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2012.12.02 (Sun)

北斎展に行く

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 今現在、天王寺公園内の大阪市立美術館で開催中の特別展『北斎』---風景・美人・奇想---に行ってきた。葛飾北斎というと今や世界的に著名な浮世絵師であるといってもいいだろう。フランスの後期印象派に多大な影響を与えただけでなくアメリカの権威ある雑誌『ライフ』において、この1000年間で最も重要な功績を残した世界の人物100人の中に日本人でたった1人選出されたのである。そんな葛飾北斎の大規模な展覧会。一般的に知られている北斎と言うと『富嶽三十六景』の浮世絵師。ところが今回はそれ以外にも、肉筆画や読本挿絵、北斎漫画、戯画、狂歌絵本・・・・・それこそ全国に散らばっている北斎の手による絵が一堂に会して集まった感がある。今まで海外の油彩画ばかりの展覧会ばかりを見てきたが、時には趣向を変えて我々の土壌で育った美術と言うものを振り返ってみるのも面白い。

 葛飾北斎は1760年に生まれた江戸末期の浮世絵師であるが、少し年齢的に後になる広重と共に風景画で海外に知れ渡っている。その最たるものが言わずと知れた『富嶽三十六景』なのであるが、『凱風快晴』といタイトルの赤富士。ドビュッシーが此の絵から発想を得て交響詩『海』を作曲したと言われる『神奈川沖浪裏』がことさら有名である。それで今回、この北斎の展覧会には『富嶽三十六景』全てが集められて展示されているのだが、残念なことに余りに展示品が多くて、毎週のように展示されるものが代わるという大規模な北斎展なのである。だから全てを見たいと思うならば、毎週行かなければならなのだが、小生それほど暇人ではないので今回の一回しか行けなかった。それで展示されていたものが、他に『東海道五十三次』から18点、江戸八景、近江八景、諸国の名称を描いた風景画、戯画、藻魚・鳥獣、歌仙と武者、美人画、妖怪百物語の図、洋風風景版画、詩歌に詠まれた風景・・・・それと今回の展示において北斎との大坂との関係について展示してあった。北斎は生涯に二度大坂を訪れている。最初は1812年(文化9年)というから52歳の時である。この年の秋に名古屋の牧墨僊邸に逗留したついでに大坂、和泉、紀州、伊勢と回っている。さらに5年後の1817年(文化14年)年末、再び大坂、伊勢、紀州、奈良吉野を訪れてりうのであるが、その滞在時において数多くの傑作を残している。風景画としては大坂に立ち寄る前に京都の嵐山渡月橋を描いた浮世絵に、大坂の淀川にかかる天満橋、安治川河口の天保山があるが、曲亭馬琴の作『三七全伝南柯夢』への挿絵を始め読本へ膨大な絵を残している。また北斎は大坂で弟子をとり、その多くが絵を残している。代表的な絵師としては春好斎北洲、春陽斎北敬、葛飾北洋、春梅斎北英、柳川重信、岳亭春信、柳斎重春などがいて弟子の手による絵の展示も行われていた。

 ところで北斎の『富嶽三十六景』は何時頃、描かれたものかご存じだろうか。実は1820年(文政3年)以降のことなのである。つまり北斎が60歳と言ういう円熟期に入ってから『富嶽三十六景』を手掛けているのである。それから13年かけて『富嶽三十六景』を完成。その後に『富嶽百景』に手を染めていることを考えれば老いてますます活発に筆を進めていたということである。結局、北斎は何度も名を変え90歳で世を去るまで幾多の作品を残し死後160年経っても名声が衰えるどころか、その後どんどんと世界に広まっているのである。

