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2009.04.22 (Wed)

映画『いちご白書』を観る

 『いちご白書』1970年製作、アメリカ映画

 監督 スチュアート・ハグマン

 出演 ブルース・ディヴィソン
    キム・ダービー
    ボブ・バラバン
    ジェームズ・クーネン
    バッド・コート
    ジーニー・バーリン

 【あらすじ】サイモンはボート部に所属する大学生だが、彼の大学はストライキ中。それは学校当局が、近所の子供達の遊び場になっている空き地に、予備将校訓練隊のビルを建てようとし、それに学生達が反旗を翻したことが始まりである。サイモンはボート部に籍をおくだけのノンポリ学生であり学生運動には無関心。だが、その運動に身を投じているリンダに出会う。サイモンは下心と好奇心から運動に参加するようになる。しかし、リンダには中途半端な気持ちで運動に参加しているサイモンの態度が気に入らなくなり、彼のもとから去ってしまう。リンダのいなくなった学生達の運動にやる気が起こらなくなったサイモンであるが、やがて彼らの本気度を見ているうちに本質的な闘争心が湧き上がってきた。また保守的な考えを持っているボート部員に殴られたことから、次第次第に運動の中へのめり込んでいくのであった。そして、サイモンの意識の目覚めを待ち受けていたかのように、リンダもサイモンのところに再び現れるのだ。こうして腐敗した学校当局に対して学生達は団結し、いよいよ講堂に集結する。だが学校当局は実力行使に出る。講堂の前には武装した警官隊と州兵が集結する。

 この映画を観たのは高校生の頃だった。ちょうど日本でも全共闘が最後の戦いを行なっていた頃で、このような学生から派生した反政治運動が世界的に盛んだった頃の映画であろう。そもそもはジェームズ・クーネンの書いた原作があり、彼は1966年から1968年にかけての闘争を記述しているが、1968年には抗議行動が学部長事務所占拠に及び、過激さを極めた。結局、この時の出来事が映画化されたのである。そういえば同じ頃、日本でも東大の安田講堂を学生が占拠するという出来事があった。また学生闘争が極限にいたり、翌年の東大入試が行なわれなくなるという前代未聞の事が起こる。

 今、思うと学生達は何をそんなに熱くなっていたのだろうか・・・・と捉えるのは簡単だが、現在の学生達が余りにも大人しくなってしまったのにも物足りなさを感じずにはいられない。暇があって色んな書を読みふけられるのも学生の特権であるし、正義感が最も目覚めるのもこの頃である。だから世の中の矛盾、理不尽、悪習慣に対して牙を剥き襟を正そうと一致団結するというのは理想に燃えた若者達の自然な行動とは思うのだが・・・・・。ただ全共闘運動は、理想と現実とのギャップをあまり理解していなっかたし、過激になりすぎて最後は内部闘争から自滅した形となってしまった。でもかつてバンバンが歌っていたヒット曲『いちご白書をもう一度』(曲は荒井由実)ではないけれど、学生が血気盛んだったあの頃のことを、私達の年代の者たちはどうしても思い出してしまうのである。今よりは良かったと・・・・・・・・・・。

 『いちご白書』の冒頭。バフィ・セントメリーの歌う主題歌『サークル・ゲーム』(曲ジョニ・ミッチェル)が聴かれる。


 映画の最後。学生達は講堂に集合し、全員でジョン・レノンの『平和を我等に』(Give Peace a chance)を歌い最後の抵抗を試みる。そして武装警察と州兵が突入する。一人、また一人、学生達は捕らえられていく。

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2009.04.09 (Thu)

映画『アメリカン・グラフィティ』を観る

『アメリカン・グラフィティ』1972年製作、アメリカ映画

 監督 ジョージ・ルーカス

 出演 リチャード・ドレイファス
     ロン・ハワード
     ポール・ル・マット
     チャーリー・マーティン・スミス
     キャンディ・クラーク
     シンディ・ウィリアムズ
     ハリソン・フォード

