2013.09.29 (Sun)
ザ・ビーチ・ボーイズのアルバム『ペット・サウンズ』を聴く

この『ペット・サウンズ』というアルバムはザ・ビーチ・ボーイズにとって11枚目のアルバムになる。その当時、ビーチ・ボーイズというのは調子のいいサーフィン音楽が主流の曲が多く、音楽的に余り認められてなかったように思う。『サーフィンUSA』『ファン・ファン・ファン』『アイ・ゲット・アラウンド』『サーファー・ガール』何て言う馴染みのある曲があったが、日本で言う湘南サウンドのような音楽であった。もっともビーチ・ボーイズの中心的人物であるブライアン・ウィルソンは南カリフォルニアの出身でサーフィン・ミューシックの申し子でありながら海が怖くてサーフィンなんて一度もやったことがないらしい。この辺りが日本の加山雄三とは大きく違っているところである。
さて、ビーチ・ボーイズというとまず1963年のヒット曲『サーフィンUSA』が挙げられるが、この頃と当アルバム『ペット・サウンズ』は趣が大いに違っている。謂わばそれまでのザ・ビーチ・ボーイズと違っているのだ。最も小生はこの『ペット・サウンズ』がリリースされた1966年頃というのはビーチ・ボーイズなんてあまり興味もなく好きでも嫌いでもなかった。それが同じ年、『グッド・バイブレーション』を聴いて認識が大きく変わったことを覚えている。初めて聴いたとき、「ええ、ビーチ・ボーイズがこんな音楽を作るの」という驚きだった。それは良い方に期待を裏切ったということである。それまでどうでもいいと思っていたビーチ・ボーイズが、この曲で認識が変わっってしまったのである。ちょうどその頃にアルバム『ペット・サウンズ』が出ていたのだろうが、当時はビートルズばかり聴いていたので、ビーチボーイズのアルバムまで手が回らずというところであった。当時はまだ12歳かそこらだったからアルバムなんて当然のように高価なものは買える筈もない。せいぜい小遣いを貯めてシングル盤を買うのが関の山であった。
結局、この『ペット・サウンズ』を全曲聴くのは何と小生が社会人になってからであった。つまりアルバムがリリースされてから10年以上経ていた。それも友人の持っていたものを聴いただけである。ただ風変わりな曲が多いというのと、小学生の頃に聴いていたビーチ・ボーイズ・サウンドというものとは違っていたということである。でもその時はあまり印象に残ってなかった。つまりこのアルバム『ペット・サウンズ』を意識するようになったのは恥ずかしながら、CD時代になって当アルバムを聴きこむようになってからである。要するに20年ほど前のことである。
ビーチ・ボーイズというのはブライアン・ウィルソン、デニス・ウィルソン、カール・ウィルソンの三兄弟が中心メンバーで、後は時代によってメンバーが入れ替わっているのも全時代を通じて興味が持てなかった理由だろう。ただ曲自体はブライアン・ウィルソンが大半を書いていたように思う。それでこの『ペット・サウンズ』がビーチ・ボーイズのビーチ・サウンドから何故に変革したのかというのは、ビートルズの『ラバー・ソウル』に影響をされたからだという。そこでブライアンはそれまでのツアーを辞めスタジオにこもって新しい音楽を模索し、スタジオ・ミュージシャンと共にソロに近い形で録音したという。これはまさしくビートルズが行ったことと同じ試みであった。それでブライアンはビーチ・ボーイズとして本来から定評のあった美しいハーモニーに加え、オルガン、ハープシコード、フルート、自転車のベル、テルミン、犬笛等を駆使してダビングを繰り返し録音している。したがって他のメンバーはヴォーカルおよびコーラスのみとなっている。曲は13曲。この中には『Let’s go away for awhile(少しの間)』『ペットサウンズ』のようなインスルメンタル曲も入っている。
それでこのアルバムが1966年にリリースするわけだが、それまでのビーチ・ボーイズのサウンドとは食い違っていたのかファンはとまどい売り上げの方は芳しくなかったし酷評もされたらしい。結局、此の事がその後のブライアン・ウィルソンの心の傷となって蝕むことになるのだが・・・・・・。でも、このアルバムは玄人筋に評価され、特にビートルズのポール・マッカートニーは影響を受けたと言い、翌年になってあの大傑作『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を生むことになる。ということはビーチ・ボーイズは商業的に成功していたサーフィン・サウンドの頃よりも商業的に成功しなくても『ペット・サウンズ』でこそグループの評価が高まったという皮肉なことになる。
