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2014.09.14 (Sun)

スティーヴィー・ワンダーのアルバム『Key Of Love』



 スティーヴィー・ワンダーをさほど聴いたというのではないが、小生の少年時代からその名前は轟いていた。それでいて現在64歳だという。ということは小生とそんなに変わらない。すると何歳から歌っているのだと・・・・・・・。
 スティーヴィー・ワンダーは1950年生まれである。でもデビューは11歳と恐るべき早さである。それで名前を古くから知っていたのだな。
 スティヴィー・ワンダーは6週間の早産で生まれ、保育器内での過量酸素が原因で生まれてすぐに目が見えなくなる。しかし、それがハンデとなることなく盲目であるがため音感が鋭かったのだろう。幼い頃からピアノ、ハーモニカ、ベースを演奏していたという。また歌も歌っていてリズム感もあり、デトロイトの街角で歌やダンスを披露していた。そして11歳の時、自ら作曲した『Lonely Boy』をミラクルズのロニー・ワイトの前で歌い、気に入ったワイトはスティーヴィーと母親をモータウンへのオーディションに連れて行くのである。こうしてモータウンの社長ベリー・ゴーディの前で歌と演奏を披露しモータウンと契約する。1961年11歳の時に最初のレコーディングを行い、1962年にデビュー・シングルが発売される。しかし、層の厚いアメリカのショウビジネスではなかなか芽が出ず、スティヴィー・ワンダーが知られるようになるのはモータウン・レビューの一員として全米ツアーをする。そして、この時のツアーで廻ったシカゴでの演奏を記録した音源が1963年5月にアルバムとしてリリース。これがアメリカのビルボード・ヒット・チャートで大ヒット。これで一躍、スティーヴィー・ワンダーの知れ渡るようになるが、まだこの時、13歳、まだ幼すぎる。モータウンの幹部たちはこれから声変わりするだろうと予想されるスティーヴィー・ワンダーとの契約を打ち切る者もでいた。事実としてスティーヴィーが出た2本の映画もヒットしなかった。ただし同時期にシルビア・モーイと共作した作品が含まれたアルバム『アップタイト』ば大ヒット。そしてシングルカットされた『Nothing’s Too Good For My Baby』『With A Child’s Heart』、ボブ・ディランのカバー曲『風に吹かれて』がヒットする。
 それと並行して彼は同じレーベル仲間に楽曲を提供。モータウンの作詞作曲部門の契約を結ぶなど若い頃から才能を発揮しまくっていた。そういった経緯もあって当時から大御所の感があったのだ。だから小生なんかはもっと年配の人かと思っていたほどである。しかし、自分とはあまり年齢の違わない人であることに驚いたものである。
 1,970年にはモータウンから自作のプロデュース権を獲得し音楽出版会社タウラス・プロダクションを設立し、自らの模索していた音楽を演奏するスタイルを確立、当時開発されたばかりのシンセサイザーを駆使しほとんどの楽曲を自ら演奏してアルバムを作っていた。このころでまだ20歳である。まさに盲目の天才である。
 1973年には交通事故に遭い味覚と嗅覚を失うがリハビリで回復。このころから活動が音楽以外の慈善活動、平和運動にまで幅が広がり、彼自身の音楽活動も絶頂期にあった。1974年のグラミー賞で自身初の受賞を果たし、1975年のグラミー賞で最優秀アルバム賞を受賞。そして1976年に当アルバムである『Songs In The Key Of Life』が発売される。このアルバムは2枚組で、当時の全米アルバムチャートで14週1位となる大ヒットを記録。この年のグラミー賞最優秀アルバム賞を受賞。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった。その後のステーヴィー・ワンダーの活躍は大方の人はご存じだろうから記さないが、未だに老いを見せず活躍中で、もう何度来日しているだろうか・・・・・。
 尚、このアルバムの中の楽曲『愛するデューク(Sir Duke)』は最近、テレビのCМで流れていたので知っている方もおられよう。この曲は彼が尊敬するジャズ界の公爵デューク・エリントンに捧げられたものである。彼はデューク・エリントンとナット・キング・コールを尊敬していたという。

