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2013.11.17 (Sun)

晩秋の法隆寺に行く

 先日の寒い日に斑鳩の里、法隆寺に行ってきた。何年振りだろうか。10年以上前に来たかな。初めて行ったのが小学生の頃の遠足で来たものだが、それ以降は何度訪れたか判らないほど来ているのだが、それこそ現存する日本最古の、いや、世界最古の木造建築物群といっても差し支えがなく、それこそ建っている物がほとんど国宝で世界遺産であるといってもいいぐらいだ。でも寒い平日に訪れたから一般の観光客が少なくてホッとしていたのだが、それに反して修学旅行生が多すぎて煩かった。いった何校来ていたのだ・・・・・。

 法隆寺は創建が607年と伝わっているので、今から1400年前に建てられたということになる。あまりにも古すぎてピンとこないが、今、存在する金堂、五重塔のある西院伽藍はもっと後に造られたものとされるが、それでも7世紀後半か8世紀初頭とされ、飛鳥時代には建てられていたので古いことには変わりはない。そもそも推古天皇と聖徳太子が用明天皇の遺願を継いで607年に薬師如来と寺院を建立したのが始まりとされ、その後にそれらは焼失し、その後に建てられたのが現存する法隆寺とされているのである。最も聖徳太子たる人物が存在したのかどうか疑問視する歴史学者もいるが、そのモデルとなる人物が現法隆寺を創建したことは確かなようで、時代が余りにも古いと確証出来るものも少なく謎だらけということになる。ところで大阪市のど真ん中にある四天王寺は同じ聖徳太子が建立した寺院で、創建が593年というから法隆寺よりも古いのだが、大阪と言う大都会にあるがため、過去に何度も災害にあい当時ものは何も残ってなく、現在ある伽藍は全て昭和になって再建された鉄筋コンクリート造りというのは実に淋しい限りである。だから斑鳩と言う人里離れたひっそりとしたところに建てられた法隆寺は、飛鳥時代の姿のまま威容を未だに保ち続けているのは大変喜ばしいことである。ただ、何故に法隆寺が都から少し離れた斑鳩の里に建てられたのか色々と説があるが、当時の都である飛鳥に建てられていたら現在の姿で残っていたか疑わしい。おそらく藤原京、平城京と遷都するにつれ何れ伽藍は解体されていたかも知れず歴史の中で埋もれていたに違いない。よくぞ斑鳩の地に建ててくれたものだ。

 さて、久しぶりの法隆寺だが修学旅行生で溢れていた。小学生、中学生、高校生。皆、列をなして金堂やら五重塔やら大講堂やらを見学している。金堂の中には釈迦三尊像、薬師如来像、阿弥陀如来像、四天王像、吉祥天立像、毘沙門天像。五重塔の中には塑像群。大講堂の中には薬師三尊像、四天王像(重要文化財)などが安置されていて、これらほとんど建物と共に国宝というから何とも恐れ多い寺院である。

 これら中門と大講堂と回廊に囲まれた伽藍全体を西院伽藍と言うが、著名な玉虫厨子や百済観音像等の国宝は新しく建てられた大宝蔵院に安置されていた。それにしてもこの法隆寺だけでいったいどれだけの国宝、重要文化財があるのだろうか。建築物、仏像、工芸品等全て合わせると凄まじい数になるだろう。一寺院としてはおそらく国内一位の数を誇るであろう。それだけ法隆寺は古い寺院であるということになる。小生は大宝蔵院を出て休憩所で暖をとっていたら、その時、偶然にも梵鐘がなった。

 柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

 正岡子規の有名な俳句である。鐘の音を聞いて、その俳句を思い出したが、実際には正岡子規は法隆寺に訪れたことはないという説が強い。なので、この俳句はおそらく正岡子規が想像で浮かんだ俳句だろう。本当のところ正岡子規は1895年10月に東大寺を訪れた際、奈良の宿でご御所柿を食べていて、その時に梵鐘の音色を聞いたらしい。それを東大寺から法隆寺に変えたのだろうが、その理由は何故だか判らない。でも小生は休憩所でホットコーヒーを飲んでいるときに法隆寺で鐘の音を聞いた。でも俳句なんてちっとも浮かばない。そういった才能は残念ながら皆目、持ち合わせていないのでどうしようもない。でも正岡子規流に言うなら、珈琲飲めば鐘が鳴るなり法隆寺と言うことになるが、これだと赴きも何にもない。最も小生、俳句を詠んでも良い俳句と悪い俳句の判断も出来ないのであしからず。

