2008.03.04 (Tue)
映画『太陽がいっぱい』を観る
『太陽がいっぱい』1960年製作 フランス、イタリア合作
監督 ルネ・クレマン
出演 アラン・ドロン
マリー・ラフォレ
モーリス・ロネ
エルヴィーレ・ポペスコ
【あらすじ】貧しいアメリカの青年トム・リプレーは、お金持ちの放蕩息子フィリップを連れ戻して欲しいと彼の父親から頼まれナポリにやって来た。フィリップは仲間と空き放題の生活をし、美しい恋人のマルジュを連れていた。トムはそんなマルジュに惹かれていた。一方、フィリップは父の元へ戻る気などなく、フィリップ、マルジュ、トムの3人はヨットで海に出る。だが、フィリップはトムにヨットの操縦をさせ、その間、マルジュと遊興に耽っていた。貧乏なトムは次第に自分とは境遇の違いすぎるフィリップに殺意を抱くようになる。やがて些細なことからマルジュはフィリップと言い争いになり、ヨットを降りてしまう。ヨットの上でトムはフィリップと2人だけになってしまう。トムはフィリップとトランプをやっている最中にナイフで刺してしまう。トムはフィリップの死体を錨にロープで縛り海に投げ捨てた。・・・・・こうしてトムはフィリップの身分証明書の写真を自分に貼りかえて、フィリップのサインを真似、フィリップになりすまし財産を頂こうとするが・・・・・・・・・・・。
20世紀の二枚目俳優アラン・ドロンの出世作。この『太陽がいっぱい』はパトリシア・ハイスミスの原作による映画化で、1999年には『リプリー』という同じ原作による映画化もされている。
この作品は監督が『鉄路の闘い』『禁じられた遊び』『居酒屋』等の名作を撮ったルネ・クレマンだし、音楽はフェリーニの映画『道』『カビリアの夜』『81/2』で頭角を現したニノ・ロータで、映画は大ヒットした。1960年というとフランス映画はヌーヴェルバーグの嵐の中に巻き込まれていた。ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォー、ルイ・マル、アラン・レネに代表される映画の波があり、そんな時代にあって、ルネ・クレマンの撮った映画は難解ではなく、解りやすい映画が多く、それが人気を呼んだのかもしれない。
ルネ・クレマンの演出と、映像、ニノ・ロータの美しい音楽、そこへ天下の二枚目アラン・ドロンが出演ときていては、ヒットしない筈がないというものである。この時、アラン・ドロンは弱冠25歳で実に若々しい。
アラン・ドロンは1935年生まれ、1956年の映画『女が事件にからむ時』で俳優デビュー。この『太陽がいっぱい』で一躍スターダムに伸し上がってからでも、ルキノ・ヴィスコンティの『若者のすべて』『山猫』、ミケランジェロ・アントニオーニ、ルイ・マル、ゴダール等の巨匠、名匠の映画に多数出演し人気を不動のものにしたのである。
私はこの映画を何度も観ているが、上手く出来た傑作だと思う。それにヌーヴェルバーグ全盛のフランス映画界にあって、ルネ・クレマンの映画は商業主義的な娯楽作品ではあるが、そういった通俗性を感じさせない普遍性がある。海上でのヨット、そこへ殺そうと思っている人物と2人っきりになる。殺すのには絶好のシチュエーションである。そして、トランプを始め出す2人、やがて2人の会話からフィリップはトムが自分を殺そうとしていることに興味を持つ。「君は俺を殺して、それからどうする・・・・」
このような殺人を犯すまでの演出が巧で、観る側をどんどんと話の核心に引き込んでいく。まさしくサスペンスの真髄である。そこへ旅情的な映像とニノ・ロータの美しい音楽が郷愁を誘い、絵になる役者アラン・ドロンが填まった演技をする。実にこのあたり巧くできていた。まさに太陽がいっぱいの映画である。
『太陽がいっぱい』のハイライト・シーン集
ニノ・ロータ作曲の『太陽がいっぱい』のテーマ曲(動画はなし)
監督 ルネ・クレマン
出演 アラン・ドロン
マリー・ラフォレ
モーリス・ロネ
エルヴィーレ・ポペスコ
【あらすじ】貧しいアメリカの青年トム・リプレーは、お金持ちの放蕩息子フィリップを連れ戻して欲しいと彼の父親から頼まれナポリにやって来た。フィリップは仲間と空き放題の生活をし、美しい恋人のマルジュを連れていた。トムはそんなマルジュに惹かれていた。一方、フィリップは父の元へ戻る気などなく、フィリップ、マルジュ、トムの3人はヨットで海に出る。だが、フィリップはトムにヨットの操縦をさせ、その間、マルジュと遊興に耽っていた。貧乏なトムは次第に自分とは境遇の違いすぎるフィリップに殺意を抱くようになる。やがて些細なことからマルジュはフィリップと言い争いになり、ヨットを降りてしまう。ヨットの上でトムはフィリップと2人だけになってしまう。トムはフィリップとトランプをやっている最中にナイフで刺してしまう。トムはフィリップの死体を錨にロープで縛り海に投げ捨てた。・・・・・こうしてトムはフィリップの身分証明書の写真を自分に貼りかえて、フィリップのサインを真似、フィリップになりすまし財産を頂こうとするが・・・・・・・・・・・。
20世紀の二枚目俳優アラン・ドロンの出世作。この『太陽がいっぱい』はパトリシア・ハイスミスの原作による映画化で、1999年には『リプリー』という同じ原作による映画化もされている。
この作品は監督が『鉄路の闘い』『禁じられた遊び』『居酒屋』等の名作を撮ったルネ・クレマンだし、音楽はフェリーニの映画『道』『カビリアの夜』『81/2』で頭角を現したニノ・ロータで、映画は大ヒットした。1960年というとフランス映画はヌーヴェルバーグの嵐の中に巻き込まれていた。ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォー、ルイ・マル、アラン・レネに代表される映画の波があり、そんな時代にあって、ルネ・クレマンの撮った映画は難解ではなく、解りやすい映画が多く、それが人気を呼んだのかもしれない。
ルネ・クレマンの演出と、映像、ニノ・ロータの美しい音楽、そこへ天下の二枚目アラン・ドロンが出演ときていては、ヒットしない筈がないというものである。この時、アラン・ドロンは弱冠25歳で実に若々しい。
アラン・ドロンは1935年生まれ、1956年の映画『女が事件にからむ時』で俳優デビュー。この『太陽がいっぱい』で一躍スターダムに伸し上がってからでも、ルキノ・ヴィスコンティの『若者のすべて』『山猫』、ミケランジェロ・アントニオーニ、ルイ・マル、ゴダール等の巨匠、名匠の映画に多数出演し人気を不動のものにしたのである。
私はこの映画を何度も観ているが、上手く出来た傑作だと思う。それにヌーヴェルバーグ全盛のフランス映画界にあって、ルネ・クレマンの映画は商業主義的な娯楽作品ではあるが、そういった通俗性を感じさせない普遍性がある。海上でのヨット、そこへ殺そうと思っている人物と2人っきりになる。殺すのには絶好のシチュエーションである。そして、トランプを始め出す2人、やがて2人の会話からフィリップはトムが自分を殺そうとしていることに興味を持つ。「君は俺を殺して、それからどうする・・・・」
