにかすめていった。
しかし、建造当時浮沈船と言われたタイタニックである。当時としては最新の設備が施されていて防水隔壁16区画に分けられ2区画まで浸水しても大丈夫とされていたが、実際には90mに及ぶ損傷で、浸水領域は6区画と限度を超えていた。これだと間違いなく沈没することが明らかになったのである。ただちにタイタニックは遭難信号を発するが結局は約100km離れたところを航海していたキューナード・ライン社の客船カルパチア号が応答し救助に向かったのであるが、その間にタイタニック号は轟音をたて海の藻屑となったのである。カルパチア号が現地に到着したのは沈没から2時間40分後の午前4時であった。
以上、これがタイタニック誕生から沈没までの詳細である。その後、タイタニック号遭難事件のことは、たびたび映画化され本になり伝わるところである。ジェームス・キャメロン監督の映画『タイタニック』を観て、この話を知った人も多いだろうと思われる。ただ多くのことが伝えれれているものの謎が多いのも事実である。何故タイタニックはフルスピード航行していたのか・・・・。とてもブルーリボン賞を狙える設計ではなかったという。それでも乗船していたジェームス・ブルース・イズメイが飛ばせと言っていたという説もある。この男はオーナーでありながら船と運命をともにせず助かっている。その他には倒産寸前だったホワイト・スターライン社が保険金を得るために故意に沈めたとか、姉妹船のオリンピック号とすり替えられていたという説やら出てくる始末で、これらは憶測の域でしかない。しかし、タイタニック遭難事件はその後の船旅に大きな変革をもたらした。救命ボートも現在では乗客全員が乗れる程度は確保されているし、より安全に航海できるように改革はなされた。ただそれでも起こるのが海難事故である。結局は人間の驕りがあったとしか思えない。所詮、人間の造ったもの、自然界の脅威には太刀打ちできるものではない。今から100年前、タイタニック号の遭難は我々、人間に大きな警鐘を齎したはずだったが、その後の人類は同じ過ちをたびたび繰り返しているものの、今ではタイタニックの5倍もあるような巨大客船が航海している。こんな船必要なのかと思うけど、人間の欲望はとどまるところをしらないようだ。その後、ホワイト・スターライン社は皮肉にもライバル会社だったキュナード・ライン社に吸収され、キュナード・ライン社は現在でも豪華客船クイーン・エリザベス号(90400トン、全長294m)、クイーン・ヴィクトリア号(90049トン、全長294m)、クイーン・メリー号(148528トン、全長345m)を就航させていて、現在の客船はタイタニックの比ではないほど巨大化している。これだけ巨大化してしまうと、いったん事故が起こるやその遭難者の数も甚大なものになるだろう。でも現在、タイタニックの悲劇は忘却されたかのようだ。明日、タイタニック号遭難から100年を迎えるに当たり、もう一度、我々、人類に過信がないか見つめなおした方がいいかもしれない。
大阪の桜は散りかけているようだが京都周辺の桜がようやく満開になった(3日前が一番見応えがあったようだが)。でも朝から今にも雨が降りそうな雲行きだったので桜の花を見には行かなかった。どうも今春は土曜日に成ると雨がよく降る巡りあわせのようだ。朝から快晴だったらカメラを持って写真でも撮ろうかとも思ったが、はっきりしない天気では行く気も起らず雑用を済ませに出かけた。午後からは晴れてきたが何をいまさらである。まあ、しょうがないか・・・・・・・。
ところで今日はタイタニック号の話をするとしようか・・・・。今からちょうど100年前の1912年4月15日午前2時20分、北大西洋において当時、世界最大と言われた豪華客船タイタニック号が沈没した。犠牲者の数は1513人(諸説あり)で海難史上もっとも大きな事故である。詳しく言うとイギリスのホワイト・スターライン社のオリンピック型豪華客船2番船であるタイタニック号。建造当時、全長269.1m、全幅28.2m、全高53m、46328総トンという世界最大の客船であった。船底は2重構造となっていて船体も喫水線上まで防水隔壁で16の区画に分けられていて、もしそのうち2区画に浸水しても沈没しないように設計されていて、100年前の水準では世界最高のハイテク客船であり浮沈船と言われていた。
