2012.10.26 (Fri)
中勘助の『銀の匙』を読む
最近はこの明治時代末期から大正時代初期に書かれた小説『銀の匙』がけっこう話題に成っている。2003年に岩波書店が行った『読者が選ぶ〈私の好きな岩波文庫100〉』キャンペーンにおいて『銀の匙』は夏目漱石の『こころ』『坊っちゃん』に次いで第3位に選ばれたという。また超進学校として名高い神戸の灘中学校では、国語の橋本武教諭が教科書代わりに教材として使い進学実績を飛躍的に伸ばし一躍『銀の匙』が有名になった。この授業はどのようなものかというと、1934年、東京高等師範学校を出た橋本武は私立の灘中学校に国語教師として赴任。その頃の教え子には遠藤周作がいる。戦後、新制になった1950年に教師歴10年を越えた橋本武はある試みをする。それは教科書を使わず、中学校の3年間を通して中勘助の小説『銀の匙』を一冊読みあげる授業であった。
ただ単に作品を読破して読解力を高めるだけではなく、作品に深く入り込んで作品の出来や主人公の心情の追体験等も重視し、授業ごとに配布するプリントには頻繁に横道に逸れる仕掛けが施されていて、多角的に色々な方向へ興味を促がす工夫が成されていたという。当時、その授業を見学した山岸徳平(東京教育大学教授)が、横道へそれ過ぎではないかと批判したというが、橋本武は当初からそれが目的だったようである。結果としてこの授業を受けた最初の生徒たちの中から6年後に東大に15名が合格したのである。その後はトントン拍子に灘中学校、高校が超進学校への道を歩み出したことはいうまでもない。しかしながら、橋本武の目的は生徒を東大に合格させるのではなく、結果としてそのようになったと1984年に灘校を退任した橋本武本人は説明している。
さてさて、ここでその教材として利用された小説『銀の匙』とはどういうものかということになるが、この小説は著者中勘助自身の自伝的小説であるとされる。主人公の私は本箱の引き出しに昔からしまってある小箱の中から銀の匙を見つけ、そこから回想に入る。この銀の匙は幼い頃に茶ダンスで見つけ母に「これをください」といったところ、「大事にとっておおきなさい」といわれ、それ以来、今まで大事にしてきた物である。この匙にいわば幼い日の想い出がこびりついているものであり、伯母と過ごしたあの日の数々が蘇ってくるのである。主人公は生まれるとき難産で、元来からひ弱で生まれるとまもなく腫物が酷く、それこそ頭から顔など一面に吹き出物があり漢方の先生にお世話に成り続けていた。漢方の先生は腫物を内攻させないため毎日、真っ黒な煉薬と烏犀角を飲ませていた。だが、幼い子に飲ませるには普通の匙では具合が悪いので伯母がどこからか小さな匙を見つけてきて、始終薬を含ませてくれたのだという話を聞き、銀の匙を今まで大事に保管していたのである。いわば銀の匙は主人公と伯母さんを繋げる想い出の物だった。伯母さんは私を育てるのがこの世に生きている唯一の楽しみだった。家はなし、子はなし、年はとってるし、何の楽しみもなかった伯母。そして伯母に何もかも頼り切っている私こと主人公。なにしろ何処に行くにも伯母の背中にかじりついている有様であった。そんな幼い日の記憶を鮮明に、子供が書いたかのような目線で描ききっているので夏目漱石が高く評価し、中勘助の『銀の匙』は陽の目を見るようになったのである。これほど大人になっても子供が書いているような文体を知らないと漱石は価値を認めたのである。この作品の独創性を誰よりも強く感じたらしい。
小説『銀の匙』は前篇、後編とに分かれるが、前篇は中勘助が27歳の時、後編はその翌年に書かれたものである。前篇は伯母との想い出が大部分を形成し、後編は小学校から生意気盛りの中学生までの記述である。私は東京の神田で出まれた。伯母は私を縁日やお寺、神社によく連れて行ってくれた。やがて私の家は神田から小石川へと引っ越した。小石川は田舎で、私は新しい環境で色んな経験をする。隣に住んでいるお国さんと友達になった。私はお国さんが初めての友達で、それも女の子であった。やがて二人は仲好くなるが、お国さんは小学校へ上がろうとする。私も小学校へ上がらなけらばんらないが、私は小学校へ行くことを拒んだのである。それでも伯母さんのとりなしで小学校へ行くようになる。このようになにかと私のそばには何時も伯母さんがいたのだった。