 休憩所を出てから国宝の東大門を抜けて2、300mほど土塀に挟まれた道路を歩くと東院伽藍に到着する。ここは重要文化財の回廊に囲まれた中に有名な八角円堂の夢殿がある。この中には救世観音像、聖観音菩薩像、行信僧都像、孝養像、道詮律師の塑像が安置されているが、これらの像も国宝および重要文化財である。夢殿と言うのは行信僧都という高僧が聖徳太子の遺徳を偲んで奈良時代の739年に建てた上宮王院伽藍の中心になる建造物で、現在では鎌倉時代に中門を改造した礼堂と回廊に囲まれている。しかし、それにしても寒かった。なので隣の中宮寺を寄らず、当然のように法起寺や法輪寺にも行かなかった。これ等と藤ノ木古墳をも含め、斑鳩地域が世界遺産に指定されている。若い頃の小生なら全て回るのだが、最近は入院したこともあって体力の低下を痛感しないではいられない。したがってまた暖かい時に再訪することにして斑鳩の里をあとにした。

金堂


五重塔 高さが32.5mで当然のように日本最古の五重塔である。


大講堂


五重塔と金堂


中門から入って左に五重塔、右に金堂、奥に大講堂がある。これを法隆寺式伽藍というが、それより前に建てられた四天王寺はこれらが一直線に並んでいて、これを四天王寺式伽藍という。


西院から離れた東院伽藍には夢殿がある。


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2013.04.28 (Sun)

室生寺に行く

 先週の話であるが女人高野と言われる室生寺に行ってきた。何時以来だろうか。随分と久しぶりになる。若い頃だったから、これまた30年以上前のことだろう。京都からだと結構、遠いので滅多に行けない寺ではある。何しろ三重県との県境に近い奈良の山の中にあるお寺だから、その気にならないと来ることもない。何処にあるかというと奈良県宇陀市。かつては宇陀郡室生村であった。それが周辺の幾つかの町と村が合併して宇陀市となったがとても市と言えるようなところではない。とにかく山奥。近鉄大阪線室生口大野駅で降りて路線バスで4、5㎞ほど室生側沿いの一本道を登って行く。道路の両側は山である。かれこれバスで20分。寂しい山村の到着。この山村に室生寺はある。奈良時代の末期、この地で皇太子山部新親の病気平癒の祈願が興福寺の5人の高徳な僧によって行われ、これによって卓効があったことから、勅命により国家のために創建されたとと言われている。
 室生寺はそれ以来、山林修行の道場として、法相・真言・天台等、各宗兼学の寺院として独特の仏教文化を形成するとともに、平安前期を中心とした数多くの優れた仏教美術を継承する一方、清冽な渓流は竜神の信仰を生み、雨乞いの祈願も度々行われてきた。その他、厳しく女人を禁制してきた高野山に対し、女人の済度をもはかる真言道場として女人の参拝を許したことから女人高野として親しまれているのである。

 室生寺は真言宗室生寺派の山寺で宇陀川の支流室生川にかかる太鼓橋を渡ると正面に本堂がある。そこを右に折れ暫く行くと仁王門がある。仁王門を通り石段を上がると正面に金堂がある。左には弥勒堂を見てさらに石段を上がると如意輪観音を本尊とする本堂がお目見えする。そしてその左後方の石段の上には何とも神々しい五重塔が姿を現すのである。さらに五重塔から400段の石段を上がると空海を祀る奥の院御影堂がある。即ち石段を上がり続ける典型的な山寺で、鄙びた中にも平野部にある寺にはない大自然と調和した伽藍の見事な佇まいに思わず見とれてしまう。ただし奥の院まで来ると流石に息が上がってしまう。でも昼間なのに杉の大木が鬱蒼と立ち並んでいて暗い木陰を冷気がわたる。まさにこれこそ室生寺独自の魅力であろう。