このような殺人を犯すまでの演出が巧で、観る側をどんどんと話の核心に引き込んでいく。まさしくサスペンスの真髄である。そこへ旅情的な映像とニノ・ロータの美しい音楽が郷愁を誘い、絵になる役者アラン・ドロンが填まった演技をする。実にこのあたり巧くできていた。まさに太陽がいっぱいの映画である。
『太陽がいっぱい』のハイライト・シーン集
ニノ・ロータ作曲の『太陽がいっぱい』のテーマ曲(動画はなし)
2008.02.28 (Thu)
古い映画を観る・・・・・『雨に唄えば』
『雨に唄えば』1952年製作 アメリカ映画
監督 ジーン・ケリー、スタンリー・ドーネン
出演 ジーン・ケリー
デビー・レイネルズ
ドナルド・オコナー
シド・チャリシー
ジーン・ヘイゲン
ミラード・ミッチェル
【あらすじ】時代は無声映画からトーキー映画に変わりつつある頃。映画の都ハリウッドでも、徐々に声の出るトーキー映画が中心に作られるようになる。俳優のドンはいつも相手役の女優リーナと銀幕の中では恋人同士であった。でも現実では、悪声でうぬぼれが強いリーナにへきへきしていた。そんな時、ドンはコーラス・ガールのキャシーと出会う。まもなくドンはリーナとのコンビで映画を撮り始める。だが、この映画はトーキーで撮る事となった。問題は女優のリーナがとんでもない悪声で、とてもファンの前で披露できる声ではなかった。完成した作品も大失敗。これでは公開できないと思い落ち込んだドンは、この映画をミュージカルにすればと思いつき、さっそくキャシーに声の吹き替えをさせる・・・・。
この映画はMGMミュージカルの傑作とされ、フランスの巨匠フランソワ・トリュフォーやチャーリー・チャップリンが絶賛したと言われる。当時、ミュージカル映画というのは、ブロードウェーで成功した作品を映画化するというのが当たり前であったが、この作品は映画のためのオリジナルというところが素晴らしい。
この映画はタイトルが『雨に唄えば』である。この曲はもともと1929年に製作された映画『ハリウッド・レビュー』の主題歌で、主演のウクレレ・アイクが唄ってヒットした曲である。それをMGM映画の名プロデューサーであるアートー・フリードが、この曲を使って何時しかミュージカル映画を作れないかと考えていたのだった。またモダン・バレエ出身のミュージカル俳優ジーン・ケリーも同じような考えを持っていた。こうして2人の意見がかみ合ってミュージカル映画化されたのが、この『雨に唄えば』ということになる。
ところでこの曲のオリジナルを唄ったウクレレ・アイクだが、これは偽名で本来の名前はクリフ・エドワーズである。クリフ・エドワーズというのはディズニー・アニメ『ピノキオ』の主題歌『星に願いを(When you wish upon a star)』を唄った人として有名である。
このような経緯で作られたミュージカル映画『雨に唄えば』が、こんな傑作になるとは作った本人達も思ってなかったのではないだろうか。とにかく脚本といい音楽といい振り付けといい、全てにおいてバランスがいい。ジーン・ケリーが土砂降りの中でびしょ濡れになりながらタップを踏み踊りまくるシーンは、これぞミュージカル映画で、誰もが知っている名シーンである。私はこの映画を少年の頃、テレビで観てなんて楽しさそうなんだと思い、雨の中で傘もささず『雨に唄えば』を唄ったことがある。とにかく楽しいミュージカル映画である。結局、この映画の成功でジーン・ケリーはスターとして君臨していき、デビー・レイノルズも、この映画で有名になり、後に映画の主題歌『タミー』を唄い大ヒットした。最近だとデビー・レイノルズというより、『スター・ウォーズ』のレイヤ姫役のキャリー・フィッシャーのお母さんという方が判り易いかもしれない。
この『雨に唄えば』は、その後、スタンリー・キューブリック監督が自身の映画『時計じかけのオレンジ』のエンディングに使い、1983年にはイギリスでステージ・ミュージカルとして上演されたのである。
"Singin' in the Rain"を唄うジーン・ケリー
I'm singin' in the rain
Just singin' in the rain
What a glorious feeling
I'm happy again
I'm luaghin' at clouds
So dark up above
The sun's in my heart
And I'm ready for love
Let the stormy clouds chase
Everyone from the place
Come on with the rain
I've a smile on my face
I'll walk down the lane
With a happy refrain
Just singin', singin' in the rain
Dancin' in the rain
Ya ya ya ya di da
I'm happy again
I'm singin' and dancin' in the rain
監督 ジーン・ケリー、スタンリー・ドーネン
出演 ジーン・ケリー
デビー・レイネルズ
ドナルド・オコナー
シド・チャリシー
ジーン・ヘイゲン
ミラード・ミッチェル
【あらすじ】時代は無声映画からトーキー映画に変わりつつある頃。映画の都ハリウッドでも、徐々に声の出るトーキー映画が中心に作られるようになる。俳優のドンはいつも相手役の女優リーナと銀幕の中では恋人同士であった。でも現実では、悪声でうぬぼれが強いリーナにへきへきしていた。そんな時、ドンはコーラス・ガールのキャシーと出会う。まもなくドンはリーナとのコンビで映画を撮り始める。だが、この映画はトーキーで撮る事となった。問題は女優のリーナがとんでもない悪声で、とてもファンの前で披露できる声ではなかった。完成した作品も大失敗。これでは公開できないと思い落ち込んだドンは、この映画をミュージカルにすればと思いつき、さっそくキャシーに声の吹き替えをさせる・・・・。
この映画はMGMミュージカルの傑作とされ、フランスの巨匠フランソワ・トリュフォーやチャーリー・チャップリンが絶賛したと言われる。当時、ミュージカル映画というのは、ブロードウェーで成功した作品を映画化するというのが当たり前であったが、この作品は映画のためのオリジナルというところが素晴らしい。
この映画はタイトルが『雨に唄えば』である。この曲はもともと1929年に製作された映画『ハリウッド・レビュー』の主題歌で、主演のウクレレ・アイクが唄ってヒットした曲である。それをMGM映画の名プロデューサーであるアートー・フリードが、この曲を使って何時しかミュージカル映画を作れないかと考えていたのだった。またモダン・バレエ出身のミュージカル俳優ジーン・ケリーも同じような考えを持っていた。こうして2人の意見がかみ合ってミュージカル映画化されたのが、この『雨に唄えば』ということになる。