後編になると当初は伯母さんは出てこないが、白眉ともいえる伯母さんと再会するところがある。幼い日に我が子以上に可愛がってくれた伯母との再会であるが、伯母は目を悪くしていたので再会してもすぐには私とは判らなかった。私と判ると伯母は涙を流して喜んだ。私は伯母にとっては自慢の甥であったのだ。それから伯母はまもなくして死んだのである。つまり全編通して伯母さんと言うのは小説の中の最も重要な人物であり、瓶の匙は伯母さんと共に生きていると言えよう。また、これら全編が自らの想い出話でありまた美しい散文でもある。しかし、中勘助は青年の頃は詩や歌を愛読していて散文形式の書物には関心がなかったようである。それが大学で英文科から国文科に転じ、そこから散文を書くようになったみたいだが、ほとんど誰からの影響も受けず詩の形式によって独自の世界を表現することであったという。そういった形で描き切ったのが『銀の匙』であろう。
結局、このような新鮮な文体を書いたところ、他の作家に見られない独自性と言うのが教材として使った灘校の橋本教諭の意図するところであったかもしれない。主人公の揺れ動く心を汲み取るには子供しかわからない部分がある。でも小説は大人になってから書いたものがほとんどであり、実際に中学生には判りがたい部分がある。それが中勘助の『銀の匙』にいたっては子供から見た印象をありのまま描いたような表現がいたるところに点在している。そういった感受性を認知出来る中学生の教材としては最適であると感じとれたのかもしれない。まさしく大人は自分が子供であったことを忘れているといったことを思い起こさせる小説である。
2012.03.07 (Wed)
芥川龍之介・・・・・『蜘蛛の糸』を読む
子供の頃といっても小学生の高学年になっていただろうか。芥川龍之介の短編集を読んだものだ。とはいっても芥川龍之介の作品のほとんどは短編なんであるが、小学生にとって長編小説というのは荷が重いというかとても読みこなせない。そこで芥川龍之介の作品群が登場するのであるが、読書慣れしていない小学生にとって、芥川の短編小説はちょうどいい教材だったのかもしれない。また学校の方でも夏休みの読書感想文用に芥川龍之介の小説の幾つが指定図書にリストアップされていたものだ。たとえば『羅生門』『鼻』『芋粥』『地獄変』『杜氏春』『藪の中』『トロッコ』『河童』『歯車』・・・・・といった著名な小説がある。これらの多くは当時の小学生が読むように教師から薦められ読んだものである。各自、理解できるかどうかは個人差があるので推し量ることが出来ないが、こういう私も芥川龍之介の小説は短編とはいえ理解していたとは言い難い。つまり短編が多いが、その短い小説の中にも中身が濃いというか長編にも匹敵するほど多くの意味が凝縮されているので、小説の大意とするもの意図とするものが判りにくかったというのが本音である。
そんな中でよく覚えている短編が一つある。それが『蜘蛛の糸』である。文庫本にしてたったの5ページにしかならない小説。でも、とても短い小説の中にも、籠められている意味が成長途上の少年の心に突き刺さるかのように心の中に入ってきたものである。あらすじを言うと・・・・・お釈迦さまがあるとき、極楽の蓮池を通して遥か下にある地獄を覗いてみた。その地獄には多くの罪人たちが苦しみもがいているのであった。そんな中に犍陀多(カンダタ)という男が目に留まったのである。カンダタは生前に人を殺したり放火をしたり色々と悪事を働いたのだが、それでもたった一つ善いことをしたのだった。それは小さな蜘蛛を踏み殺そうとしたが思いとどまり命を助けてやったということであった。お釈迦様はそれを思い出し、それだけの善いことをしたのならカダタを地獄から救い出してあげようと一本の蜘蛛の糸を地獄へ下ろしたのである。
