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2016.09.09 (Fri)

ゴジラVS君の名は

 何かおかしなタイトルだが、今、上映している2つの映画のタイトルである。『君の名は』は新海誠監督のアニメーション映画で大ヒットしているという。一方『シン・ゴジラ』は庵野秀明総監督、樋口真嗣特技監督による全編CGによる映画化である。『君の名は』は東京に住む男子高校生と田舎に住む女子高生がお互いが入れ替わった夢を見る。そこからお互いが現実で模索するようになるといった話らしいが、何故か若い女性を中心に興行成績が伸びているという。『シン・ゴジラ』はそれに次いでのヒット作ということだが、お馴染みのゴジラシリーズの頭にシンって付いているので何のことやらと思ったのだが・・・・・。シン・ゴジラであって新ゴジラでもないんだな。またニュー・ゴジラっていうタイトルでもないらしい。どういう意味があるのかと調べたら、新でも心でも真でもいいらしい。まったく過去のゴジラとは違うと言った意味なのだろうか。小生としては今更、ゴジラでもないけど、種の切れた映画界はヒット作が欲しいのだろう。東宝のドル箱シリーズをまた復活してしまった。何年振りの国内ゴジラか知らないが、もう終ったと思ったら、またゴジラが復活という。だから観に行きたいとも思わないが、今回は奇しくも『君の名は』という映画と被ったと言うことで、記事にしてみたまでである。
 今夏、邦画界でヒットした映画の1位2位が『君の名は』と『シン・ゴジラ』であって、またも興行成績でゴジラは君の名はに負けたという。そもそも『君の名は』という同名の映画が62年前に上映された。また同じ年に初代『ゴジラ』が上映された。そのときは全く比べものにならないほど『君の名は』の方が人が入っていて、『ゴジラ』は当時、キワモノの映画。つまりゲテモノ映画。所謂、子供だましの映画の扱いだったと言うことである。今日の人気を得るのは、その後のシリーズ化によるもので、子供の時にゴジラを観て育った人が大人になっても見続けたというところから人気を得ているのである。
 ところで62年前の昭和29年に上映された『君の名は』は、菊田一夫脚本によるラジオドラマで大ヒットしたものが映画化されたのである。当時、まだテレビ放送が始まる前で、ラジオがメディアの中心だったときにドラマとして放送され、これが女性に人気を博し当時、放送中は風呂屋や銭湯が空っぽになったといわれている。それが、映画化され岸惠子と佐田啓二が主演した。この映画は三部作で昭和28年から29年にかけて上映され、いずれもヒットした。つまり『ゴジラ』は62年前も今回も興行成績で『君の名は』に負けたと言うから面白い現象である。
 とはいっても『君の名は』は前回も今回もタイトル同じであっても何の関係もない映画である。ただ言えることは62前も今回も若い女性に人気を得た映画であると言うことだけである。今回の『君の名は』はアニメであっても若い女性に人気が出て動員に繋がった。最近、日本のアニメはスタジオ・ジブリ以外は人が入らなかったものの、ストーリーが面白いのと作画からして興味を惹き付けるところがあったのであろう。一方、昔の『君の名は』は所謂、メロドラマ。当時、戦後の荒廃からようやく復興し始めた頃の話である。国策映画か戦争映画ばかり観せられていた少女達が、成長して後宮春樹と氏家真知子の繰り広げる恋愛ドラマに新鮮みを感じたのか、それとも自分をダブらせたのか判らないが大ヒットした。この映画で岸惠子演じる氏家真知子が頭に巻くストールを真知子巻きとして大流行したいうから、当時、どれだけ流行った映画か想像できる。この映画は小生が生まれた頃の映画で、つまり小生の母親世代がよく観たのだろう。そういえば小生の同世代の女子に真知子という名の子が多かったというのも頷ける。
 ところで前回に続いてゴジラが君の名はに負けたというのは、奇しくも因縁か、偶然の一致か、面白い現象である。ただ前回の『君の名は』は松竹作品で、今回の『君の名は』はゴジラと同じく東宝作品である。ただ新海誠が昔の大ヒット作と同名のタイトルにしたのは何故だろうか。今の人は昔にも『君の名は』という映画があったことは知らないだろうが、80歳以上の老人だと、『君の名は』というと必ず佐田啓二、岸惠子という。それほど大ヒットした映画だったのだ。そりゃ恋愛ドラマにゴジラは勝てないわな。