ところでこの曲のオリジナルを唄ったウクレレ・アイクだが、これは偽名で本来の名前はクリフ・エドワーズである。クリフ・エドワーズというのはディズニー・アニメ『ピノキオ』の主題歌『星に願いを(When you wish upon a star)』を唄った人として有名である。
このような経緯で作られたミュージカル映画『雨に唄えば』が、こんな傑作になるとは作った本人達も思ってなかったのではないだろうか。とにかく脚本といい音楽といい振り付けといい、全てにおいてバランスがいい。ジーン・ケリーが土砂降りの中でびしょ濡れになりながらタップを踏み踊りまくるシーンは、これぞミュージカル映画で、誰もが知っている名シーンである。私はこの映画を少年の頃、テレビで観てなんて楽しさそうなんだと思い、雨の中で傘もささず『雨に唄えば』を唄ったことがある。とにかく楽しいミュージカル映画である。結局、この映画の成功でジーン・ケリーはスターとして君臨していき、デビー・レイノルズも、この映画で有名になり、後に映画の主題歌『タミー』を唄い大ヒットした。最近だとデビー・レイノルズというより、『スター・ウォーズ』のレイヤ姫役のキャリー・フィッシャーのお母さんという方が判り易いかもしれない。
この『雨に唄えば』は、その後、スタンリー・キューブリック監督が自身の映画『時計じかけのオレンジ』のエンディングに使い、1983年にはイギリスでステージ・ミュージカルとして上演されたのである。
"Singin' in the Rain"を唄うジーン・ケリー
I'm singin' in the rain
Just singin' in the rain
What a glorious feeling
I'm happy again
I'm luaghin' at clouds
So dark up above
The sun's in my heart
And I'm ready for love
Let the stormy clouds chase
Everyone from the place
Come on with the rain
I've a smile on my face
I'll walk down the lane
With a happy refrain
Just singin', singin' in the rain
Dancin' in the rain
Ya ya ya ya di da
I'm happy again
I'm singin' and dancin' in the rain
2008.02.26 (Tue)
アカデミー賞に思う・・・そして、最近の映画の題名に文句を言う
第80回アカデミー賞の授賞式がこのほど行われ、日本人俳優の浅野忠信が出ていた『モンゴル』が、アカデミー外国語映画賞にノミネートされていたが、残念ながら受賞を逃してしまった。過去には日本人は早川雪洲やマコ岩松等、数名が俳優の部門で受賞を逃して、唯一、助演女優賞を獲得したのがミヨシ梅木だった訳だが、あのミヨシ梅木が出ていた『サヨナラ』だって、何処がアカデミー賞に輝く演技かと問われれば大いに疑問の残る受賞で、アカデミー賞なんて権威だけはあるものの、とても受賞に値しない作品や監督、男優、女優なんて枚挙に遑がない。でも、こんな賞を受賞したというだけで、その作品や俳優達は箔が付くから当事者は是非ともほしい賞なのであろう。
このアカデミー賞というのは、1928年にアメリカ映画産業に従事する関係者で組織されている映画芸術アカデミーの会員6000人の無記名投票で、各部門が選出されるのである。それで、大部分の会員がハリウッドの業界の人ということで、どうしても商業主義的になり易く、必ずしも公平に選ばれているとは限らない。だから作品賞などは芸術的なものよりも、ヒットし興行的に成功した映画が選ばれることが多く、昔から色々とオスカー作品に対して賛否両論あったようだ。そんな訳でオスカーを逃したからといって、作品の価値が下がる訳でもあるまいし、余りオスカー、オスカーばかり言うなと言いたい。
今や日本人までが注目するアカデミー賞であるが、この賞が設けられた1928年頃は、映画芸術アカデミーの夕食会の一環として始まったという。その頃は、今ほど注目もされず名誉というものでもなかったのだろう。それが何時しか授賞式そのものが大きなイベントとなってしまった。それでオスカーの栄誉に輝くや、一躍有名になってしまう・・・。これが現在のオスカーなのである。
さて、こんなアカデミー賞なのであるが、この中で1番重要視されるのは、やはり作品賞ではないだろうか。前年の1年間の間にロサンジェルスで公開された映画の中から、映画芸術アカデミーの会員が選ぶのだろうが、今年は『ノーカントリー』という映画だそうな・・・。
ところで最近10年間のアカデミー作品賞に輝いた10作品の中で、私が観た映画というのは、『恋におちたシェイクスピア』のみである。これを聞いて、それなら映画を語るなという声が聞こえてきそうである。申し訳ない・・・言葉がない。でも、何故に最近、映画を観に行かなくなったかというと、理由がはっきりしている。それは映画の題名を聞いただけでは行く気が起こらないからというのが、私から映画を遠ざける要因になっているのだ。そういうことで、この記事を読んでいる映画会社の宣伝部が心を入れ替えてくれたら、最近のアメリカ映画のタイトルに見られる悪習慣を切って捨てて、もっと邦題にこだわって欲しいと思う。
『アメリカン・ビューティー』『グラディエーター』『ビューティフル・マインド』『シカゴ』『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』『ミリオンダラー・ベイビー』『クラッシュ』『ディバーテッド』・・・・これらは最近のアカデミー賞作品賞受賞の題名である。でも、この題名の羅列を見て連想するものってあるのだろうかと・・・。単なる英語で書かれた原題のカタ仮名化にすぎない。
そりゃ英語は世界で使われている。だけども、アルファベットで書かれた原題を、ただカタ仮名に直しているだけで、かつて存在した邦題のタイトル・・・・もう死語になりつつあるのか。だから私は最近の外国映画を観ようとする気がしないのである。