それで今でもビーチ・ボーイズはメンバーを入れ替えて活躍しているのであるが、ほぼブライアン・ウィルソンのバンドと言ってもいいだろう。ブライアンあってのグループであり、ブライアンあっってのビーチ・ボーイズなのである。そこがジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スター誰が欠けてもビートルズとは言えないのとは大いに違っていたということである。一時、ビーチ・ボーイズなんて言うのはグレン・キャンベルまで加わっていたぐらいだ。なので小生もビーチ・ボーイズのメンバーが時代によって、誰が加わっていたのかもよく知らない。ただ絶えず中心にいたのがブライアン・ウィルソンだったということには変わりはない。
『Wouldn't It Be Nice(素敵じゃないか)』を演奏するザ・ビーチ・ボーイズ(1971年)
2013.08.18 (Sun)
ザ・ローリング・ストーンズのアルバム『メイン・ストリートのならず者』を聴く

ローリング・ストーンズのこのアルバムが世に出たのは1972年の5月である。しかし、このアルバムの中からシングルカットされた曲『ダイスをころがせ(Tumbling Dice)』が既に巷に流れていた。ストーズらしいといえばストーンズらしいが、あまり印象に残らなかったというのが当時の印象である。そして、ストーンズの2枚組アルバム『メイン・ストリートのならず者』が発売されたのである。それで当時、小生はどうしたかというと中学、高校と同じクラスになったことのあるT君にアルバムを借りて聴いたのである。T君はビートルズではなくローリング・ストーンズのファンだったので、彼なら買っただろうと勝手に思い込み貸してくれと頼み込んだのだが、アルバムを買ってはいたが「今、聴きこんでいるので待ってくれという」。
彼の話によるとそれまでのアルバム『サタニック・マジェスティーズ』『ベガーズ・バンケット』『レット・イット・ブリード』『スティッキー・フィンガーズ』に比べるととっつきにくく格闘しているという。どういう意味なのかよく判らなかったが、2ヶ月後に貸してもらって聴きこんだら、その意味が何となく判ってきた。2枚組だから曲数が多い。全部で18曲収録されていて、その中に目玉になるようなポップ調の楽曲は一つもないということだった。曲調がブルースぽいものばかりで、そこにカントリーやゴスペルやソウルフルな内容が包括された曲が多く、本来、ブルースを基本としていた音楽づくりをしていたローリング・ストーンズが、よりブルースに徹した曲を集めたという感じがした。なるほど、これではとっつきにくいなあと素直な感想を言って、このアルバムをT君に返却したという想い出がある。つまり黒っぽい音楽に定評のストーンズが徹底して黒っぽくなったといいうことである。とにかく一度聴いただけでは曲が頭の中に一つも残らない曲ばかりだったのだ。シングルカットされた『ダイスをころがせ』にしてもさほど良い曲とも思わないし、何でこんなアルバムをストーンズは送り出したのだろうかと思ったものだ。しかし、後でよく考えたらこれが本来ストーンズがやりたい音楽だったのである。でもヒットチャートにのっかるにはもっと大衆に媚をうる曲もやらないといけないので、よりポップな曲も作っていた。それが『メインストリートのならず者』に関しては、そういった曲作りを明らかにやらず飽くまでも自分たちが本来やりたい音楽だけを収録したのである。
当時、ストーンズはイギリスに住んでいなかった。それはイギリスの高い税金のせいであると主張し、ストーンズのメンバーはフランス南部に居を構えていた。でも良いスタジオがなかなか確保できず、仕方なしにキース・リチャーズの邸宅の地下室で録音されたのである。しかし当時ヘロイン中毒の最中にあったキース・リチャーズに他のメンバーは振り回され録音もなかなか進まなかったという。事実ドラムスのチャーリー・ワッツはが家が遠いということもあり段々と収録に姿を現わせなくなっている。それで代わりにプロデューサーのJ・ミラーがドラムを叩いたり、かつてビートルズのバックでキーボードを弾いていたビリー・プレストンも参加したりしているなど、謂わば色々な仲間が集まり適当にいい加減に曲を作っていたのである。それでいて肩の力が抜け、ルーズでいてラフな曲作りが彼等の真骨頂とするならば、これ以上のストーンズ・サウンドはないのである。