 さて、今回の北斎展であるが、これだけ多岐に及んだ北斎の絵を見るにつけ、『富嶽三十六景』が特出して有名であるが、ただそれだけを描いていた絵師でないことは一目瞭然であるが、スケッチ描きのようなものを墨で描いていて、これらの多くが細密な手法で描かれている。おそらく西洋の写実画が参考になったのではないかとも思える。日本の浮世絵が誇張した形で平面的に描ききり、対局にあったヨーロッパの絵画に影響を与えたことは我々の知るところであるが、逆に西洋の絵画に興味を持ち手法を取り入れようとしてたとしたら意外な北斎の一面を見たような気がする。それだけ絵の探求を死ぬまで続けていたことになるだろう。さらに今回、北斎展に行って思ったこと。外国人が多数来ていたということ。アジア人でなく明らかに西洋人。丹念に1枚、1枚、小さな浮世絵に顔を近づけ凝視していたことはいうまでもない。近づいて彼らがどんな言葉を発するか興味があったので聞いてみたら・・・FantasticだとかGreatestだとか月並みなことしか言ってなかった。これには期待外れだったが・・・・・。
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2012.11.04 (Sun)

エル・グレコ展に行く

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 ただいま大阪中之島の国立国際美術館で開催されている『エル・グレコ展』に行ってきた。エル・グレコ(ギリシャ人)とは、なんてふざけた名前の画家であろうか。でも多くの人はスペイン人だと思っているだろう。実際にはクレタ島生まれのギリシャ人である。でも一生のうち35歳から没する73歳までスペインのトレドに住んでいたので彼の中身はすっかりスペイン人であろう。

 彼は本名をドメニコス・テオトコプーロスといい1541年に生まれ1614年に亡くなった。日本で言うならば徳川家康がほぼ同年代なので、戦国から江戸時代初期にかけての画家である。その頃のスペインは最も繁栄していた時代であり、所謂、16世紀中頃から17世紀前半までの80年間を黄金の世紀と言われるが、エル・グレコが滞在していた時代はフェリペ2世の頃である。フェリペ2世の頃にオスマン帝国をレパントの海戦で破り植民地を多く持つ隣国のポルトガルを併合したことで太陽の沈まぬ帝国として最盛期を迎えていた。 そんな時代にエル・グレコはイタリアのヴェネチアからトレドにやってきたのである。最初にギリシャ人と書いたがその当時、クレタ島はヴェネチア共和国の支配下にあり、此の島で後期ビザンティン美術を継承する画家となり、その後にヴェネチアへ渡る。ヴェネチアではティチアーノに弟子入りしヴェネチア・ルネッサンスの画法を始め、ミケランジェロの量体表現等を習得する。そして、その後にスペインへ渡ることになるのだが、エル・グレコがスペインにやってきた理由ははっきりしない。ただスペインという国自体に活気があって画家としての仕事が貰えると思っていたのかもしれない?

 取り敢えずは宮廷画家を目指していたらしい。しかし、イタリアで習得したマニエリスムといった表現方法が、当時の権力者であったフェリペ2世に理解されず宮廷画家の道は閉ざされる。が、スペインの宗教関係者を中心にして一部の人から多くの支持を得て、多くの宗教画を描くようになる。その肉体表現はイタリア時代よりもより顕著になり、人体の長身化、奇抜な構図、非現実的色彩等、その表現は独自性を帯びていた。ただしバロック絵画の台頭以降、エル・グレコの絵は時代から忘れ去られていく。それが再評価されるようになったの100年ほど前のことである。所謂、エル・グレコの独自性が再評価となり、抽象画家が出てきてからのことである。その後に眠っていたエル・グレコの作品が表舞台に登場するものの、彼の作品は長い間において劣悪な保存状態下におかれていたので描かれた当時の状態を保っている作品は少ないと言われる。

さて、それで今回『エル・グレコ展』を見に行くにあたり、若い頃、スペインに行きまくりプラド美術館やエル・グレコ美術館で絵の鑑賞しまくった姉に聞いたら「エル・グレコの絵は一見デッサンが狂っているように見えるけど、実際に目も悪かったという説もある」と言ってたが、確かに目の位置や大きさが左右で違っていたり極端に胴体と頭の比率が実際とは異なっていたりして違和感がある。でもこれがメニエルスムというものかもしれない。ところで今回の『エル・グレコ展』では、本邦初公開と言う作品がいくつかある。中でもトレドのサン・ンコラス教区聖堂の壁に嵌めこんである巨大な作品『無原罪のお宿り』をはじめとして、同聖堂の大伽藍から取り外してきた作品が何点かある。それらの多くは宗教画なんだが、何れも荘厳な静寂さを漂わしている。これこそ近代絵画にない歴史の重みというものかもしれないが、なんだか一見デフォルメしたように見えたりして、現代絵画に通じるところも垣間見られる。今回、エル・グレコの絵を鑑賞していて感じた私的意見である。
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2011.09.19 (Mon)