それではここで、第1回から第二次世界大戦が終結する1945年までのアカデミー作品賞の栄誉を担った作品の題名を並べてみるとする。『つばさ』『西部戦線異状なし』『グランド・ホテル』『或る夜の出来事』『戦艦バウンティ号の叛乱』『巨星ジークフェルド』『風邪と共に去りぬ』『レベッカ』『ミニヴァー夫人』『カサブランカ』『我が道を往く』『失われた週末』・・・・・見事なまでに邦題のタイトルが並んでいる。つまりこの当時は、英語のタイトルを日本語に訳すか、映画の内容を観て、それを引き出すようなタイトルを邦題でつけていたのである。これだと題名から何となくどんな映画なのか、その方向性が読み取れたものである。だから私は観てみたいという気が起こったものである。なのに、最近のアメリカ映画のタイトルは何だ・・・・・・。ただ原題のタイトルをカタ仮名に置き換えただけというお粗末さ、出鱈目さ、いい加減さ・・・・・。これだから私は最近の映画を観てみようと思わなくなった。だから映画のタイトルというのは重要なのである。たかがタイトルと思うかもしれないが、昔の宣伝マンは、映画ひとつとっても邦題のタイトルに拘ったのである。『荒野の決闘』『駅馬車』『波止場』『お熱いのがお好き』『緑園の天使』『雨に唄えば』・・・・もし『風と共に去りぬ』が、今だったらおそらく『ゴーン・ウイズ・ザ・ウインド』というタイトルになるだろうし、『駅馬車』なら『ステージコーチ』になってしまう。これだと何のコッチャといいたくなる。
聞く所によると、最近の映画会社の宣伝マンは、日本で公開されるときでも、原題をそのままカタ仮名に変えて映画館に回すという。だから邦題のタイトルを頭からつけようなんて思ってないのだ。要するに育ちの違いかもしれないが、カタ仮名慣れしてしまって、何の違和感もないという。だからJポップの曲にも言えるけど、ヒットチャートに横文字が並んでしまうのである。これだと何処の国の曲なのか判らなくなってしまう。つまり私の考えが古いのかもしれないが、若い人のためだけに映画があるのではない。日本語をお粗末にする今の風潮は嫌いだ。もっと母国語を大事にせよと言いたい。
このアカデミー賞というのは、1928年にアメリカ映画産業に従事する関係者で組織されている映画芸術アカデミーの会員6000人の無記名投票で、各部門が選出されるのである。それで、大部分の会員がハリウッドの業界の人ということで、どうしても商業主義的になり易く、必ずしも公平に選ばれているとは限らない。だから作品賞などは芸術的なものよりも、ヒットし興行的に成功した映画が選ばれることが多く、昔から色々とオスカー作品に対して賛否両論あったようだ。そんな訳でオスカーを逃したからといって、作品の価値が下がる訳でもあるまいし、余りオスカー、オスカーばかり言うなと言いたい。
今や日本人までが注目するアカデミー賞であるが、この賞が設けられた1928年頃は、映画芸術アカデミーの夕食会の一環として始まったという。その頃は、今ほど注目もされず名誉というものでもなかったのだろう。それが何時しか授賞式そのものが大きなイベントとなってしまった。それでオスカーの栄誉に輝くや、一躍有名になってしまう・・・。これが現在のオスカーなのである。
さて、こんなアカデミー賞なのであるが、この中で1番重要視されるのは、やはり作品賞ではないだろうか。前年の1年間の間にロサンジェルスで公開された映画の中から、映画芸術アカデミーの会員が選ぶのだろうが、今年は『ノーカントリー』という映画だそうな・・・。
ところで最近10年間のアカデミー作品賞に輝いた10作品の中で、私が観た映画というのは、『恋におちたシェイクスピア』のみである。これを聞いて、それなら映画を語るなという声が聞こえてきそうである。申し訳ない・・・言葉がない。でも、何故に最近、映画を観に行かなくなったかというと、理由がはっきりしている。それは映画の題名を聞いただけでは行く気が起こらないからというのが、私から映画を遠ざける要因になっているのだ。そういうことで、この記事を読んでいる映画会社の宣伝部が心を入れ替えてくれたら、最近のアメリカ映画のタイトルに見られる悪習慣を切って捨てて、もっと邦題にこだわって欲しいと思う。
『アメリカン・ビューティー』『グラディエーター』『ビューティフル・マインド』『シカゴ』『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』『ミリオンダラー・ベイビー』『クラッシュ』『ディバーテッド』・・・・これらは最近のアカデミー賞作品賞受賞の題名である。でも、この題名の羅列を見て連想するものってあるのだろうかと・・・。単なる英語で書かれた原題のカタ仮名化にすぎない。
そりゃ英語は世界で使われている。だけども、アルファベットで書かれた原題を、ただカタ仮名に直しているだけで、かつて存在した邦題のタイトル・・・・もう死語になりつつあるのか。だから私は最近の外国映画を観ようとする気がしないのである。
それではここで、第1回から第二次世界大戦が終結する1945年までのアカデミー作品賞の栄誉を担った作品の題名を並べてみるとする。『つばさ』『西部戦線異状なし』『グランド・ホテル』『或る夜の出来事』『戦艦バウンティ号の叛乱』『巨星ジークフェルド』『風邪と共に去りぬ』『レベッカ』『ミニヴァー夫人』『カサブランカ』『我が道を往く』『失われた週末』・・・・・見事なまでに邦題のタイトルが並んでいる。つまりこの当時は、英語のタイトルを日本語に訳すか、映画の内容を観て、それを引き出すようなタイトルを邦題でつけていたのである。これだと題名から何となくどんな映画なのか、その方向性が読み取れたものである。だから私は観てみたいという気が起こったものである。なのに、最近のアメリカ映画のタイトルは何だ・・・・・・。ただ原題のタイトルをカタ仮名に置き換えただけというお粗末さ、出鱈目さ、いい加減さ・・・・・。これだから私は最近の映画を観てみようと思わなくなった。だから映画のタイトルというのは重要なのである。たかがタイトルと思うかもしれないが、昔の宣伝マンは、映画ひとつとっても邦題のタイトルに拘ったのである。『荒野の決闘』『駅馬車』『波止場』『お熱いのがお好き』『緑園の天使』『雨に唄えば』・・・・もし『風と共に去りぬ』が、今だったらおそらく『ゴーン・ウイズ・ザ・ウインド』というタイトルになるだろうし、『駅馬車』なら『ステージコーチ』になってしまう。これだと何のコッチャといいたくなる。
聞く所によると、最近の映画会社の宣伝マンは、日本で公開されるときでも、原題をそのままカタ仮名に変えて映画館に回すという。だから邦題のタイトルを頭からつけようなんて思ってないのだ。要するに育ちの違いかもしれないが、カタ仮名慣れしてしまって、何の違和感もないという。だからJポップの曲にも言えるけど、ヒットチャートに横文字が並んでしまうのである。これだと何処の国の曲なのか判らなくなってしまう。つまり私の考えが古いのかもしれないが、若い人のためだけに映画があるのではない。日本語をお粗末にする今の風潮は嫌いだ。もっと母国語を大事にせよと言いたい。
2008.02.22 (Fri)
古い映画を観る・・・・・『道』
『道』1954年製作 イタリア映画
監督 フェデリコ・フェリーニ
出演 アンソニー・クイン
ジュリエッタ・マシーナ
リチャード・ベースハート
アルド・シルヴァーニ
マルセーラ・ロヴェーレ
【あらすじ】怪力男の大道芸人ザンパノが助手となるべき頭の弱い女ジェルソナを一万リラで買った。しかし、実際には奴隷に近い扱いであった。でも男の粗野な振る舞いにも逆らわず、旅する大道芸人ザンパノと一緒にジェルソミーナは旅を続けるのである。でも、何時か彼女はザンパノに捨てられる。何時しかザンパノは、ある町で彼女がよく口ずさんでいた歌を耳にする。ここでジェルソミーナが数年前に亡くなった事を知る。野卑な男のザンパノは、、この時、僅かに残っていた人間の心が甦る・・・・。