さて、そのタイタニック号であるが、1909年3月31日に起工された。造船を請け負ったのは、北アイルランドのベルファストにあるハーランド&ウルフ造船所である。2年後の1911年5月31日に進水し、1912年初頭にはほぼタイタニックは完成。そして1912年4月10日、いよいよイギリスのサウザンプトン港からニューヨークに向け処女航海に出発したのである。エドワード・J・シミス船長以下、乗員乗客合わせて2200人以上を乗せ一路、北大西洋へ・・・・・。まだ航空機の存在がなかった当時、ヨーロッパと北アメリカを結ぶ航路は花形でありドル箱の航路であった。ただ気に成る事は双眼鏡が行方不明だったことと北大西洋海上において流氷群が目立っていたということだった。タイタニックは何事もなく順調に航行してスピードを上げていた。最高速度23ノットのフルスピードでニューヨークに向かっていた。しかし、ホワイト・スターライン社のライバル会社であるキューナード・ラインの高速客船ルシタニア、モーリタニア(共に26ノットを誇る)に比較するとスピードでは劣っていた。でも豪華さでは勝っていたが、何故かこの処女航海の時のタイタニックはブルーリボン賞受賞(大西洋を最も速く横断した船舶に与えられる賞で東回りも西回りも当時はモーリタニア号が持っていた)を目指すかのようにフルスピードでモーリタニアの記録に挑戦するかのようにニューヨークに向かっていたという。そして、4月14日の深夜11時40分、北大西洋ニューファンドランド沖に達したとき前方450m先に高さ20mに及ぶ氷山を見張り台にいる船員が肉眼で発見。運悪くこの日は靄がかかっていたので発見が遅れたという説もあり、もし双眼鏡を使っていたとしても氷山を発見するのは難しかったかもしれない。なにしろレーダーがない時代の航海である。慌てた見張り員フレデリック・フィリートは鐘を鳴らしブリッジへ電話で連絡。22.5ノットで進んでいたタイタニックは急いで全力後進。しかしあまりにも氷山までの距離は近すぎた。左に旋回するように舵をとって避けるが船首からの衝突を逃れたものの右舷を氷山はこするようにかすめていった。
しかし、建造当時浮沈船と言われたタイタニックである。当時としては最新の設備が施されていて防水隔壁16区画に分けられ2区画まで浸水しても大丈夫とされていたが、実際には90mに及ぶ損傷で、浸水領域は6区画と限度を超えていた。これだと間違いなく沈没することが明らかになったのである。ただちにタイタニックは遭難信号を発するが結局は約100km離れたところを航海していたキューナード・ライン社の客船カルパチア号が応答し救助に向かったのであるが、その間にタイタニック号は轟音をたて海の藻屑となったのである。カルパチア号が現地に到着したのは沈没から2時間40分後の午前4時であった。
以上、これがタイタニック誕生から沈没までの詳細である。その後、タイタニック号遭難事件のことは、たびたび映画化され本になり伝わるところである。ジェームス・キャメロン監督の映画『タイタニック』を観て、この話を知った人も多いだろうと思われる。ただ多くのことが伝えれれているものの謎が多いのも事実である。何故タイタニックはフルスピード航行していたのか・・・・。とてもブルーリボン賞を狙える設計ではなかったという。それでも乗船していたジェームス・ブルース・イズメイが飛ばせと言っていたという説もある。この男はオーナーでありながら船と運命をともにせず助かっている。その他には倒産寸前だったホワイト・スターライン社が保険金を得るために故意に沈めたとか、姉妹船のオリンピック号とすり替えられていたという説やら出てくる始末で、これらは憶測の域でしかない。しかし、タイタニック遭難事件はその後の船旅に大きな変革をもたらした。救命ボートも現在では乗客全員が乗れる程度は確保されているし、より安全に航海できるように改革はなされた。ただそれでも起こるのが海難事故である。結局は人間の驕りがあったとしか思えない。所詮、人間の造ったもの、自然界の脅威には太刀打ちできるものではない。今から100年前、タイタニック号の遭難は我々、人間に大きな警鐘を齎したはずだったが、その後の人類は同じ過ちをたびたび繰り返しているものの、今ではタイタニックの5倍もあるような巨大客船が航海している。