結局、1971年7月から始まったアルバムの収録は簡単に終わらず、1971年の12月から場所をアメリカのロサンジェルスに移し、オーバーダブ・セッションを行うのである。この時には、バック・コーラスを始め、スティール・ギター奏者アル・パーキンス、アップライト・ベース奏者ビル・プラマーをを加え今度は緻密に曲の最終仕上げを行い1972年5月にリリースされるに至ったということである。
やはりアルバム発売当初の評判は良くなかった。それが何時しか評価されるようになり、今ではローリング・ストーンズの最高傑作のアルバムと言われるようになったのである。本当に人の評価というのは時代によって変わるものであり、人の好みも時代によって変わって行く。ただ今聴いても目玉がないなあという印象はある。ただジャズのコンボ演奏にも言えるが、いい加減さが時には名演を生むが、ストーンズの曲作りもそれと似通ったところがある。そこはビートルズとは違うというところだ。まあ、これがローリング・ストーンズというバンドの特色と言えば特色なのだが。ところでこのアルバムに『ハッピー』という曲があるが、これは珍しくキース・リチャーズがヴォーカルを務めている。聴きものではあるが、正直なところあまり上手いとは思えない。
『ダイスをころがせ(Tumbling Dice)』の演奏
2012.12.09 (Sun)
ジョン・レノンの過去のアルバムを聴きながら・・・・・

昨日の12月8日はジョン・レノンの命日である。というよりも仏教の年忌法要でいうところの33回忌(没後32年目)である。もっともジョン・レノンはイギリス人なので関係がないが、妻が日本人の小野洋子であったことから記事にしてみようと思い立ったまでである。
今から32年前の12月8日、ニューヨークのダコタ・ハウス。このダコタ・ハウスには当時ジョン・レノンの自宅があった。この日の午前、ジョン・レノンは雑誌に掲載する写真の撮影に臨み、夕方からは小野洋子の新曲のミックスダウン作業のためレコーディング・スタジオに出かけていた。そして、夜の10時50分、ジョンとヨーコを乗せた車がダコタ・ハウスの前に到着。2人が車から降り立ちすくんだ時、その場にいたマーク・チャップマンという若い男がレノンを呼び止め、持っていた拳銃をジョン・レノンに向けて5発発射。そのうち3、4発がジョン・レノンに命中。数歩進んで倒れる。直ちに警備員は警察署に電話。セントラルパーク署から警官がすぐに到着。ジョン・レノンをパトカーに乗せ近くの病院に搬送。一方、撃った犯人は謎の行動をとっていた。現場から逃げず、手にしていたアルバム『ダブル・ファンタジー』を放り出し、サリンジャーの小説『ライ麦畑でつかまえて』を読んでいたりその場を徘徊したりしていた。マーク・チャップマンは逮捕されても抵抗しなかったという。現在も刑務所で服役中のマーク・チャップマンは元整備工で銃撃の3ヶ月前に『サージェント・ペパーズ』のアルバム・ジャケットでジョンを見て計画をたてたと話している。「彼の顔を見て混乱して自分が誰でもないと感じる私の疑問が解決できるという感覚が同時に心に浮かんだ。それでこう言った『もし、彼を殺せば大したものじゃないか。有名になるし誰でもない人間でなく大物になれるぞ』それがその当時の私の論法だった」「私はその時、ジョンを感知し彼を誠実でないと間違った判断をした。彼は豪華な建物に住み愛とか他のことについてずっと歌っていた。私はこれに腹が立ったんだ」と言い、殺したことに対しては恥じていて後悔しているとアッティカ刑務所において最近は話している。何れにせよマーク・チャップマンが事件当初に言われていたジョン・レノンの熱狂的ファンではなくストーカーをしていたのでもない。ただの狂った男が拳銃を乱射しただけだったのだ。しかしチャップマンが起こした過ちは余りにも大きかったということであり、それ以外の何ものでもなかった。
ところでジョン・レノンの死後32年にあたり思うことであるがビートルズって一体何だ? 今更、問うことでもないが色々なメディアで語られるところによると、ポピュラー音楽の概念を変えたグループ。ロック・グループ、アイドルというジャンルを超越したミュージシャン。20世紀後半のポップス界におけるスーパーグループ・・・・・・・・。そのような解説がなされている。それまで作曲家、作詞家、歌手という分業制が当たり前だった商業音楽の世界をビートルズが出現したことにより、大きく変わっていったことは否めない。自ら曲を作りみずから演奏する。さらには、それまでポップスであまり使わなかった楽器であるヴァイオリンやチェロ、電子音楽、管弦楽を使用。