【あらすじ】1962年の夏。カリフォルニア北部の小さな田舎町。高校を卒業し、それぞれの道へ各自が進もうとする最後の一夜。スティーヴとカートは故郷での最後の夜を楽しむべく、テリーとビッグ・ジョンを誘い街に繰り出す。酒を買うのに四苦八苦したり、カーレースにガールハント、暴走族の仲間に入らされたりと何とも他愛ない大人になる手前の少年達の行動が手に取るようである。・・・・・当事のヒットナンバーに乗せて映画は綴られていき、やがてカーとは東部の大学へ進むために飛行機へ・・・・機内の窓から故郷の街を望む。

 ジョージ・ルーカスにとっては2作目の監督作品となる作品で、今や青春映画の古典的作品に挙げる人は多い。ルーカスは監督デビューとなった『THX1138』の興行が失敗したことから2作めの作品は一般受けする青春映画を撮ることにした。ベースはルーカス自身の体験から、1962年の夏、高校を卒業した若者達が旅立とうという日の前日の夕方から翌日の朝までの出来事を網羅した話で、ストーリーらしきものはなく、題名どうり落書き(graffiti)のように出来事を綴ったような映画である。

 1962年といえばアメリカではケネディ大統領の頃で、この翌年にケネディは暗殺される。いわばアメリカがまだ辛うじて輝きを放っていた頃のことで、これ以降は何かと病めるアメリカばかりが浮き彫りになるだけだが、そんな時代のアメリカの若者達が、この映画を観ていると何故か溌剌としているように見える。1962年といえば私は小学校に入って間がない頃だろうか、あの頃のアメリカなんて知る筈もないが、当時の日本から見ると遥かに進んだ先進国。物資も豊富で、アメリカから入ってくるキャデラック、シボレー、フォード等の車、コカコーラにホットドッグ、映画やテレビドラマ、音楽には強烈な洗礼を受けていた。いわばある意味で憧れの国であったものだ。そんな時代のハイティーンの若者達。この映画が上映されたのは1974年だった。私は日本の若者といえる年齢になっていた。その時に感じたことであるが、やはりアメリカの若者は大人っぽい。17歳でほとんどの者が車に乗っているし、門限もなく朝まで遊びほうけている。日本の少年で同様のことをやっている者と言うのは、所謂、不良という領域の少年達ぐらいだろうと、この映画を初めて観た時の印象なのであった。ドライヴインでハンバーガーを食べながら、何をやろうかなんて語る彼らを観ていると、まだ1974年当時の日本では、あまり見られなかった光景だと思う。

 その後、日本もコンビニエンスストアーが一般的になり、ドライヴインでハンバーガーが食べられるようになり、若者達が車を乗るのが当たり前になり、ようやく映画『アメリカン・グラフィティ』で行なった若者の行動を日本の若者が平然と行なうようになったが、感じることは時代が違えど国が違えど、少年がやりそうな事は様の東西問わず同じであったという現実に、私はこの『アメリカン・グラフィティ』が青春映画のバイブル的な要素を感じ取るのは、その辺りにあるのかなと思った次第である。

 ところで、この映画の監督、出演者に名を連ねるジョージ・ルーカスを始め、ハリソン・フォード(『スター・ウォーズ』『ブレードランナー』『インディ・ジョーンズ』)しかり、リチャード・ドレイファス(『ジョーズ』『未知との遭遇』『スタンド・バイ・ミー』)しかり、ロン・ハワード(監督として『スプラッシュ』『コクーン』『バックドラフト』『アポロ13』『ビューティフル・マインド』)しかりで、皆、その後、映画界で成功者と成り得たのも奇しき因縁なのか、まさにこの映画は彼等にとっても、無名時代の一時代を描いた青春時代のグラフィティといえそうである。


映画『アメリカン・グラフィティ』トレイラー。当時のヒット曲に乗せて・・・・。あの頃、あなたは何をしていましたか・・・・・。

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2009.02.23 (Mon)

