2012.03.10 (Sat)
誰も訪れない京都の旧跡・・・・・羅城門跡
3月になって暖かくなってきた。2月とは違って休日ともなると家にいるのがもったいない気がしてどうしても外出してしまう。もっともお金がないと物も買えず贅沢な食事もできないが、ぶらぶらと歩くのだけはタダである。この季節そういう訳で京都は急に観光客が急増するのだが、清水寺や高台寺から円山公園に抜けるあたりは人で溢れている。また例によって嵐山、嵯峨野も人だらけ。金閣寺、竜安寺、仁和寺と続く道も人が多い。銀閣寺、哲学の道あたりもしかり。また壬生寺周辺も最近は新撰組の人気もあってか若い女の子が大勢つめ掛ける有様で、どこもかしこも京都は観光客だらけということなのである。でもこんな京都ではあるが、さっぱり人の訪れない旧跡と言うのも多々ある。なにしろ1200年の歴史を誇る日本の都文化の集積地であった街が京都である。なので由緒あるところがそこら中にある。とはいえ観光案内にも殆ど載ることもなくしたがって誰も訪れない。いや歴史マニアは訪れるだろうが・・・・・・。それでこういったところにスポットを与えてみようと思い小生は今回訪れてみたのだが、それが羅城門跡である。羅城門とは羅生門ともいうが、794年に平安京遷都がなされた。所謂、これが現在の京都の始まりなのであることは歴史の授業で教わることなのであるが、その平安京の正門のことを羅城門という。
延暦13年(794年)、鳴くよ鶯、平安京じゃないけども桓武天皇によって長岡京から現在の京都市内に都が移された。それが平安京である。山背国葛野の地に南北5.2㎞、東西4.5㎞に及ぶ都が建設されたのである。形は平城京と似通っているが、大和盆地の平城京と違って周囲に大きな川があったということである。すると水運もよく四方の国の人が集まりやすいと考えられたのである。したがって最初の平安京は鴨川の西、桂川の東の平らな盆地に造営されたのである。でもこの地の選定は唐の国から伝わる風水の考えによるものともいわれるのであった。それで北東の位置に比叡山があるのだが、平安京の鬼門にあたる北東は王城鎮護の山とされたのである。一方、平安京を造営するに当たり北の起点となったのが船岡山である。船岡山は標高112mほどの丘であるが、この山のすぐ南に大内裏があってその中に大極殿が建てられたのである。こうして都の王城を中心にして都が造成されていったのだが、その大内裏からまっすぐ南に向かって造られた大きな通りが朱雀大路だった。朱雀大路は道幅が約84mという大きなものだった。そして北から南に向かって一条から九条までの大路が造営され東西南北を碁盤の目が走るような見事な平安京が形成されたのである。そして、その朱雀大路の南の正面入り口に羅城門という巨大な門が建てられたのである。いわば羅城門は平安京の玄関であったということである。
さてさてこんな歴史の重要な地である羅城門なのに、現在は寂れてしまい石碑が残っているだけというのは一体どういうことなのだろうか・・・・・・。それはその後の京都の歩んだ歴史が物語っている。まず794年に平安京が造営されたが、この平安京と言うのは今の京都市街地の位置からすると西へずれている。今の京都市内で言うと平安京の西端は今の西京極。東端は寺町だという。こんなことを書いても京都の人しか判らないかな。まあいいか。先に話を進めるとする。するとその後、京都の市街地は東に移っていったことになる。その理由であるが、朱雀大路よりも西は右京と言われるが、右京の地は当時、桂川の湿地帯にあったため平安京が造営されても一向に宅地化が進まなかったのである。とうとう100年後には平安京内では禁じられていた農地へと転用されてしまい、時の貴族たちは左京北部へ移っていったのである。それで藤原氏を始め左京北部が上流貴族の密集地となってしまったのである。一方、貧しい人達は平安京の東端よりも東の鴨川沿いに住み始め、さらに鴨川よりも東には寺院や別荘が建てられたという。そして平安遷都から200年後の980年には羅城門がとうとう倒壊してしまったのである。それで、朽ち果てた羅城門周辺は荒廃していき、周辺は治安悪化の一途をたどり夜ともなれば誰も近寄れなくなったのである。芥川龍之介の小説『羅生門』でもお馴染みだろう。いつしか羅城門は死者を捨てていくような荒れ果てた地となった。そして現在まで再建されることなく、羅城門は石碑だけが残っているのである。
さて、そんな羅城門跡を小生はこのたび訪れてみた。ちょうど京都市街地の南端辺り。ここに東西に走る大通りがある。これが九条通である。今は西半分が国道1号線と171号線に属するが平安京時代は都の一番南の大路であった。この九条通沿いに東寺があるが、その東寺の五重塔を横に見ながら九条通を西へ向かって歩くこと5、6分、すると羅城門と書かれたバス停がある。そのバス停のすぐ近くから路地に入ったところに児童公園がある。そして公園の中に石碑だけが立っている。その石碑が羅城門跡の石碑である。今から1200年前はそれこそ巨大で豪奢な平安京の正門が屹立していたのだろう。それが、今は何と寂しいことか。これだと誰も訪れはしない筈だ。しかし、遠く平安京に夢を託せば、遠方からやっと都にたどり着いた人達が心を躍らせて羅城門を見上げたことだろう。
この羅城門から真っすぐ北に向かって朱雀大路が伸びていたことだろうが、1200年後の今日は何処を見ても民家ばかり。昔の朱雀大路は今で言うと千本通にあたるというが、道幅の広さはずいぶん狭くなっている。京都の歴史は言い換えれば波瀾万丈の歴史と言ってもいいだろう。当時の平安京よりも今の京都の市街地は大きくなっているし、都の正門だった羅城門も今では市街地に飲み込まれてしまった。あまり変化のない街と言われる京都ではあるが、流石に1200年の隔たりは大きすぎる。今では平安京の一端を見ることは何もできないのである。
現在の羅城門跡