ある日、ガンダタは自分の頭の上に銀色に光った蜘蛛の糸が垂れ下がっているのが眼に入り、この糸を辿っていけばきっと地獄から這い上がれ、うまくいくと極楽にも行けるかもしれないと考え蜘蛛の糸を昇り始めたのである。どんどんと昇っていくのであるが、地獄と極楽の間には何万里もある。流石に罪人のガダタも疲れ果て一休みするつもりで糸にぶら下りながら下を見たのである。一生懸命昇ってきた甲斐があって血の池も針の山も遠ざかってしまい、このまま昇っていけば地獄から抜け出すのも存外わけがないと思い「しめた。しめた」と笑ったのである。ところがふと気がつくと、下からは自分が昇ってきた蜘蛛の糸を罪人どもが蟻の行列のように続いて昇っているのである。このままでは蜘蛛糸が重さに耐えきれず切れてしまうだろう。ガンダタは恐れて「この蜘蛛糸は己のものだぞ。下りろ下りろ」と喚いたのである。すると、その瞬間に糸は切れてしまいガンダタは再び地獄に落ちてしまったのである。
以上が『蜘蛛の糸』のあらすじである。簡潔な小説であるが、この中には色々な意味が込められていると思う。人間には善人と悪人がいる。何処で区切るかは難しいが、殺人や放火をしているからガンダタは悪人なのだろう。それで罪人として地獄に落とされた。でも一度だけ善い事をした。それが蜘蛛を踏みつけようとせずに助けたということ。それで一度、地獄から這いあがれるチャンスを与えたということ。罪人の中にも善の心は持っている。その心さえあれば改心出来るチャンスはあるので苦行の末に地獄から這いあがらせてあげようというものか・・・・・・。しかし、ガンダタが自分のあとから糸を昇って来るのを見て、糸が切れては大変だ。糸は俺のものだ。と喚いた瞬間に利己的な欲求だけが込み上げてきた。釈迦はそれを見て、再びガンダタを地獄に追いやった。つまり他人を思いやる心と利己的な欲求は表裏一体であるものの、自分だけが助かろうと身勝手な思いが勝った瞬間、ガンダタは地獄に舞い戻っている。釈迦がどれだけ慈悲の心を持とうとも受け取る側の人の精神が腐敗しているとご加護を受けることが出来ないということなのか。
この短編小説の言わんとするところは凡そそのようなものかもしれないが、実はもっと深い意味がそこには込められているかもしれない。残念ながら小生の読解力では判りかねるが、世の中のほとんどの人間の持つ醜さというものは罪人ガンダタと大して変わらない。もし、自分とてガンダタと同じような状況に追い込まれたならば、ガンダタと同様にこれは俺の糸だと叫ぶであろう。ガンダタがけして愚かな奴だなんて思えないし彼が自業自得だなんて笑えない。おそらく人間の本質というものはガンダタのようなものだと思う。
人間には色々な煩悩が多い。煩悩は我執から生ずる。その煩悩を捨て去り、無我な境地に昇りついてこそ仏の心が宿るのだとしたら、我々、凡庸な人間たちは全て地獄から這いあがることなどで出来ないのではないだろうか。結局のところガンダタという罪人は世俗の人間そのものではないのか・・・・・・。つまり世の中に生きるほとんどの欲深い人間の姿なのかも。
2012.02.04 (Sat)
『小澤征爾さんと音楽について、話をする』小澤征爾×村上春樹を読む
対談集を読むことなんてあまりないのだが、これまで音楽について語ることがなかった日本の代表的指揮者小澤征爾と現役日本人作家で最もノーベル文学賞に近いと言われる村上春樹が音楽について語るというタイトルに惹かれて一気に読んでしまった。この対談集は正月に読んだのだけれども、これまで忙しさに翻弄されてブログにアップ出来なかった。だが、このまま記事にしないで放っておくのも勿体ないと考え、今頃になってようやく記事にしたまでである。
ところで小澤征爾はこの数年、体調が悪く食道癌の手術を受け音楽活動も大幅に縮小するにいたった訳であり、その療養とリハビリテーションの間に少しずつ対談が行われたようである。そこで売れっ子作家で音楽好きの村上春樹が小澤征爾から話を引き出す形で対談が進んでいく。これまで村上春樹は小説を読んでいても音楽の造詣は深いことは判るが、この対談集を読んでみて思ったのは、私の想像以上に多くの数のレコードやCDを聴きこんでいることが判明したのであり、また、それに応えるかのように小澤征爾が色々な裏話を含めこれまで活字ないなるようなこともなかった事まで語っているので実に興味深い対談集であった。