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2015.02.15 (Sun)

映画『博士の異常な愛情』を観る

『博士の異常な愛情』1964年制作、イギリス/アメリカ映画

監督 スタンリー・キューブリック

出演 ピーター・セラーズ
    ジョージ・C・スコット
    スターリング・ヘイドン
    キーナン・ウィン
    スリム・ピケンズ
    ピーター・ブル

【あらすじ】アメリカの空軍基地バープルソン。司令官のリッパー将軍が突然のようにB52爆撃機34機にソビエト連邦への核攻撃を命じる。これはR作戦と呼ばれ第2次世界大戦で使用された全ての爆弾・砲弾の16倍の破壊力の水爆を搭載していた。そしてペンタゴンでの会議中にそのことが伝わる。マフリー大統領はその命令は自分以外は出来ない筈だと言うが、リッパー将軍は気が狂って命令を発したようである。これは大事だと捉えたアメリカ首脳は直ちにソ連大使をペンタゴンに呼び、ソ連の首相とのホットラインで対話をする。するとソ連は核攻撃に備え、もしソ連が攻撃を受けた場合、自動的に発射され爆発して地球上のありとあらゆる生物が死滅する放射線物質を降下させる爆弾が配備されていることが判る。つまり人類皆殺し装置である。アメリカがソ連に核爆弾を投下した段階で皆殺し装置は発射される。それ故に誰も止めることが出来ない。これは大変だとアメリカとソ連との間で喧々囂々となる。アメリカ側は策を講じ暗号を解読し作戦中止の命令を発す。大半の爆撃機は攻撃を中止し帰還する。それ以外は爆弾を投下される前に爆撃機をソ連側が撃墜してくれと頼みこむ。ソ連側は3機を撃墜。ところが1機だけが撃墜もされず、帰還命令受信も届かず目的地に向かって進撃していた。ミサイル攻撃をかわしたときに被害を受けたが破損のみで、計器や受信器全てが故障。やむなく低空で目的変更してシベリアの基地を目指して飛び続けるのでレーダーにもかからなかった。とうとう事はなされ、たった1機のB52が落した水爆が爆発。これにより人類皆殺し装置が発射される。もうきのこ雲の雨嵐・・・・・。そして美しい音楽と共に映画が終わる。

 この映画を初めて観たのは学生の時だったかな。何とも恐ろしいブラック・ユーモア満載の映画である。スタンリー・キューブリックが『2001年宇宙の旅』を撮る前の作品が本作品である。副題に『または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』とついている。この映画では登場シーンこそ少ないがストレンジラヴ博士が登場する。彼はドイツから帰化した大統領化学顧問であり側近である。脚が悪く車椅子に乗っていて、大統領を総統と言い間違えるのもナチス・ドイツ時代の名残で、興奮してくると義手が勝手に動いてしまい、それを左で押さえつけるなど奇行が目立つ人物で絶えず薄気味の悪い笑みを浮かべ、人類が生き残るための自説を展開。何とも不気味な博士をピーター・セラーズが演じていて、大統領もピーター・セラーズ、リッパー将軍の副官のマンドレイク大佐もピーター・セラーズという一人3役で出演している。
 冷戦時代の産物のような映画であるが、とにかく当時の社会情勢から考えると必然的に出てきた映画のように思える。この映画制作直前にはキューバ危機というものがあったし、何かとアメリカとソ連が対立していた時代の映画である。それを鬼才キューブリックが彼特有のアイデアで、偶発的なことから核攻撃が始まり人類滅亡と言う最悪のシナリオが待っているという様をシニカルに描いている。登場心物は全て利己的で邪悪。精神を害しているし、まさに皮肉たっぷりの風刺コメディである。小生、このおぞましい内容にもかかかわらず、この映画を観ていて笑いが絶えなかった。下手なコメディよりもよほど面白い。ただ現実に起こりえたら笑ってはいられないが・・・・。
 ところで全編、『ジョニーが凱旋するとき』が流れ、最後に核爆弾が連続して爆発を繰り返すところではイギリスの歌手ヴェラ・リンが歌う『また会いましょう(We’ll Meet Again)』(1939年)の甘美なメロディが流れる。

We’ll meet again,
Don’t know where, don’t know when.
But I know we’ll meet again, some sunny day.