アルバム制作に至ってもだだ曲を集めただけの物から脱皮しコンセプトアルバムのようなものを次から次へ発表して、その後に続くミュージシャンの音楽づくりの模範となった。さらに付け加えるならばファッションからライフスタイル及び言動まで当時の若者に影響を与え続けた。当初はアメリカのロックンロールを踏襲したかのようなビートポップス・グループでしかなったが、やがて4人の個性が突出し始め、ビートルズの音色のようなものが出来上がっていった。それがカリスマ性を発揮し出し、アイドル・グループからミュージシャン、やがてアーティストの域まで階段を駆け上るかのように疾走し、あっという間に消えていったグループがビートルズである。解散から42年経った今でもビートルズの楽曲は売れ続け新たなファンを獲得している。こんな現象はあまり聞かない。ビング・クロスビー、フランク・シナトラは古すぎて比較の対象にさえならないが、エルヴィゥ・プレスリー、バディ・ホリー、チャック・ベリーの楽曲がヒットチャートに登場することはないし、ローリング・ストーンズ、ビーチ・ボーイズ、ボブ・ディラン、レッド・ツェッペリンでさえビートルズと比較するとマニアックなアーティストにすぎないだろう。その昔、ヘビーなサウンドでビートルズのライバルと言われていたデイヴ・クラーク・ファイブというグループがいた。だが曲調が弾みっぱなしで抑揚がなく単調すぎて飽きられていった。それがビートルズは飽きられずに絶えず変化し続けた。結果として僅か実働8年間で解散してしまったのであるが、その中身は余りにも濃いと言わざるを得ない。
さて、そのビートルズの中心的人物であったのがジョン・レノンである。ジョンはビートルズ解散後は妻であるオノ・ヨーコと行動を共にした。何かとジョン・レノンのアルバムに顔を出す。いや既にビートルズのアルバム『Let It Be』のレコーディング中のスタディオには常にオノ・ヨーコの姿があった。このオノ・ヨーコこそがビートルズの解散の要因の一つだと言う人もいた。そうなんだろうか・・・・・・よく判らないが、既にビートルズはその数年前から各自が単独で動き出していた。ただポール・マッカートニーとジョン・レノンとの間にはオノ・ヨーコが出現しようがしまいが何れ隙間風が起こり、それぞれの道を歩むであろうと言うような予測もなりたっていたし、ポールにはリンダが既にいた。彼等はもう夢を追い続け、ロックンロールを歌ってキャーキャーと騒がれ続けるアイドルでも既になかった。それぞれの進むべき道が待っていたとしか言いようがないだろう。
ジョン・レノンがソロに成り、発売したアルバムが今、手元にある。『ジョンの魂』『イマジン』『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』『マインド・ゲームス』『心の壁、愛の橋』『ロックン・ロール』『ダブル・ファンタジー』『ミルク・アンド・ハニー』・・・これらのアルバムに収録されているいくつかの楽曲『マザー』『ゴッド』『ラヴ』『イマジン』『インスタント・カーマ』『パワー・トゥ・ザ・ピープル』『女は世界の奴隷か』『真夜中を突っ走れ』『マインド・ゲームス』『夢の夢/♯9』『ハッピー・クリスマス』『スターティング・オーヴァー』『ウーマン』・・・こうした曲を聴くにつれオノ・ヨーコの影響が少なからずあるという感想を持つに至るのである。ビートルズの終焉が噂されていた頃、ジョン・レノンは結局ビートルズを捨ててオノ・ヨーコを選択したのだ。そして、そのヨーコの影響が少なくともソロになってからの楽曲の変化として主に歌詞に見られるかもしれない。ジョン・レノンはオノ・ヨーコと共にこのあたりから急進的に政治運動に傾斜していく。本来から前衛芸術家であり、活動家でもあったオノ・ヨーコがジョン・レノンとの結婚後はジョン・レノンを伴って反戦文化人として抗議やデモに参加、暴動の被害者救済コンサートを行ったりしてオノ・ヨーコがジョン・レノンに与えたものは少なくないのだ。ジョン・レノンはかつてオノ・ヨーコのことを「世界で最も有名な無名アーティスト。誰もが彼女の名をを知っているが誰も彼女のしていることを知らない」と語るほどオノ・ヨーコの芸術性を高く評価しているのである。こうして時代が進みビートルズは60年代で消滅しジョン・レノンも70年代で消滅するのであるが、私の心の中には未だにジョン・レノンは生き続けている。それと言うのも死や消滅という常套句で片づけられる程度のレベルの範疇にビートルズやジョン・レノンを入れてほしくないと思うからでもあるが、未だにビートルズは何処かしこに居ても楽曲は流れているし、ジョン・レノンの精神を受け継いだアーティストが死後何10年を経てもジョン・レノンの曲をカバーするなりして歌い続けてくれるからである。そして、世界のどこかで今でも『抱きしめたい』『ヘルプ』『イン・マイ・ライフ』『ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー』『平和を我等に』『イマジン』『ハッピー・クリスマス』・・・歌い続けられているのである。
