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2012.02.21 (Tue)

ポール・マッカートニーの新アルバム『キス・オン・ザ・ボトム』を聴く

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 以前からポール・マッカートニーがスタンダード・ナンバーばかりをカバーしてアルバムをリリースするとは聞いていた。それがこのほど発売になったので早速買い求めて聴いてみた。そもそもビートルズ時代からカバーはお得意だったポール・マッカートニーである。しかし、これまではほとんどがロックン・ロール・ナンバーがメインのカバーであった。それがこれまでの趣を一新してジャズ・スタンダード・ナンバーのカバーである。これは実に珍しい。収録曲は『手紙でも書こう』『ホーム』『イッツ・オンリー・ア・ペイパー・ムーン』『もう望めない』『グローリー・オブ・ラヴ』『ウィ・スリー』『アクセンチュエイト・ザ・ポジティヴ』『マイ・ヴァレンタイン』『オールウェイズ』『マイ・ヴェリー・グッド・フレンド・ザ・ミルクマン』『バイバイ・ブラック・バード』『ゲット・ユアセルフ・アナザー・フール』『インチ・ワーム』『オンリ-・アワ・ハーツ』の14曲である。

 この曲名群を見て何だと思った方が大半だろう。スタンダードと言ってもほとんど無名な曲ばかりである。3曲目の『イッツ・オンリー・ア・ペイパー・ムーン』以外は知られてない曲ばかり。『ホーム』『オンリー・アワ・ハーツ』の2曲だけは今回ポールがこのアルバムのために書きおろした曲なので当然誰も知る筈がないが、それ以外だと無名曲の羅列である。スタンダードと言っておきながら無名曲が多い。でもこれがこのアルバムのコンセプトらしい。ポール自身が言うには「僕が重視したのは、有名な曲は選ばないということだった。古典的なスタンダードと呼ばれている曲のなかにも、みんなになじみのないものがたくさんある。(そんな曲をカヴァーという形でよみがえらせて)うれしいサプライズをプレゼントしたいという気持ちもあった」ということらしい。

 ポールは子供の頃、アマチュアのジャズ・ミュージシャンだった父ジムの奏でるピアノを楽しみにしていたという。要するに父がよくポールに聴かせていただろう古い曲がメインになっているようだ。そういった頃の思い出がこのアルバムに反映されたといってもいい。ポールの父の世代が歌っていたような古い曲を何時かやりたかったのだそうな。正月に家族や親族が集まってみんなカクテルやベビーチャムを飲みながらポールの父はピアノを弾いて、それをみんなで歌うといった家庭がマッカートニー家だったのである。そういえばポール・マッカートニーはビートルズ時代にもロックン・ロール・ナンバーではない『ザ・テースト・オブ・ハニー』『ティル・ゼア・オブ・ユー』等をアルバムに収録しているから、古い時代を偲ばせるスタンダードも得意としていただろうし、『ベサメムーチョ』なんていうラテン・ナンバーをも歌う姿を映画の中で披露しているぐらいだ。何もロックばかりを聴いていたのでもなく、ジャンルを超えてありとあらゆる曲を聴きこなしていたと捕えるのが正解だろう。だから彼の作曲する曲自体、色んな要素が含まれているのでもある。『イエスタデイ』はどこかバッハを連想するし、その他の曲でもカントリー風あり、ジャズ風あり、ラテン風あり、東洋風あり、それがポール・マッカートニー・サウンドと言えるかもしれない。実に幅が広いと言わざるを得ない。

 ところで今回、このアルバム収録に関わったミュージシャン達であるが、まず女性ジャズ・ピアニストでヴォーカリストのダイアナ・クラール、スティ-ヴィー・ワンダー、エリック・クラプトンがいる。そして、このアルバムをプロデュースした人がトミー・リピューマで、今までジャズ界で活躍していた人であるが、かつて日本のイエロー・マジック・オーケストラを欧米に紹介する功績などでも知られているが、今回のアルバムを制作するにあたり選曲にも加わったらしい。それと、このアルバムではポール・マッカートニーが楽器を弾かず、ヴォーカルに徹しているなどロックでは知ることのできないポール・マッカートニーの一面を垣間見られる一枚となっている。



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2012.02.15 (Wed)

