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2010.04.24 (Sat)

ルノワールの絵を観に行ったが・・・

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  可愛いイレーヌのチケット

 一度、ルノワール展のことは記事にしたことがあるが、またルノワールの展覧会に行ってきた。以前、記事にしたときは京都の国立近代美術館だったが、今回は大阪中之島の国立国際美術館での開催である。題して『ルノワール 伝統と革新』である。展示品は日本初登場となる作品も含めて80点以上の作品が館内に並べてあった。

 肌寒く雨が降る中、中之島の美術館までルノワールの絵を観に行ってきたが、新しい発見はなかったなあ。ルノワールというのは日本では最も人気のある画家の1人で、過去、ルノワール展というものが何度、この日本国内で開催されたことやら・・・・・。それで今回、初物として目玉だったのが『可愛いイレーヌ』というタイトルの油彩画である。1880年の作というからオーギュスト・ルノワール自身にとっては作風の転換期にあたる作品である。この『可愛いイレーヌ』を描いた翌年にルノワールは大作『舟遊びの人々の昼食を』を描いたのである。つまり脂が乗り切っていた頃の作品であった。今回、展示されていた作品は色々な美術館で所蔵されているものを集めたのだろうけども、初期の作品は僅かで、ほとんどが『可愛いイレーヌ』よりも後の作品が多く展示されていたのである。

 ルノワールというのは印象派の画家と思われているが、彼が印象派らしき絵を描いていたのは初期の頃で、彼自身画風がだんだんとが古典回帰とも言うべき作風に変って行く過程にあって、何故か私の好きな作品が、この転換期に多いように思う。これから10年もすれとルノワールは豊満な肉体をした裸婦を頻繁に描くようになるのだから、1880年前後はルノワールが何かを模索していた時期だと思える。印象派風の絵を描くことに見切りをつけ、彼はあまり風景画を描かず、裸婦を描くようになった。でも、これが肖像画家ルノワールとして、女性と裸婦を描く画家として親しまれているとしたならば、彼は40歳あたりで絵の作風に変遷が見られたということになる。

 オーギュスト・ルノワールは1841年生まれで、『可愛いイレーヌ』を描いたのが39歳のときである。でもこの可憐な絵に代表されるような作風は影を潜め、まもなくすると『水浴の女』に代表される豊満な裸婦を描くようになる、これらの肖像画はルノワールの中で、どのような位置を占めるのか判らないが、ルノワールの裸婦は、ドガの踊り子と共に絵のモチーフとしては誰でも知っている連作のようなものであるが、私としてはルノワールの裸婦画がどうも好きになれない。この裸婦の絵がとても多いのでルノワールの絵が好きになれないのかもしれないが、日本ではルノワールを好きな人は多い。でも私がルノワールの裸婦を描いた作品群が嫌いなのは生理的なもので、別に理屈があるというのでもない。感覚的に嫌いなだけである。だが、少女を描いた可憐な絵は何故か微笑ましくて、ルノワールらしいぼんやりした輪郭が絵をさらにやさしく見せる。

 それでルノワールは好きか嫌いかどちらなのだと問われれば、私にとっては嫌いな画家とだけいっておこう。もっともセザンヌほど苦手ではないが・・・・・。

 ところで今回の展覧会では、美術史の新しい視点からルノワールの絵を探ろうとX線を用いて絵を光学調査し、画家ルノワールの技法を解説していたが、私にとってはこんなものどうでもいいことである。画家が何色を多く使っているとか、先に何を描いたかなど興味がない。そんなものよりも画家が、このように画風を変えていく状況において、どういった心境の変異があったのか、それともただ飽きただけなのか、そういったことの方が人間としては興味がいく。それにしてもルノワール展に来る人は女性が多いような気がするが・・・・・・・。

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2010.02.13 (Sat)