ワシントン・ナショナル・ギャラリー展に行く

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 もう立秋も過ぎたというのに何時までも暑い。南の海上で台風が二つも居座っているから熱い大気ばかりが漂っていて、そこへ湿気まで齎すからよけいに暑いのだろうな。また沖縄近海に停滞している台風が、今週には北上と共に東へ進路を変えるという。またまた招かれざる客が来るのか・・・・・うんざり。

 さて、今日は京都の岡崎にある京都市美術館に行ってきた。目的はフェルメールといいたいが、こちらはどうせ行列してなかなか入れないだろうから、同じ美術館で開催している『ワシントン・ナショナル・ギャラリー展』を観に行くためである。

 暑い中、10時前には美術館に到着。案の定、『フェルメールからのラブレター展』は大行列。待ち時間・・・・・不明。皆、朝の何時から並んでいるのだ。こちらはテレビで特集番組を放送したぐらいだかすごい人気だ。何しろ世界で30数点しか油絵がないという寡作の画家フェルメールの『手紙を読む青衣の女』が修復後、本国オランダより先駆けて京都で世界初公開されるとかで、かなりの遠方からわざわざ観に来ている人もいるという。そこへ他のフェルメールの絵を2作品、そして同時代のオランダの画家ピーテル・デ・ホーホ、ヘラルト・テル・ボルフ、ハブリエル・メツー等も展示されている。とはいうものの展覧会としてのボリューム感に欠けるのでは・・・・・・・。とにかく昨今のフェルメール人気は物凄い。そういえば私が若い頃にもフェルメール作品が他の画家の作品に混じって本邦初公開されたことがあったが、あの当時はこれほど人気がなく、館内は結構空いていたというという記憶がある。その後、フェルメールの価値が急騰したというしかないだろう。いや、本当にすごい行列だ。

 こうしてフェルメール展に入ろうとする長蛇の列を尻目に、私は『ワシントン・ナショナル・ギャラリー展』の会場に入った。でも、こちらの方も大入りだったが・・・・・。ところでワシントン・ナショナル・ギャラリーという美術館は名前の通りアメリカのワシントンDCにある国立美術館である。アメリカ、いや世界でも屈指の美術館であるが、私はこの美術館が誕生した経緯について少しばかり興味があったので、訪れてみたということなのだが・・・・・。

 ナショナル・ギャラリーは国立の美術館ながら、1人の富豪がその誕生に関与している。それはアメリカの資産家であるアンドリュー・メロンである。アンドリュー・メロンは1855年に銀行家トーマス・メロンの長男として生まれたが、父とは関係なく材木事業で成功し財を成し、父親の銀行事業に参加。そこから手を広げ石油、鉄鋼、造船、建設業界にも事業を展開し1890年代にはとうとうジョン・ロックフェラー、ヘンリー・フォードと並んでアメリカ三大富豪と呼ばれるようになるのである。その後、政界に進出し財務長官として所得税減税、公共支出削減等の経済政策を実施し、一応の成果を上げ、世界大恐慌の後に辞任。その後、駐イギリス大使として英国生活を送る。ところが、この英国時代にロンドンのナショナル・ギャラリーを訪れ、その威容さと大量の美術品の所蔵に感激。かねてから美術収集家でもあったアンドリュー・メロンは母国アメリカにも国立美術館を造りたいと思うのである。こうしてアンドリュー・メロンは自己の所有する美術品と現金1000万ドルを寄贈。これを基に首都ワシントンDCに国立美術館(ナショナル・ギャラリー)を建設することとなる。こうしてナショナル・ギャラリーは建設が始まるが、完成を見ずしてアンドリュー・メロンは1937年に亡くなってしまう。