映画『おくりびと』のアカデミー外国語映画賞受賞に思う

 今朝、ハリウッドで第81回アカデミー賞の授賞式が行なわれ、見事に日本の『おくりびと』が外国語映画部門で受賞、また同時に短編アニメーション部門でも加藤久仁生監督の『つみきのいえ』が受賞した。このところ日本のアニメは世界でも優れたものとして認知されていて、2003年に長編アニメ部門で『千と千尋の神隠し』が受賞しているから、アニメではジャパニメーションの実力誇示といったところであるが、一般映画にいたっては、何と名誉賞と言われていた頃の1956年に『宮本武蔵』(稲垣浩監督)が受賞して以来の日本映画の受賞ということになる。

 『おくりびと』は遺体を棺桶に納める納棺師を通して、人間の生と死を見つめ、それらを題材にしてユーモラスに描いた作品である。監督の滝田洋二郎氏は、これまで『陰陽師』『壬生義士伝』等の話題作や『釣りキチ三平』といった娯楽作を手がけているが、今から30年近く前は、成人指定の映画ばかり撮っていた監督であるから、何がきっかけでこのような名作を撮る羽目になったのか判らないが、とにかく日本映画界にとっては半世紀強ぶりの快挙であろう。

 もっとも戦後間もない頃の日本映画。正確にいうと昭和20年代後半頃の日本映画には優れた作品が目白押しであった。だから当時、名誉賞といわれていたアカデミー賞の外国語映画部門で、黒澤明の『羅生門』(1951年)、衣笠貞之助の『地獄門』(1954年)、前述の『宮本武蔵』と受賞してきたのだから、その作品の質の高さは世界屈指だった。それが、54年ぶりに『おくりびと』で受賞するまで、何故、その間、貰えなかったかというのは、一言でいうと、昭和30年以降の日本映画粗製乱造時代に入り、娯楽主義、スター主義に徹し、質の悪い映画を大量生産したツケが尾をひいたとしか言いようがない。

 映画は芸術であるが娯楽でもある。その間の中で、映画製作者は悩むのであるが、結局、当時の日本の娯楽の花形であった映画は、年間製作本数が500本を越える事となる。これは1960年のことで、その2年前には、観客動員数が11億人を超えていた。まさに当時の日本人の人口の11倍以上の数の人が映画館に足を運んでいた時代である。だから映画会社は商業主義に徹し、芸術映画よりも人を呼べる娯楽映画を、週に1.5本以上のペースで作り、内容のないくだらない映画を上映し続けたのである。それが所謂、スター主義の映画で、荒唐無稽のおかしな映画を粗製乱造し、それでも人が入ったので、映画会社は儲かったのである。

 しかし、その時の芸術性軽視がたたり、日本映画が世界の映画祭で評価されなくなっていくのである。また時代はテレビの時代に入っていたのに、相変わらず、くだらない映画ばかり上映していたので、映画ファンは映画館から一気に遠ざかってしまったというから滑稽である。映画産業は瞬く間に斜陽産業に陥ってしまったというのが、私の少年時代のことである。だから長い間、日本映画は低空飛行の時代があった。それが最近、持ち直してきたように思う。それは若い、映画作家や映画監督が育ってきたからでもあるが、映画というのは、良い企画と、良い題材、良い脚本、良い演出があれば、今回のように日本映画でもアカデミー賞の栄誉に輝くのである。何もスペクタクルやCGを駆使した大作ばかりが映画ではないのだ。最近のアカデミー作品賞の受賞作品を見ても、大作、話題作ばかりが並んでいるのではないだろう。皆が本当に観たいのは、人間ドラマなのだと思う。だから、この日のアカデミー賞外国語映画部門の受賞をきっかけに、日本映画ももっと自信をもって、世界にアピールする映画を作って貰いたいと思うのである。
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2008.11.16 (Sun)