エマーソン・レイク&パーマーのアルバム『タルカス』を聴く

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 1970年代前半に活躍したロック・グループの一つにエマーソン・レイク&パーマーがいた。いたというものの昨年夏、一夜限りの再結成コンサートがロンドンであったらしいが・・・・・。

 このエマーソン・レイク&パーマーというのはキング・クリムゾンにいたグレッグ・レイクとナイスにいたキース・エマーソンの2人が互いのバンドを離脱して、新たにアトミック・ルースターにいたカール・パーマーをドラマーに加えて1970年6月に結成されたロック・グループである。つまり3人のファミリーネームをくっつけただけのグループ名という単純なものである。が、音楽性で言うならば他のロックグループとは大きく違っている。それは何かというとリードギター奏者がいないということ。これが決定的なところであろう。ロックのメロディラインはリードギターが奏でるものというイメージが当時は誰にもこびり付いていたから、EL&Pを初めて聴いたときはちょっと驚いた。それでどういった編成かというとキーボードのキース・エマーソン、ベースのグレッグ・レイク、ドラムスのカール・パーマーという3人編成である。最小編成であるが、同じ頃活躍した3人グループ、グランド・ファンク・レイルロードとは音楽性では180度違っていた。

 さて、EL&Pが結成される以前といっても1年もならないのだが、1969年秋、キング・クリムゾンのアルバム『クリムゾン・キングの宮殿』がビートルズの『アビー・ロード』を追い抜いてアルバム・チャートの1位になったと話題になっていた。その時、キング・クリムゾンでベースとヴォーカルを担当していたのがグレッグ・レイクだった。私は既に『クリムゾン・キングの宮殿』を聴いて気に入っていたので、新しいグループEL&Pも注目していたのである。そして、最初のアルバムが1970年秋に発売され、翌年の1971年の5月、EL&Pの2枚目のアルバムとしてリリースされたのが『タルカス』である。

 ところでタルカスって何だろう? 発売当時に思ったことであるが、急いで辞書で調べたものだ。でも何の意味もないという。キース・エマーソンが突然閃いた単語だというから、辞書にも載っているはずがなかった。アルバム・ジャケットからして変てこな動物が描かれている。この動物がどうやらタルカスらしい。当然、架空の生き物で、アルマジロのようであるがキャタピラーがついている。どうもこのタルカスという架空の動物が火山の中から現れて地上の物を片っ端から破壊しつくして最後には海へ帰っていくというストーリーを音楽で表現しているのである。全20数分の組曲で、噴火、ストーンズ・オブ・イヤーズ、アイコノクラスト、ミサ聖祭、マンティコア、戦場、アクアタルカスからなる。

 全編、シンセサイザーが幅をきかしていて、いわばプログレッシブ・ロックの王道をいく音楽づくりだった。だが当時、私のロック仲間はこういったジャンルのロックが嫌いで、ロックはギターの激しい響きがないと駄目だという者が多く、みんなハードロックを中心に聴いていた。それで私はピンク・フロイドもそうだがEL&Pを聴いているというと不思議がられたものである。でもビート中心になるハードロックよりもより至高な音楽を追求しているものだと思ったが、なかなか彼等には受け入れてもらえなかったものである。

 ところで、このEL&Pが1972年の7月末に来日した。既に夏休みに入っている時期なので聴きに行けると思い早目にチケットを買った。だが、突然、友人に誘われて夏休みに入る直前にアルバイトでためたお金で北海道に行くことにした。勿論、鈍行列車を乗り継いだ貧乏な旅であるが、EL&Pのチケットを買ったことを忘れていた。これだとどうしても予定が重複してしまう。それで仲間の誰かに行く者がいないか打診した。しかし、誰も行くという返事がない。それほど私の周囲はプログレッシブ・ロックを嫌っていたのだ。やむを得ず、私の姉にチケットを渡すと意外にも行くといった。もっとも姉はEL&Pは『展覧会の絵』を聴いて知っていたから馴染みはあったらしい。