Sir Dukeを歌うスティヴィー・ワンダー


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2014.07.06 (Sun)

ペレス・プラードを聴く



 ペレス・プラードって誰だって若い人は思うだろう。所謂、ラテン音楽というジャンルでの中のマンボの王様といわれたのがペレス・プラードである。昭和40年代後半から50年代にかけてザ・ドリフターズの『8時だよ!全員集合』という人気番組が生放送されていたが、この中で加藤茶がつるつる頭の鬘を被り突然寝転がると場内が暗くなり赤いスポットライトが浴びせられる。すると艶めかしい音楽が流れる。すると加藤茶はストリッパーのような演技を行い「ちょっとだけよ。あんたも好きね」と囁く。それを見ていかりや長介が止めに入るという何時もお馴染みの一場面が展開される。毎週、この演出が行われるのだが、観に来ていた人(子供が多かったが)がやんやの喝采を送る。これを観るために大勢つめ掛けていたような気もするが、この曲が当時は話題になったものである。つまりこの曲の元がペレス・プラード楽団の『タブー』である。
 ペレス・プラードは1916年にキューバで生まれた。当時はまだ社会主義国家ではないキューバだった。父が新聞記者で母が教師というインテリ家庭に生まれ幼い頃からピアノを習っていたので音楽の素養が身に付き、何時の間にかハバナのクラブで演奏するようになる。そして既に既存の音楽であったルンバにアメリカで流行っていたスウィング・ジャズの要素を入れマンボ音楽を演奏するようになった。でもキューバではあまり受け入れられることもなく彼はメキシコへ渡る。これが第二次世界大戦終結から3年後の1948年である。彼の地でペレス・プラードは自らの楽団結成し人気を博すようになる。なので我々はメキシコの人だと言ったイメージがある。
 やがてペレス・プラード楽団はヒット曲を立て続けに出すようになりショウ・ビジネスの本場アメリカに進出。最初のヒット曲は1949年の『エル・マンボ(Que Rico El Mmbo
)』で、翌年の1950年『マンボNo.5』が世界的にヒットし一躍有名になるのである。その後、『マンボNo.8』、1955年には映画『海底の黄金』で使われた曲『セレソ・ローサ』は何とアメリカのヒットチャートで10週間連続1位、26週連続チャートインという快挙を成し遂げる。さらに1958年『パトリシア』は全米のヒットチャート1位であり40万枚の売り上げを記録するなど一世を風靡するほどであったが、その後のロックンロール等の台等でマンボは次第と下火になりペレス・プラードは活躍をメキシコへと移すのである。
 でも日本には人気絶頂期の1956年に初来日以降、17回も来日していることなど隠れた人気を得ていた。1950年代の日本の若者がズボンの裾を細くしたマンボズボンと言うものを穿くなどして影響も少なくなかったのだ。謂わばラテンブームの火付け役で在り、マンボスタイルの楽団が日本でも数多く結成されたことは言うまでもない。日本ではロカビリー・ブームというものがあったが、一部ではマンボ・ブームのようなものもあったらしい。実際、その時代を私は知る筈もないが、後のフォーク・ブーム、エレキ・ブームが起こる前は、そういったジャンルの音楽が若者の間で流行っていたということである。それが時代を経て、突然、ドリフターズのコントにペレス・プラードの『タブー』が使われるということは、当時のミュージシャンの中には影響を受けた者が数知れずいたということであり、ペレス・プラードの名は後世まで轟いているのである。しかし、ペレス・プラードは1989年にメキシコで亡くなっている。地元メキシコでは彼の足跡を讃え派手に葬式を行ったが、母国キューバは社会主義国家と言うこともあり、その死は僅かな報道で伝えられただけであった。

Mambo No.5


Tabu(動画はなし) 「ちょっとだけよ あんたも好きね」

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2014.04.13 (Sun)