『THE ハプスブルク』展に行く

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『THE ハプスブルク』展覧会チケット

 今、京都国立博物館で行なわれている『THE ハプスブルグ』という名の展覧会に行ってきた。美術展に行くのも久々なら、京都国立博物館に行くのは何時以来だろうか。少なくとも10年以上は行ってない。京都で展覧会というと決まって、岡崎の京都市美術館か、京都国立近代美術館というのが決まりだったのに、今回は東山七条にある京都国立博物館で開催というから、京都駅から寒い中をエッチラオッチラと歩いてみた。昔なら阪急で河原町駅まで行き、そこから京阪電車に乗り換え、七条駅で降りれば近いのだが、今は滋賀県へ毎日、JRで通っているから京都駅まではJRで行けば無料ということでJRに乗ったのだが、京都駅から三十三間堂前の京都国立博物館までだと2㎞弱はある。この距離だと毎日、駅から職場まで歩いているからなんてことはないが、街中を歩くので矢鱈と信号につかまる。なのでなかなか到着しない。ほとんどの人は京都駅からだとバスに乗るそうだが、この程度の距離なら私はたいがいは歩く。

 京都駅近くの塩小路高倉の交差点で上がり(北へ行くという意味)七条通に出て東へ歩く。間もなくすると鴨川にかかる七条大橋に出て橋を渡り、京阪の七条駅をスルーしてさらに東へ歩くと緑に囲まれた広大な敷地を持つ京都国立博物館の南門へ到着した。本当に何年ぶりだろうか。京都に住んでいてもこの東山七条なんて、最近はほとんど来た事がない。もっとも40年以上前は、この近くの女子高に私の姉が通っていたから、何故か女子高の文化祭とやらを見にきた覚えがあり、この辺りは良く知っている。京都国立博物館の南側は三十三間堂だし、ここから東に歩いて坂を上っていたところに姉の通っていた高校があった。姉はよく考えてみると私立の高校に通っていたのか・・・・・。今は京都でも屈指の進学校だと言うが・・・まあ、そんなことは私には何の関係もないが、姉の子供も皆、成人してしまったことだし、懐かしい話ではある。

 さて、今回の展覧会は1869年に日本とオーストリア=ハンガリー帝国が国交を樹立してから140年が経ち、それを記念してウィーン美術史美術館とブダペスト国立西洋美術館の所蔵品から絵画、工芸品を120件、展示したということである。何だか敷居の高い展示品ばかりということになるのかな・・・・・まあ、いいか。

 ハプスブルグというと神聖ローマ帝国皇帝のルドルフ1世(1273年~1291年在位)から始まったヨーロッパ屈指の名門といわれる王家だが、スイスから始まって、一時はオーストリアからハンガリー、スペイン、フランス、イタリアにまで広がっていったと思うが、フフリードリッヒ3世、マクシミリアン1世といった時代から、フランツ・ヨーゼフ2世、マリア・テレジア、マリー・アントワネット等の時代を経て、ヨーロッパの歴史に翻弄され続けたといった印象が強い。近代になりヨーロッパ各国で革命や戦争が起こり、次第に王家は縮小していき現在も細々と末裔が生き続けているのかな・・・・・・。まあ、世界史はさほど詳しい訳でもないから、といっても人並み以上は知っているつもりだが(私の言う人並みというのが微妙だが)。まあ、ハプスブルグ家のことはもういい。ようするに今回はハプスブルグ家に関係する美術展ということである。ただ、ハプスブルグ家といっても歴史は長く、国家も数ヶ国に跨っているので、関係した画家も多く、展示されている絵画も多い。ざっと画家の名前を羅列してみるとしよう。ジョルジョーネ、ベルナルディーノ・ルイーニ、ロレンツォ・ロット、ラファエロ・サンティ、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ、パリス・ボルドーネ、ティントレット、バルトロメオ・パッサロッティ、ヴェロネーゼ、ルカ・ジョルダーノ、ジョヴァンニ・アントニオ・ブッリーニ、ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ、グイド・カニャッチ、エル・グレコ、ディエゴ・ベラスケス、フランシスコ・デ・スルバラン、バルトロメオ・エステバン・ムリーリョ、フランシスコ・デ・ゴヤ、アンドレアス・メラー、ハンス・フォン・アーヘン、ヨーゼフ・ヘッケル、フランツ・クサファー・ヴィンターハルター、フランツ・デ・ハミルトン、アルブレヒト・デューラー、ルーカス・クラナッハ、ペーテル・パウル・ルーベンス、バルトロメウス・スプランゲル、ウィレム・クラースゾーン・ヘーダ、アンソニー・バン・ダイク、レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン、ヤーコブ・イサークスゾーン・ファン・ライスダール・・・・・もうやめた。全てを書いていられない。とにかく欧州の著名な画家がハプスブルク家と何らかの形で繋がっていたということなのである。