室生寺の仁王門をくぐるといきなり石段が続いている。石段の上には金堂が構えている。
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室生寺の金堂。平安時代の初期の建造物で、釈迦如来立像が御本尊である。もちろん国宝である。
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 こちらは金堂から少し上がったところにある本堂である。潅頂堂と呼ばれ室生寺の本尊如意輪観音菩薩像が安置され、真言密教の最も大切な法儀である灌頂を行う堂で、真言寺院の中心であることから本堂おも呼ばれている。建立は1308年で国宝。
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本堂の左後方。石段の上に五重塔が姿を現す・
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この風景は写真集とかでもあまりにも有名である。
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これを見たくてみんな室生寺を訪れるのである。
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 総高16.1m。野外に建つ五重塔としては日本一小さい。勾配が緩い軒の出の深い檜皮葺の屋根は、朱塗りの柱、白い壁心地よい対照を保つ見事なまでの秀麗さである。建立は平安時代初期といわれ、室生山最古の建築物である。1998年9月の台風で杉の大木が倒れ大きな損傷を蒙ったが、2年後に修復落慶した。
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光を浴びて神々しい。
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やや上から見下ろす。
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五重塔を抜けると400段の石段がある。その上に御影堂のある奥の院がある。
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これは奥の院にある舞台造りの位牌堂である。どこか清水の舞台を連想させる。
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室生寺境内には南北朝時代に東奔西走した公卿北畠親房とされる墓があるが、ここでははなく五條市の賀名生(あのう)にある説が有力。
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2013.03.31 (Sun)

蹴上インクラインの桜

 醍醐寺を出てから寄った姉の家には30分ほどしかいなかった。それで醍醐地区を去って今度は蹴上に向かった。蹴上は東山区で京都市街の入口にある。明治時代琵琶湖疏水が築かれたが、ついでに蹴上に日本最初の水力発電所が造られ京都の街に市電を走らせたのである。そして、インクラインがある。インクラインとは鋼索鉄道のことである。所謂ケーブルカーのことで、産業用ケーブルカーのことをインクラインと言う。琵琶湖の疏水が京都の入口まで設けられたが、ここから京都市内まで標高差がある。疏水は船が行き来する運河の役目もしていた。ところが標高差があり過ぎる蹴上では疏水が設けられなかった。それで上の疏水から運搬船を下の疏水まで運ぶためにインクラインが造られたという訳である。今はトラック輸送が一般的になってお役御免となったが、近代化日本の発展を担ったインクラインである。そして跡だけが残り、現在は桜の名所として花見客が訪れるのである。


インクラインも大勢の人で埋まっている。すぐ近くには南禅寺、岡崎公園、哲学の道があり人出も多い。
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 レールが4本。この上を台車が動いていたのだろう。
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 かつて使用されたインクラインの台車と船。向こう側の疎水から船を台車に乗せて下の疎水まで運搬するのである。
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まだ7分咲きぐらいかな。
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緩い傾斜となっている。
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桜の向こうにウェスティン都ホテルが見える。
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テレビのロケ隊が録画撮りで来ていた。誰かな・・・・田丸麻紀かな?
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2013.03.31 (Sun)

まだ満開ではないが

 昨日の土曜日、それこそ久しぶりに出かけた。もう東京の方ではとっくに桜が満開で散りかけているというが、滋賀県ではまだちらほら。五分咲き程度の桜もあるが、まだまだこれからというところである。ところで京都であるがまだ満開ではない。まだ数日かかるようだが、天気も良かったので陽気に誘われて醍醐寺に行って来た。醍醐寺は行政区の上では京都市伏見区だが、東山三十六峰よりも東にあるので山科区のイメージがある。でも伏見区である。創建は874年と古く、空海の孫弟子聖宝が創建した真言宗醍醐派の総本山である。そもそも山岳信仰のあった醍醐山。ここで地主神横尾明神よい山を譲り受け、山上に准胝、如意輪の両観音を祀ったのが醍醐寺の始まりとされる。開創後は醍醐、朱雀、村上の三代にわたる天皇の深い帰依によって多くの伽藍が造られたが、何度も火災にあい寺は五重塔を残し全て消失し荒廃していた。それを復興させたのが太閤秀吉。豊臣秀吉は慶長3年(1598年)に有名な醍醐の花見を開いた。これを機に、醍醐寺には秀吉、秀頼が次から次へと金堂、三宝院、開山堂、如意輪堂等を再建させる。その名残で今では桜の名所として知られるようになるが、実のところ小生、桜の季節に醍醐寺に来るのは初めてである。ところで境内にある約900本の桜だが、まだ満開ではないので迫力に欠けている感は拭えなかった。もう3日ほど待てば良かったのだが、あいにく仕事のある日はいけない。来週になるともう散っているかもしれないし、本当に満開の時に行ける人が羨ましいと思う。