 だが、この甲子園球場で行われたEL&Pのコンサートは散々だったとか・・・。姉の話によると聴衆が暴走してコンサートが途中で中止になったらしい。私は行ってないので詳細は知らないが、スタンドで聴いていた1人が球場のフェンスを乗り越えて内野の仮設ステージに走りだしたため、それにつられたのか連鎖反応で多くの聴衆が続いた、これで主催者側は電源を切ってしまったのである。コンサートで酔うのはいいが度を越して暴徒化してしまっては話にならない。当時はまだ海外のロック・バンドへの警備体制が確立されていなかったので無理もないが、EL&Pのメンバーは「日本人は気が狂っている」と言い残して去っていった。

 結局、EL&Pは1980年に解散するまで活動したが、全盛期以外は私は知らないので、彼らのその後を語ろうにも語れないというもどかしさがあるものの、ギタリストのいないロック・バントして確かに彼等は輝いていた。今となっては懐かしい限りだ。

 
 EL&P『タルカス』の演奏(音声のみ) 


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2012.01.29 (Sun)

シュレルズを聴く

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 その昔、シュレルズという黒人の女性コーラス・グループがいた。いたと書いたが今も歌っているかもしれないが詳細は知らない。1960年代前半に最も活躍したグループだから現在だとかなりのお歳である。でも小生はこのシュレルズが歌ってヒットした曲をリアルタイムで聴いていたというのでもない。それなら何故、シュレルズを今回とりあげたかというと、ビートルズが彼女等の曲をカバーしていたからである。

 1966年だったろうか。ビートルズの来日を記念して発売されたアルバムがあって、そのアルバムを高校生の姉が借りてきた。今は手元にないから忘れたが『ステレオ! これがビートルズVol.1』というタイトルのアルバムだったと思う。それは日本で発売されなかったビートルズのデビュー・アルバムの日本版のようなもので、収録曲の中に『Boys』『Baby It’s You』が入っていた。それでこの2曲のオリジナルが共にシュレルズであったということを知るのである。なので当然、小生はシュレルズの曲がヒットを連発していた当時は知るはずもない。しかし、初期のビートルズは他人の曲を頻繁にカバーしていたので、そのオリジナルが矢鱈気になるというのでもあった。そういう理由で小生はシュレルズを後に聴くようになったのである。

 シュレルズというのは1958年にアメリカのニュージャージーで結成された黒人の4人で組織されたコーラス・グループである。メンバーはシャーリー・オーエンス、ビバリー・リー、ドリス・ケナー、エディ・ミッキ・ハリス。彼女達は高校の同級生で、当初はアマチュアとして活動していたが、あるきっかけからレコード・デビューすることとなる。こうしてポケロスという名で活動していたアマチュアのグループがザ・シュレルズと名を変えてプロ・デビューするのだった。デビューから2年間はこれといったヒットに恵まれなかったが、1960年にキャロル・キング、ジェリー・ゴフィンのコンビによる曲『Will You Love Me Tomorrow』が全米1位に輝くのであった。この曲はシュレルズ最大のヒット曲で彼女達の代表曲となり、その後にベン・E・キングやデイブ・メイスン等がカバーしているし、作曲者のキャロル・キングも自身のアルバム『つづれおり』の中に入れている。そして、この曲のシングル盤B面に収められていたのが『Boys』だったのである。

 それから2年後、シュレルズは『Baby It’s You』をヒットさせるのであるが、この曲をビートルズはデビュー・アルバムである『プリーズ・プリーズ・ミー』に前述の『Boys』と共に収録しているのであった。こうして小生はビートルズを通してこれらの曲を知ることとなったのであるが、シュレルズがその後にヒット曲を出したということはほとんどなかったように思う。つまりシュレルズの全盛期は明らかに1960年代前半であったといえよう。でもヒット曲の数こそ少ないとはいえ、その後、多くのミュージシャンが彼女達の曲をカバーしていることからして、与えた影響は多大なものであるといえよう。シュレルズは元々ゴスペルやリズム&ブルースといったところをルーツに持つだけあって、色々な要素を含んだ音楽性に後発のミュージシャンが彼女達の織りなすサウンドに聴き耳を立てたことだろう。それだけにシュレルズは長い商業委音楽の歴史において、特筆すべきグループであることは当然である。残念ながら、その後はヒット曲とも縁がなくなり、70年代以降となるとその名前さえも忘れられてしまったかのような感じがするものの1996年シュレルズは見事にロックの殿堂入りを果たしている。