たとえばカラヤンとバーンスタインとの違い。グレン・グールドのこと。サイトウ・キネン・オーケストラのこと。マーラーの音楽に出会ったときのこと。カルロス・クライバーのこと。オペラとの出会いとブーイング等・・・・・。
小澤征爾は若い頃、シャルル・ミュンシュやレナード・バーンスタイン、ヘルベルト・フォン・カラヤンに従えた指揮者であり、トロント交響楽団、サンフランシスコ交響楽団、ボストン交響楽団といったオーケストラで常任指揮者および音楽監督を務め、その後にウィーン国立歌劇場で音楽監督と、その略歴は大指揮者そのものである。一方、村上春樹は『ノルウェイの森』『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』『1Q84』等の小説で知られているが、大学を出てからジャズ喫茶を経営していたことは一般的にあまり知られていない。つまりジャズに関しては玄人だしクラシックも同様である。でも本来は我が家からそう遠くない京都の西山光明寺(当ブログでも以前に紹介した)で祖父が住職をしていたこともあるという家庭(高校は神戸高校、大学は早稲田だが)。なので私も身近に感じる作家ではある。数年前にはフランツ・カフカ賞を受賞するなど日本人作家としては今、もっとも世界で名が知れ渡っていることは間違いない。そういった国際的に有名人2人が行った対談である。
小澤征爾は桐朋学園短期大学を出てすぐに貨物船に乗り込み単身でフランスへ渡り、1959年見事にブザンソン国際指揮者コンクールで第1位を獲得したことは彼の著書に書いてあるが、その後から現在まであまり自らを語ることはなかったので、この対談集で小澤征爾の半生を知ることもできるし音楽に対してのポリシーみたいなものが判り易く伝わってくる。それと言うのも音楽に関しては評論家真っ青ともいうべき村上春樹が独自のとらえ方で小澤征爾からうまく話を引き出している。所謂、プロの音楽家としての小澤と飽くまでも聴き手としてファンとしての村上が語る音楽へのアプローチの仕方が実に面白いのである。
それと驚いたのが小澤征爾がジャズやブルースが好きだっていうこと・・・・。シカゴの滞在中、週に3日、4日はブルースを聴きにクラブに通っていたらしい。ニューヨークでは黒人のヴァイオリン奏者にハーレムのジャズクラブに連れて行ってもらったとか。秋吉敏子もよく聴いたとも言っている。そして一番驚いたのが1964年、アメリカに来演中だったビートルズの生演奏をシカゴで聴いたらしいが、観衆が叫びまくって音楽が何一つ聴こえなかったと(笑)。また意外と言えば意外だったのは小澤征爾が森進一、藤圭子をよく聴くということ。いや、驚きの連続で、これまで指揮台でタクトを持ってベートーヴェンやブラームス、ラヴェル、マーラー、『エフゲニー・オネーギン』『マダム・バタフライ』を振っている姿しか判らないが、これだけ色々なことを語ると小澤征爾という人間が妙に身近な人として思えるようになってきたから面白い。それと共に村上春樹の音楽好きは筋金入りだという事実。これまで私が思っていた村上春樹像というのも考え直さなければならなくなった。私もこれまでジャンルを問わずに音楽を聴きこんでいたことは自負していたが、この人の聴きこみは想像以上。作家と言う職業柄、自宅にいて音楽を聴く時間を作ろうと思えが作れるであろうが、ここまでジャンルに拘らずに聴きこんでいる人も滅多にいないだろう。とにかく2人とも対談から意外な一面が垣間見られ眼から鱗の取れる一冊であった。
2011.01.13 (Thu)
森鴎外『青年』を読む
この小説は森鴎外が最初に書いた長編小説である。森鴎外という人は陸軍の軍医であったが、日露戦争から帰ってきてこの『青年』を書いている。森鴎外48歳の時の小説で長編第一作にしては『青年』なんていう熟年の小父さんが書く内容のタイトルでもないと思うが、読んでみると『青年』というタイトルと反して若くして書いたのではないことは一目瞭然として解る。ここには生きることへのテーゼを絶えず問いただしている。