延暦13年(794年)、鳴くよ鶯、平安京じゃないけども桓武天皇によって長岡京から現在の京都市内に都が移された。それが平安京である。山背国葛野の地に南北5.2㎞、東西4.5㎞に及ぶ都が建設されたのである。形は平城京と似通っているが、大和盆地の平城京と違って周囲に大きな川があったということである。すると水運もよく四方の国の人が集まりやすいと考えられたのである。したがって最初の平安京は鴨川の西、桂川の東の平らな盆地に造営されたのである。でもこの地の選定は唐の国から伝わる風水の考えによるものともいわれるのであった。それで北東の位置に比叡山があるのだが、平安京の鬼門にあたる北東は王城鎮護の山とされたのである。一方、平安京を造営するに当たり北の起点となったのが船岡山である。船岡山は標高112mほどの丘であるが、この山のすぐ南に大内裏があってその中に大極殿が建てられたのである。こうして都の王城を中心にして都が造成されていったのだが、その大内裏からまっすぐ南に向かって造られた大きな通りが朱雀大路だった。朱雀大路は道幅が約84mという大きなものだった。そして北から南に向かって一条から九条までの大路が造営され東西南北を碁盤の目が走るような見事な平安京が形成されたのである。そして、その朱雀大路の南の正面入り口に羅城門という巨大な門が建てられたのである。いわば羅城門は平安京の玄関であったということである。
さてさてこんな歴史の重要な地である羅城門なのに、現在は寂れてしまい石碑が残っているだけというのは一体どういうことなのだろうか・・・・・・。それはその後の京都の歩んだ歴史が物語っている。まず794年に平安京が造営されたが、この平安京と言うのは今の京都市街地の位置からすると西へずれている。今の京都市内で言うと平安京の西端は今の西京極。東端は寺町だという。こんなことを書いても京都の人しか判らないかな。まあいいか。先に話を進めるとする。するとその後、京都の市街地は東に移っていったことになる。その理由であるが、朱雀大路よりも西は右京と言われるが、右京の地は当時、桂川の湿地帯にあったため平安京が造営されても一向に宅地化が進まなかったのである。とうとう100年後には平安京内では禁じられていた農地へと転用されてしまい、時の貴族たちは左京北部へ移っていったのである。それで藤原氏を始め左京北部が上流貴族の密集地となってしまったのである。一方、貧しい人達は平安京の東端よりも東の鴨川沿いに住み始め、さらに鴨川よりも東には寺院や別荘が建てられたという。そして平安遷都から200年後の980年には羅城門がとうとう倒壊してしまったのである。それで、朽ち果てた羅城門周辺は荒廃していき、周辺は治安悪化の一途をたどり夜ともなれば誰も近寄れなくなったのである。芥川龍之介の小説『羅生門』でもお馴染みだろう。いつしか羅城門は死者を捨てていくような荒れ果てた地となった。そして現在まで再建されることなく、羅城門は石碑だけが残っているのである。
さて、そんな羅城門跡を小生はこのたび訪れてみた。ちょうど京都市街地の南端辺り。ここに東西に走る大通りがある。これが九条通である。今は西半分が国道1号線と171号線に属するが平安京時代は都の一番南の大路であった。この九条通沿いに東寺があるが、その東寺の五重塔を横に見ながら九条通を西へ向かって歩くこと5、6分、すると羅城門と書かれたバス停がある。そのバス停のすぐ近くから路地に入ったところに児童公園がある。そして公園の中に石碑だけが立っている。その石碑が羅城門跡の石碑である。今から1200年前はそれこそ巨大で豪奢な平安京の正門が屹立していたのだろう。それが、今は何と寂しいことか。これだと誰も訪れはしない筈だ。しかし、遠く平安京に夢を託せば、遠方からやっと都にたどり着いた人達が心を躍らせて羅城門を見上げたことだろう。
この羅城門から真っすぐ北に向かって朱雀大路が伸びていたことだろうが、1200年後の今日は何処を見ても民家ばかり。昔の朱雀大路は今で言うと千本通にあたるというが、道幅の広さはずいぶん狭くなっている。京都の歴史は言い換えれば波瀾万丈の歴史と言ってもいいだろう。当時の平安京よりも今の京都の市街地は大きくなっているし、都の正門だった羅城門も今では市街地に飲み込まれてしまった。あまり変化のない街と言われる京都ではあるが、流石に1200年の隔たりは大きすぎる。今では平安京の一端を見ることは何もできないのである。
現在の羅城門跡
2010.11.20 (Sat)
龍安寺の石庭
京都は衣笠山麓にある大雲山龍安寺に行ってきた。通称・龍安寺。呼び方をりゅうあんじだと勘違いしている人が時々おられるが、りょうあんじであることをお忘れなく。臨済宗妙心寺派の寺院である(この龍安寺のすぐ近くに妙心寺がある)。この付近、西へ行くと仁和寺、北へ行くと金閣寺、大徳寺、東へ行くと北野天満宮、平野神社がある。道路を挟んだ南側は立命館大学の衣笠キャンパスといったロケーションであるが、交通の便が意外と悪い。嵐電北野線の龍安寺駅が近いが、それでも歩いて15分ぐらいかかる。なのでバスに頼るしかない。でも車で来るのはだけは避けたほうがいい。駐車場がないからだ(あるにはあるが小さいので、すぐに満車になる)。したがって小生も前はよく通るが、龍安寺の境内に入るのは25年振りぐらいかもしれない。
とにかく石庭の龍安寺と言われるぐらい、枯山水の方丈石庭があまりにも有名な寺院である。そもそも徳大寺家の別荘だったところだが、1450年、官領細川勝元が譲り受けて寺地とし、妙心寺の義天玄承を開山として創建されたものである。だが、応仁の乱で消失。細川勝元の子、政元が再興したものの1797年の火災で焼失。現在の方丈は西源院の方丈を移築したものとされる。所謂、枯山水の石庭とは方丈(本殿)の前庭のことなのである。
さて、どうでもいいだろう説明はこれぐらいにして石庭の話に入ろうか。おそらく龍安寺を訪れる全ての人は世界的に有名な石庭を見るのが目的だろう。でも、この石庭の実物を拝見すると判ると思うが、びっくりするほど小さい。奥行き10m、幅22mだというが、もっと小さく見える。この小さな長方形の空間に白い砂を敷き詰め、15個の大小の石を無造作に並べ、帚目を付けただけという簡素な庭である。何故、枯山水と呼ぶのかというと、中国の山水画の世界を和風に捉え、そこへ日本人独自の感性で再構築したものが枯山水の庭園である。つまり水を使わないで水を表現する。無造作に並んでいる石は島や岩を連想するだろうし、白砂の帚目は大海及び浪をイメージしているといわれる。この庭園の作者は不明で、室町時代の相阿弥だとする説が強いがよく判らない。一方では室町時代末期の禅僧の作によるものではとも言われる。15個の石は何処から眺めても必ず1個は他の石に隠れるように設計されているというが、この石庭ははたしてそこまで計算ずくで考えて石を並べたのか、それともただ無造作に石を並べただけなのに、後世の人が勝手に解釈して、より哲学的な思想にいたって石を置いたのだと解釈する学者がいたとしたら、随分と滑稽なことである。いずれにせよ、この石庭を前にして座り、何も考えず、ぼんやりと眺めているのがいい。