 『Will You Love Me Tomorrow』を歌うシュレルズ(1964年)


 『Baby It's You』を歌うシュレルズ(動画なし)


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2011.12.24 (Sat)

またまた買ってしまった

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  またまた買ってしまったというのは上の写真にある通りビートルズのアルバム2枚のことである。といってもビートルズのCDを買うのは、それこそ何年振りだろうか。確かレコード盤からコンパクトディスクに時代が代わってから間もなくのことなので、27、8年振りのことではなかろうか。

 ところで小生、洋楽に目覚めたのもビートルズからといっても過言ではない。このことは当ブログにおいて何度も書いてきた。それ以前からラジオを聴いて外国のポップスには興味を持っていたが、実際にレコード盤までを買うにはいたらずであった。それが姉が借りてきたビートルズのシングル盤『抱きしめたい』を昭和39年の春に聴いてからというもの目から鱗が取れたような衝撃が襲ったのである。最初は喧しい音楽だなとしか思わなかったが、とにかく曲が覚えやすく親しめるメロディで且つ旋律に特徴があった。これが所謂ビートルズのポピュラリティーというものだろう。それで小学生の小生はいずれ自分でLP盤を揃えてやると決意したのである。結局、それが叶うのは高校生になってからだったが・・・・・・。

 それ以降、当時、中学生だった姉が片っ端からビートルズのシングル盤を借りてくるのであった。でも借りてくるばかりで買おうともしないのだ。まあ経済的にいって無理ではあったが。当時、シングル盤で330円ほどだったと思う。これだと資金力のない脛かじりの中学生にレコード盤を買えというのも無理な話である。それが中学の卒業間際に姉が小遣いをためていたのだろうかアルバム『ラバー・ソウル』を買ってきた。さらに高校生になったばかりの姉がアルバイトでためた金をつぎ込んでビートルズのアルバムを買ってきたのである。それが『オールディーズ』というベスト・アルバム(LP盤)だった。これは英国で1966年にリリースされた公式な物で、挿入曲は有名な曲ばかり。『シー・ラヴズ・ユー』『フロム・ミー・トゥ・ユー』『恋を抱きしめよう』『ヘルプ!』『ミッシェル』『イエスタデイ』『アイ・フィール・ファイン』『イエロー・サブマリン』『キャント・バイ・ミーラヴ』『バッド・ボーイ』『デイ・トリッパー』『ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』『涙の乗車券』『ペイパーバック・ライター』『エリナー・リグビー』『抱きしめたい』

 しかし、このアルバムはシングル盤だけで出された曲と過去のアルバムに入っていた曲の中で抜粋された曲を集めただけの寄せ集めであるから何か物足りなさを感じたものである。つまり1963年から1966年の間に出された曲を一同に挿入しているので彼らの進化がよく判らない。どうせなら時代順に出されたアルバムを全て聴いてみたいという欲求に駆られたものである。でもその後、姉が買ってきたアルバムは『リボルバー』『フォー・セール』のみ。仕方なく、それ以外のアルバムは小生が全て揃えたことになる。とにかく当時、LP盤は高価だった。『ホワイト・アルバム』(2枚組)なんか3900円もしたからな。今の3900円ではないよ。1969年当時の3900円であるから今の感覚だと1万5、6000円ぐらいに値するかもしれない。喫茶店でコーヒーが80円とか100円だったし、電車賃も今の3分の1ぐらいだった。京都の市電はどこまで乗っても25円だった時代であったから当時のレコード盤というのは今のCDよりも高価だったのである。

 さて、ここまで書いてきて本論に入ろう。ここまでだとタイトルのまたまた買ってしまったの回答に成っていない。小生はビートルズのアルバムはLP盤もCDも全て持っている筈であった。だが最近、調べてみると何故か『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』『レット・イット・ビー』のCDが無いのである。LP盤はあるが残念ながらレコードプレーヤーが無いのでLPを聴くことが出来ない。それで揃えておかなくてはならないなと思い立ったばかりである。それが運良く大型CD店でビートルズの輸入盤が1500円で売っていたのでまたまた買ってしまったという結末である。