主人公小泉純一は作家を志して東京にやってきた。中学時代は学校の授業以外に聖公会の宣教師のところへ行ってフランス語を勉強していて、小説家になりたいという決心だけは持っていた。純一は裕福な家庭で生まれ生活に困窮することはなかった。こうして東京は上野の初音町に下宿した。東京での生活は忙しかった。作家の大石路花に訪問したり、路花から始まって色々な人間と係り合いを持っていくようになる。もっとも彼を色々な人に合わせたのは中学の時の同級生であった瀬戸によるものである。瀬戸は美術学校に通っている。東京での純一は交際範囲が広がり、一番仲が良かったのは医科大生の大村で、大村から啓発的され彼と議論を交わす。さらに純一は3人の女性に心を惹かれ(お雪、おちゃら、坂井れい子夫人)、この中で坂井夫人に恋心を抱く。坂井夫人は高名な学者の未亡人である。坂井れい子未亡人は純一の住んでいるところからそれほど離れていないところに住んでいて、純一は観劇に行ったとき偶然にも坂井未亡人と会い知り合いになる。未亡人は純一にも関心を示してくれて、純一は未亡人に勧められ自宅までフランスの書籍を借りに行く。やがて会うごとに親しくなり、いつしか未亡人とも交渉を重ねるようになる。だんだんと純一の頭の中を坂井未亡人が支配するようになる。そんなある日、未亡人から正月を挟んだ数日間、箱根に来ないかと誘われる。純一は箱根に赴くが、そこで目にしたのは画家の岡村と一緒に歩いている坂井未亡人の姿だった。純一は衝撃を受け、未亡人に対する気持ちが失せていく。結果として、純一は未亡人もただの肉の塊だったと失望し、現実と理想とのギャップに隔たりを感じる。こうして何かが書けそうな気が湧いてきた純一は元日に東京へ戻り今こそ小説を書こうという気がしてくるのであった。
この物語の主人公純一は明治時代の青年である。今のように情報過多の時代ではなく、またバーチャルの世界で生きることのできる仮想現実の世界もない時代である。全てが人と人との係り合いを抜きにしては生きていけない時代、また係り合いの中から人間として成長していく時代であった。そんな時代にあって啓発され理想が理想を生み、頭の中も身体も何もかも真っ白けの純粋な青年が、やがて精神的、肉体的、世間的、人間的に全て成長していく様を描いたものである。小説の主題となるのはそういった成長過程での内面の展開であり、物語のあらすじよりも大きな意味を持つのである。
2010.11.23 (Tue)
カミュ・・・・・『異邦人』を読む
きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私にはわからない。養老院から電報をもらった。
「ハハウエノシヲイタム、マイソウアス」これでは何もわからない。恐らく昨日だったのだろう。
こういった書き出しで始まるアルベール・カミュの小説『異邦人』は不条理の文学だと一般的に言われていて、読書感がすきりしないのも、難解であるのも一因は不条理文学であるということに集約されるのかもしれない。
主人公ムルソーは北アフリカ・アルジェリアはアルジェに住む青年である。或る日、ムルソーのもとに母の死を知らせる電報が届く。ムルソーは母の葬式に出席するものの涙一つ流さず、無表情で感情を表さなかった。それどころかムルソーは葬式が済んで間がないのに海水浴に行き、旧知の女生と関係を結び、映画を観たりして何一つ哀しんだ様子を見せなかった。そんな時、ムルソーは友人のトラブルに巻き込まれアラブ人を射殺してしまう。ムルソーは逮捕され裁判にかけられる。裁判では一方的に冷酷無比な人間であると証言され、人間性の欠片もないとまで言われた。それは母の葬式で涙を流さなかったことと、直後の生活態度まで槍玉にあがったのである。それでもムルソーは裁判に関心を示さず、殺人の動機を聞かれ「太陽のせい」と言った。判決は死刑。でもムルソーは、まるで他人事のように関心を相変わらず示さなかった。さらに上訴もせず、それにより死刑が確定するのである。ムルソーは自分は幸福であると確信し、留置場に司祭が訪れてムルソーに悔い改めるように諭すもムルソーは司祭を追い出してしまう。処刑の日には大勢の見物人が憎悪の声をあげて迎えることを望んでいた。これこそ人生最後の希望であった。