しかし、今日は訪れる時間が遅れて、午前11時頃になってしまった。人が多すぎて、とても無我な境地になれない。小生が方丈殿に入るや団体の中学生がガイドの説明を聞いていた。しばらく待つことにして、彼らが立ち去ったので、庭の前の縁側に座って沈思黙考していたら、またまた団体の集団が現れた。今度は全員和服姿である。若い。おそらく10代だろう。大学生ではなさそうだ。修学旅行で来ているのかもしれない。まず関西言葉ではないからすぐに判る。男女30人ほどいるが、こいつ等が喧しくて行儀が悪いので興ざめした。とにかく煩い。入ってくるなり「わー、感動感動!」
「超、綺麗ジャン」「これって超有名だよね」
「ウン、有名だよ! よく写真に載ってるジャン」
「京都って感じだよね」
「写真撮ろうよ」「ウン、撮ろう撮ろう。みんな並べよ」
あのね、他にも観光客がいるのですよ。それをこいつらが貸し切ったかのように我が物顔で10人ぐらい石庭の前に陣取り記念写真を取り出した。「ハイ、チーズ」
みんなピースマークをして、にっこりするのはいいが、もっと遠慮というものがあるだろう。人の迷惑省みず、騒ぎまくりさっさと出て行った。静けさがその後に訪れた。外国人観光客もいるのに、少しは静かに出来ないか。最近は京都の着物業者が京都に訪れる人に着物を着て観光してもらおうと、西陣の繊維会館等で着付けなどをしてくれるらしいが、彼らは全員着物で訪れたのはいいが、格好から入ったものの精神が伴ってないから、余計に目立ってしまった。それも悪い印象ばかり与えて・・・・。「何だコイツラ」と穿き捨てるように呟いていた初老の小父さんがいたことはいうまでもない。やはりガキにはワビサビは判らないかも・・・・・。こいつらUSJか道頓堀か新世界でも行っとれ!
1年で1番観光客の多い11月に、京都の著名な名刹を訪れると、まず静寂さは何処にももないことは承知の上である。やっぱり真冬に来るべきだな。それか真夏に来るべきか。その頃だと、この龍安寺の枯山水の石庭も静寂のしじまの中で栄えるだろう。
とにかく観光客が多い。
午前の陽射しの中で。
禅では自己が三昧、無になりきることによって自他一如の世界を自覚し、その自覚を通して出てくるものは、山川草木ことごとく神、仏であるとするが、この庭はそうした禅の極致を表現した永遠に新しい庭といわれ、時間、空間を越えて、静かに心眼を開き、自問、自答するに相応しい庭といえよう。
石の象、石群、その集合、離散、遠近、起伏、禅的、哲学的に見る人の思想、信条によって多岐に解されている。
大きな岩のように見える。
この庭は四季によって印象が異なるから面白い。
逆の位置から。
とにかく石庭の龍安寺と言われるぐらい、枯山水の方丈石庭があまりにも有名な寺院である。そもそも徳大寺家の別荘だったところだが、1450年、官領細川勝元が譲り受けて寺地とし、妙心寺の義天玄承を開山として創建されたものである。だが、応仁の乱で消失。細川勝元の子、政元が再興したものの1797年の火災で焼失。現在の方丈は西源院の方丈を移築したものとされる。所謂、枯山水の石庭とは方丈(本殿)の前庭のことなのである。
さて、どうでもいいだろう説明はこれぐらいにして石庭の話に入ろうか。おそらく龍安寺を訪れる全ての人は世界的に有名な石庭を見るのが目的だろう。でも、この石庭の実物を拝見すると判ると思うが、びっくりするほど小さい。奥行き10m、幅22mだというが、もっと小さく見える。この小さな長方形の空間に白い砂を敷き詰め、15個の大小の石を無造作に並べ、帚目を付けただけという簡素な庭である。何故、枯山水と呼ぶのかというと、中国の山水画の世界を和風に捉え、そこへ日本人独自の感性で再構築したものが枯山水の庭園である。つまり水を使わないで水を表現する。無造作に並んでいる石は島や岩を連想するだろうし、白砂の帚目は大海及び浪をイメージしているといわれる。この庭園の作者は不明で、室町時代の相阿弥だとする説が強いがよく判らない。一方では室町時代末期の禅僧の作によるものではとも言われる。15個の石は何処から眺めても必ず1個は他の石に隠れるように設計されているというが、この石庭ははたしてそこまで計算ずくで考えて石を並べたのか、それともただ無造作に石を並べただけなのに、後世の人が勝手に解釈して、より哲学的な思想にいたって石を置いたのだと解釈する学者がいたとしたら、随分と滑稽なことである。いずれにせよ、この石庭を前にして座り、何も考えず、ぼんやりと眺めているのがいい。
しかし、今日は訪れる時間が遅れて、午前11時頃になってしまった。人が多すぎて、とても無我な境地になれない。小生が方丈殿に入るや団体の中学生がガイドの説明を聞いていた。しばらく待つことにして、彼らが立ち去ったので、庭の前の縁側に座って沈思黙考していたら、またまた団体の集団が現れた。今度は全員和服姿である。若い。おそらく10代だろう。大学生ではなさそうだ。修学旅行で来ているのかもしれない。まず関西言葉ではないからすぐに判る。男女30人ほどいるが、こいつ等が喧しくて行儀が悪いので興ざめした。とにかく煩い。入ってくるなり「わー、感動感動!」
「超、綺麗ジャン」「これって超有名だよね」
「ウン、有名だよ! よく写真に載ってるジャン」
「京都って感じだよね」
「写真撮ろうよ」「ウン、撮ろう撮ろう。みんな並べよ」
あのね、他にも観光客がいるのですよ。それをこいつらが貸し切ったかのように我が物顔で10人ぐらい石庭の前に陣取り記念写真を取り出した。「ハイ、チーズ」
みんなピースマークをして、にっこりするのはいいが、もっと遠慮というものがあるだろう。人の迷惑省みず、騒ぎまくりさっさと出て行った。静けさがその後に訪れた。外国人観光客もいるのに、少しは静かに出来ないか。最近は京都の着物業者が京都に訪れる人に着物を着て観光してもらおうと、西陣の繊維会館等で着付けなどをしてくれるらしいが、彼らは全員着物で訪れたのはいいが、格好から入ったものの精神が伴ってないから、余計に目立ってしまった。それも悪い印象ばかり与えて・・・・。「何だコイツラ」と穿き捨てるように呟いていた初老の小父さんがいたことはいうまでもない。やはりガキにはワビサビは判らないかも・・・・・。こいつらUSJか道頓堀か新世界でも行っとれ!