 アンドリュー・メロンは亡くなるが、その意志を継いだのが長男であるポール・メロンであった。ポール・メロンは1907年生まれで父アンドリューが亡くなった時、ポールは30歳だった。エール大学を卒業し銀行には半年務めただけで金儲けに奔走した父と違い若い時から芸術、文学の方に興味を持ち、その後にイギリスに渡りケンブリッジ大学に入り文学士の学位を得て、さらに大学院修士号の称号をも得ている。そして30歳で父の莫大の財産の相続人となり、彼はもっぱら膨大な大金を使う方に奔走したという夢のような生活を送るのである。

 結局、ポール・メロンが親の意志を継いでナショナル・ギャラリーを完成させたのである。それからというもの、ワシントン・ナショナル・ギャラリーは、その後、美術愛好家の寄贈によって所蔵数が増加していったという興味ある美術館となった。それで今回は日本初公開となるゴッホの自画像を始め、主に印象派登場までと印象派以降まで網羅して展示されていた。コロー、クールベ、ドービニー、デュプレ、ブーダン、マネ、バジール、ピサロ、ドガ、シスレー、モネ、ルノワール、カイユボット、ピサロ、カサット、ゴーギャン、ロートレック、シニャック、セザンヌ、スーラといったお馴染みの画家ばかりの展示であったが、こういった主に19世紀の絵画だけでもこれだけの所蔵品があるワシントン・ナショナル・ギャラリーの実力を垣間見た気がした。

 ところで、私が何故これだけアンドリュー・メロンとポール・メロンのことを書いたかというと、高校生の頃にポール・メロンの名を知ってメロン家について調べたことがあったからだ。実は私は高校生の頃、競馬に夢中になっていて、日本の競馬だけでは飽き足らず、ことにヨーロッパ競馬に興味を持ちだしたのであった。それでMill Reefという一頭の名馬の出現により、ポール・メロンの名を知ることとなるのだが・・・・・・・。実際にポール・メロンは資産が30億ドルから50億ドルあるといわれ、石油、鉄鋼、エレクトロニクス関係の一流会社の株、ヴァージニア州、西インド諸島の保有地に散在する広大な別荘用地、ニューヨークとワイントンにある貸しビル、莫大な絵画のコレクションを所有していた。そしてアメリカとヨーロッパに繋養している100頭前後のサラブレッドとシンジケート組織にある種牡馬の株を有し、競馬にも惜しまず資金を投入した。つまりポール・メロンは美術愛好家でもあり、競走馬のオーナー・ブリーダーでもあった。潤沢な資金でヴァージニア州のアッパービルにロックビー牧場を持つ。「売り家と唐様で書く三代目」という川柳があるが、日本では大金持ちは三代以上続かないというのが相場だが、ポール・メロンも三代目である。アイルランド移民の祖父トーマス・メロンはピッツバーグで銀行を設立。南北戦争後の復興景気の波に乗り成功。その息子アンドリューのことは書いた。そしてポール・メロンである。ポール・メロンは大馬主となり、自国アメリカでアーツアンドレタース、フォートマーシー、シーヒーローと言った一流馬の馬主となったが、競馬界で彼の名を有名にしたのは1968年にロックビー牧場で産まれたミルリーフによってである。

 アメリカ産のミルリーフは競馬の母国イギリスでデビューする。1970年2歳のときに新馬でデビュー。翌年、1971年にイギリスのダービー、キング・ジョージ6世&クィーン・エリザベスS、凱旋門賞と勝ちまくり、1972年に引退するが通算14戦12勝2着2回という準パーフェクトの成績を残し、当時において1年先輩の三冠馬ニジンスキーよりも上の評価をされたものである。ミルリーフは種牡馬としても成功。直仔からはイギリス・ダービー馬のシャーリーハイツ、リファレンスポイント、フランス・ダービー馬のアカマス。その系統からは日本でもイナリワン、オサイチジョージ、ミホノブルボン等を輩出している。つまり20世紀屈指の名馬と言われた

 そういった事情もあって、メロン家が造った美術館がワシントン・ナショナル・ギャラリーであるという現実。そういった興味も手伝って長々と書かしてもらった訳なのであるが、結局、メロン家の話ばかりで肝心な展覧会のことはほとんど書かなかったかな。まあ、これも御愛嬌とかでお許しください。