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 とにかく寺院の中に入るのにチケットを買う人が行列しているのである。三宝院の庭園は必見の価値はあるが・・・・・
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 醍醐寺の五重塔は国宝である。951年に完成というから古い建造物である。高さが約38m。相輪が約13mあり、塔の3分の1を占め、日本の三大名塔の一つとされる。ちなみに残りの二塔はというと法隆寺の五重塔と瑠璃光寺の五重塔。法隆寺はあまりにも有名だが、瑠璃光寺を知る人は少ない。瑠璃光寺は山口県にあるので一度訪れてみてください。
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しだれ桜
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三宝院の唐門である。派手な門だが国宝である。向こう側に庭園の桜の木が見える。
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 醍醐寺を出てから行くところがあった。実はこの近くに姉が住んでいる。以前は洛西にいたのだが今は醍醐寺から歩いて15分ほどのところにある公団に住んでいる。電話で在宅を確認して寄ってみた。姉が言うには醍醐寺は散歩には良く来るが、真冬や真夏は閑散としているらしい。でも桜の名所として知られているので桜シーズンは恐ろしいほどの人がやってくるから、まず近寄らないという。なるほどねえ。でも醍醐寺の周囲はごくありふれた住宅地だから、ここだけ浮いている感じがするが環境問題に敏感で、この付近、学校も3階以上は建てられないらしく地下教室があるらしい。これも地元民しか判らない悩みかな。
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2012.11.18 (Sun)

通天閣に登る

 2、3週間前の晴天の日のことであるが、それこそ50年振り以上になるだろうか通天閣に登った。何時、登ったかというと幼い頃である。親父と姉とで登ったことを覚えている。小生は小学校へ上がっていたのかどうか、ただ登って下界の街を漠然と眺めていた記憶はあるがあまり詳しくは覚えていない。ところで今年は通天閣誕生からちょうど100年目に当たる節目の年である。最も現在の通天閣は昭和31年に再建された2代目であるが、初代の通天閣が今から100年目前に誕生したのである。

 その経緯であるが、時は明治時代、大日本帝国は西洋列強に肩を並べようと産業発展を推進していた。そんな頃に東京上野で内国勧業博覧会が行われ盛況であった。そして、その後も第2回、第3回と上野で行われ儲かる行事と言うことも判った。それで誘致合戦が起き、第4回は東京を離れ京都の岡崎で開催された。そして第5回の内国勧業博覧会は大阪の天王寺、今宮付近で行われたのである。時期は1903年3月1日から7月31日の間の153日間。この第5回は敷地が前回の2倍強、会期も最長。最後にして最大の内国勧業博覧会となった。ちょうど日清戦争勝利の後に行われたので、政府も力を注ぎ会場には農業館、林業館、水産館、工業館、機械館、教育館、美術館、通運館、動物館等が建設され、第2会場となっていた堺には水族館も建てられたのである。また将来の万国博を意識してか第4回までは出展されなかった外国の製品までを陳列していた。主な出展国はアメリカ、ドイツ、イギリス、フランス、ロシアといった西洋列強である。その中でもアメリカ製の自動車の陳列は時の日本人の心を打ったようである。この博覧会は画期的であって、夜間になるとイルミネーションが輝き、エレベーター付きの塔も人気を博し、茶臼山の池のほとりに設けられたウォーターシュートやメリーゴーラウンド、パノラマ世界一周館、不思議管、大曲馬といったその後、各地に出来る遊園地にあるような娯楽施設にも行列が出来たのである。こうして第5回内国勧業博覧会は入場者数435万人以上となり、大阪市は莫大な経済的効果を受け、当然のように第6回が計画されたのであるが日露戦争の突入により、以降、国家的博覧会は開かれず、1970年の大阪の万国博覧会まで開催を待つこととなる。

 大盛況に終わった第5回内国勧業博覧会の跡地は日露戦争中は陸軍が使用したが、1909年には東半分が天王寺公園となった。そして西側の半分が土地建設会社に払い下げられ開発が始まったのである。買い占められた土地の北側には放射線の道を配し新たな歓楽街を建設。南側にはニューヨークのコニーアイランドを模した遊園地ルナパークを設け、これら一帯を新世界を読んだのである。そして、その中心に鉄塔を建てたのであった。此の鉄塔こそが初代の通天閣である。 通天閣の名付け親は明治時代の儒学者である藤沢南岳。天に通じる高い建物という意味で、戦後に建てられた○○タワーという安直な名前でないのが古臭くてかえっていい。