1年で1番観光客の多い11月に、京都の著名な名刹を訪れると、まず静寂さは何処にももないことは承知の上である。やっぱり真冬に来るべきだな。それか真夏に来るべきか。その頃だと、この龍安寺の枯山水の石庭も静寂のしじまの中で栄えるだろう。
とにかく観光客が多い。
午前の陽射しの中で。
禅では自己が三昧、無になりきることによって自他一如の世界を自覚し、その自覚を通して出てくるものは、山川草木ことごとく神、仏であるとするが、この庭はそうした禅の極致を表現した永遠に新しい庭といわれ、時間、空間を越えて、静かに心眼を開き、自問、自答するに相応しい庭といえよう。
石の象、石群、その集合、離散、遠近、起伏、禅的、哲学的に見る人の思想、信条によって多岐に解されている。
大きな岩のように見える。
この庭は四季によって印象が異なるから面白い。
逆の位置から。
2010.05.29 (Sat)
当麻寺に行く
大和盆地は当麻寺に行ってきた。当麻寺?・・・・といっても知名度がないから、印象が湧かないかもしれないなあ。当麻寺(たいまでら)は奈良県葛城市にある古寺である。といっても奈良県にある寺は、みな古寺ではあるけれど、あまり聞き慣れない寺ではあるが、知る人ぞ知る名刹である。知らない人はとうまでらと読んでしまうしだろうし、東大寺や法隆寺のように観光客がゾロゾロと訪れるお寺でもないから、当麻寺といっても関西在住の人でさえ知らない人が多い。しょうがないといえばしょうがないが・・・・・・。
当麻寺というのは奈良県と大阪府に跨る死火山・二上山の東麓に位置するお寺である。以前は奈良県北葛城郡当麻町といっていたが、現在は周辺の町村と合併し葛城市に属する。二上山はラクダの瘤のように2つの山がくっついたような形をしていて、死火山と書いたが最後の噴火が約1400万年前とされ、今では火山としての扱いはない。だから関西に火山があったことも知らない人が大半である。高さは500m程度で金剛山地の北端にあたる。この二上山は奈良盆地東部の三輪山(神体山)と相対する位置にあり、大和の国の西に位置し、夕陽が2つの頂上の間に沈むことから極楽浄土の入り口とされ、死者の魂が赴く先とされるなど古代の人には特別な山なのであった。また、二上山の南には竹内街道があって、河内と大和を貫く重要な交通路であり、大陸から渡来した人や物が難波の津に上陸し、都のあった大和盆地へ運ぶためのルートでもあったのだ。
これだけ書けば当麻寺のある二上山付近は日本の歴史において、重要な拠点だったということがいえる。こうして当麻寺は建てられたのである。ただ残念ながら、当麻寺が何時、創建されたのか明確ではなく、地元の豪族・当麻氏の氏寺として7世紀後半に創建されたのではと言われるが推測の域を出ない。文献によると『建久御巡礼記』(鎌倉時代初期)、聖徳太子の異母弟の麻呂古王が弥勒仏を本尊とする禅林寺として建て、その孫の当麻真人国見が681年に現在地に移したものであるらしい。また、『上宮太子拾遺記』(1237年)によると、推古天皇の頃、麻呂古王が救世観音を本尊とする万宝蔵院として創建したもので、692年に現在地に移築したともされる。まあ、それだけ古くて由緒ある寺であることを認識してもらいたいと思う。当麻寺は当初、当麻氏の氏寺として建てられたと書いたが、後の世になって中将姫伝説、当麻曼荼羅のお寺として知られるようになるが、詳しい話は省くとして、何かと興味深いお話が満載されている古寺である。
ところで当麻寺は独自の伽藍配置であるが、今とは違っていて創建当初の伽藍配置は判りにくい。今は南に門がなく、東門である仁王門から入る。境内は南を正面とする金堂、講堂、東を正面とする本堂が接するように建っている。さらに、これらの南方には2つの三重塔が建ち、金堂と東塔、西塔との間には中之坊、護念院が後年に建てられたため、創建当初の伽藍配置が判りにくくなったといわれる。最も創建の頃の面影はあるのかといわれればよく判らないが、国宝である曼荼羅堂(本堂)、近世以前に建てられた東西両塔(共に国宝)が残る日本唯一のお寺といっていいだろう。
当麻寺の仁王門である。このもんは東側にあり、奈良盆地の古寺は南に門があるのが通例だから、後年に建てられたものとされる。
当麻寺の伽藍配置は正面の奥に本堂である曼荼羅堂があり、左に金堂、右に講堂がある。
国宝である曼荼羅堂(本堂)である。
こちらは東の三重塔。
こちらは西の三重塔。東西共に国宝で、様式は少し異なる。高さは約25m。
日本最古の梵鐘とされる。もちろん国宝。
当麻寺を離れた東の方角から拝むとこのように木々の合間から、東西の両塔が見極められる。
近鉄当麻寺駅から当麻寺まで行く道中に当麻蹴速(たいまのけはや)の塚がある。当麻蹴速とは、垂仁天皇の頃、この地である当麻に住む強力でならした男であるが、この当麻蹴速が強力を誇って生死を問わない勝負をする者を欲していたという。これに手を挙げたのが出雲の国の勇士・野見宿禰(のみのすくね)であった。こうして2人は穴師巫兵主神社(奈良県桜井市)で対戦した。ただしこの相撲は今の相撲とはルールがだいぶ違い角力というもので蹴ってもよかった。そして、いざ勝負は互いに蹴りあったあと、当麻蹴速は野見宿禰に蹴り倒され、腰を踏み折られて死んだという。こうして当麻蹴速の土地は没収、野見宿禰の土地になったと『日本書記』に記述されているのだが・・・・・。これが日本での相撲の始まりだとされている。