と簡単な粗筋を書いてみると上記のような内容なのだが、明らかに一般的には解釈不可能な男の行動が読み取れるであろう。これこそが社会の不条理というものなのだろうが、主人公は余りにも通常の論理的な一貫性を失われている。所謂、一般的な社会通念が通用しない主人公の不可解な心理、行動といい、この小説の大意は何処のあるのか、カミュは何を言わんとしたかったのか何度読んでも理解し難い。
学生の頃、この小説を読んだものの、僅か文庫本で120余頁ほどの小説に手を焼いた覚えがある。この主人公は何故にここまで己に対して欲がないのか、社会に対して偽りがないのか、自己を犠牲にしてまで処刑されなければならないのか・・・・・・。行動、心理、何もかも不可解な男ムルソー、彼が無為に死を望んでいたためにとった行動でもなければ、
世の中に対して刹那的になっていたのでもない。カミュがムルソーという人物を構築したのさえ不思議でならない。当然、カミュ自身とも違う人物像であるし小説の主人公としても稀有な存在といえよう。結局、この小説の意味合いを考えれば考えるほど無意味であるように思えてくる。
実際、小説にはモデルがいたようでもある。カミュの知人であるサルトルやボーヴォワールに小説のモデルの男を教えたという。サルトルによると、その男は愛と呼ばれるような一般的感情とは無縁の存在であるらしい。人は常に相手のことを考えているわけでなくとも、きれぎれの感情に抽象的統一を与えて、それを愛と呼ぶが、ムルソーは、このような意味づけを一切認めない。彼にとって重要なのは、現在のものであり、具体的なものだけだ。現在の欲望だけが彼を揺り動かす。そういう欲求がい起きれば、動いているトラックに飛び乗るほどの力をふるう。
これでもよく解らない。最後にカミュ自身に語っていただこうとするか。カミュによると「母親の葬儀で涙を流さない人間は、すべてこの社会で死刑を宣告されるおそれがある。という意味は、お芝居をしないと、彼が暮らす社会では、異邦人として扱われるよりほかはないということである。ムルソーは何故、演技をしなかったか、それは彼が嘘をつくことを拒否したからだ。嘘をつくという意味は、無いことをいうだけでなく、ある以上のことをいったり、感じること以上のことをいったりすることだ。しかし、生活を混乱させないために、われわれは毎日、嘘をつく。ムルソーは外面から見たところとちがって、生活を単純化させようとはしない。ムルソーは人間の屑ではない。彼は絶対と真理に対する情熱に燃え、影を残さぬ太陽を愛する人間である。彼が問題をする真理は、存在することと、感じることの真理である。あおれはまだ否定的ではあるが、これなくしては、自己も世界も、征服することはできないだろう・・・・・・」いわば不条理に関し、不条理に抗してつくられた古典的作品であり、秩序の作品(サルトル)ということになるのだろう。
2010.09.25 (Sat)
井上靖・・・・・『天平の甍』を読む
中学校3年の時だったか、夏休みの読書感想文の指定図書にされ読んだ覚えがある。だが当時、内容が難しく消化しきれてない自分に腹が立ち社会人になってから再び読み直した小説である。内容は映画にもなったぐらいだから知っている方もおられるだろうが、簡単な粗筋を書いておくとする。
時代は奈良時代。朝廷で第9次遣唐使派遣が議せられたのは聖武天皇の天平4年(732年)のことだった。この時の遣唐使派遣の最も重要な目的は主として宗教的、文化的なものであて、政治的意図というものは問題に足らなかった。この頃、大陸や朝鮮半島諸国の変遷興亡は、この日本という島国を揺すぶっていたが、それよりも日本が自らに課した最も大きな問題は近代国家成立への急ぎであった。中大兄皇子によって律令国家として歩みだして90年。仏教が伝来してから180年。政治も文化も強く大陸の影響を受けてはいたが、まだまだ混沌として外枠は出来たが中身は空疎、国としては未成熟そのものだった。平城京は唐の都・長安を模した街で、整然たる都の概要を成してはいたが、平城京の周辺には夥しい数の流民が屯し、興福寺、薬師寺、大安寺・・・・40余寺が既に建立されていたが、立派な伽藍と反比例するように空疎なものが漂い、経堂の中の経典も少なかった。また、日本国内には戒律がまだ備わってなくて、僧とは名ばかりで腐敗しきっていた。それというのも課役を逃れるために百姓は争って出家し流亡していた。そこでこの現象を食いとめるために幾十かの法律が次々に出されたが効果は一向に上がっていなかった。僧尼の行儀の堕落も甚だしく為政者の悩みの種となっていた。そこで日本の仏教を支えるには何が必要であるかというと正しい戒律を整えるのが1番必要とされた。