こんな船必要なのかと思うけど、人間の欲望はとどまるところをしらないようだ。その後、ホワイト・スターライン社は皮肉にもライバル会社だったキュナード・ライン社に吸収され、キュナード・ライン社は現在でも豪華客船クイーン・エリザベス号(90400トン、全長294m)、クイーン・ヴィクトリア号(90049トン、全長294m)、クイーン・メリー号(148528トン、全長345m)を就航させていて、現在の客船はタイタニックの比ではないほど巨大化している。これだけ巨大化してしまうと、いったん事故が起こるやその遭難者の数も甚大なものになるだろう。でも現在、タイタニックの悲劇は忘却されたかのようだ。明日、タイタニック号遭難から100年を迎えるに当たり、もう一度、我々、人類に過信がないか見つめなおした方がいいかもしれない。
2012.03.17 (Sat)
雨の土曜日
朝からしっかりした雨。昨日は晴れていたし朝は寒かったから今日、雨が降るなんて想像できなかったのだが、昨晩から降り出して今朝も強い雨が降り続いていた。せっかくの休日の土曜日だったのに、またまた雨が降った。春先は雨がよく降ることは理解していても土曜日に限って雨が降らなくてもいいものだが、思うようになってくれない。これで用事を済まそうと思うものの行動範囲が狭まれてくる。まず洗濯物も乾かない。布団も干せない。買い出しに行くにしても大きな荷物が持てない。したがっていいところがない。せめて土曜日ぐらいは晴れてほしいのだが、お天気ばかりはどうすることもできない。とにかく小生は小学校のころから雨男と言われてきたからしょうがないとは思っている。
なにしろ子供のころから行事があると何時も雨が降っていたという記憶がある。小学校の遠足は何度か雨が降っていたし、運動会も6年間で2度ほど雨で延期に成っていた。こんな頃のことを覚えているほどだから、よほど雨にたたられた印象が強いのだろう。当然、1泊2日の修学旅行も雨が降っていた。それが中学校に成るとさらに雨男の本領発揮で、中学2年の臨海学校は集中豪雨で中止。秋に林間学校に変更になったがこれも雨だった。耐寒マラソンも雨で中止。中3の春の修学旅行は3日中、2日が雨。その年の文化祭も土砂降りだった。高校に入ってからも体育祭が雨の中で強行開催されたことがあったし、6泊7日の修学旅行も2日間は雨が降っていたのである。
結局、大学時代も含めて社会に出ても雨との関係は因縁深い物があり、何かと雨降りとは切っても切れない関係にあるようだ。まあ、偶然の一致にしか過ぎないのだが、それにしても雨に邪魔されることが多かったように思う。
それで今日、午前中は強い雨が降っていたので、大阪市内まで出ずに比較的に近い高槻の街に行った。最近はこの街も立派なショッピングゾーンや店が増えて買い出しに行くのにも充分満足度を満たしてくれるようになった。なにしろ小生は静かな緑の多いところに住んではいるが、いざ買いものとなると専門店が皆目ない。それで出て行くのだが、久々に高槻の駅に降り立ったら、マイクを持って喋っている女性がいた。どこかで聞いたことのある声だと思ったら辻元清美だった。
久しく見なかったが赤い上着を着て何やら喋っていた。そういえば高槻は辻元清美の本拠地だった。この大阪10区から選出されている衆議院議員だったかな。もっとも小生は大阪の府民ではないので投票用紙に彼女の名前を書くことはあり得ないが、まだ国会議員をやっていたのだな。なんだか東日本大震災から1年。復興への首相補佐官として任命され、震災被災地へ何度も赴き被災地支援の最前線で苦悩したようなことを話していた。そして、今後も復興のため尽力を尽くすとか・・・・・まあ、それは政治家として当然だな。