"Jealous Guy"を歌うJohn Lennon
"Instant Karma"歌うJohn Lennon
"Woman"の映像
2012.11.29 (Thu)
アース・ウインド&ファイアーのアルバム『太陽神』を聴く

アース・ウインドアンドファイアーのというとキャリアが長く、デビューは1969年である。最初はジャズドラマーだったモーリス・ホワイトが1969年に結成したソルティ・ペパーズが始まりである。だがほとんど話題にもならず、翌年の1970年にアース・ウインド・ファイアーと改名し拠点を当初のシカゴから西海岸のロサンジェルスに移すのである。メンバーはモーリス・ホワイト、ヴァーダイン・ホワイト、フレッド・ホワイトの兄弟を含めた10人という大所帯。ところがヒットに恵まれず一度解散するのである。何しろこの当時であるが、アース&ファイアーというよく似た名前のオランダのグループが出した『シーズン』という曲が日本で流行り、アース・ウインド&ファイアーと混同されたものである。しかし、名前は似ているがやっている曲はまるで違っている。アース&ファイアーは一発屋であり日本人が好んだ通俗的なポップスをやっていた。しかしアース・ウインド&ファイアーは黒人グループでありソウル、リズム&ブルースを得意としていて、まだファンク何てジャンルが確立されていなかった時代である。そんな時代に一度解散したアース・ウインド&ファイアーが1972年にワーナーからコロンビアにレコード会社を移して再びデビュー。此の時にはフィリップ・ベイリー、ラルフ・ジョンソンなどが加わっていて、1973年に『Head To Sky』でゴールドディスクを獲得、さらには1975年、映画『暗黒への挑戦』の同名サウンドトラック盤が全米アルバムチャートで1位に成り、シングル・カットされた『シャイニング・スター』もヒットチャートで第1位に輝き文字通りアメリカの人気グループとなった。
そして1977年に当アルバムである『太陽神(All’N All)』をリリース。このアルバムの2曲目の曲『宇宙のファンタジー(Fantasy)』が日本でバカ売れ。発売して間もなくしてアッという間に日本で火がつき、今やアース・ウインド&ファイアーと言うと『宇宙のファンタジー』と言うことになってしまった。何故なんか判らないが、アメリカ母国ではあまりヒットしなかったことを考えると、日本人に受ける要素がこの曲には充満していていたのかもしれない。ディスコで盛んに流れラジオからも頻繁に聴かれた『宇宙のファンタジー』である。当時の映画の主題歌やドラマの挿入歌にも使われ、カヴァー曲も日本では発売されたほどである。
一般的に行ってアース・ウインド&ファイアーの代表的ナンバーと言うと翌年に発表され全米でもヒットチャート1位となった『セプテンバー(September)』の方だろう。でも日本においては『宇宙のファンタジー』が断トツで有名である。この曲はモーリス・ホワイト、ヴァーディン・ホワイト兄弟とエディ・デル・バリオの共作によるもので、アース・ウインド&ファイアーのメンバーではないが、当時はフュージョン系のグループであるカルデラのキーボード奏者であった。この人はアルゼンチン出身で、アース・ウインド&ファイアーの曲が黒人特有のソウルフルとはやや違ってラテン調なところもあるのは、エディ・デル・バリオの影響があるのかもしれない。またアルバム全体を通じても『ブラジルの余韻』という曲が鏤められていることと言い、南米音楽との関係は否定できないでいる。このアルバム収録にあたってブラジル出身のミルトン・ナシメントが加わっていて、このアルバム『太陽神』がリズム&ブルースでありソウルであり、ファンクであり、またはラテン的要素もある。つまり、こういった色々な要素が含まれ哀愁漂うメロディも手伝って『宇宙のファンタジー』が日本で大ヒットとなったのかもしれない。結局のところ、この曲がきっかけとなり、日本ではアース・ウインド&ファイアーはすっかり日本での人気グループとなった。その後、来日を頻繁に繰り返し、今世紀に入ってもかつてのディスコ世代のファンに支えられアース・ウインド&ファイアーは来日して公演を行っている。