 それなら何故ないのかということになるが、おそらく小生は昔から人にレコードや本をよく貸していたので、それっきり返ってこないといったことがあったから手元にないのに在るつもりでいたからかもしれない。もっとも『レット・イット・ビー』のCDが無いのは姉が黙って持っていったからだということは判っている。過去にも小生のCDを借りていって、それっきりというものが多いから本人は借りたことも忘れているかもしれない。最近あまり音楽を聴かなくなった姉であるが、青春時代の産物ビートルズと、モーツァルトの25番、バッハの曲だけは今かnでもよく聴くらしい。モーツァルトの25番のシンフォニーなんか映画『アマデウス』を観てから好きになったくせに、サウンドトラックのネヴィル・マリナー、アカデミー室内管弦楽団盤は聴かないときているから質が悪い。それで一度聴かせてやったクリストファー・ホグウッド、エンシェント室内管弦楽団盤の方を気に入り、知らぬ間に小生のCD棚から消えているから始末が悪い。小生もこのホグウッド盤を一番気に入っているのだが、もう店頭になく廃盤になっているから手に入らない(BOXでは出ているのだが高い)。だから姉が返してくれるのを待つしかないのだが、姉は忘れっぽいし物持ちが悪いから無くしたかもしれない。我が姉ながら本当に困ったものだ。

 話が脱線したが修正するとしよう。両アルバムについては今更、語ることでもないがビートルズの代表的コンセプト・アルバムと言われる『サージェント・ペパーズ』については言葉がいくらあっても語りつくせるものではない。このアルバムが出た1967年当初、ラジオでアルバムの収録曲を裏表全て流していて、初めて聴いたとき変わった曲ばかりでとっつきにくかったことを覚えている。一般的に難解だとも言われていたような気がする。シングルカットされた曲は1曲もなくアルバム全体が一つのテーマになっているかのようで、世界初の試みだと言われた実験的アルバムであった。このアルバムは是か非かで別れたが小生はビートルズの中で一番好きなアルバムである。その中で最後に収められている『A Day In The Life』を当ブログのタイトルに頂いたことは言うまでもないが・・・・。

 アルバム『レット・イット・ビー』はあまり好きなアルバムではない。ビートルズの解散が濃厚になった1970年春に出されたアルバムである。小生は高校生になっていた。すぐに買ったが2枚組でもないのに分厚いアルバムだなと思って買ってから開封したら、ビートルズ4人の収録シーンを集めた写真集が内包されていたのである。このアルバムは1番最後に出されたが収録は『アビィ・ロード』よりも早く出来の方はもう一つである。でも収録曲の『Let It Be』を好きな人は若い人を中心に多いようだ。小生はあまり好きな曲ではないのだが・・・。


The Beatles『A Day In The Life』(動画はなし)


The Beatles『Let It Be』

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2011.11.19 (Sat)

ベン・E・キングの面白いアルバムを見つけた

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 ベン・E・キングという黒人のソウル・シンガーがいる。いや、昨今ではほとんど表舞台に出てこないので知る人ぞ知るというところだ。でも洋楽を少しでも聴きかじったことのある人なら『スタンド・バイ・ミー』という曲を一度は聴いたことがあるだろう。1961年の大ヒット曲でベン・E・キングが歌っていた。ところが、この曲はその後に独り歩きし、後年に世界中の多くの人によってカバーされ続け、現在では400バージョンあるらしい。これは広いポップス界において史上2番目の多さだという(1位はビートルズの『イエスタデイ』で1000バージョン以上)。日本でも園まりが歌っていたことがある。つまり、そのスタンダード・ナンバーの『スタンド・バイ・ミー』のオリジナル版を歌っていたシンガーがベン・E・キングなのである。世界中のミュージシャンが歌い続け、現在でもどこかで誰かが『スタンド・バイ・ミー』をレコーディングしているという現実。あのジョン・レノンがビートルズ解散後に歌っていたので尚、この曲を有名にしたのだが、その後に同名の映画が上映され、その主題曲としても取り上げられさらに有名になった感がある。