キャロル・キングのアルバム『つづれおり』を聴く



 キャロル・キングという名前は昔から知っていた。何と1958年に10代でデビューしている。ただし私が知っているキャロル・キングは歌手としてではなくソング・ライターとしてのキャロル・キングとして名前を知っていただけである。1942年生まれと言うからポール・マッカートニーと同じ年齢と言うことになるかな。それにしては若い時から多くの曲を書いているものである。私がキャロル・キングの名を意識したのはビートルズが歌っていた『Chains』という曲によってである。この曲はビートルズの初期の曲であるが、当時のビートルズはオリジナル曲と共にカバー曲もアルバムに幾つか収録していた。その中でジョージが歌っていた『Chains』という曲の紹介のところに書いてあったCarole King,
Gerry Goffinと言う名前。2人でこの曲を書いたのである。ジェリー・ゴフィンというのはキャロル・キングの最初の夫で、あの当時は2人の共作で多くの曲を書いていたのである。若くして歌手デビューしたキャロル・キングであるが歌手としては最初は失敗した。それでソング・ライターとして活動していくこととなる。
 しかしソング・ライターとしては優れていて夫と共作で1960年代にシュレルズ『Will You Love Me Tomorrow』、ドリフターズ『Up On The Roof』、リトル・エヴァ『The Loco-Motion』、アレサ・フランクリン『A Natural Woman』等の曲を提供し何れもが大ヒットしている。こうしてソング・ライターとしてのキャロル・キングの名が知れ渡っていくのである。こういった同時期にビートルズが『Chains』カバーしていたということで私はキャロル・キングの名を既に知っていたということになる。
 それが1971年だったか一枚のアルバムがリリースされた。それが『Tapestry(つづれおり)』である。その中で『It’s Too Late』『You’ve Got A Friend』の2曲が盛んにラジオで流れていた。ただし『You’ve Got A Friend』はジェームス・テイラーが歌っている方がヒットした。それで、この時に私はキャロル・キングは歌も歌うのだということを知ったのである。つまりキャロル・キングは若い時に歌手でデビューしているが、さっぱりヒットせず長い間は歌手活動を停止していたのだった。それで他人に曲の提供だけをやっていてのである。それが30歳を前に突然、歌も歌い出した。シンガー・ソング・ライターとして出発。もっともその前にジェリー・ゴフィンと離婚しているというのも理由かもしれないが、とにかくシンガー・ソング・ライターとしての2作目となったアルバム『つづれおり』は大ヒットした。1971年3月にリリースされるやアルバム部門においてビルボードの15週連続1位に輝き、世界的な売り上げを記録したアルバムである。またグラミー賞では最優秀アルバム賞、最優秀レコード賞『It’s Too Late』、最優秀楽曲賞『You’ve Got A Friend』、最優秀女性ヴォーカル賞獲得。当時は話題となったアルバムであった。
 しかし、その時の印象であるが、私はキャロル・キングて歌手だったのということに驚いたのと、アルバムのジャケットを観て意外と若い人だったのだと思ったこと(まだ当時は20代だった)。つまりキャリアが長いのに、表舞台に出てこずに曲だけで名が売れて、本人が歌ってレコードがジャケットになり顔を知ったという不思議さ。それまでベールに包まれていた人が表舞台に出てきて、いきなり大ヒットしたのである。だから意外性もあったのかもしれない。とにかくこうしてキャロル・キングはシンガー・ソング・ライターとして再出発した。しかしである。私はキャロル・キング本人の声はあまり好きではない。やはりソング・ライターとして、曲を提供しているだけの方がいいなあと思ったものも確かである。
 なおこのアルバムは12曲入っていて、中にはかつてアレサ・フランクリンやシュレルズでヒットした『A Natural Woman』『Will You Love Me Tomorrow』も収録されていて、こういった辺りも彼女のこだわりだったのかもしれない。


キャロル・キング(1971年)の映像


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2014.01.25 (Sat)