ゴダールの映画『勝手にしやがれ』を観る

 『勝手にしやがれ』1959年製作 フランス映画

 監督 ジャン=リュック・ゴダール

 出演 ジャン=ポール・ベルモンド
     ジーン・セバーグ
     ダニエル・ブーランジュ
     ジャン・=ピエール・メルヴィル

 【あらすじ】街のチンピラ、ミシェル・ポワキャールは、マルセイユで自動車を盗み、訊問しようとする警官を射殺してパリへ逃亡し、アメリカ人留学生パトリシアと再会、2人の気ままな生活が始まる。
無謀でナンセンスなミシェルの言動、キュートで奔放なパトリシア。彼らは自由で気ままで束縛の無い関係を楽しんでいたが、或る日、彼に警察の手が及ぶ。そこでパトリシアはミシェルの愛を確認するため、警察にミシェルの居場所を密告する。やがて警察の凶弾に倒れたミシェル。・・・・・・でも街角に倒れた彼に、パトリシアは言う「最低って何のこと」・・・・・・・・・

 何とも表現のしにくいクールな映画である。映画の原題は"A Bout de Souffle"で、「息切れて、力尽きて」といったような意味らしい。この『勝手にしやがれ』という邦題は、翻訳者・秦見穂子がつけたもので、日本人に受けが良かったのか、その後、沢田研二や中島みゆきの曲にも同じタイトルが使われたほどインパクトのある映画である。

 ヌーヴェルヴァーグの傑作とされ、それまでの映画の概念や手法を打ち破って、即興演出、ジャンピングカットの多用、ハンディ・カメラでの街頭撮影等、何もかも斬新で画期的で所謂、衝撃作とされ、後年のアメリカン・ニュー・シネマに最も影響を与えた作品と称される。

 この映画の監督であるゴダールは、若い頃シネマテーク・フランセーズに集っていた面々(フランソワ・トリュフォー、クロード・シャブロール、エリック・ロメール、ジャン=マリ・ストローブ等)と親交を深めると共に、彼らの兄貴分的な存在だったアンドレ・バザンの知己を得て彼が主宰する映画批評誌「カイエ・デュ・シネマ」に批評文を投稿するようになっていた。つまりゴダールは、他のヌーヴェルヴァーグの面々、いわゆる「カイエ派」がそうであったように批評家として映画と関わることから始めたのだったが、徐々に製作現場に入るようになる。

  彼は数編の短編映画を手掛けた後、先に映画を制作して商業的な成功も収めたクロード・シャブロール(『美しきセルジュ』『いとこ同士』)やフランソワ・トリュフォー(『大人は判ってくれない』)のように、受け取る遺産もコネクションもいないゴダールは、プロデューサーのジョルジュ・ド・ボールガールと出会うことで、長編処女作『勝手にしやがれ』でやっとデビューできたという。ところが公開されるや、一躍スターダムにのし上がる。

 ジャン=ポール・ベルモンドが演ずる無軌道な若者の刹那的な生き様という話題性のあるテーマもさることながら、即興演出、同時録音、自然光を生かすためのロケーション中心の撮影など、ヌーヴェルヴァーグ作品の特徴を踏襲しつつも、物語のスムーズな語りをも疎外するほどの大胆な編集術(ジャンプカット)とそこから醸し出される独自性と自由さが高い評価をされたのである。でもこんな映画だから評価の方は賛否両論あって、 ある人は『勝手にしやがれ』は空虚で不道徳だという。しかし、その形式と内容において、この作品ほど社会的な価値から解放されている映画が、他にあるだろうかと思ってしまう・・・・・・・。

 映画手法の既成概念から大きく逸脱し、 過去もなく、未来もなく、ただ現在だけにゴダールは興味を示す。『勝手にしやがれ』は、無垢で、道徳的で、真理である。人間に何かを企てたり、人間を歪曲したりしない。知ったかぶりをせず、謙遜に人間を見つめている。科学的僧侶のようなゴダールは、現代生活を抽出し、合成する。そして、彼自身の道徳的判断を表明する。まさにゴダール自身の勝手にしやがれ的な映画である。でもジャン=ポール・ベルモンドもジーン・セバーグも実に適役で、いい味を出しているなあ。ことにジーン・セバーグはボーイッシュで初々しい。