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2011.08.18 (Thu)

佐川美術館にセガンティーニを観に行く

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 そろそろブログを再開しましょうか・・・・といっても、以前のように頻繁に更新しません。気が向いたときに趣味関係の記事を更新するだけです。常日頃の愚痴を書いてもしょうがないことなので・・・・。それで復活記事の最初として、此の盆休みの間に、セガンティーニの絵を観に行ってきたので、それを記事にしてみることにいたします。

 ジョヴァンニ・セガンティーニは名前から察せられるようにイタリア出身の画家である。でも一般的にスイスの画家のように思われている。アルプスの風景を題材とした作品が多いからであろう。彼は1858年1月にオーストリアのアルコで生まれた。と言ってもアルコは現在では北イタリアにあり、18世紀中ごろはオーストリア領だったのである。その後、イタリアが統一されるのだが、当然アルコは以前からイタリア語圏の街だったのである。

 セガンティーニはアルコから近い大都市ミラノで絵師の助手および門弟となって絵を描き始める。ブレラ美術学校時代には肖像画や小道具などを描いていた。技法も古典的で配色も暗い。後の彼の絵とは趣がずいぶんと違っている。それが従来の画法に我慢が出来ず、自由な画法で創作を行ったので、教授たちから目の敵にされ、やがて退学になる。

 ブレラ美術学校を飛び出したセガンティーニは、やがてアルプスに魅せられミラノからアルプス近くのコモ湖畔の町にアトリエを構え、この時代にミレーの影響を受けたのか、農民や農村の風景を多数描いている。このころに結婚したセガンティーニは、移住しスイス国内に入り年を追うごとに徐々に高地へと住まいを移していく。こうしてアルプスの風景を後年に多数残すことになるのだが、同時に画風も変化していき、ディヴィジョニスム(分割主義)といった技法を確立するのである。それは澄んだ空気の中で明瞭に見える風景を描くためにたどり着いた技法で、色を混ぜあわせず三原色とその補色から成る純色で、細い線を並べたように塗り重ねることで濁りのない澄んだ光を描くといったようなものである。これまでの画法は絵筆で面を塗ることを要求されてきたが、セガンティーニは絵筆で線を細かく描いている。点描に近いがタッチはより鮮明である。

 また、セガンティーニはこのころに起こった象徴主義にも感化され、観たものを忠実に描くのではなく、魂の感じるままに作品を仕上げている。晩年は母性、生、死といった人間の根幹にあたるテーマに取り組むようになり、一般的にアルプスの風景画家と言った一面だけでは言い尽くせない幅広い作品を後世に多数残している。しかし、残念ながらセガンティーニは病に倒れ僅か41歳で亡くなっている。尚、このセガンティーニ展は国内33年ぶりとなるらしい。でも33年前は日本ではさほど有名な画家ではなった(展覧会を開催していたのは知ってはいたが・・・)。

 ところで今回行った佐川美術館は初めて訪れた美術館だった。京都に本社のある大手の運送会社佐川急便が創立40周年を記念して開館した美術館である。場所は滋賀県守山市。ただしJR東海道線の守山駅から路線バスで30分かかる。とにかく遠い。交通の便は不便である。バスの便も頻繁にあるわけではない。毎日、滋賀県に通勤しているので守山の駅も知ってはいるが、この街のことはさっぱり判らない。バスに揺られて着いた先は琵琶湖の畔。すぐ近くにゴルフ場と琵琶湖大橋がある。ロケーションは流石によく、都市部にある美術館だと周辺に建築物が多く敷地も狭く周辺は騒がしいが、この佐川美術館は都市部の美術館にない利点が全て備わっている。周辺が静か、土地が広い、空気がいい。ここに1998年広大な美術館が建てられた。

 大きな2棟の展示館。これらは切妻屋根で2棟は廊下で繋がっていて、展示館は大きな水庭(コンクリートの人工池)に囲まれていて、水の上に浮かぶ美術館と言った設定らしい。この美術館は、このデザインが高く評価されグッドデザイン賞、JCD賞、中部建築賞、照明普及賞、優秀照明施設賞、国際照明デザイナーズ協会照明デザイン賞等、建築学会やその他の部門で多くの賞を受賞しているのである。