サム&デイヴを聴く



 テレビは最近ほとんど観ないのだが、時折スイッチを入れてみたりする。すると突然CМに使われている曲に耳を傾けていたりする。それらは昔、聴いていて馴染んでいた曲であったものの久しく聴かずにいて忘却の彼方にあったものが、今、再び当時の想い出と同時に呼び戻されるのだ。つまりその頃に聴いていたのだが、長年の間、聴くこともなく過ごしていると、すっかりその曲のことも忘れていたのに「ああこんな曲があったな」と記憶の1頁に入って行けて、当時のことがその曲とともオーバーラップし全て想いだされることが多い。日頃は鬱陶しいだけのCМが、そういった時には有難く感じるのである。そういえばCМの曲の選択はだれがするのかしらないが、少年時代によく聴いた曲が最近、CМで流されることが多い。ということはCМの制作者が私と近い年齢なのか、同じような曲を聴いて育ったのか、それともなんかのきっかけで曲を気にいってCМに使うことにしたのかのどれかだろう。何れにしても最近CМで使われる曲にオッと驚くことが多い。
 つい最近のことであるが、HONDAのCМで流れていた曲に聞き耳をたてたのである。それはサム&デイヴが1967年に歌ってヒットした『ソウル・マン』である。イントロを聴くやすぐにサビの部分の歌詞~アイ・ム・ア・ソウルマン アイ・ム・ア・ソウルマン~が浮かんでくるぐらい覚えていた。だが、サム&デイヴなんて久しく忘れていた。
 彼等が来日した1969年には私はサンケイ・ホールへ友人のT君と聴きに行っているぐらいなのにすっかり忘れていた。サム&デイヴ、実に懐かしい名前だ。サミュエル・デイヴィッド・ムーアとデイヴ・プレイターによるリズム&ブルースのデュオ・グループ。マイアミで結成され1961年デビュー。もともとゴスペルを歌っていた2人が出会いマイナー・レーベルでデビューしたが売れず、アトランティック・レコードの副社長ジェリー・ウェクスラーの目にとまりアトランティックと契約。メンフィスのスタックス・レーベルに紹介し、このスタックス・レーベルで1966年にサム&デイヴは最初のヒット曲『Hold On I’m Coming』を出す。そして1967年『Soul Man』、1968年『I Thank You』、1969年『Soul Sister ,Brown Sugar』等、リズム&ブルース、ソウル部門では確実にヒット曲を出すようになる。その中でも『ソウル・マン』は最もヒットした曲で、金管セクションのをバックに歌う2人。高音のサムと低音のデイヴがソウルフルでパワフルな歌を聴かしてくれるのだ。
 ところで何故、私がこのサム&デイヴの来日ライヴを観に行ったっと言うのは今思えば謎だ。特別にリズム&ブルースが好きだったというのでもない。オーティス・レディングやサム・クック、ウィルソン・ピケット等も頻繁に聴いていたというのでもない。ただ当時、ビートルズを断トツにに聴いていたのだが、それ以外のアーティストだとジャンルを問わずどれも平均的な頻度で聴いていたように思う。ただあの当時は中学生。今のようにアルバムなど買えなかったから、ラジオで流れる曲を聴いていただけで、サム&デイヴのヒット曲といえば『ソウル・マン』しか知らなかった。それでライヴに行ったなんて随分と乱暴な話である。おそらく友人のTがローリング・ストーンズのファンだった関係から黒人音楽も好きだったということで、一緒に行ったのだと思う。ところがステージに現れたサム&デイヴは、自分たちの曲以外の『Dock Of The Bay』『Wonderful World』『You Send Me』『Bring It On Home』『Summertaime』『Let It Be Me』といった馴染みの曲も歌い、聴衆を酔わせたのである。それは当時、多いとは思えない日本のリズム&ブルース・ファンに気を使ってサービス精神でスタンダード曲をライヴに多く取り入れたのであろうが、スタンダード曲でもサム&デイヴ流にアレンジし、さらに2人の絡みが絶妙で実に楽しいライヴであったという記憶がある。
 彼等の曲の大半はアイザック・ヘイズ、デイヴィッド・ポーターが書いていて、曲もさることながら歌詞にも公民権運動が盛り上がっていた時代を象徴する内容が多く、ソウルという言葉が独り歩きした時代でもある。まさにそんな時代の曲が『ソウル・マン』であった。
 ところでサム&デイヴは1981年で実質はデュオを組んでいないが、1988にはデイヴ・プレイターが亡くなってしまい事実上サム&デイヴは消滅してしまった。ただサムことサミュエル・ムーアは最近でも来日してライヴハウスで歌っているから老いてますます盛んというところである。