Keep smiling through ,
Just like you always do,
Till the blue skies chase those dark clouds, far away.

So I will just say hello,
To the folks that you know,
Tell them you won’t be long,
They’ll be happy to know that as I saw you go
You were singing this song

We’ll meet again,
Don’t know where,don’t know when.
But I know we’ll meet again, some sunny day.

エンディング

EDIT  |  11:15  |  映画  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2015.01.25 (Sun)

映画『砂丘』を観る

『砂丘』1970年制作、アメリカ映画

監督 ミケランジェロ・アントニオーニ

出演 マーク・フレチェット
    ダリア・ハルプリン
    ロッド・テイラー
    ポール・フィックス
    ハリソン・フォード

【あらすじ】カリフォルニア・ロサンジェルスにある大学で学生集会が開かれている。学内は学生紛争の最中である。若者がキャンパスを占領し警官隊が武力で制圧しようとし銃撃戦になる。そんな中、1人の若者マークはピストルを持って学生が警官に射殺されるのを見て警官を撃とうとするが誰かが先に撃った。しかし、彼の姿がテレビで大写しになる。彼は大学を抜け出してセスナ機を奪いアリゾナの砂漠に向かって飛び立った。一方、若い女性ダリアは砂漠に住宅や別荘地を開発する不動産業者でアルバイトをしていた。それで彼女はアリゾナへ向かって50年代の車を走らせていたのだ。そこでマークとダリアが車と飛行機で鉢合わせする。砂漠の中の一本道、上空からマークは一台の女性の運転する車を見つけ車の屋根をスレスレに飛びからかう。すると車から降りてダリアは飛行機に向かって怒り叫ぶ。ところが繰り返し飛行機が低空で飛ぶのを見て親近感が湧き、着陸したセスナ機に車で近寄る。マークはダリアにガソリン代を払うから30マイルほど離れたザブリスキー・ポイントまで乗せていってくれないかと頼む。湖底が隆起した砂漠。周りには誰もいない。この大自然の中で2人は抱き合う。お互い初めて知り合うのにいきなりの関係になる。やがて2人は別れマークは飛行機でカリフォルニアに帰って行った。ダリアは車の運転中のラジオで聞いたニュースで薄々、彼が誰だかは知っていた。マークは撃とうとしたが誰かが先に撃ったと言い、ダリアもそれを信じていた。そして、ダリアはフェニックスの別荘に向かうがラジオでマークが警官隊に射殺されたとことを知る。

 この映画を観たのは確か高校の時で、大阪梅田にある北野劇場だったと思う。今はHEPナビオという商業施設が建っているが、当時は北野劇場と言う大きな映画館(本来は観劇を興行していた)があった。そこでアントニオーニ監督の『砂丘』を観たのだが、終わってから劇場を出ようとすると、横にいた20代のサラリーマンの声が耳に入った「こんな面白くない映画、初めて観た」。それを聞いて小生はおもわず苦笑いした覚えがあるが、確かによく判らない映画であった。でも感覚的には好きな映画であった。ただストーリー性だとか、濃厚な人間ドラマや、話の面白さを求める者には全く受け付けない映画であったであろう。監督が監督だしなと思いながら自分で納得するしかなかった。ミケランジェロ・アントニオーニが初めてアメリカで監督した作品である。ちょうどヒッピー文化が盛んだった時代(懐かしくもあるが)、世界中でスチューデント・パワーが炸裂もしていた。
 アントニオーニの映画は、それ以前の『赤い砂漠』『欲望』だとかも観ていたので、この『砂丘』を観てアントニオーニらしいなあと言った感想しかなかった。前作の『欲望』ももう一つよく判らない映画でもあった。ただ『欲望』の時はジェフ・ベックにジミー・ペイジが加わったヤードバーズが演奏しているところが見れる貴重な映画なので、よく覚えている。そして『赤い砂漠』ではモニカ・ヴィッティの何とも言えないアンニュイな気だるさに魅力を感じたものである。だからアントニオーニの映画に脚本がどうのだとか、ストーリーがだとか、筋書きを追い求めていたって面白はずがない。独特の映像美学というものがあるのかもしれないが、アントニオーニの世界観はよく判らない。ただ言えることは世の中の不条理にメスを鋭く入れる監督であるということ。この映画のラストになるが、ダリアが砂漠の岩山の上に建てられた別荘に着いて見た光景。そこではリゾートを楽しむ人、そこで行われる金儲けの商談、日頃の日常が平然と行われていた。それを見るにつけ、ダリアは全てをぶっ壊したくなった。彼女は妄想を広げる。別荘はものの見事に爆破され、その現実にある物質がゆらりゆらりと浮遊する。そしてピンク・フロイドの『51号の幻想』が流れ映画が終わる。いやはや、何とも不思議な映画ではあった。