こうして唐より優れた戒師を迎えて正式の授戒制度を布くことが仏徒を取り締まる最善の方法であるとされ、第9次遣唐使派遣の目的は明白になった。そして、大安寺の僧・普照、興福寺の僧・栄叡が遣唐使の一員に選ばれたのである。さらには戒融、玄朗という2名の僧も加わっって、いよいよ唐へ渡る事となった。船は東シナ海を越えなければならなかった。波浪に弄ばれ船酔いで苦しむ者が続出したが難破することなく蘇州に漂着。一向は洛陽へと向かう。こうして長い留学生活が始まったのである。
結局、この小説は鑑真和上という高僧を日本に招聘することに成功したことで、成し遂げられた感があるが、ことは簡単に運ぶわけはなく、此処へ辿り着くまでの紆余曲折が克明に綴られている。日本から渡った留学僧4名、普照、栄叡、戒融、玄朗の中で日本へ生きて帰ったのは普照だけだったという現実。また彼らの先輩の留学僧である業行は、まだ日本にない仏典を写経し始める。この写経に何年も何年も費やし、挙句の果ては日本へ持って帰る筈だった厖大な量の写経も普照に授けるが日本へ向う船の中で藻屑となる。
栄叡は戒師として名高い鑑真の弟子の何人かを日本に連れて帰りたいと嘆願すると、何と鑑真自身が日本に行くといい、栄叡は感激し日本へ連れて帰るための準備にかかり普照も手助けすることになるが、鑑真を日本へ渡航させることに反対する勢力によって何度も失敗することになる。4人の修行僧が唐に渡って何時の間にやら20年。中には没しいたものもいて、普照は放浪の果て高僧・鑑真を伴ってようやく故国日本の土を踏む。鑑真は東大寺大仏殿の西に戒壇院が落成させた。こうして80余人の僧は旧戒を棄てて戒壇院において戒を受けたのである。さらに鑑真は都の西端、西ノ京の新田部親王の旧地を賜り、そこに精舎を営み、最初律寺と号し、後に天皇より唐招提寺の勅額を賜ったのである。天皇は唐招提寺の落成と同時に詔して出家たる者はまず唐招提寺に入って律学を学び、のち自宗を選べしと宣したので、寺には四方から学徒が集まり講律授戒はすこぶる盛んになった。こうして日本における仏教も戒律がやっと備わり、文化国家へと歩みだすのである。渡航、6回目にしてようやく日本へ来ることに成功した鑑真は何時しか失明し、唐招提寺建立から4年後没す。年齢は76歳であった。
つまり『天平の甍』とするところ、最も主人公らしい人物である普照が留学僧仲間で1番平凡であったということである。普照以外の留学僧は唐へ渡るなり「この国には何かがある。この広い国を経廻っているうちに何かを見つけだすだろう」と考えて、出奔して托鉢僧となった戒融。唐に着く前から日本へ帰りたいと言っていた意志薄弱の玄朗は、還俗して唐の女と結婚し、そのまま落ち着くこととなった。また業行は「自分で勉強しようと思って何年か潰してしまったのが失敗でした。・・・・・自分がいくら勉強しても、たいしたことはないと早く判ればよかった」と言い、それからは一室に篭って沢山の経文の書写をやり、それを日本へ運ぶという、より確実な方法を選ぶ。彼は数10年の在唐生活の間、知っているところといえば幾つかの寺があるに過ぎない。ただ筆写本の厖大な山があった。栄叡は行動人で高僧・鑑真を戒師として日本に呼ぶことが自分に課せられた仕事と考え、歴史的使命を果そうとするが、その最中に病死する。結局、鑑真を招くことに栄叡ほどの情熱も行動力も持てず、経典を書写することさえやらず、平凡な日々を過ごし歳月に流されながらも運命に抗うことの少なかった普照の帰国とその後の成功。最も慈悲深く目立たない男が皆の意志を汲んだ形となってこの結末は救われたのである。