そこで思ったのだが、日頃は国会議員というのは何をしているのだろうか。国会が年から年中あるのでもないし、必要なようであまり必然性を感じ取れない職業である。我々の声を聞いて国に働きかける代弁者のようなものなのだろうか・・・・・・。結局、全国の選挙区から選ばれて地域を代表して国会に出ていくからには威勢はいいが、それ以外だと目立たないし存在感をあまり感じない。このような国会議員が衆参あわせて、この国には何100人いるのかな。これらの給料は歳費と言って国から出るのだろうが、これも考えてみたら税金から賄っているようなものだ。最近、野田首相は消費税率を上げることばかり躍起になっているが、先に無駄な歳費を削減するべきだろう。消費税率引き上げなんて最も安直な方法だ。今まで消費税の引き上げを行ったところで、肝心なところに使われてなかったというのに、今回も同様の過ちを犯すのではないだろうか。所詮、この国で北欧並みに消費税率を引き上げたところで教育費が無料に成るわけでもないし、老後の年金が保障されるというのでもないだろう。所謂、貧乏人いじめでしかない。誰からでも取れる税金なので税収確保は容易いが、これでますます貧富の差は顕著になる。もっと頭を絞って知恵を出せないものかな・・・・・・。これだから高給取りの政治屋さんは嫌いなのだ。
なにしろ子供のころから行事があると何時も雨が降っていたという記憶がある。小学校の遠足は何度か雨が降っていたし、運動会も6年間で2度ほど雨で延期に成っていた。こんな頃のことを覚えているほどだから、よほど雨にたたられた印象が強いのだろう。当然、1泊2日の修学旅行も雨が降っていた。それが中学校に成るとさらに雨男の本領発揮で、中学2年の臨海学校は集中豪雨で中止。秋に林間学校に変更になったがこれも雨だった。耐寒マラソンも雨で中止。中3の春の修学旅行は3日中、2日が雨。その年の文化祭も土砂降りだった。高校に入ってからも体育祭が雨の中で強行開催されたことがあったし、6泊7日の修学旅行も2日間は雨が降っていたのである。
結局、大学時代も含めて社会に出ても雨との関係は因縁深い物があり、何かと雨降りとは切っても切れない関係にあるようだ。まあ、偶然の一致にしか過ぎないのだが、それにしても雨に邪魔されることが多かったように思う。
それで今日、午前中は強い雨が降っていたので、大阪市内まで出ずに比較的に近い高槻の街に行った。最近はこの街も立派なショッピングゾーンや店が増えて買い出しに行くのにも充分満足度を満たしてくれるようになった。なにしろ小生は静かな緑の多いところに住んではいるが、いざ買いものとなると専門店が皆目ない。それで出て行くのだが、久々に高槻の駅に降り立ったら、マイクを持って喋っている女性がいた。どこかで聞いたことのある声だと思ったら辻元清美だった。
久しく見なかったが赤い上着を着て何やら喋っていた。そういえば高槻は辻元清美の本拠地だった。この大阪10区から選出されている衆議院議員だったかな。もっとも小生は大阪の府民ではないので投票用紙に彼女の名前を書くことはあり得ないが、まだ国会議員をやっていたのだな。なんだか東日本大震災から1年。復興への首相補佐官として任命され、震災被災地へ何度も赴き被災地支援の最前線で苦悩したようなことを話していた。そして、今後も復興のため尽力を尽くすとか・・・・・まあ、それは政治家として当然だな。
そこで思ったのだが、日頃は国会議員というのは何をしているのだろうか。国会が年から年中あるのでもないし、必要なようであまり必然性を感じ取れない職業である。我々の声を聞いて国に働きかける代弁者のようなものなのだろうか・・・・・・。結局、全国の選挙区から選ばれて地域を代表して国会に出ていくからには威勢はいいが、それ以外だと目立たないし存在感をあまり感じない。このような国会議員が衆参あわせて、この国には何100人いるのかな。これらの給料は歳費と言って国から出るのだろうが、これも考えてみたら税金から賄っているようなものだ。最近、野田首相は消費税率を上げることばかり躍起になっているが、先に無駄な歳費を削減するべきだろう。消費税率引き上げなんて最も安直な方法だ。今まで消費税の引き上げを行ったところで、肝心なところに使われてなかったというのに、今回も同様の過ちを犯すのではないだろうか。所詮、この国で北欧並みに消費税率を引き上げたところで教育費が無料に成るわけでもないし、老後の年金が保障されるというのでもないだろう。所謂、貧乏人いじめでしかない。誰からでも取れる税金なので税収確保は容易いが、これでますます貧富の差は顕著になる。もっと頭を絞って知恵を出せないものかな・・・・・・。これだから高給取りの政治屋さんは嫌いなのだ。
2011.04.11 (Mon)
東日本大震災から1ヶ月・・・