『砂丘』トレイラー


ピンク・フロイド『51号の幻想』

EDIT  |  10:41  |  映画  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2014.11.23 (Sun)

高倉健のこと

 国民的スター高倉健が83歳で亡くなったが小生、高倉健のことを記事にすることにしてみようと思ったものの、ほとんど何も知らないのだ。観た映画も数えるほど。といっても高校の頃かな。任侠映画のファンが2人ほどいて、よくやくざ映画に付き合わされて観に行ったことがある。小生はやくざ映画が大嫌いでほとんど寝ていたかな。でも連中にしたら任侠映画の中の主人公が恰好よくてしょうがないのだろう。映画を観終わった後になると肩で風を切っていた。小生は莫迦じゃないのと思ったものが、連中の趣味まで口をはさむつもりはないので黙っていた。また,他にも高倉健にあこがれている者もいた。彼の家に行くと一枚の45回転のシングル・レコードがあって何時も彼はその曲をよく聴いていた。それが高倉健の唄う『唐獅子牡丹』だった。

 義理と人情を 秤にかけて
 義理が重たい 男の世界
 幼なじみの 観音様にゃ
 俺の心は お見通し
 背中で吠えてる 唐獅子牡丹

 彼の家に行けば何時も流れていた。おそらくレコード盤が擦り切れるほど聴きまくったのではないだろうか。とにかく高倉健のことをほとんど興味がなかった小生でも、周囲にそのような連中がいたので名前は知らぬ間に覚えていたかな。だが小生、ほとんど任侠映画を真剣に観てなかったし興味もなかったので高倉健には関心がなかったかな。もっとも小生、渥美清の『男はつらいよ』の寅さんシリーズも観たことがない。そのように言うと「日本人違うわ」と言われた。つまり義理と人情と浪花節的な世界観が苦手で敬遠していたというか、当時の日本映画で観たいと思うようなものはなかったのかもしれない。そういえば高校の頃、洋楽しか聴かないし洋画しか観ない小生を西洋かぶれだと仲間によく言われたものである。しかし、けして被れていたというのでもないが、当時、興味が注がれたもののほとんど欧米のものだった。いいかえれば当時、経済的には右肩上がりだった日本経済だが、こと文化に至ってはまだ西洋文化の輸入が続いていた時代だった。あと小生が30年遅く生まれていれば、趣味も少しは違っていたかもしれないが・・・・。
 そんなこんなで高倉健のファンは周囲には多かった。でも小生が高倉健の映画を初めて観たというよりも、存在感の大きさを感じたのは『幸福の黄色いハンカチ』を観てからだった。高倉健は、もうやくざ映画に出なくなっていた。もっとも高倉健の映画をその後に観たのも『ブラックレイン』『鉄道員』二作だけなので、大きなことは言えないが、確かに昭和の生き残りのような映画俳優であった。テレビにも殆どでなくて謎が多い。私生活が見えない。つまり銀幕のスターといわれた時代の人の生き残りである。謹んでお悔やみ申し上げます。

EDIT  |  13:25  |  映画  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2014.08.03 (Sun)