それではこのアルバムの収録曲を記しておくとする。『太陽の戦士』『宇宙のファンタジー』『市のたつ広場』『銀河の覇者』『ラヴズ・ホリデー』『ブラジルの余韻』『聖なる愛の歌』『マジック・マインド』『ランニン』『ブラジルの余韻』『ビー・エヴァー・ワンダフル』『ウッド・ユー・マインド』『ランニン』『ブラジルの余韻』・・・・・このアルバム収録時のメンバーはと言うとモーリス・ホワイト(ヴォーカル、カリンバ、パーカッション)、ヴァーディン・ホワイト(ヴォーカル、ベース、パーカッション)、フィリップ・ベイリー(ヴォーカル、コンガス、パーカッション)、ラリー・ダン(キーボード、シンセサイザー)、ラルフ・ジョンソン(ドラムス、パーカッション)、アル・マッケイ(ギター、パーカッション)、ジョニー・グラハム(ギター)、アンドリュー・ウールフォーク(サックスフォン、パーカッション)、フレッド・ホワイト(ドラムス、パーカッション)の9人であるが、当然、それ以前と以降ではメンバーの数も顔ぶれも変遷があったのである。バンド結成当初からアース・ウインド&ファイアーはリズムを中心にしたアフリカ音楽を始め、ブルース、ソウル、ジャズに多店、ロック、これらを含めた新しいファンクを生みだしていくのであるが、やがて方向性も変わっていったことは言うまでもないだろう。こういった中でディスコ的な要素が加わっていたのかも知れず、その後の電子音楽を駆使したりしたアース・ウインド&ファイアーの音楽までを小生は知るとところではない。
『宇宙のファンタジー(Fantasy)』を演奏するアース・ウインド&ファイアー
2012.08.10 (Fri)
スポーツ・マーチ傑作集を聴く
若い力/スポーツ・マーチ傑作集
陸上自衛隊中央音楽隊、海上自衛隊東京音楽隊、航空自衛隊航空中央音楽隊

夏真っ盛り、暑くて暑くてやってられないが、テレビの向こう側ではロンドン・オリンピックに加え高校野球も始まった。小生、ほとんどオリンピック中継を観ていないので寝不足になることもないと言いたいが、暑くて寝られないので寝不足気味である。ところで連日、熱戦が繰り広げられるオリンピックに高校野球。中継はほとんど観ていないものの、何かと新聞、テレビがかしましい。新聞はそういった関係の記事ばかりだしテレビも然りである。もっと静かにできないのかよといいたいが、無関心派は話題の外へ追いやられる始末である。でも盛り上がっている中で1人しらけていてもしょうがない。それで中継は観ないものの、スポーツ番組のテーマ曲を集めたCDでも聴いて勝手に盛り上がろうと思い、我が家のCD棚にある昔買ったCDを引っ張り出して聴いていた。
このCDは日本国内で行われたスポーツ大会の行進曲や大会歌、またはテレビのスポーツ番組のテーマ曲ばかりを集めたCDである。それで収録されている曲は何れも有名なものばかり。それで今回はその曲を紹介してみようと思う。でも小生はあまりマーチや吹奏楽は好きではないのだが・・・・・・まあ、いいか。
それでは東京オリンピックのファンファーレ(作曲・今井光也)と『東京オリンピック・マーチ』(作曲・古関裕而) マーチは1964年の東京・オリンピックの選手入場の時に演奏された。この曲を聴くと鈴木文弥アナウンサーの実況がすぐに浮かんでくる。
『スポーツ・ショー行進曲』(作曲・古関裕而) 戦後間もない1946年に作曲された。NHKのスポーツ番組のテーマ曲として定着。
『スポーツ行進曲』(作曲・黛敏郎) 若き日の黛敏郎が日本テレビのスポーツ中継テーマとして作曲。力道山時代のプロレス中継では何時も流れていたな。
行進曲『コバルトの空』(作曲・レイモンド服部) ハワイ出身のレイモンド服部が1951年にラジオ東京(現TBS)のスポーツテーマとして作曲。
『野球大会行進曲』(作曲・山田耕作) 1935年に富田砕花が作詞し山田耕作が作曲して、当時の全国中等野球大会の大会歌として使われた。戦後は行進曲に編曲され、全国高校野球選手権大会の選手入場曲に使われている。
『栄冠は君に輝く』(作曲・古関裕而) 有名な高校野球の大会歌。1949年に加賀大介作詞、古関裕而作曲で今まで歌われ続けている。