今日で東日本大震災からちょうど1ヶ月。この1ヶ月は短かったとする人、長かったと思う人それぞれだが、避難生活を強いられている人は毎日がそれこそ生き地獄であろう。死者も10日現在で13013人、行方不明14608人、避難者151115人。如何に未曾有の大震災であったことがこの数字で判るだろう。それで地震の名称も最初は東北沖太平洋地震だったのに被害の大きさが判るにつれ東北関東大震災から東日本大震災と変わってきた。
つまり東日本一帯で被害があったということである。このあたりが阪神淡路大震災と違っているところだろう。今回の大震災は青森県から神奈川県あたりまでの広範囲にわたって被害が確認されている。ことに今回は津波により被害が甚大で太平洋側の各港及び街が壊滅的被害を受けた。青森県では三沢、八戸の漁港が津波でやられ死者、不明者が出ているし、千葉県でも旭市では死者13人、不明2人。茨城県では北茨城、東海、水戸、大洗といったところで死者10数人。そこへ岩手、宮城、福島の3県が加わるととんでもない数字が叩き出される。
それもこれも想定外の大地震だったからという言葉で片付けられてしまいそうだが、確かにM9.0という日本の観測史上最大規模の地震が起こったにせよ、亡くなった人や家族や親類、知人を失った人、家が無くなった人、これらの被災者は怒りを何にぶつければいいのやら。相手が大自然とはいえやるせない気持ちであろう。それでも人は立ち上がり、この震災を教訓にさらに地震や津波に強い街を築くのだろうが、この広域震災からの復興はいったい何年かかることやら。そこへ今回は原発問題が加わって、かつて日本が経験したことのない事態にまで発展している。ところでこの震災から日本は立ち直れるのか。太平洋戦争でズタズタになった日本が、戦後初と言ってもいい国難に陥ってしまったが、これからのスタートは困難を極めそうだ。すでに経済も縮小しているといわれ、自粛ムードがそこへ追い打ちをかけているとも・・・・・・。でも日本国民は何をやればいいのか分からない。でも被害のまったくない西日本までが落ち込んでいてはいけない。せめて関西だけでも元気でいたいものだ。元気なところから活力を貰って明日の日本を再建したいものだが、東北地方の復興は今後何年かかるだろうか。簡単には事は運ばないだろうが勤勉な日本人のこと。必ず経済復興が出来るだろうと信じている。まさに頑張ろう日本だ。
つまり東日本一帯で被害があったということである。このあたりが阪神淡路大震災と違っているところだろう。今回の大震災は青森県から神奈川県あたりまでの広範囲にわたって被害が確認されている。ことに今回は津波により被害が甚大で太平洋側の各港及び街が壊滅的被害を受けた。青森県では三沢、八戸の漁港が津波でやられ死者、不明者が出ているし、千葉県でも旭市では死者13人、不明2人。茨城県では北茨城、東海、水戸、大洗といったところで死者10数人。そこへ岩手、宮城、福島の3県が加わるととんでもない数字が叩き出される。
それもこれも想定外の大地震だったからという言葉で片付けられてしまいそうだが、確かにM9.0という日本の観測史上最大規模の地震が起こったにせよ、亡くなった人や家族や親類、知人を失った人、家が無くなった人、これらの被災者は怒りを何にぶつければいいのやら。相手が大自然とはいえやるせない気持ちであろう。それでも人は立ち上がり、この震災を教訓にさらに地震や津波に強い街を築くのだろうが、この広域震災からの復興はいったい何年かかることやら。そこへ今回は原発問題が加わって、かつて日本が経験したことのない事態にまで発展している。ところでこの震災から日本は立ち直れるのか。太平洋戦争でズタズタになった日本が、戦後初と言ってもいい国難に陥ってしまったが、これからのスタートは困難を極めそうだ。すでに経済も縮小しているといわれ、自粛ムードがそこへ追い打ちをかけているとも・・・・・・。でも日本国民は何をやればいいのか分からない。でも被害のまったくない西日本までが落ち込んでいてはいけない。せめて関西だけでも元気でいたいものだ。元気なところから活力を貰って明日の日本を再建したいものだが、東北地方の復興は今後何年かかるだろうか。簡単には事は運ばないだろうが勤勉な日本人のこと。必ず経済復興が出来るだろうと信じている。まさに頑張ろう日本だ。