当麻寺というのは奈良県と大阪府に跨る死火山・二上山の東麓に位置するお寺である。以前は奈良県北葛城郡当麻町といっていたが、現在は周辺の町村と合併し葛城市に属する。二上山はラクダの瘤のように2つの山がくっついたような形をしていて、死火山と書いたが最後の噴火が約1400万年前とされ、今では火山としての扱いはない。だから関西に火山があったことも知らない人が大半である。高さは500m程度で金剛山地の北端にあたる。この二上山は奈良盆地東部の三輪山(神体山)と相対する位置にあり、大和の国の西に位置し、夕陽が2つの頂上の間に沈むことから極楽浄土の入り口とされ、死者の魂が赴く先とされるなど古代の人には特別な山なのであった。また、二上山の南には竹内街道があって、河内と大和を貫く重要な交通路であり、大陸から渡来した人や物が難波の津に上陸し、都のあった大和盆地へ運ぶためのルートでもあったのだ。
これだけ書けば当麻寺のある二上山付近は日本の歴史において、重要な拠点だったということがいえる。こうして当麻寺は建てられたのである。ただ残念ながら、当麻寺が何時、創建されたのか明確ではなく、地元の豪族・当麻氏の氏寺として7世紀後半に創建されたのではと言われるが推測の域を出ない。文献によると『建久御巡礼記』(鎌倉時代初期)、聖徳太子の異母弟の麻呂古王が弥勒仏を本尊とする禅林寺として建て、その孫の当麻真人国見が681年に現在地に移したものであるらしい。また、『上宮太子拾遺記』(1237年)によると、推古天皇の頃、麻呂古王が救世観音を本尊とする万宝蔵院として創建したもので、692年に現在地に移築したともされる。まあ、それだけ古くて由緒ある寺であることを認識してもらいたいと思う。当麻寺は当初、当麻氏の氏寺として建てられたと書いたが、後の世になって中将姫伝説、当麻曼荼羅のお寺として知られるようになるが、詳しい話は省くとして、何かと興味深いお話が満載されている古寺である。
ところで当麻寺は独自の伽藍配置であるが、今とは違っていて創建当初の伽藍配置は判りにくい。今は南に門がなく、東門である仁王門から入る。境内は南を正面とする金堂、講堂、東を正面とする本堂が接するように建っている。さらに、これらの南方には2つの三重塔が建ち、金堂と東塔、西塔との間には中之坊、護念院が後年に建てられたため、創建当初の伽藍配置が判りにくくなったといわれる。最も創建の頃の面影はあるのかといわれればよく判らないが、国宝である曼荼羅堂(本堂)、近世以前に建てられた東西両塔(共に国宝)が残る日本唯一のお寺といっていいだろう。
当麻寺の仁王門である。このもんは東側にあり、奈良盆地の古寺は南に門があるのが通例だから、後年に建てられたものとされる。
当麻寺の伽藍配置は正面の奥に本堂である曼荼羅堂があり、左に金堂、右に講堂がある。
国宝である曼荼羅堂(本堂)である。
こちらは東の三重塔。
こちらは西の三重塔。東西共に国宝で、様式は少し異なる。高さは約25m。
日本最古の梵鐘とされる。もちろん国宝。
当麻寺を離れた東の方角から拝むとこのように木々の合間から、東西の両塔が見極められる。
近鉄当麻寺駅から当麻寺まで行く道中に当麻蹴速(たいまのけはや)の塚がある。当麻蹴速とは、垂仁天皇の頃、この地である当麻に住む強力でならした男であるが、この当麻蹴速が強力を誇って生死を問わない勝負をする者を欲していたという。これに手を挙げたのが出雲の国の勇士・野見宿禰(のみのすくね)であった。こうして2人は穴師巫兵主神社(奈良県桜井市)で対戦した。ただしこの相撲は今の相撲とはルールがだいぶ違い角力というもので蹴ってもよかった。そして、いざ勝負は互いに蹴りあったあと、当麻蹴速は野見宿禰に蹴り倒され、腰を踏み折られて死んだという。こうして当麻蹴速の土地は没収、野見宿禰の土地になったと『日本書記』に記述されているのだが・・・・・。これが日本での相撲の始まりだとされている。
2010.05.22 (Sat)
住吉大社に行く
暑くなったものだ。少し前までは雨が多く気温の低い日が多かったが晴れると暑い。無理もない。間もなく6月だから当然かもしれない。もうちょっとで梅雨に入るのだろうが、今日も湿気を含んだ蒸し暑い日で、晴れてはいるが雨が近いなあと感じる風の吹き方であった。そんな今日、住吉大社へ行ってきた。
住吉大社・・・・? 住吉大社というのは大阪の住吉区にある神社である。昭和21年までは官幣大社であって、全国にある約2300社ある住吉神社の総本宮でもある。一般的には奈良や京都にある神社には総本宮というところが多いが、大阪も歴史の古いところ、この住吉大社も歴史は古い。そもそも日本書紀や古事記によると、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が、火神の出産で亡くなった妻・伊邪那美命(いざなみのみこと)を追い求め、黄泉の国に行ったものの、妻を連れ戻すことが出来ず逆に汚れを受けてしまい、その汚れを清めるために海に入って禊払いしたのである。その時に住吉大神の底筒男命(そこつつのをみこと)、中筒男命(なかつつのをみこと)、表筒男命(うはつつのをみこと)が生れたとされる。
さらに第14代仲衰天皇の妻である神功皇后が新羅に出兵する際、住吉大神の力をいただくことになり、新羅遠征により大いに国の安定が築かれたのである。その結果、住吉大神のお告げにより、この地に祭られることとなったと言い伝えられている。