 初代通天閣は今からちょうど100年目前の1912年(明治45年)7月3日にルナパークと共に誕生した。設計は設楽貞雄。高さは250尺(約75m)で、当時では日本一高い建物であった。形は面白くパリの凱旋門の上にエッフェル塔が乗っかっているような外観で、ルナパークとの間には日本初の旅客用ロープウェーが繋がっていた。此の通天閣は長い間、大阪の人に親しまれ続けたのだが、ちょうど第2次世界大戦の最中の1943年(昭和18年)1月6日、塔の真下にあった映画館から出火した際、火災をもろに受け、通天閣の脚部が強度不足となり解体される羽目となる。時期も時期で鉄材を軍需資材として献納する意味もあり翌月には解体され初代通天閣は姿を消したのである。

 戦後、焼け野原となった大阪に通天閣の姿はなかった。特に地元新世界に住む人達にとっては見上げれば何時も聳えていた通天閣がないということで一抹の寂しさがあった。そこで地元の人が立ちあがったのである。火をつけたのは1954年(昭和29年)に完成した名古屋のテレビ塔である。新世界の人達は、そのニュースを知り通天閣再建機運が高まったという。こうして地元民を中心に出資を募ったのであるが、なかなか思うようにお金が集まらず、色々な企業にも回ったという。結局は建設会社自身も出資してくれることになりようやく建設に踏み切れることとなったという。ところが関係当局への手続きが難航してなかなか建設できないでいた。つまり道路上に鉄塔を建てることはまずいということになり、国会議員を訪ね何度も何度も陳情を繰り返す。こうしてようやく建設までの運びとなったのである。しかし、足場はあまりにも狭く、とても日本一の鉄塔など造れる筈もない。初代通天閣があった場所は既に民家が立ち並んでいた。とにかく空き地がなく狭い道路を含んだ僅かな空き地の上に2代目通天閣は建てられることとなった。設計したのは後に東京タワーも設計した内藤多仲。内藤多仲は現地を訪れて愕然。敷地が狭すぎてとても名古屋テレビ塔よりも高い塔を建てることは困難と判断。だが名古屋のテレビ塔の展望台よりも高いところに展望台を設けるということで見晴らしの良い眺望が確保できると地元民を説得。ようやく建設に踏み切ったのである。こうして1956年(昭和31年)10月23日2代目通天閣が誕生したのである。

 高さが103m。土台になる橋脚の幅はたった24mでしかない。つまり裾野が広がってない煙突に近い鉄塔である。それでも初代の通天閣よりも高く、2代目通天閣は昭和40年までは大阪で一番高い建築物であったことは言うまでもなく、その頃は阪神百貨店の屋上から通天閣が見えていた。それが1960年代末期からビルの高層化が始まり、今では大阪でベスト100には入らない高さになってしまった。なので当然、今では阪神百貨店の屋上から通天閣を見ることはできない。時代の流れとは恐ろしいものである。


 現在の通天閣。高さは103m、周りは商店や民家で実にせせこましいところに立っている。一帯は新世界の繁華街で、まさに大阪コテコテを代表する看板が目立っている。また西成のあいりん地区と隣接している関係から、治安が悪く昔はさびれていたが、今は串カツ店も多くビリケン人気も手伝って観光客で賑わうようになった。初代通天閣はもっと手前に立っていたらしい。
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 これからは通天閣からの眺望した写真を載せることにする。以下(要クリック)
まずは南港方面。大阪府咲洲庁舎が見える。
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 弁天町方面。
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 難波方面。
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 北の方角。
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 天王寺公園の向こうには建設中のあべのハルカス。
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 ここは天王寺公園の北側の茶臼山といって古墳があったのだが、大坂冬の陣で徳川家康、大坂夏の陣で真田幸村が陣を張ったところである。
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 あべのハルカス(近鉄百貨店)といって来年に完成する高さが300mのビル。何と通天閣の3倍の高さ。
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 大阪城方面。
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 この中央の建物は大阪市立美術館。
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 東京スカイツリーがある時代に、たった103mという今時の高層マンションよりも低い鉄塔に登る人が多いのも、通天閣ならではのことだろう。多くの人が訪れるのは、通天閣を含めた新世界が大正、昭和を連想させるレトロな街だからである。行政が建てたのでもなく一般の地元住民が建てた通天閣。だから電波塔でもない通天閣の存在価値があるのかもしれない。