Hold On I'm Coming


Soul Man

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2013.12.23 (Mon)

ボブ・ディランのデビュー・アルバムを聴く



 ボブ・ディランというと今や大御所。レコード・デビューして既に51年、現在72歳と言うからもうベテランの域を通り越している。でも知名度ほど日本で人気があるかと言うと・・・・・?? マニアックな人にしか受けないシンガーでありソングライターである。と言うと語弊があるかもしれないが、本国のアメリカと比較すると日本での人気はもう一つではないのではと思いつつ今日に至っている。そもそもデビューしたころからそうであるが、日本でボブ・ディランのことが知られるようになったのはボブ・ディランが書いた曲によってである。今のように時代の代弁者、プロテストソングの旗手として崇められていたというのでもなく、今から50年ほど前は一部の洋楽ファン(それもフォーク・ソングのファン)でしか、ボブ・ディランの名前は知られていなかったように思う。それが知られるようになったのは『風に吹かれて』が大ヒットしたからである。それによりボブ・ディランの名前が日本でも知られるようになったというものの、歌っていたのはピーター・ポール&マリーであって、ボブ・ディランの『風に吹かれて』がヒットしたのでもない。しかし、ソングライターとしてのボブ・ディランの名は知られるようになる。殊にその詩の内容が急進的で当時のアメリカの若者に支持されたのである。時は公民権運動が盛んだったころであり、時代の旗手として変わりつつあったアメリカで支持されたのである。それが日本ではどうかとなると、日本のフォーク・ソングはアメリカのフォーク・ソングをカバーすることから始まった。そして当時の日本の学生たちがアメリカで流行っていたフォーク・ソングの楽曲を歌い始めた。『花は何処へ行った』『500マイル』『グリーンフィールズ』『七つの水仙』『悲惨な戦争』『パフ』『虹と共に消えた恋』『レモン・トゥリー』等。

 あの頃、あまり意味も判らず、ただ綺麗な曲を中心に日本の学生は歌っていたのだろう。特にPPM、キングストン・トリオ、ブラザース・フォアといったグループが歌うバージョンに人気があり、当時の日本の学生の大半が彼等のカバーをやっていた。ただ本来アメリカのフォーク・ソングと言うのはプロテスト・ソングとして始まりウディ・ガスリー、ピート・シーガーといった当時の大御所が築いた土台があり、それを受け継ぐような形で出てきたのがボブ・ディランであり、ジョーン・バエズだったような気がする。ただし日本のフォーク学生たちは、個人が歌うフォーク・ソングよりもグループが歌うバージョンをより多くカバーしたのである。何故なら日本はプロテスト・ソングとしてのフォーク・ソングの大きな要素である歌詞の内容よりか、ハーモニー、メロディといった音楽の美しい要素に影響を受け、日本でカレッジ・フォークとして流行っていった背景があるので、ギター一つでしわがれ声で朗々と歌い上げるボブ・ディランはもう一つ人気がなかったのだろう。何しろボブ・ディランが歌うと美しい曲でも美しく聞こえない欠点があった。でもプロテスト・ソングとして、新しい時代の代弁者として当時のアメリカでは支持されたのである。つまり歌詞の意味が直接伝わらない日本人には容易にボブ・ディランの凄味が理解できなかったかもしれない。それは今でもそうであろう。『ライク・ア・ローリング・ストーン』という曲の何処が良いのか判る日本人はどれだけいるだろうか。それほどボブ・ディランの曲と言うのには詩が重要であるということだなのである。もっともお坊ちゃん芸のようなものだった日本のカレッジ・フォークもその後に変わって行き、ボブ・ディランのような過激な歌詞を重要視したフォーク・シンガー(岡林信康、高田渡のような・・・)が何人か出てくるようにはなったが、これらに影響を与えたのが間違いなくボブ・ディランである。