よくよく考えれば当時の都が置かれていた大和盆地や山城の国は内陸で、先進地域であった隋や唐、または朝鮮半島から文化を輸入するには、どうしても難波の津から渡航することになる。だから一時期には難波京として僅かな期間、都が置かれていたのでは? という学者も少なくない。それで万葉の多くの歌人が今の大阪。当時の難波の地を歌枕に入れていることでも、難波は古くから栄えていたのだと推測されるのだ。
住の江の岸に寄る波よるさへや 夢の通ひ路人目よくらむ 藤原敏行吾朝臣
住の江とは今も大阪に残る地名で、住吉大社付近の地名である。あの頃は、住吉大社から西は梅であった。
難波潟短き蘆のふしの間も 逢はでこのよを過ぐしてよとや 伊勢
難波潟(なにわがた)とは難波の海の意味で、今でいう大阪の入り江ということになる。
わびぬれば今はた同じ難波なる みをつくしても逢はむとぞ思ふ 元良親王
澪標(みおつくし)とは船が往来するときの目印にする標。船が安全に行き来するため、大阪の海には澪標という杭が所々、打たれていたのである。それが現在の大阪の市章のデザインとなっているのだ。
難波江の蘆のかりねのひとよゆゑ みをつくしてや恋ひわたるべき 皇嘉門院別当
音に聞く高師の浜のあだ波は かけじや袖のぬれもこそすれ 祐子内親王家紀伊
高師の浜とは現在の堺市浜寺から高石市にかけての浜で、昭和30年代までは浜寺海岸として海水浴場として栄えたが、その後にコンビナートが出来、海岸線は埋め立てられてしまった。
とにかく小倉百人一首に選出された難波の歌が、上記のようなものである。でも面白いもので、今では難波(なにわ)と書くと難波(なんば)と読む人が大半だろう。今では浪速、浪花と書いてなにわと読むことが一般的になってしまった。
南海電車住吉大社駅を降りて本通を渡ると住吉大社の鳥居が姿を現す。
住吉大社の名物・太鼓橋である。反橋とも言う。
住吉大社には本宮が四つあって、これは第一本宮。底筒男命を祀っている。
第二本宮と第三本宮が見える。それぞれ中筒男命、表筒男命を祀っていて、第四本宮は神功皇后を祀っている。
太鼓橋(反橋)を渡ろうか。とにかく男の足だと斜めでないと踏めない狭さの階段状の橋である。
川端康成の短編小説『反橋』の一文を思い出した。・・・・・反橋は上るよりもおりる方が怖いものです。私は母に抱かれておりました。反橋の頂上でそのような話をするのはあまりにも芝居がかっているように思われます。ほんとうにその時五つの私が反橋を渡ったのでありましょうか。それさえ疑い出すと記憶は怪しくなります。・・・・・
大社前の本通には大阪で唯一残る路面電車・阪堺電車がグオーングオーンと音をたてて通過して行った。何となく昭和30年代を思い出す光景だ。
住吉大社・・・・? 住吉大社というのは大阪の住吉区にある神社である。昭和21年までは官幣大社であって、全国にある約2300社ある住吉神社の総本宮でもある。一般的には奈良や京都にある神社には総本宮というところが多いが、大阪も歴史の古いところ、この住吉大社も歴史は古い。そもそも日本書紀や古事記によると、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が、火神の出産で亡くなった妻・伊邪那美命(いざなみのみこと)を追い求め、黄泉の国に行ったものの、妻を連れ戻すことが出来ず逆に汚れを受けてしまい、その汚れを清めるために海に入って禊払いしたのである。その時に住吉大神の底筒男命(そこつつのをみこと)、中筒男命(なかつつのをみこと)、表筒男命(うはつつのをみこと)が生れたとされる。
さらに第14代仲衰天皇の妻である神功皇后が新羅に出兵する際、住吉大神の力をいただくことになり、新羅遠征により大いに国の安定が築かれたのである。その結果、住吉大神のお告げにより、この地に祭られることとなったと言い伝えられている。
よくよく考えれば当時の都が置かれていた大和盆地や山城の国は内陸で、先進地域であった隋や唐、または朝鮮半島から文化を輸入するには、どうしても難波の津から渡航することになる。だから一時期には難波京として僅かな期間、都が置かれていたのでは? という学者も少なくない。それで万葉の多くの歌人が今の大阪。当時の難波の地を歌枕に入れていることでも、難波は古くから栄えていたのだと推測されるのだ。
住の江の岸に寄る波よるさへや 夢の通ひ路人目よくらむ 藤原敏行吾朝臣
住の江とは今も大阪に残る地名で、住吉大社付近の地名である。あの頃は、住吉大社から西は梅であった。
難波潟短き蘆のふしの間も 逢はでこのよを過ぐしてよとや 伊勢
難波潟(なにわがた)とは難波の海の意味で、今でいう大阪の入り江ということになる。
わびぬれば今はた同じ難波なる みをつくしても逢はむとぞ思ふ 元良親王
澪標(みおつくし)とは船が往来するときの目印にする標。船が安全に行き来するため、大阪の海には澪標という杭が所々、打たれていたのである。それが現在の大阪の市章のデザインとなっているのだ。
難波江の蘆のかりねのひとよゆゑ みをつくしてや恋ひわたるべき 皇嘉門院別当
音に聞く高師の浜のあだ波は かけじや袖のぬれもこそすれ 祐子内親王家紀伊
高師の浜とは現在の堺市浜寺から高石市にかけての浜で、昭和30年代までは浜寺海岸として海水浴場として栄えたが、その後にコンビナートが出来、海岸線は埋め立てられてしまった。
とにかく小倉百人一首に選出された難波の歌が、上記のようなものである。でも面白いもので、今では難波(なにわ)と書くと難波(なんば)と読む人が大半だろう。今では浪速、浪花と書いてなにわと読むことが一般的になってしまった。