フェデリコ・フェリーニという映画監督は、イタリアン・ネオ・リアリズムが生み出した巨匠というべきなのか、今日では映画界において轟きわたっている。私がフェデリコ・フェリーニ監督の作品を初めて観たのが小学生の頃であって、『8 1/2』という映画だった。何だか幻想的なシーンが到る所に出てきて、かなり難解な作品であり、小学生の私には到底、理解しがたい映画であった。次にフェリーニ作品を観たのは、私が高校生の頃で、その作品は『サテリコン』であった。だが、この作品も私の思考能力を超える難しさがあって、楽しめる映画ではなかった。このように私の中で、何時しかフェリーニ作品は難しいという固定概念が焼きついてしまっていた。なのに私は大学に通っていた頃もフェリーニの映画は観続けていた。『フェリーニのローマ』『フェリーニのアマルコルド』・・・・この2作品は、『8 1/2』や『サテリコン』よりは楽しめたが、アメリカのハリウッド映画のような判りやすさからは、ほど遠い作品であった。こうして私の中では、フェリーニの映画は取っ付きにくいという印象が、何時までも離れなかったのである。
人が巨匠だ大監督だといっても、作品の何処が素晴らしいのか当時の私には消化出来ないものがあったように思う。その後、私も社会人になり、フェリーニの過去の作品を何度か観る機会を得た。すると、それまで持っていたイメージとは違って、実に判りやすい映画をそれ以前は撮っていたのだということが判ったのである。つまり私がフェリーニ作品に接した頃から、作品の方向性が変わって行ったというべきなのかもしれない。その前の作風と『8 1/2』以降との作風とは明らかに違っているように思えるのである。何故に彼の作品が難解な方向に変わっていったのか知る由もないが、現代のイタリア映画界でも偉大なる巨匠として名を残していることは確かなのである。
フェリーニという人は1920年生まれというから、日本で言うと大正9年生まれということになる。映画界の数いる巨匠の中でも、比較的に若い世代と言ってもいいだろう。それでフェリーニは19歳の時、漫画を描いたり、詐欺やペテンまでを働いたというアウトローなのである。それが、一座の座付け作者として地方巡業に出て、まもなくラジオ・ドラマを書き出したことで、当時のイタリア映画界の巨匠ロベルト・ロッセリーニと知り会うこととなる。ロッセリーニ監督といえば、イタリアン・ネオ・リアリズムの巨匠として名を馳せた監督であるが、『無防備都市』(1945年)で脚本の協力をしたのがフェデリコ・フェリーニだったのである。こうして映画界に入ったフェリーニは、何時しか監督デビューする。まもなく『青春群像』(1953年)あたりから評判になり、彼の名声が確立されたのが『道』(1954年)だったという訳だ。
この『道』は、イタリア国内では左翼思想家から批判され、高く評価されなかったという。それはネオ・リアリスモから脱却できてないからというものであった。 ロベルト・ロッセリーニやヴィットリオ・デ・シーカに代表される戦後のイタリア映画の作風と大差ないヒューマニズムに溢れたものであったというのが、理由のひとつに上げられるのであるが、意外にもアメリカでは評価され、アカデミー外国語映画賞を受賞してしまい、日本でも高い評価を得て、ここにフェデリコ・フェリーニの名声が高まったといっても良い。それからフェリーニは『カビリアの夜』(1957年)、『甘い生活』(1959年)、『8 1/2』(1963年)、『魂のジュリエッタ』(1965年)と綺羅星の如く名作をたて続けに発表している。まさにこの頃が最も映画監督として脂が乗り切っていたのだろう。でも作風は徐々に洗練されていくのと引き換えに難解さも含まれていき、そんな頃に私はフェリーニと出会ってしまったのだろう。
その頃のフェリーニというのは巨匠然として、映画とはこういうものだとばかり我々に語りかけているようであり、何か高尚な舞台芸術を見せ付けられているように思えた。でも難解さを増していたが、彼の根底にあるヒューマニズムと回顧趣味もあって、その後の作品が何処か郷愁を誘う作風に仕上がっていることに私は愛着を覚え、何時の間にか魔術師フェリーニの虜になっていたという訳である。だから今でもフェデリコ・フェリーニは私の好きな映画監督の一人なのである。だから1993年にフェリーニが心臓発作で亡くなった時は、イタリア映画も終わったと思ったものである。この時、フェリーニは国葬され、葬送には彼の友人ニノ・ロータの曲が使われたのである。
『道』のシーン集
監督 フェデリコ・フェリーニ
出演 アンソニー・クイン
ジュリエッタ・マシーナ
リチャード・ベースハート
アルド・シルヴァーニ
マルセーラ・ロヴェーレ
【あらすじ】怪力男の大道芸人ザンパノが助手となるべき頭の弱い女ジェルソナを一万リラで買った。しかし、実際には奴隷に近い扱いであった。でも男の粗野な振る舞いにも逆らわず、旅する大道芸人ザンパノと一緒にジェルソミーナは旅を続けるのである。でも、何時か彼女はザンパノに捨てられる。何時しかザンパノは、ある町で彼女がよく口ずさんでいた歌を耳にする。ここでジェルソミーナが数年前に亡くなった事を知る。野卑な男のザンパノは、、この時、僅かに残っていた人間の心が甦る・・・・。
フェデリコ・フェリーニという映画監督は、イタリアン・ネオ・リアリズムが生み出した巨匠というべきなのか、今日では映画界において轟きわたっている。私がフェデリコ・フェリーニ監督の作品を初めて観たのが小学生の頃であって、『8 1/2』という映画だった。何だか幻想的なシーンが到る所に出てきて、かなり難解な作品であり、小学生の私には到底、理解しがたい映画であった。次にフェリーニ作品を観たのは、私が高校生の頃で、その作品は『サテリコン』であった。だが、この作品も私の思考能力を超える難しさがあって、楽しめる映画ではなかった。このように私の中で、何時しかフェリーニ作品は難しいという固定概念が焼きついてしまっていた。なのに私は大学に通っていた頃もフェリーニの映画は観続けていた。『フェリーニのローマ』『フェリーニのアマルコルド』・・・・この2作品は、『8 1/2』や『サテリコン』よりは楽しめたが、アメリカのハリウッド映画のような判りやすさからは、ほど遠い作品であった。こうして私の中では、フェリーニの映画は取っ付きにくいという印象が、何時までも離れなかったのである。
人が巨匠だ大監督だといっても、作品の何処が素晴らしいのか当時の私には消化出来ないものがあったように思う。その後、私も社会人になり、フェリーニの過去の作品を何度か観る機会を得た。すると、それまで持っていたイメージとは違って、実に判りやすい映画をそれ以前は撮っていたのだということが判ったのである。つまり私がフェリーニ作品に接した頃から、作品の方向性が変わって行ったというべきなのかもしれない。その前の作風と『8 1/2』以降との作風とは明らかに違っているように思えるのである。何故に彼の作品が難解な方向に変わっていったのか知る由もないが、現代のイタリア映画界でも偉大なる巨匠として名を残していることは確かなのである。