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2012.05.26 (Sat)

誰も訪れない京都の旧跡・・・・・大極殿跡

 このところ涼しくなったり暑くなったり天候が大荒れだったりはっきりしないが、もう初夏の雰囲気である。今年は原子力発電所が完全に稼働を停止(まだ決定ではないが)するということで計画停電もあり得るらしい。するとエアコンも一日中つけていられない。困ったものだがしょうがない。暑がりの小生としては今からどうしよかと思案中である。出勤すると職場の中は冷房が効いているからいいが、休日の昼間、エアコンをつけられない酷暑の家に居るわけにもいかないな。本当にどうしよか・・・・・。まあ、それはさておいといて、3月に誰も訪れない京都の旧跡と題して羅城門跡を訪ねたが、今回は大極殿跡を訪ねてみた。それで大極殿(だいごくでん)って何だということになるが、都の大内裏の中にある正殿ということになる。それなら大内裏って何だとなるが、大内裏は都の宮城ということになる。つまり遠い時代の都の宮城にある天皇がいる正殿ということになるのだろうか。原典は中国から来ているから定義付けは難しい。それが日本に文化が伝わり飛鳥の時代に飛鳥京という都が形成される中で日本最初の大極殿が置かれた。それがやがて藤原京、難波京、平城京、恭仁京、長岡京、平安京と都が置かれると必ず大極殿があった。それで794年に平安京に都が移されると都が造営された。平安京の入口が羅城門だということは前回に述べたと思うが、その羅城門から真っすぐに北の大内裏に向かって朱雀大路が伸びていた。こうして平安京はこの大内裏の中で政治が行われたのであろう。

 大極殿というのは上記のようなものであるが、そこで小生は暑いさなか大極殿の跡がどこにあるのか、このほど訪れてみた。生まれてこのかた長い間、京都に住んでいるので(一時、離れていた時期もあるが)、所在する場所はだいたい判っている。今の千本通が昔の朱雀大路なので千本通沿いにあるのに決まっている。地下鉄二条駅で降りて千本通を500m上がったところが千本丸太町の交差点である。このあたりに大極殿があったとされるが、実は交差点の西北角の路地を入ったところに児童公園がある。その中に大極殿のあったところと記された石碑がある。この石碑は1895年に平安遷都1100年を記念して建てられた石碑である。実際に大極殿は千本丸太町の交差点辺りにあったとされるのだが、交差点だと往来があるので石碑は建てられないということか。まあ、この周辺一帯に巨大な大極殿が威容を誇っていたと思えばいい。なにしろ当時の大極殿は奈良の東大寺、島根の出雲大社に匹敵する大きさだったといわれるからとんでもない大建築物だったのだろう。今の平安神宮はその時の大極殿を含めた朝堂院を模倣して1895年に造営されたことは言うまでもないが(ただし3/4の規模)。それにしても千本丸太町周辺は何の変哲もないごくありふれた街並みである。悠久の昔、都の宮城の正殿があったところとは現在の姿からは想像もできない。京都の街はその後、全体的に北東へ移動したから大内裏も今の京都御苑へ移っていき、千本丸太町周辺は都の中心ではなくなってしまったからである。それに大極殿そのものは何度かの火災で再建されたのち、朝廷の儀式が同じ大内裏の中にある紫宸殿へ移って行き、大極殿の存在価値が薄れていき、やがて1177年の安元の大火で焼失。それ以降、再建されることはなかった。


 実は1895年(明治28年)3月15日に平安遷都1100年を記念して内国勧業博覧会が行われたのであるが、その目玉として平安京遷都当時の大内裏の一部復元が計画された。その計画というのは大極殿があったとされる千本丸太町の交差点付近一帯に大内裏と朱雀門を建てるというものであった。しかし用地買収に敗。結局、京都の郊外である岡崎に5/8の規模で大内裏の一部が復元された。それが今の平安神宮である。それで現在、大極殿跡の石碑だけが、千本丸太町西北角の路地裏にある児童公園に立っている。
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