『勝手にしやがれ』予告編


EDIT  |  09:39  |  映画  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2008.09.28 (Sun)

ポール・ニューマン死去

 ポール・ニューマンが亡くなった。一昨日の26日に癌で亡くなったという。今から2ヶ月ほど前に遡るが、ニューヨークのウェイル・コーネル・メディカル・センターから出てきたポール・ニューマンの姿を写した写真を見て愕然としたものだ。車椅子に力なく座っている老人こそ、かのポール・ニューマンそのものだったからである。痩せこけて皺がよった姿を見ていると痛々しくて、かつてスクリーン狭しと躍動した彼の面影は何処にも無かったからである。おそらく癌の病状が末期的にまで進行していたのだろう。余命は数週間と言われていてポール・ニューマンも自ら「死にたい」と漏らしていたという。

 ポール・ニューマンというと我々の年代にとっては、ハリウッド映画そのものだった。最初に観たのはテレビの映画劇場で放映されていた『傷だらけの栄光』(1956年)だった。かつて実在した名ボクサー、ロッキー・グラジアノの伝記映画であるが、それをポール・ニューマンが見事に演じきって、俳優としての名声を確立した作品となった。でも私にとってはその頃のポール・ニューマンはあまり知らない。『ハスラー』(1961年)というビリヤードで食っている男ファースト・エディ(これも実在の男)を演じた名作もあるが、映画館で観たポール・ニューマンの最初の作品はジョージ・ケネディと共演した『暴力脱獄』(1967年)だった。翌年には自ら監督した『レーチェル・レーチェル』というのもあった。そして、1969年のアカデミー作品賞にノミネートされた『明日に向かって撃て!』という西部劇で、ロバート・レッドフォード、キャサリン・ロスと出演し評判を呼んだ。ちょうどアメリカン・ニューシネマ・ブームの真っ只中で、時代こそアメリカの西部開拓時代の話だが、内容は立派なアメリカン・ニューシネマの青春映画であった。この頃のポール・ニューマンは脂が乗り切っていたのか、次から次へと名作、大作への出演が相次ぎ、アカデミー賞作品賞に輝いた『スティング』(1973年)で、またまたロバート・レッドフォードと組み、見事に詐欺師を演じている。その翌年にはスティーヴ・マックイーンと共演したことで話題となった大作『タワーリング・インフェルノ』も忘れられない。

 でもポール・ニューマンは演技派俳優として誉れ高かったが、アカデミー賞主演男優賞を受賞したこともなく(ノミネートは7回に及ぶ)、私生活で反戦運動に積極的に参加したり、ル・マン24時間耐久レースに出場したりするから、アカデミー会員は彼を嫌っているのかとも揶揄されたりしたが、1986年の作品『ハスラー2』でようやくアカデミー主演男優賞を受賞することになり、この時ポール・ニューマンは60歳を出ていて、彼の俳優人生においては晩年に差し掛かっていたから皮肉なものである。俳優としては全盛期に賞をもらえず、やや演技が枯れだした頃に賞に輝くなんていうのは、いかにもポール・ニューマンらしいところである。

 ポール・ニューマンは1925年にオハイオ州クリーヴランドの裕福にユダヤ人家庭に生まれた。要所の頃から児童演劇団に入るが当初は演技に興味を示さず、高校を出て暫くはセールスの仕事を行なっていたが、大学に進み第二次世界大戦を挟んで、卒業と同時に演劇の世界に身を投じることとなる。エール大学に進み、そこでの演技が認められ、1952年アクターズ・スタジオに入る。この頃、アクターズ・スタジオにはジェームズ・ディーン、マーロン・ブランドも在籍したという。

 こうして俳優の道を進み、当初は第二のマーロン・ブランドと称されたこともあるが、その後、マーロン・ブランドとは違った味を出し、アメリカ映画界の一時代を築く俳優となる。近年は作品こそ減ったが、やはり僅かな出演場面でも存在感があって、長年の映画界を背負って立った風格を偲ばせる。なお1958年に結婚した女優のジョアン・ウッドワードとは50年連れ添った仲だという。今時のハリウッドでは考えられないが、これもポール・ニューマンらしい実直さが現れているだろう。享年83歳、ご冥福をお祈りいたします。