フェリーニという人は1920年生まれというから、日本で言うと大正9年生まれということになる。映画界の数いる巨匠の中でも、比較的に若い世代と言ってもいいだろう。それでフェリーニは19歳の時、漫画を描いたり、詐欺やペテンまでを働いたというアウトローなのである。それが、一座の座付け作者として地方巡業に出て、まもなくラジオ・ドラマを書き出したことで、当時のイタリア映画界の巨匠ロベルト・ロッセリーニと知り会うこととなる。ロッセリーニ監督といえば、イタリアン・ネオ・リアリズムの巨匠として名を馳せた監督であるが、『無防備都市』(1945年)で脚本の協力をしたのがフェデリコ・フェリーニだったのである。こうして映画界に入ったフェリーニは、何時しか監督デビューする。まもなく『青春群像』(1953年)あたりから評判になり、彼の名声が確立されたのが『道』(1954年)だったという訳だ。
この『道』は、イタリア国内では左翼思想家から批判され、高く評価されなかったという。それはネオ・リアリスモから脱却できてないからというものであった。 ロベルト・ロッセリーニやヴィットリオ・デ・シーカに代表される戦後のイタリア映画の作風と大差ないヒューマニズムに溢れたものであったというのが、理由のひとつに上げられるのであるが、意外にもアメリカでは評価され、アカデミー外国語映画賞を受賞してしまい、日本でも高い評価を得て、ここにフェデリコ・フェリーニの名声が高まったといっても良い。それからフェリーニは『カビリアの夜』(1957年)、『甘い生活』(1959年)、『8 1/2』(1963年)、『魂のジュリエッタ』(1965年)と綺羅星の如く名作をたて続けに発表している。まさにこの頃が最も映画監督として脂が乗り切っていたのだろう。でも作風は徐々に洗練されていくのと引き換えに難解さも含まれていき、そんな頃に私はフェリーニと出会ってしまったのだろう。
その頃のフェリーニというのは巨匠然として、映画とはこういうものだとばかり我々に語りかけているようであり、何か高尚な舞台芸術を見せ付けられているように思えた。でも難解さを増していたが、彼の根底にあるヒューマニズムと回顧趣味もあって、その後の作品が何処か郷愁を誘う作風に仕上がっていることに私は愛着を覚え、何時の間にか魔術師フェリーニの虜になっていたという訳である。だから今でもフェデリコ・フェリーニは私の好きな映画監督の一人なのである。だから1993年にフェリーニが心臓発作で亡くなった時は、イタリア映画も終わったと思ったものである。この時、フェリーニは国葬され、葬送には彼の友人ニノ・ロータの曲が使われたのである。
『道』のシーン集
2008.02.14 (Thu)
市川昆逝去する
※市川昆の昆という字は本来、山冠の下に昆がくっつくのですが、その漢字に変換できないので、やむを得なく昆で通します。ご了承ください。
映画監督の市川昆が亡くなられた。92歳だという。高齢だから仕方が無いとは言え、だんだんと良い映画監督亡くなって行くのは寂しい。
市川昆といえば、最近まで元気で作品を撮られていたと思うが、遺作となったのが、『ユメ十夜・第二夜』(2007年)だという。この作品が監督の76本目の作品ということで、戦後に映画監督として第一作を製作してから、約60年で76本ということは、一年で一本以上の映画を製作していることになる。これはたいへんな製作ペースであるが、それでいて市川昆の映画は、標準以上の質の作品ばかりなので、そのバイタリティーには驚く。でも申し訳ないが、私は氏の作品を語れるほど観てないのであって、何本かを観ただけにおいては、良質の映画ばかりだと申し上げておきたいと思う。
かつての日本映画というのは、製作本数にかけては世界トップクラスであった。こんな時代に市川昆監督は、数多くの作品を制作しているのである。元々、アニメーターとして映画界に飛び込んだというが、戦後に映画監督として映画を撮りだし、日本映画が全盛の頃の1950年代、『炎上』(1958年)、『野火』(1959年)、『鍵』(1959年)といった真面目な文芸作品を撮り続けていた。でも、その頃というのは、最も邦画が製作されていた頃で、1960年の長編邦画封切り本数は545本にも及び、これは現在の邦画封切り本数の倍以上になる。つまり映画全盛期の本数であって、当然、これらの多くの映画というのは娯楽作品であった。こんな時代に市川昆監督は芸術作品を撮っていた。
この頃というのは、稲垣浩、衣笠貞之助、溝口健二、小津安二郎、黒澤明、成瀬巳喜男、木下恵介といった芸術指向の監督がいて、多くの娯楽作品に混ざって戦後の映画史に残る作品も撮っていた。そんな先輩の後を追うように市川昆も質の良い映画を撮っていたのである。だか、私は市川昆監督作品はほとんど観ていなかったのだ。私は幼少の頃、母に連れられて邦画を観た覚えがあるのだが、あまり記憶はない。やがて小学校に上がり、観た映画を記憶できる年齢になっていたが、当時の映画は荒唐無稽のくだらない娯楽作品が多かった。結局、この時代の粗製乱造がたたり、その後、日本映画はテレビの普及も手伝って一気に斜陽産業となってしまうのであるが、そんな時代に私は市川昆監督の2作品を観たものである。その映画は『太平洋ひとりぼっち』(1963年)、『東京オリンピック』(1965年)である。
『太平洋ひとりぼっち』は、堀江謙一青年のヨット太平洋無奇港横断の映画化である。堀江謙一の役を石原裕次郎が演じ、当時は話題となった。そして、私が市川昆監督の映画で最もよく覚えているのが『東京オリンピック』の記録映画である。
この作品はドキュメンタリーなのであるが、上映後、評価が二つに分かれた。芸術的過ぎるという声が多く、スポーツの祭典を記録しただけの映画の枠をはっきりと超えていて、マラソンで優勝したアベベの横顔をアップで撮り続け、走る哲人そのものを表現していたり、選手の躍動美を色んな角度から撮った映像を流し続けたりして、それまでのオリンピックを撮ったニュース風映画とは一線を画す作品に仕上がっていた。結局、この作品にはがっかりしたと、スポーツ関係者から批判の声が上がったりして、必ずしも成功した作品とはいえなかったが、私は非常に印象に残る作品となった。この映画の後に『白い恋人たち』という、グルノーブル冬季オリンピックの記録映画も現れて、数年後には再評価されるのであった。このように市川昆は時代の先をいくような映画の撮り方をやっていた。
その後、一時期、迷っていたのか知らないが、横溝正史の小説の映画化で、『犬神家の一族』(1976年)、『悪魔の手毬唄』(1977年)、『獄門島』(1977年)、『女王蜂』(1978年)といった作品を撮っている。この時期は市川昆も娯楽に走ったのかと、私はややがっかりしたものである。しかし、このような作品も撮れてこそ、芸術作品も撮れるのだという幅の広さを見せつけることになった。