『Lights Out March』(作曲・アール・エレソン・マッコイ) このCDには入ってないが、個人的に好きなテーマ曲だったのでここに加えてみた。20世紀初頭に作曲されたアメリカのマーチ。かつてフジテレビ系列のスポーツ番組で使われていた。この曲を聴くとファイティング原田のタイトルマッチや、競馬中継を思い出さずにはいられない。残念がらフジテレビ系列ではこの曲をいつの間にか使わなくなった。
陸上自衛隊中央音楽隊、海上自衛隊東京音楽隊、航空自衛隊航空中央音楽隊

夏真っ盛り、暑くて暑くてやってられないが、テレビの向こう側ではロンドン・オリンピックに加え高校野球も始まった。小生、ほとんどオリンピック中継を観ていないので寝不足になることもないと言いたいが、暑くて寝られないので寝不足気味である。ところで連日、熱戦が繰り広げられるオリンピックに高校野球。中継はほとんど観ていないものの、何かと新聞、テレビがかしましい。新聞はそういった関係の記事ばかりだしテレビも然りである。もっと静かにできないのかよといいたいが、無関心派は話題の外へ追いやられる始末である。でも盛り上がっている中で1人しらけていてもしょうがない。それで中継は観ないものの、スポーツ番組のテーマ曲を集めたCDでも聴いて勝手に盛り上がろうと思い、我が家のCD棚にある昔買ったCDを引っ張り出して聴いていた。
このCDは日本国内で行われたスポーツ大会の行進曲や大会歌、またはテレビのスポーツ番組のテーマ曲ばかりを集めたCDである。それで収録されている曲は何れも有名なものばかり。それで今回はその曲を紹介してみようと思う。でも小生はあまりマーチや吹奏楽は好きではないのだが・・・・・・まあ、いいか。
それでは東京オリンピックのファンファーレ(作曲・今井光也)と『東京オリンピック・マーチ』(作曲・古関裕而) マーチは1964年の東京・オリンピックの選手入場の時に演奏された。この曲を聴くと鈴木文弥アナウンサーの実況がすぐに浮かんでくる。
『スポーツ・ショー行進曲』(作曲・古関裕而) 戦後間もない1946年に作曲された。NHKのスポーツ番組のテーマ曲として定着。
『スポーツ行進曲』(作曲・黛敏郎) 若き日の黛敏郎が日本テレビのスポーツ中継テーマとして作曲。力道山時代のプロレス中継では何時も流れていたな。
行進曲『コバルトの空』(作曲・レイモンド服部) ハワイ出身のレイモンド服部が1951年にラジオ東京(現TBS)のスポーツテーマとして作曲。
『野球大会行進曲』(作曲・山田耕作) 1935年に富田砕花が作詞し山田耕作が作曲して、当時の全国中等野球大会の大会歌として使われた。戦後は行進曲に編曲され、全国高校野球選手権大会の選手入場曲に使われている。
『栄冠は君に輝く』(作曲・古関裕而) 有名な高校野球の大会歌。1949年に加賀大介作詞、古関裕而作曲で今まで歌われ続けている。
『Lights Out March』(作曲・アール・エレソン・マッコイ) このCDには入ってないが、個人的に好きなテーマ曲だったのでここに加えてみた。20世紀初頭に作曲されたアメリカのマーチ。かつてフジテレビ系列のスポーツ番組で使われていた。この曲を聴くとファイティング原田のタイトルマッチや、競馬中継を思い出さずにはいられない。残念がらフジテレビ系列ではこの曲をいつの間にか使わなくなった。
2012.05.09 (Wed)
コニー・フランシスを聴く

私が小学生の頃の話であるが、テレビから色々な歌手が歌う歌が溢れるように流れ出ていた。当時はまだ、演歌、ポップス、ロック、フォーク等のジャンル分けも出来ていなくて単に流行歌で一括されていたように思う。そんな中でも幼い少年の小生にとっても、日本語で歌われる歌の中でも西洋のポップス風な歌は当然のように区別できたものである。あの頃、昭和30年代というのは、まだ日本人がポップスを作曲することは珍しく、そのほとんどが外国の歌を日本語に変えて歌手に歌わせていたというのが現実であった。つまり今でいうところのカバー曲だったのである。でも小学校に入ったばかりの小生は、そんな現実を知る由もない。当時の多くの歌手が歌っていたポップス風な曲は日本の曲であるとばかり思っていた。今思うと滑稽ではある。当時の作曲家の大御所達はポップス風な曲を作らなかったのか、それとも作れなかったのか知らないが、外国風な曲の多くは今から考えると外国のカバー曲だったのである。