映画『永遠の0』を観る



『永遠の0』2013年、東宝公開

監督 山崎貴

出演 岡田准一
   三浦春馬
   井上真央
   濱田岳
   新井浩文
   吹石一恵
   風吹ジュン
   夏八木勲

【あらすじ】司法試験に落ちた26歳の佐伯健太郎は進路に迷っていた。そんな健太郎は祖母松乃の葬儀の日に驚くべき事実を知る。それは、葬儀の日に号泣した祖父健一郎と自分との間には血の繋がりはないということだった。血縁上の祖父は別にいて、その名は宮部久蔵といい、優秀な0戦の操縦士だった。だが60年前の神風特攻隊で戦死。宮部久蔵のことは何も知らされてなかったが、姉と共にその宮部久蔵のことを興味から調べることとなる。すると昔の操縦士仲間は口をそろえて腕は確かだが臆病者だという。0戦乗りとしては天才的であるが、生き延びることを考え、空中戦になると真っ先に離脱したという。宮部久蔵は妻松乃に「必ず生きて還る」と言って戦地へ赴いていたのである。だが、たった一つの約束事の「必ず家族のもとへ還ると」と公言していた男が何故、特攻隊に志願して死を選んだのか。それは健太郎にとって謎だった。そして調査を進めていきたどり着いた結果が、思いもよらぬものだった。

 この映画は今年の正月映画として上映され、多くの人の涙を誘ったという。原作は言わずと知れた百田尚樹。放送作家として活躍する一方、小説でもヒットを連発する百田尚樹のデビュー作にして一大ベストセラーとなった同名小説を「ALWAYS 三丁目の夕日」の山崎貴監督が映画化した戦争ドラマである。小生、この映画が上映されていても観に行ったと言うのでもなく戦争関連の映画は嫌いだから観る気もなかった。だが知り合いの家の女子大生が「是非観てください。大泣きしてしまいました」と言うので、このほどDVDが発売されたついでに観てしまったという訳である。
 そういえば今年の1月、当ブログにおいて0戦と神風特攻隊のことを書いたと思う。なので、ある程度、特攻隊のことは知っていた。だが、いざこうして物語として観てみると確かにジーンとくるものがあり考えさせられることも多い。歴史的事実なのだが、現在とは何もかも違いすぎる。平然と生きることが出来ない。戦時中の最中だとはいえ、狂気、異常な時代の中で敢然と生き延びることを選択する。だがこれが許されない。それ故に宮部久蔵は臆病者と言われ続けた。しかし、調べ続ける間に、祖父は実は臆病者ではなく、自分が死ぬことによって残された妻と子供の将来が壊れることを一番恐れていたということを知って健太郎は、祖父に対して誇りをもつようになる。そして最後に究極の事実が・・・・・・。これは言ってしまうといけないだろう。ミステリーのからくりを教えるようなものだから。
 ところでCGを今まで莫迦にしていたが、この映画の戦闘シーンは迫力がある。事実にも忠実で、0戦は真珠湾奇襲の頃、白っぽいグレー(餳色とされるが諸説ある)に塗装された二一型。ラバウルでの二二型、敗戦濃厚の昭和19年~20年の特攻隊に使われていた濃緑色の五二型0戦、さらには迷彩色に彩られた0戦等、かなり細密に再現されている。個人的には翼が長めの二一型がもっとも0戦らしいと思うが・・・・・。最も戦争関連の映画は好きではないが、航空母艦赤城等も含め、ムスタングやワイルドキャット、ヘルキャット等、戦闘シーンも含めセットでは此処までの映像表現が出来るかどうか、ややSF映画の映像っぽいところもあるが、見せどころは満載である。しかし思うところ、こういった物語はあの当時、起こっていた現実が今となってはあまりにも架空の話のようで、あまりにもかけ離れた世界の話でしか思えないのは、今となっては古すぎるからに他ならない。今や平成になって26年、昭和でさえも四半世紀以上前になってしまった。ましてや昭和16年~20年の戦時下という時代。だんだんとあの時代を語れる人が少なくなってきた。そういった意味では何故に平成の今、このような映画が製作されたか、考える意味では大きな役割を果たしたと言えよう。


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2014.07.13 (Sun)