 尚、この美術館には常設展示としては平山郁夫、佐藤忠良、樂吉左衛門茶室がある。交通の便は悪いが都会の美術館では味わえない心地よさがある。


 佐川美術館
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 館内の廊下から撮る。水庭の向こうに樂吉左衛門館の屋根が見える。

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 館内の廊下から水庭の地下を通って樂吉左衛門茶室に行くことができる。
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2010.12.11 (Sat)

ウフィツィ美術館自画像コレクション展に行く

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ウフィツィ美術館自画像コレクション

昨日は忘年会で帰宅が深夜になった。10時頃に忘年会は終わっているが、滋賀県の某所での忘年会。それも会社のあるところから三つ遠い駅。それも駅から送迎バスで15分ぐらいかかるところ。早く帰れるはずがない。従いまして昨日はPCも開いてないまま、就寝した。それも久々に大量のアルコールを飲んだので帰宅してからも喉がカラカラだった。私はビールをいくら飲んでも酔わないし、顔色も変らないから、飲んでないのではないかと勘違いされる。基本的にアルコールには強いのだが、このところ薬を飲み続けている関係からアルコールを控えていた。それで久々に飲んだのであるが、どちらかというと食べ過ぎたかも・・・・。滋賀県では人気のあるちゃんこ鍋の店らしい。そういえば全室埋まっていてどこも賑やかであった。まあ、そんなことはどうでもいいが、小生、昔からこの忘年会とやらあまり好きではない。小生は静かに飲みたい性質で、みんなで馬鹿騒ぎするのが好きではないというのもある。もっとも昔に比べると、今どきの若者の飲み方は大人しくなったと痛感する。我々の若い頃の年配者というのは、それは滅茶苦茶であった。その暴挙ぶりをいちいち書かないが、それに起因しているせいもあって忘年会が嫌いになったというのも或る。もっとも今の若者の忘年会での会話にも興味はないが・・・・・。時代が違っているというとそれまでだが、オタクめいた話題しか盛り上がらないというのも困ったものだ。昔は酔うと大概、誰かが政治的な信条を述べだし、それに対して反論する。そこから喧嘩になることもあったぐらいだ。昨今の忘年会では考えられない。昔は良かったとも思わないが今もつまらない。したがって忘年会は嫌いだ・・・・・。

 さて、話は変るが今日、小雨が降る中、大阪・中之島の国立国際美術館で催されている『ウフィツィ美術館 自画像コレクション』の展覧会に行ってきた。イタリアはフィレンツェにあるウフィツィ美術館で所蔵されている自画像ばかりを集めた展覧会である。なんとも珍しい展覧会では或るが、そもそもメディチ家で名高いフィレンツェのであるが、街の中を流れるヴェッキオ橋を挟んでピッティ宮殿とウフィツィ美術館が或る。いわばウフィツィ美術館はイタリア・ルネッサンス美術の殿堂であり、イタリア美術の所蔵としては世界一だとも言われる。そんなウフィツィ美術館には数々の画家の自画像も所蔵されている。この自画像はウフィツィ美術館でも一般に見学がすることができない、ヴァザーリの回廊に展示されている。

 このヴァザーリの回廊というのが、つまりアルノ川の両岸にあるピッテイ宮殿とウフィツィ美術館を空中回廊で繫ぐヴェッキオ橋の内部のことなのであって、1700点を超える画家や彫刻家の自画像の一部を空中回廊に展示しているのである。それで今回の展覧会、どのような画家、彫刻家の自画像が見られるかというと、メディチ家時代の画家の自画像から始まって、ハプスブルグ家の時代、イタリア王国誕生から第一次世界大戦前後まで、20世紀に活躍した巨匠、そして現代の画家達までである。