 これでベン・E・キングはどのような人か判っただろうが、もっと詳しく言うならば、ベン・E・キングはザ・ドリフターズのリード・シンガーであった。ここでいうドリフターズは勿論、いかりや長介、加藤茶、高木ブー、仲本工事、志村けん、荒井注のドリフターズではなく、1950年代から1960年代にアメリカで活躍した黒人のコーラス・グループのことである。実はドリフターズは現在でも活動をしているのだが、全盛期はベン・E・キングがいた1958年から1960年ということになる。そして、ちょうどそのころに『ラストダンスは私に(Save The Last Dance For Me)』(全米ヒット・チャート1位)を出している。

 ドリフターズを脱退してソロになり大ヒット曲『スタンド・バイ・ミー』をベン・E・キングを出したのであるが、70歳を過ぎた今でも彼は現役である。そして今回、面白いアルバムを出したようである。CD店で物色していて偶然見つけたのが、このアルバムである。

 収録曲は『上を向いて歩こう』『どこまでも行こう』『スタンド・バイ・ミー(日本語バージョン)』『ラストダンスは私に』『オン・ブロードウェイ』『渚のボードウォーク』『アワ・ハウス・アンド・ファミリー』『アイ・ミス・ユー』『グッドナイト・ベイビー(英語バージョン)』、そしてオリジナルの『スタンド・バイ・ミー』である。

 実は親日家であるベン・E・キングが3月11日に起こった東日本大震災の悲報に胸を傷め、日本への思いを込めて特別に録音したアルバムなのである。

 『上を向いて歩こう』は当然、誰もが知っている坂本九の大ヒット曲。1963年に全米ヒットチャートで1位となった日本の曲。何故、この曲が全米でヒットチャート1位になったかは色々と訳がある。でもここでは詳しくは書かない。でも何れ記事にすると思うが、そもそもはケニー・ボールというイギリスのジャズメンが坂本九のオリジナルをカバーして『SUKIYAKI』という曲でリリースしたことが発端であるとだけ書いておこう。当アルバムでは日本語で歌われている。

 2曲目は『どこまでも行こう』で、これも日本の曲。かつて山崎唯がCМで歌っていた。3曲目は『スタンド・バイ・ミー』の日本語バージョン。自身のヒット曲を日本語で歌っている。4曲目は『ラスとダンスは私に』で、かつてドリフターズ時代に大ヒットした曲を収録している。5、6、7、8、10曲目は自身が脱退した後のドリフターズのヒット曲と今回のアルバム用の曲である。9曲目は『グッドナイト・ベイビー』とまたまた日本の曲。1968年にザ・キングトーンズで大ヒットしたが、これを英語でベン・E・キングが歌っている。そしておまけとして1961年に収録されたベン・E・キングのオリジナル版『スタンド・バイ・ミー』が収められ彩りを与えている。しかし、まあ風変わりなアルバムではあるが、企画としては面白いかも。興味ある人は一度、聴かれてみては・・・・・・。


 ザ・ドリフターズ『ラストダンス私に』(動画はなし)


 『スタンド・バイ・ミー』を歌うベン・E・キング


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2011.10.16 (Sun)

マリアンヌ・フェイスフルを聴く

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 長い間、記事らしい記事を書いてないので、更新の仕方も忘れてしまったな。それで久々に趣味の記事でも書くことにした。でも、まだ目の充血が完全に治癒したわけでもない。もう少し治療は必要になるのだろうが随分と時間がかかるものだ。しかし、痒みはおさまってきたし赤みはほぼ取れて来たのでそろそろ更新を再開してもいいだろう。とはいうものの週一回ぐらいの更新で暫くは進むと思うが・・・・・・。それで今回、はマリアンヌ・フェイスフルである。

 マリアンヌ・フェイスフルといっても若い人はさっぱりイメージできないかもしれない。だが、我々の年代にとってはアイドル的なルックスと清廉な歌声で一部の洋楽ファンにはカルト的人気があった。今でも映画に出ているし歌っているが、残念ながら昔日の面影は何処にもなく、今の彼女を見る限りただ色気のある肥ったおばさんがしわがれ声で何やら歌っているなあといった風にしか見えない。よくもまあ、同じ人がこれだけ変われるものだと呆れかえるが女性に何時までも若い時のままであってくれと願うのは無理か・・・・・・・。まあ、彼女も色々な遍歴があり過ぎたのでここまで変わり果てたのだろうが、そのことはあまり書きたくはない。