映画『アイ・アム・サム』を観る

『アイ・アム・サム』2001年制作、アメリカ映画

監督 ジェシー・ネルソン

出演 ショーン・ペン
   ミシェル・ファイファー
   ダコタ・ファニング
   ダイアン・ウィースト
   ロレッタ・デヴァイン
   リチャード・シフ

【あらすじ】知的障害のため7歳の知能しかない父親サム・ドーソンは、スターバックスで働きながら1人娘ルーシーを育てている。ホームレスの妻はルーシーを生むとすぐに姿を消してしまったのである。サムは娘にビートルズの曲名からルーシー・ダイアモンドと名付ける。どうにかこうにか父娘は理解のある人々に囲まれ幸せに暮らしている。だが、ルーシーが成長し7歳になる頃にはルーシーはサムの知能を超えようとしていた。それで、ある日、家庭訪問に来たソーシャルワーカーは、サムの養育能力は欠けていると判断しルーシーを保護する。どうしてもルーシーを取り戻したいサムは法廷で闘う決意をし敏腕弁護士リタのもとを訪れることにする。しかし、サムがリタを雇うお金もなく断られてしまう。しかし、リタは自分が社会奉仕の仕事もできることを見せつけるために弁護を引き受けることにした。でもサムにとってはどうみても不利な裁判である。サムの友人たちは知的障害者ばかり。裁判でごく普通の証言が出来ず、隣人アニーも外出恐怖症を乗り越えて証言台に立つが、相手の検察官にやり込められてしまう。やがてルーシーは条件付きで親権は認められたものの里親のランディと暮らすこととなる。だがサムはその家の近所に引っ越してくる。それを知ったルーシーは毎日のように夜中に家を飛び出してサムのところへ会いに行く。

 知的障害者の父親が健常児の娘を育てていくという父子家庭の愛情を描いた秀作である。サム・ドーソンはホームレスの女との間に娘をもうける。そもそもそれが物語の始まりである。サムは知的障害者であるがビートルズの大ファンでビートルズのことなら何でも知っていた。そして生まれた女の子にルーシーとつけたほどだ。そのサム・ドーソンをショーン・ペンが演じているが、これが好演で本当の知的障害者ではないかと思えるほどである。少年と大人が混じった障害者を演じることの難しさ、またサムを取り巻く共演者が全て好演している。ショーン・ペンはこの役を演じるにあたりロスにある障害者の施設を訪れている。施設には自閉症や知能、学習能力の遅れなど発育系の障害者、てんかんや脳性麻痺など神経系の障害を持つ成人が100人ほど生活している。ここで多くのことを学びとったショーン・ペンが演技に活かしたことは当然としても、この映画では共演者のブラッドとジョーがこの施設のオーディションで受かりサムの友人役で出ている。尚、ネルソン監督は障害者をリサーチする上で「こういった障害を持つ親たちを見ていて一番興味を持ったのは、彼等は一般的な知性と言ういう意味での能力には欠けているけども、何事ももけしてネガティブに受けとらないということでした。どんなに小さなことでもポジティブに受け止めるのです」ということを知る。それが元となり知的障害者への偏見がなくなり映画の演出に効果を齎すのである。つまりこの映画は演出と演技者の好演と脚本の良さが上手く交ざり合い、そしてビートルズが大きな意味を持っている。サムはビートルズのに関する出来事や場所や日付や時間を正確に暗記しているという偏執ぶり等、物語の中の多くのシーンでビートルズが登場している。彼の部屋にはジョン・レノンの大きなポートレートが貼り付けてあるし、娘にまでルーシーとつけたほどだ。しかし、これは大きな意味があるという。ネルソンとジョンソン(脚本担当)が実際にリサーチしていく中で施設にいた人々のすべてが、一番のお気に入りはビートルズと答えたという。彼等はビートルズの曲なら何でも知っていたし、ビートルズに関することならとても詳しかった。その影響力に感銘し、映画の中で多くのビートルズの曲と共に事象や出来ごと、語句が引用されているのだ。ただビートルズの曲は著作権法の問題もあってオリジナルは簡単に使用できず、劇中ではシェリル・クロウ、エイミ-・マン、サラ・マクラクラ等によってカバーされたものが使われている。
 それでは最後に映画内で使われたビートルズ・ナンバーを記載しておくとする。
『Lucy in the Sky with the Diamonds』『Two of Us』『Across the Universe』『I’m Looking Through You』『Strawberry Fields Foever』『Golden Slumbers』『You’ve Got to Hide Your Love Away』『Blackbird』『Mother Nature’s Son』



サウンドトラック(音楽のみ) 映画に使われてない曲も入ってます。

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