 『ハスラー』のファイナル・ゲーム。


 『明日に向かって撃て!』のシーン集。ビリー・J・トーマスの唄う挿入曲『雨に濡れても』の曲に乗って・・・・・。


 『スティング』の名シーン集。


EDIT  |  09:56  |  映画  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2008.07.21 (Mon)

古い映画を観る・・・・・『巴里の空の下セーヌは流れる』

 『巴里の空の下セーヌは流れる』 1951年製作 フランス映画

 監督 ジュリアン・デュヴィヴィエ

 出演 ブリジット・オーベール
     ジャック・クランシー
     クリスチアーヌ・レニエ
     レイモン・エレマンティエ
     マルセル・プランス
     ダニエル・イヴェルネル

 【あらすじ】パリに友人を頼って南フランスから若い娘ドニーズがやって来た。一方、モンマルトルのアパートの屋根裏では彫刻家のマチアスがモデルを使って奇妙な女の顔を作っていた。彼は変質者であり、3人の女をすでに殺していた。ドニーズはその頃、友人に家に落ち着き街に出て、占い女に運勢を見てもらい、そのすすめで宝くじを買った。ドニーズは故郷のの知り合いマキシミリアンとコンコルド広場で会う約束で、コンコルド広場に出かけ、彼と会ったが彼は飛行機事故で脚を折り障害者になっていることを知り愕然とする。一方、マチアスはナイフを持って4人目の犠牲者を求めて街に出る。工場に潜んだマチアスは通りがかったドニーズを殺し、警官に追われて逃げる。警官は弾丸を撃つが、弾は折からのストライキが終了して帰る途中のエルムノーに命中する・・・・・・・・・・。ほんの1日、24時間の中で交錯する様々なドラマがパリという街で起こるさまを、名匠ジュリアン・デュヴィヴィエが叙情的にとりあげている。

 互いに見ず知らずの登場人物がパリの住民をという形で繋がってたり離れていったりする構成は巧で、パリ観光映画としても見れる作品である。パリに着いたばかりの女性がいきなりの通り魔に殺され、しかも死後に宝くじが当選していることが判明するというストーリーは、如何にもジュリアン・デュヴィヴィエ好みの悲劇だが、全体にほのぼのとした暖かみがあり、人間のぬくもりが感じられる。

 ジュリアン・デュヴィヴィエの代表作というと『にんじん』『商船テナシチー』『地の果てを行く』『我等の仲間』『望郷』『舞踏会の手帖』といった戦前の作品が主なところであり、日本では異常なほど人気があって、なかでも『望郷』のラストシーンはことさら有名である。それは何故かというと、デュヴィヴィエの作品には日本人好みのヒューマニズムが息づいているからだと感じるが、戦前のフランス映画界の4大巨匠といわれるルネ・クレール、ジャック・フェデー、ジャン・ルノアールをー含めてもジュリアン・デュヴィヴィエの作品は、戦前の日本での評価が高い。クールなフランス映画からすると、デュヴィヴィエ作品には、どこか日本人が共感できる一貫した眼差しというものを持っていたからであろう。

 でも戦後に作られた、この『巴里の空の下セーヌは流れる』は、彼の作品の中ではあまり評価されなくて、どちらかというと内容よりも、その主題曲である『パリの空の下』があまりにも有名である。アコーディオンを弾きながらジャン・ブルトニエールが唄う主題歌が一人歩きし、シャンソンとしても唄われるようになった。そのせいかパリというとアコーディオンが似合う街というイメージがある。
Pres de Norte Dame
Parfois couve un drame
Oui mais a Paname
Tout peut s'arranger
Quelques rayons
L'accordeon
D'un marinier
L'espoir fleurit
Au ciel de Paris
Sous le ciel de Paris
Coule un fleuve joyeux
Hom Hum



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