 しかし、ボブ・ディラン本人はそういった自分の詩が勝手に解釈され、運動の象徴として扱われたりすることを嫌い、次第にスタイルを変えていきエレクトリック・サウンドへと変遷するに至り、次第にプロテスト・ソングは消えていく。でもボブ・ディランの曲は『ミスター・タンブリンマン』『イフ・ノット・フォー・ユー』『くよくよするな』『いつまでも若く』等・・・・カバーされるなど、本人の意向とは違ってボブ・ディランの存在はフォーク界のみならずポップス界全体に与える影響力が段々と強くなっていく。そして72歳の今でもボブ・ディランは現役であるが、そんなボブ・ディランが最初に出したアルバムが当アルバムである。

 このデビュー・アルバム『ボブ・ディラン』は1962年3月に発売されたがアメリカでも、ほとんど売れなかった。日本では当然、発売もされてない。ボブ・ディランのアルバムが日本で発売されたのは彼の名が浸透し出した1966年のことで、すでにデビューから4年が経過していたのである。つまりCDになってからボブ・ディランのアルバムがほとんど出回るようになったが、LP盤はほとんど日本ではリリースされなかった。ということは当時は幻のフォーク・シンガー扱いだったのである。名前はアメリカから轟いていたが、ボブ・ディランの曲はさほどラジオでも流れていなかったし、ベールに包まれているような感じだった。実際に私がボブ・ディランの2枚目のアルバム『フリー・ホイリーン』を買ったのはリリースされてから既に6年か7年経ってからのことだったのでよく覚えている。

 さて、このアルバムであるが収録曲は13曲”You’re No Good””Talkin’ New York””In My Time Of Dyin’””Man Of Constant Sorrow””Fixin’ To Die””Pretty Peggy-O””Highway 51””Gospel Plow””Baby, Let me Follow You Down””House Of The Risin’ Sun ””Freight Train Blues ””Song To Woody””See That My Grave Is Kept Clean”でボブ・ディラン自身の曲は3曲しかない。あとは全てトラディショナルか他人の曲ばかり。まだボブ・ディランの本領は発揮されてなく、『朝日のあたる家』『死にかけて』を歌っていた20歳そこそこの頃の録音である。当時からボブ・ディランは美声ではなく故意にしわがれで声で歌っていたのだろうか、とても聴いていて一般受けしない歌い方をしている。しかし、このアルバムで存在感を示したのである。アメリカでも5000枚も売れたかどうかというところであり、一部の人には支持されたのであろう。ところがこのアルバムに収録されている『朝日のあたる家』を聴いたエリック・バートンが、自身のアニマルズのアルバムにカバー曲として収録したことは知れ渡っている。とにかく灰汁の強さはデビューからのもので、日本ではなかなか受け入れられなかったというのも納得せずにはいられない。しかし、このアルバムによりボブ・ディランは大御所としての第一歩を踏み出したのである。

"Talkin' New York"

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2013.11.10 (Sun)

ナンシーシナトラを聴く



 ナンシー・シナトラって誰っと若い方なら思われるかもしれない。無理もない。1940年生まれだから今年で73歳の老人である。でも小生が小学生から中学生の頃にかけて最も人気のある外国の女性シンガーの1人だった。だから恥ずかしながら小生はフランク・シナトラよりも先にナンシー・シナトラの方を知ったのである。最初に名前を聞いたのは小学生の時でザ・ピーナッツが歌う『レモンのキッス』カバー曲のオリジナル歌手がナンシー・シナトラであるということを知ってからである。しかし、大して気にもしなかった。それが1967年だったかナンシー・シナトラの歌が矢鱈と当時のラジオで流れていたのである。