あの頃というより、50年代からロカビリー・ブームというものがあって平尾昌章、ミッキー・カーチス、山下啓二郎等がすでに洋楽のカバー曲を歌っていたが60年代の前半はそれがより顕著なものになっていたのだろう。それで当時、テレビを賑わせていた若手歌手たち・・・・ダニー飯田とパラダイス・キング、飯田久彦、鈴木やすし、坂本九、スリー・ファンキーズ、尾藤イサオ、ザ・ピーナッツ、森山加代子、中尾ミエ、伊東ゆかり、園まり、九重祐三子、田代みどり、弘田三枝子・・・・数え上げればきりがない。大勢いたがみんな洋楽のヒット曲を日本語でカバーしていた。しかし、それらを通して小生は聴いていたので、これらの曲が西洋の曲であることは当時は幼かったので理解できてなった。その後に、小生はテレビを離れて楽曲との触れあいはラジオを通すことになり、それまで日本人が歌っていた曲は全て洋楽のカバーだったいうことを知ることとなったのである。 しかしながら、たとえ日本人歌手による日本語のカバーだとしても、その後に洋楽を聴き続ける中で原体験として心の中に生き続けていることは確かであり、今でも幼い頃に聴いたあの日本語のポップスが何気なく歌えるというのは実に貴重な事である。
そんな多くの洋楽カバー曲の中でもっとも当時の女性歌手がカバーした曲はコニー・フランシスの曲ではないかと思う。たとえば代表的なところでは『可愛いベイビー』は中尾ミエ、森山加代子がカバーしていたし、『大人になりたい』は伊東ゆかりがカバーしていた。また『ヴァケイション』は弘田三枝子がカバーしてヒットしたが、それ以外にも伊東ゆかり、金井克子、青山ミチ等が歌い競作となった。つまりコニー・フランシスが歌った楽曲と言うのは日本人好みの曲が多かったのかも知れず、その後の和製ポップスを形成するに至るまでの原点になったかもしれない。でも日本人に愛されたコニー・フランシスの楽曲だが、コニー・フランシス自身はさほど順風満帆であった訳ではない。
コニー・フランシスは1938年にニュージャージーで生まれた。本名をコンチェッタ・ロサ・マリア・フランコネロというイタリア系アメリカ人である。コニー・フランシスの音楽的素養としては3歳の時に父から贈られたアコーディオンが始まりである。ところがこのアコーディオンを弾きこなすようになり、子供向けのショー番組等のテレビに出演することとなり、11歳の時に出演したテレビ番組で芸名がコニー・フランシスになったという。こうしてコニー・フランシスは歌手としてテレビに出演するようになり17歳でレコード・デビュー。が、曲を出せども出せども2年間以上ヒットに恵まれず挫折感を味わうことになる。歌手としての実力もありジュディ・ガーランドの再来と言われたにも関わらずであった。そして、とうとうMGMレコードから最後通牒を突きつけられることとなる。そこで録音されたのが『Who’s Sorry Now?』(1958年)だった。この様な崖っぷちで出した曲がヒットすることとなる。こうしてスターへの階段を駆け上がりだしたコニー・フランシスは出す曲が次から次へとヒットする。『間抜けなキューピッド』(1958年)、『My Happiness』(1958年)、『カラーに口紅』(1959年)、『Amoug My Souvenirs』(1959年)、『ボーイ・ハント』(1961年)、『泣かせないでね』(1962年)、『ヴァケイション』(1962年)、『渚のデート』(1963年)・・・・・・・コニー・フランシスは日本人のイメージからするとアイドル歌手なのかと思いがちだが、実は実力派歌手でレパートリーも広くポップス以外にもカントリー、カンツォーネ、映画音楽、ラテン等のナンバーを得意としていて、アメリカでは幅広い活躍をしていたのである。それが、日本で独自にヒットした『可愛いベイビー』、『大人になりたい』『夢のデイト』『ロリポップ・リップス』や『ヴァケイション』『大人になりたい』等、日本人歌手によてカバーされ、当時、映画にも何本か出演していたのでアメリカのアイドル歌手であるかのようなイメージが強くなったからなのだろう。実際にはコニー・フランシスは多くのアルバムを出していて、日本では未発表の曲も多く、他人のカバーも多数録音しているので是非、聴いてもらいたいと思う。
コニー・フランシスは1960年代半ばまでヒット曲を出し続けるのである。ところが60年代後半になってから取り巻く音楽シーンの変化が大きくなりとうとうヒットチャートからコニー・フランシスは姿を消すこととなる。さらに74年にスキャンダルな事件があり、81年には弟が自宅で殺害されるという出来事もあり、彼女もかれまでかと思われたが、それから間もなく見事にステージに復帰。現在も年老いたとはいえ活動を続けているのである。
コニー・フランシス・ヒット・メロディ
コニー・フランシス『可愛いベイビー』(動画はなし)
コニー・フランシス『ヴァケイション』(動画はなし)