南海電車住吉大社駅を降りて本通を渡ると住吉大社の鳥居が姿を現す。
住吉大社の名物・太鼓橋である。反橋とも言う。
住吉大社には本宮が四つあって、これは第一本宮。底筒男命を祀っている。
第二本宮と第三本宮が見える。それぞれ中筒男命、表筒男命を祀っていて、第四本宮は神功皇后を祀っている。
太鼓橋(反橋)を渡ろうか。とにかく男の足だと斜めでないと踏めない狭さの階段状の橋である。
川端康成の短編小説『反橋』の一文を思い出した。・・・・・反橋は上るよりもおりる方が怖いものです。私は母に抱かれておりました。反橋の頂上でそのような話をするのはあまりにも芝居がかっているように思われます。ほんとうにその時五つの私が反橋を渡ったのでありましょうか。それさえ疑い出すと記憶は怪しくなります。・・・・・
大社前の本通には大阪で唯一残る路面電車・阪堺電車がグオーングオーンと音をたてて通過して行った。何となく昭和30年代を思い出す光景だ。
2010.05.06 (Thu)
貴船神社に行く
鞍馬寺の西門を出ると舗装した一般道路に出る。するとそこは料亭や料理旅館が多く並んでいる、いわば貴船神社の門前町(町というほどでもないが)・・・・・。
貴船神社とは創建が何時か判らないほど古い神社であるが、水の神様として知られていて、古代の祈雨八十五座の一座とされ、昔から祈雨の神としての信仰されていた。また、水の神であるタカオカミの神を祀っていることから、料理人、調理人たち及び水を取り扱う商売人らが祈願に来るなど崇められている神社である。
また絵馬発祥の地としても知られ、古くから晴れを願う時には白い馬、雨を願う時には黒い馬が奉納されたりしたが、実際の馬に替わって板に描いた馬が奉納されたことがあり、そこから絵馬が誕生したといわれている。
一方では縁結びの神様でもあり、縁切りの神様でもあり、呪咀神としての信仰も厚く、丑の刻参りとしても知られている。最近では若い女性が訪れて水占おみくじをひきにきたり、近くの料亭で川床で涼を求めながら料理に舌鼓を味わいに来る人が増えたという。また貴船は京都のパワースポットとしてちょっとしたブームになっているという。なるほど鞍馬といい貴船といい、こんな京都の奥深くまで来る人が増えたというのも、何か訳があると思ったら・・・・・陰陽師という映画や漫画が流行ったのも関係しているのかもしれないなあ。
鞍馬山を西に下りきると貴船川が流れている。鴨川の支流で見事な清流である。
夏になると料理屋が川床を開く。川の上に床を組み、その上で京料理に舌鼓を打つ。1番安いのは流し素麺であるが・・・・・鮎料理になると・・・・・・・。
貴船川沿いの道路を歩くと貴船神社の鳥居が姿を現し、二の鳥居を潜ると貴船神社への参道が見えてくる。そして、貴船神社というと雑誌やテレビで採り上げられる時、必ずこの南参道が映し出される。二の鳥居を潜って、この84段の石段を登りきると本宮に到達する。石段の両側には朱色の春日燈篭が彩を加える。
貴船神社の本宮である。建物自体は新しい。
貴船神社の水占おみくじ。この清水におみくじの紙を浮かべると文字が浮かび上がってくる。たいへんな人気である。
貴船神社を出て、叡山電車の貴船口の駅に向う途中、歩いていると北山杉が屹立しているところがあった。
鞍馬駅から鞍馬寺に入り、貴船神社側に出て、貴船口駅まで来るのにおよそ2時間半かかった。鼻が悪い小生には次第と息苦しくなるが、まだまだ自分自身では健脚は衰えてないと安堵した。でも疲れたなあ・・・・。
貴船神社とは創建が何時か判らないほど古い神社であるが、水の神様として知られていて、古代の祈雨八十五座の一座とされ、昔から祈雨の神としての信仰されていた。また、水の神であるタカオカミの神を祀っていることから、料理人、調理人たち及び水を取り扱う商売人らが祈願に来るなど崇められている神社である。
また絵馬発祥の地としても知られ、古くから晴れを願う時には白い馬、雨を願う時には黒い馬が奉納されたりしたが、実際の馬に替わって板に描いた馬が奉納されたことがあり、そこから絵馬が誕生したといわれている。
一方では縁結びの神様でもあり、縁切りの神様でもあり、呪咀神としての信仰も厚く、丑の刻参りとしても知られている。最近では若い女性が訪れて水占おみくじをひきにきたり、近くの料亭で川床で涼を求めながら料理に舌鼓を味わいに来る人が増えたという。また貴船は京都のパワースポットとしてちょっとしたブームになっているという。なるほど鞍馬といい貴船といい、こんな京都の奥深くまで来る人が増えたというのも、何か訳があると思ったら・・・・・陰陽師という映画や漫画が流行ったのも関係しているのかもしれないなあ。
鞍馬山を西に下りきると貴船川が流れている。鴨川の支流で見事な清流である。
夏になると料理屋が川床を開く。川の上に床を組み、その上で京料理に舌鼓を打つ。1番安いのは流し素麺であるが・・・・・鮎料理になると・・・・・・・。
貴船川沿いの道路を歩くと貴船神社の鳥居が姿を現し、二の鳥居を潜ると貴船神社への参道が見えてくる。そして、貴船神社というと雑誌やテレビで採り上げられる時、必ずこの南参道が映し出される。二の鳥居を潜って、この84段の石段を登りきると本宮に到達する。石段の両側には朱色の春日燈篭が彩を加える。
貴船神社の本宮である。建物自体は新しい。