 まず『シュガータウンは恋の町(Sugar Town)』である。♪シューシューシュー、シューシューシュー、シューシューシューシュー、シューシュー、シューガータウンという覚えやすいメロディと歌詞で瞬く間にヒットしたのである。かと思えば直後にはフランク・シナトラとのデュエット曲『恋のひとこと(Somethein’ Stupid)』がヒットした。これもバラード調の覚えやすいメロディで、小生は同じシナトラなのでナンシー・シナトラの夫かと思っていた。それで姉に聞いたら何と親子だというではないか。それも世界的に有名なエンタティナーだという。それで父フランク・シナトラの存在を知ったという訳である。つまりナンシー・シナトラこそ親の七光歌手だったのである。でも親の威光をちゃっかり利用してきっちりヒット曲を連発するあたり並みの七光ではないことを証明したのである。もっとも前年の1966年にフランク・シナトラの『夜のストレンジャー』がヒットしているのにも関わらず、ナンシー・シナトラのことは当時は全く意識していなかったのである。

 さて1967年はナンシーの当たり年だったのか、その後も『007は二度死ぬ(You Only Live Twice)』、『サマー・ワイン』(リー・ヘイゼルウッドとのデュエット)とヒット曲を連発。ところが絶頂期はこの頃までで、それ以降もレコーディングはすれで大ヒットには恵まれなかった。デビュー時は可愛い娘チャン路線で売り出し、途中からセクシー路線へと変わって行ったナンシー・シナトラである。けして美人ではないが何処か小悪魔的な雰囲気があって当時は絶大な人気があったものだ。

 ナンシー・シナトラは父がいわずと知れたフランク・シナトラで母がフランク・シナトラ最初の妻であるナンシー・バルバド。つまり母の名前をそのまま受け継いだのである。西洋ではよくある習慣だが、女の子に母と同じ名を継がす場合もあるのだな。1940年6月8日、ニュージャージー州ジャーシーシティで生まれ、その後、南カリフォルニアに移る。ナンシーはフランクの最初の子で、4歳下に弟のフランクリン、8歳下には妹のクリスティーナがいる。それでナンシーが10歳の時、フランク・シナトラと母ナンシーは離婚してしまうのだった。その頃からナンシーはピアノ、13歳でダンスを習い始め、15歳からは歌と踊りのレッスンを始めたのである。大学は南カリフォルニア大学で経済学を専攻。さらにピアノ、発生、ダンス、ドラマ等の勉強に勤め、父フランクの後を追いかけるようにショウ・ビジネスの世界へ足を踏み入れたのである。そして父の後押しもあって20歳でレコード・デビュー。でも、なかなかヒット曲が出ず、念願のヒット曲『にくい貴方(These Boots Are Made For Wakin’)』(1966年、ビルボード1位)が出るまでに何と15枚のシングル・レコードをリリースしているのである。日本でヒットしカバー曲まで出された『レモンのキッス』は本国アメリカではヒットしなかったのだ。この曲は原曲がポンキエルリの歌劇『ジョコンダ』の中の『時の踊り』のメロディに歌詞をのせただけなのでアメリカでは受けなかったのかもしれない。ただし日本ではメロディが判りやすくヒットしたのである。こうしてヒット曲がいったん出るや、その後の数年はナンシー・シナトラの曲がラジオで流れない日はないほどだった。そういえば当時のシングル盤のレコード・ジャケットを見れば判るように、あの当時のナンシー・シナトラは金髪に染め、ミニ・スカートにブーツ、ジーパン姿ばかり。デビュー当時の清楚な感じからは逸脱し、行け行けネエチャン風でゴーゴーが流行っていた時代に上手く乗ったという感じが現れていた。それが1970年代に入ると再婚(実は20歳の時にナンシーは大学時代からの恋人トミー・サンズと結婚していて65年離婚している)。74年出産。しばらくは家庭に入っていたらしい。それが夫ヒュー・ランバートが亡くなったため再びショウ・ビジネスの世界に戻ってきたという。しかし、日本では彼女の名も段々と忘れ去られていく運命にある。既に他界している父フランク・シナトラは今でもCDは店頭にあるが、娘ナンシーのCDはあまり見かけない。やはり親の七光だったのかなとしかいいようがないが、1960年代中頃はとにかくナンシー・シナトラの人気は物凄いものだった。


Like A Do(レモンのキッス)・・・原曲はポンキエルリ作曲のオペラ『ジョコンダ』からの『時の踊り』である。


Sugar Town(シュガータウンは恋の町)


You Only Live Twice(007は二度死ぬ)


Summer Wine

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