現在、日本映画は一時期の低迷を脱し、ある程度は息を吹き返してきたような錯覚がある。でも、これはハリウッド映画がつまらなくなったがため、日本映画に人が流れたとも言え、けして将来の展望が見えてきたというのでもない。何れにせよ、映画界の未来は暗雲が漂っているのだ。既にハリウッド映画はリメイクばかりでネタ切れ模様であるし、CGを駆使しすぎて、映像の動きも安直で、何か物作りの原点を忘れているように思えてならない。それで、昔ながらの市川昆監督が亡くなられて、日本映画の良き時代は忘却の彼方へ・・・・・・。
映画『東京オリンピック』の冒頭。市川昆監督作品
ベラ・チャスラフスカ(チェコスロバキア)の姿が・・・・・開会式での実況は、NHKの鈴木文弥アナウンサーである
マラソン場面、クラーク、ホーガン、アベベの先頭争い
走る哲学者アベベ・ビキラ(エチオピア)
object width="425" height="355">
映画監督の市川昆が亡くなられた。92歳だという。高齢だから仕方が無いとは言え、だんだんと良い映画監督亡くなって行くのは寂しい。
市川昆といえば、最近まで元気で作品を撮られていたと思うが、遺作となったのが、『ユメ十夜・第二夜』(2007年)だという。この作品が監督の76本目の作品ということで、戦後に映画監督として第一作を製作してから、約60年で76本ということは、一年で一本以上の映画を製作していることになる。これはたいへんな製作ペースであるが、それでいて市川昆の映画は、標準以上の質の作品ばかりなので、そのバイタリティーには驚く。でも申し訳ないが、私は氏の作品を語れるほど観てないのであって、何本かを観ただけにおいては、良質の映画ばかりだと申し上げておきたいと思う。
かつての日本映画というのは、製作本数にかけては世界トップクラスであった。こんな時代に市川昆監督は、数多くの作品を制作しているのである。元々、アニメーターとして映画界に飛び込んだというが、戦後に映画監督として映画を撮りだし、日本映画が全盛の頃の1950年代、『炎上』(1958年)、『野火』(1959年)、『鍵』(1959年)といった真面目な文芸作品を撮り続けていた。でも、その頃というのは、最も邦画が製作されていた頃で、1960年の長編邦画封切り本数は545本にも及び、これは現在の邦画封切り本数の倍以上になる。つまり映画全盛期の本数であって、当然、これらの多くの映画というのは娯楽作品であった。こんな時代に市川昆監督は芸術作品を撮っていた。
この頃というのは、稲垣浩、衣笠貞之助、溝口健二、小津安二郎、黒澤明、成瀬巳喜男、木下恵介といった芸術指向の監督がいて、多くの娯楽作品に混ざって戦後の映画史に残る作品も撮っていた。そんな先輩の後を追うように市川昆も質の良い映画を撮っていたのである。だか、私は市川昆監督作品はほとんど観ていなかったのだ。私は幼少の頃、母に連れられて邦画を観た覚えがあるのだが、あまり記憶はない。やがて小学校に上がり、観た映画を記憶できる年齢になっていたが、当時の映画は荒唐無稽のくだらない娯楽作品が多かった。結局、この時代の粗製乱造がたたり、その後、日本映画はテレビの普及も手伝って一気に斜陽産業となってしまうのであるが、そんな時代に私は市川昆監督の2作品を観たものである。その映画は『太平洋ひとりぼっち』(1963年)、『東京オリンピック』(1965年)である。
『太平洋ひとりぼっち』は、堀江謙一青年のヨット太平洋無奇港横断の映画化である。堀江謙一の役を石原裕次郎が演じ、当時は話題となった。そして、私が市川昆監督の映画で最もよく覚えているのが『東京オリンピック』の記録映画である。
この作品はドキュメンタリーなのであるが、上映後、評価が二つに分かれた。芸術的過ぎるという声が多く、スポーツの祭典を記録しただけの映画の枠をはっきりと超えていて、マラソンで優勝したアベベの横顔をアップで撮り続け、走る哲人そのものを表現していたり、選手の躍動美を色んな角度から撮った映像を流し続けたりして、それまでのオリンピックを撮ったニュース風映画とは一線を画す作品に仕上がっていた。結局、この作品にはがっかりしたと、スポーツ関係者から批判の声が上がったりして、必ずしも成功した作品とはいえなかったが、私は非常に印象に残る作品となった。この映画の後に『白い恋人たち』という、グルノーブル冬季オリンピックの記録映画も現れて、数年後には再評価されるのであった。このように市川昆は時代の先をいくような映画の撮り方をやっていた。
その後、一時期、迷っていたのか知らないが、横溝正史の小説の映画化で、『犬神家の一族』(1976年)、『悪魔の手毬唄』(1977年)、『獄門島』(1977年)、『女王蜂』(1978年)といった作品を撮っている。この時期は市川昆も娯楽に走ったのかと、私はややがっかりしたものである。しかし、このような作品も撮れてこそ、芸術作品も撮れるのだという幅の広さを見せつけることになった。
現在、日本映画は一時期の低迷を脱し、ある程度は息を吹き返してきたような錯覚がある。でも、これはハリウッド映画がつまらなくなったがため、日本映画に人が流れたとも言え、けして将来の展望が見えてきたというのでもない。何れにせよ、映画界の未来は暗雲が漂っているのだ。既にハリウッド映画はリメイクばかりでネタ切れ模様であるし、CGを駆使しすぎて、映像の動きも安直で、何か物作りの原点を忘れているように思えてならない。それで、昔ながらの市川昆監督が亡くなられて、日本映画の良き時代は忘却の彼方へ・・・・・・。
映画『東京オリンピック』の冒頭。市川昆監督作品
ベラ・チャスラフスカ(チェコスロバキア)の姿が・・・・・開会式での実況は、NHKの鈴木文弥アナウンサーである
マラソン場面、クラーク、ホーガン、アベベの先頭争い
走る哲学者アベベ・ビキラ(エチオピア)
object width="425" height="355">
2008.02.10 (Sun)
映画『ティファニーで朝食を』を観る
『ティファニーで朝食を』1961年製作 アメリカ
監督 ブレイク・エドワーズ
出演 オードリー・ヘプバーン
ジョージ・ペパード
ミッキー・ルーニー
パトリシア・ニール
マーティン・バルサム
バディ・イブセン
【あらすじ】ニューヨークの片隅で名の無い猫と自由気ままに暮らす高級コールガールのホリーは、ショーウインドウを見ながらパンを食べるのが好きだった。そんな彼女の住むアパートに引っ越してきた小説家志望の青年ポールは、何処か小悪魔的で無邪気で奔放、それでいて純真で妖精のような部分を併せ持つ不思議な魅力のホリーに惹かれていく。また彼女もそんなポールに興味を持つようになる。やがてホリーがブラジルの外交官と結婚することになるのを知って、傷ついたポールは小説を売って得たお金をつきつけるが・・・・・。