 どんな画家達が自画像を描いているかというと、ベルニーニ、レンブラント、ドミニク・アングル、モーリス・ドニ、ジョルジョ・キリコ、マルク・シャガール、そして日本の藤田嗣治、横尾忠則までいる。しかし、名前も知られていないような画家が多く、自画像とはいえ時代によって画風が系統化されているなあと感じた。

 もっとも自画像なんて、その人の風貌はよく判るが、実際に男の顔の自画像ばかり並んでいる展覧会を観ていてもあまり面白くない。風景画もなければ静物画もない。女性を描いた絵もほとんどないし、思ったとおり不入りであった。でもこれだけ空いていれば、ゆったりと観れたし、美術愛好家には嬉しい限りだ。これがもし印象派の展覧会となると、絵画の前には二重三重の人垣が出来てしまうから大違いである。でも過去のヨーロッパ絵画の天才、名人達の顔というのは、凡人と違うところがあるのかと探りながら観ていたが、絵画の大家たちもこれといって何の変哲もない顔をしていることが判った。画家の自画像と思うからそのような目で見てしまうが、ただの肖像画といわれてしまっても何らおかしくないなあと感じたまでである。でも画家達の多くは自画像を残している。やはり自己顕示欲が強いのか、それとも自分自身を描くというのが一番手っ取り早い方法なのかどうか判らないが、よくもこれだけの自画像があるものだ。
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2010.09.20 (Mon)

サントリー・ミュージアム天保山譲渡

 サントリー・ミュージアム天保山
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 大阪の築港といっても現在は波止場の役目を果してないが、海の側なのに天保山(天保山という山があるのだが・・・)と呼ばれ、かつてはこの場所から瀬戸内海、四国、九州、奄美航路の船が出ていた。現在は南港と呼ばれる埋立地にある新しい波止場から船が出ているので、この天保山は旧築港でしかない。それで現在、この天保山は何があるかというと、大阪の水族館である海遊館や大観覧車、またはその他の商業施設やホテルがあり、また、川を挟んだ北側にはユニーバーサル・スタジオもあり、ちょっとした大阪のプレイゾーンとなっている。

 さて、ここで本題に入ろう。この天保山にはサントリー・ミュージアム天保山がある。だが、今月末で休館が決まっている。大阪市に本社がある洋酒メーカー・サントリーが1994年、海遊館に隣接する大阪市の市有地に開館させたものである。大阪出身の建築家・安藤忠雄の設計による斬新な建築物で、ギャラリーや立体映像シアターなどを備える9階建ての複合文化施設である。そもそも、サントリーがこの地に建てたのは、大阪で育まれた企業でありながら、東京ばかりに文化施設(サントリー美術館、サントリー・ホール)を建てて、大阪に何も貢献していないといった揶揄した声に応えて創業の地に建てたものである。でも年150万人の入場者を見込んでいたが、一昨年は65万人に落ち込み、最近は年数億円の赤字が続いていた。

 これだといくら、採算を度外視して文化に投資する企業だとしても、閉館せざるを得なかったということなのか。ところが、このほどサントリーが大阪市に建物の無償譲渡と維持管理費7億円を寄付し、大阪市が美術館として存続させる方針を明らかにしたのである。大阪市は中之島の空き地に以前から市立近代美術館の建築を計画していたが、これまで財政難でなかなか実現しなかった。それが、2016年開館が決まったということで、近代美術館建設準備室が所蔵するコレクションの展示場やイベント会場などに活用するという。

 サントリーは大阪市に対し、所有するロートレック、ミュシャ等のポスターなど世界有数のコレクション約2万点も寄託し、経営は海遊館を運営する市の第3セクター「大阪ウォーターフロント開発」があたるという。しかし、何たる太っ腹のサントリーであろうか・・・・・・。サントリー・ミュージアムの閉館が決まってから、その後はどうなるのかと杞憂していたが、取り敢えずはは一安心ということか。でも、民間企業のサントリーでも駄目だったのに、官民意識の強い第3セクターが運営して乗り切れるのだろうか。問題は山積である。


 海遊館の向こう側にサントリー・ミュージアム天保山が見える。
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 海を挟んだ向こう側、所謂、南港には高さ256mのWTCコスモタワーも見える。ロケーションとしてはいいのだが・・・・。
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