 マリアンヌ・フェイスフルは1946年12月、ロンドンで生まれたイギリス女性である。父は大学教授、母はオーストリアの貴族出身というから血筋はいい。しかしながら彼女が幼い時に両親が離婚し、マリアンヌは修道院に入れられそこで育つ。ところが17歳で美術商ジョン・ダンバーと結婚(妊娠したため)。でもジョン・ダンバーこそが、その後の彼女の運命を変えることとなる。夫のジョン・ダンバーは彼女と知り合う以前から当時、人気絶頂のザ・ローリング・ストーンズのマネージャーと知り合いだったため、とあるパーティーに出席。そこでミック・ジャガーと知り合うこととなる。

 こうしてマリアンヌ・フェイスフルは歌手デビューすることとなり、私生活ではミック・ジャガーの恋人となる。勿論、彼女は夫と一児の母であるからミック・ジャガーと不倫をしていたのだが・・・・・・そんなスキャンダルは当時、小学生だった小生の知るところではない。それで彼女のデビュー曲はというと『As Tears Go By』邦題で『涙あふれて』である。これは1964年6月にイギリスでリリースされいきなりヒットした。とにかく愛くるしい顔と可愛らしい声で男性ファンを魅了したのである。この曲はご存じのとおりローリング・ストーンズのミック・ジャガーとキース・リチャーズの共作によるもので、彼女のデビュー曲にと2人が曲を書いたのであるが、後にストーンズ自身も歌っている。

 ところでこの曲が歌われていた当時、小生はマリアンヌ・フェイスフルのことはあまり知らなかった。曲自体は知っていたもののレコード・ジャケットを見たことがが在るわけではないし、彼女のただラジオから流れてくる『As Tears Go By』に聴き惚れていただけである。その後、彼女のことも忘れていた。その間、小生は小学生から中学生になり、より洋楽にはまっていた。それと同時に映画をよく観に行くようにもなっていた。そんなとき、マリアンヌ・フェイスフル主演の映画『あの胸にもういちど』を観たのである。

 主演の女優がマリアンヌ・フェイスフルと聞いて、数年前にミック・ジャガーの恋人として『As Tears Go By』を歌っていた彼女を思い出したのである。こうしてスクリーンに目を凝らしたのであるが・・・・・・・・・・それまで彼女が、こんなに可愛らしい人だったとは知らなかったのである。映画はハイデルベルクにいる不倫相手の大学教授のアラン・ドロンに会いに行くため大型バイクに跨ってマリアンヌ・フェイスフルが疾走するというものであるが、マリアンヌ・フェイスフルが黒皮のライダースーツに身を包み、長い髪をなびかして大型バイクに跨って走る姿は美しく、小生は彼女の虜になったものである。

 映画そのものはとりたててて特筆すべき作品ではないが、このマリアンヌ・フェイスフルが可憐でセクシーで、ただ彼女の存在を強調するだけのための映画であったように思う。実際にこの映画のマリアンヌ・フェイスフルは可愛くてセクシーであることから、『ルパン三世』の峰不二子のモデルケースだともいわれ一部のファンに語り継がれていることは確かである。

 ところで残念ながらマリアンヌ・フェイスフルはその可憐な風貌とは違って私生活ではスキャンダル塗れで、女優としてもアイドル歌手としても生命は短かったといえよう。その後、薬に溺れ男性不信からレズビアンになったとの噂も流れアルコール中毒にもなったという。しかしながら、現在は波乱な人生経験を積んだ挙句、すっかり貫録もつき、若い頃の美貌はすっかり消え失せ、しわがれ声で映画にも出ているし歌も歌っている。でも、小生は高校の頃に可愛かった娘がウン10年経つと変わり果てた姿に成って失望したというのと同様、今はその映像も見たくはない。若い頃の淡い思い出は何時までも心の中に残しておきたいものであるから尚更、今のマリアンヌ・フェイスフルは見たくないのである。


 『As Tears Go By』を歌うマリアンヌ・フェイスフル。



 映画『あの胸にもういちど』だが、マリアンヌ・フェイスフルはライダースーツで登場。アニメ『ルパン三世』の峰不二子のモデルケースとも言われたのも仕方がない。


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