貴船神社の水占おみくじ。この清水におみくじの紙を浮かべると文字が浮かび上がってくる。たいへんな人気である。
貴船神社を出て、叡山電車の貴船口の駅に向う途中、歩いていると北山杉が屹立しているところがあった。
鞍馬駅から鞍馬寺に入り、貴船神社側に出て、貴船口駅まで来るのにおよそ2時間半かかった。鼻が悪い小生には次第と息苦しくなるが、まだまだ自分自身では健脚は衰えてないと安堵した。でも疲れたなあ・・・・。
2010.05.05 (Wed)
鞍馬寺に行く
先週のことになるが京都の北側に構える信仰の山、鞍馬山へ行ってきた。鞍馬山は今から2億6000万年前、海底火山の隆起によって生れたとされ、太古の昔から尊天の霊気が満ち溢れていて、その山中に鞍馬寺がある。鞍馬寺は宝亀元年(7770年)、鑑真和上の高弟・鑑禎上人によって毘沙門天が祀られたのが歴史上に現れる最初とされ、平安京の歴史よりも古いことになる。
ところで尊天とは・・・・・宇宙の大霊であり大光明、大活動体・・・・・我々、人間を始めとした万物を生かしてくれる宇宙生命、宇宙エネルギーとされる。その働きは愛と光となって現れ、愛を月輪の精霊(千手観音菩薩)、光を太陽の精霊(毘沙門天王)、力を大地の霊王(護法魔王尊)の姿で表現し、この三身を一体として尊天と称する。鞍馬山の信仰は尊天を信じ、一人々々が尊天の世界に近付き、ついには尊天と合一するために自分の霊性に目覚め、自分に与えられた生命を輝かせながら、明るく正しく力強く生きていくことにある。
まあ哲学的なことをウダウダ述べてもしょうがない。つまり鞍馬山とはこのような山であるということを理解していただきたい。それで昔から修行の山でもあり、牛若丸がここに隠れて精進したが、牛若丸に剣術を教えたのが大天狗だといわれる。これは、そもそも鞍馬に住む山の精霊のことをいうが、時代が経過し色々と歪曲して伝わったのではないかとは思うが、鞍馬山の奥の僧正を指す場合もある。また近年では大佛次郎が書いた小説『鞍馬天狗』の映画化、テレビドラマ化により、鞍馬天狗というと頭巾をして馬に跨って現れるといった場面を想像されるところであろう。まあ、何かと不思議で興味深い話の多い山である。
さて、私は叡山電車・出町柳駅からパノラミック電車『きらら』に乗って30分、終点・鞍馬駅に到着。
鞍馬駅から歩いてすぐのところに鞍馬寺の仁王門がある。鞍馬寺に来るのは中学校の遠足以来、何と40数年ぶりである。
仁王門を潜って奥へ向う。
由岐神社に到着。鞍馬寺が御所から鎮守社として勧請した神社である。
由岐神社を抜けると山道に入る。結構厳しい坂が続く。
やっと鞍馬寺本殿金堂に到着。八重桜が咲いていて気温が平地より低い。
本殿金堂から奥の院へ向う。ここからは険しい山道が続く。途中に木の根道がある。これは岩盤が固く地下に根を張れない杉の木が、こういった形で地表にアラベスク模様を描いているのだそうな。
やっと奥の院魔王殿に到着。ここまで既に1時間以上、山の中を上って下って来ている。息も荒いし汗もそうとうかいている。ここは護法魔王尊が安置されている。
あとは下り道ばかりだが、これもきつい。
2時間かけて、ようやく鞍馬寺西門へ出たが、そこは貴船神社のすぐ側だった。
ところで尊天とは・・・・・宇宙の大霊であり大光明、大活動体・・・・・我々、人間を始めとした万物を生かしてくれる宇宙生命、宇宙エネルギーとされる。その働きは愛と光となって現れ、愛を月輪の精霊(千手観音菩薩)、光を太陽の精霊(毘沙門天王)、力を大地の霊王(護法魔王尊)の姿で表現し、この三身を一体として尊天と称する。鞍馬山の信仰は尊天を信じ、一人々々が尊天の世界に近付き、ついには尊天と合一するために自分の霊性に目覚め、自分に与えられた生命を輝かせながら、明るく正しく力強く生きていくことにある。
まあ哲学的なことをウダウダ述べてもしょうがない。つまり鞍馬山とはこのような山であるということを理解していただきたい。それで昔から修行の山でもあり、牛若丸がここに隠れて精進したが、牛若丸に剣術を教えたのが大天狗だといわれる。これは、そもそも鞍馬に住む山の精霊のことをいうが、時代が経過し色々と歪曲して伝わったのではないかとは思うが、鞍馬山の奥の僧正を指す場合もある。また近年では大佛次郎が書いた小説『鞍馬天狗』の映画化、テレビドラマ化により、鞍馬天狗というと頭巾をして馬に跨って現れるといった場面を想像されるところであろう。まあ、何かと不思議で興味深い話の多い山である。
さて、私は叡山電車・出町柳駅からパノラミック電車『きらら』に乗って30分、終点・鞍馬駅に到着。
鞍馬駅から歩いてすぐのところに鞍馬寺の仁王門がある。鞍馬寺に来るのは中学校の遠足以来、何と40数年ぶりである。
仁王門を潜って奥へ向う。
由岐神社に到着。鞍馬寺が御所から鎮守社として勧請した神社である。
由岐神社を抜けると山道に入る。結構厳しい坂が続く。
やっと鞍馬寺本殿金堂に到着。八重桜が咲いていて気温が平地より低い。
本殿金堂から奥の院へ向う。ここからは険しい山道が続く。途中に木の根道がある。これは岩盤が固く地下に根を張れない杉の木が、こういった形で地表にアラベスク模様を描いているのだそうな。
やっと奥の院魔王殿に到着。ここまで既に1時間以上、山の中を上って下って来ている。息も荒いし汗もそうとうかいている。ここは護法魔王尊が安置されている。
あとは下り道ばかりだが、これもきつい。
2時間かけて、ようやく鞍馬寺西門へ出たが、そこは貴船神社のすぐ側だった。