この映画はトルーマン・カポーティの小説の映画化であるが、小説と映画とで微妙にストーリーが違っているが、これは致し方ない。カボーティは小説を書いた後、映画化権をパラマウントに売り渡すが、カポーティ自身は、ホリーの役をマリリン・モンローが適役と考えていて、脚本家にモンローを念頭に入れて書くように依頼し、監督にジョン・フランケンハイマーを指名している。だが、実際にはマリリン・モンローと正反対のタイプの女優オードリー・ヘプバーンに決まったし、監督もブレイク・エドワーズになってしまった。さらには結末も、小説とはまるで正反対のハッピーエンドで終わってしまった。これにはカポーティも気に入らなかったらしい。でも映画は大人のお洒落な映画という雰囲気を醸しだし、大ヒットとなった。
私が『ティファニーで朝食を』を観たのは小学生の低学年の頃である。だから映画の内容を掴めず、変な日本人が出て来たり、ヘプバーンが派手な衣装を着て、宝石店の前で食事をしたり、何だか変わった映画だなあという印象でしかなかった。その後、こちらも成長し何度か観る機会を得たが、いわゆる娼婦の役をあのヘプバーンが演じていたということを知り、再び驚いたものである。かつて『ローマの休日』で、とある王国の王女を演じた純白な妖精は、大人になって夜の女として帰ってきたのである。でもオードリーが演じるコールガールというのは、不潔なイメージからは程遠いものであり、彼女の持つ様相から一種の清潔感さえ漂わせている。何処か無邪気で、何処か頼りないようで、それでいて芯はしっかりしていて憎めない、そんな女がホリーである。もし当初のようにマリリン・モンローが、このホリーを演じていたら、そのキャラクターからいって、全く違ったホリー像になるだろうが、今となってはオードリー・ヘプバーンで良かったのではないか・・・・・と考えさせられる。そして、何よりもこの映画でニューヨークにティファニーという宝石店があることを知ったものである。
映画の中で窓際に座ってオードリー・ヘプバーンがギター一つで『ムーン・リバー』を唄うシーンがある。けして上手くはないが、オードリーは精一杯唄っている。こういった雰囲気が当時のニューヨークにはあったのだろうなあと、思いつつ『ムーン・リバー』をよく唄ってしまうのである。確かに当時の日本とはかけ離れた、お洒落な映画であった。
Moon River wider than a mile
I'm clossing you in style someday
Old dreammaker, you heartbreaker
Whenrever you're going I'm going your way
Two drifters off to see the world
There's such a lot of world to see
We're after the same rainbow's end
Waiting round the bend, My Huckleberry friend
Moon River and me
オードリー・ヘプバーンが『ムーン・リバー』を唄う
監督 ブレイク・エドワーズ
出演 オードリー・ヘプバーン
ジョージ・ペパード
ミッキー・ルーニー
パトリシア・ニール
マーティン・バルサム
バディ・イブセン
【あらすじ】ニューヨークの片隅で名の無い猫と自由気ままに暮らす高級コールガールのホリーは、ショーウインドウを見ながらパンを食べるのが好きだった。そんな彼女の住むアパートに引っ越してきた小説家志望の青年ポールは、何処か小悪魔的で無邪気で奔放、それでいて純真で妖精のような部分を併せ持つ不思議な魅力のホリーに惹かれていく。また彼女もそんなポールに興味を持つようになる。やがてホリーがブラジルの外交官と結婚することになるのを知って、傷ついたポールは小説を売って得たお金をつきつけるが・・・・・。
この映画はトルーマン・カポーティの小説の映画化であるが、小説と映画とで微妙にストーリーが違っているが、これは致し方ない。カボーティは小説を書いた後、映画化権をパラマウントに売り渡すが、カポーティ自身は、ホリーの役をマリリン・モンローが適役と考えていて、脚本家にモンローを念頭に入れて書くように依頼し、監督にジョン・フランケンハイマーを指名している。だが、実際にはマリリン・モンローと正反対のタイプの女優オードリー・ヘプバーンに決まったし、監督もブレイク・エドワーズになってしまった。さらには結末も、小説とはまるで正反対のハッピーエンドで終わってしまった。これにはカポーティも気に入らなかったらしい。でも映画は大人のお洒落な映画という雰囲気を醸しだし、大ヒットとなった。
私が『ティファニーで朝食を』を観たのは小学生の低学年の頃である。だから映画の内容を掴めず、変な日本人が出て来たり、ヘプバーンが派手な衣装を着て、宝石店の前で食事をしたり、何だか変わった映画だなあという印象でしかなかった。その後、こちらも成長し何度か観る機会を得たが、いわゆる娼婦の役をあのヘプバーンが演じていたということを知り、再び驚いたものである。かつて『ローマの休日』で、とある王国の王女を演じた純白な妖精は、大人になって夜の女として帰ってきたのである。でもオードリーが演じるコールガールというのは、不潔なイメージからは程遠いものであり、彼女の持つ様相から一種の清潔感さえ漂わせている。何処か無邪気で、何処か頼りないようで、それでいて芯はしっかりしていて憎めない、そんな女がホリーである。もし当初のようにマリリン・モンローが、このホリーを演じていたら、そのキャラクターからいって、全く違ったホリー像になるだろうが、今となってはオードリー・ヘプバーンで良かったのではないか・・・・・と考えさせられる。そして、何よりもこの映画でニューヨークにティファニーという宝石店があることを知ったものである。
映画の中で窓際に座ってオードリー・ヘプバーンがギター一つで『ムーン・リバー』を唄うシーンがある。けして上手くはないが、オードリーは精一杯唄っている。こういった雰囲気が当時のニューヨークにはあったのだろうなあと、思いつつ『ムーン・リバー』をよく唄ってしまうのである。確かに当時の日本とはかけ離れた、お洒落な映画であった。
Moon River wider than a mile
I'm clossing you in style someday
Old dreammaker, you heartbreaker
Whenrever you're going I'm going your way
Two drifters off to see the world
There's such a lot of world to see
We're after the same rainbow's end
Waiting round the bend, My Huckleberry friend
Moon River and me
オードリー・ヘプバーンが『ムーン・リバー』を唄う