 この中ではベラスケスの『白衣の王女マルガリータ・テレサ』が目玉のようだが、どれもこれも時代が物語る重要な絵画ばかりである。でも1人の画家を展示する展覧会と違って、これだけ中世・近世の巨匠の絵を並べると、印象派以降の絵画が塗り絵のように思えてくるから面白い。でも人が多すぎて、とても絵を鑑賞する状況ではなかったので、私は一通り見渡すや、さっさと出てしまったが・・・・・。
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2008.12.06 (Sat)

コロー展に行く

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 寒風吹きすさぶ今日、神戸の市立博物館で開催されている
コロー展に行った。そういえば、今から30年前になるが、バルビゾン派美術展というものがあって、そのときも神戸の美術館で開催されていたと思う。当時は王子公園の近くに美術館があって、ミレーの作品を中心に何人かの画家の絵を拝見したものなのだが、その中にコローの絵も何点か展示されていた。だからコローの絵をゆっくり拝むのは、そのとき以来ということになるだろうか・・・・・。

 コローというと風景画、人物画で知られるが、柔らかなタッチの古典的画法で描かれた絵が多いように思う。コローは印象派画家よりも僅かに時代が古いせいか、マネ、モネ、ルノワールといった画家達の影響を受けず、この辺り彼らとは一線を画しているから面白い。

 コローは1796年、パリの裕福な織物商人の子として生まれ、学生時代はルーアン、ポワシーの寄宿学校で学んだという。コローは画家になりたかったが、画家になることに反対していた父親に従い、いったんは商人としての修業をする。でも1822年、26歳の時、やっと父の許しを得て画家を志し、当時のアカデミックな風景画家アシール=エトナ・ミシャロン、ジャン=ヴィクトール・ベルタンに師事する。当時としては画家を志すには遅いスタートだった。最初はミシャロンに師事したが、コローが師事してから数か月後、26歳の若さで他界したのである。師を失ったコローは、ミシャロンの師であったベルタンに師事することになった。ベルタンは大きな画塾を構え、当時のフランス風景画の第一人者でもあった。こうしてコローは風景画家として飛び立ったのである。そして、画家になり当時の画家の憧れだった土地であるイタリアに行き、多くの作品を残すこととなる。

 コローは生涯に3度のイタリア旅行をしていて、1回目の旅行はもっとも長かった。それは1825年9月から1828年秋に及び、ローマとその近郊を中心にヴェネツィアなどにも滞在している。この時、屋外で制作した習作風景画には色彩感覚や構図法などに近代的感覚を見せるものが多く、後の印象派などの世代の画家に影響を与えている。コローはその後1834年と1843年にもそれぞれ半年ほどイタリアに滞在している。このような理由で彼の初期の作品はイタリア物が多い。

 一方コローは、晩年に至るまでフランス各地にも精力的に旅行し、各地の風景をキャンバスにとどめている。特にパリの西の郊外にあるヴィル=ダヴレーには父の購入した別荘があったことから頻繁に滞在している。また、フォンテーヌブローの森においても絵の制作を行っていた。そして、サロンには、イタリア滞在中の1827年に『ナルニの橋』などを出品して以来、晩年まで精力的に出品し、1848年にはコロー自身がサロンの審査員に任命された。1855年にはパリ万国博覧会に6点の作品を出品し、グランプリを得ている。晩年は大家として認められるようになり、死の直前までフランス各地への旅行と制作を続けた。1875年2月22日、病のため死去。生涯未婚であった。

 彼の風景画は、神話や歴史物語の背景としての風景ではなく、イタリアやフランス各地のごくあたり前の風景を描いたものが多い。特に1回目のイタリア滞在の際に制作した風景習作には、その光の明るさ、大胆なタッチなどに近代性を見せるものが多い。春から夏に屋外で制作を開始し、それを秋から冬にかけてアトリエで仕上げるのがコローの風景画制作の基本であった。こういった絵画制作の過程においては、どこから見ても印象派の画家ではないことが判る。また、後半生には、画面全体が銀灰色の靄に包まれたような、独特の色調の風景画を描いた。こうした風景画は、明確な主題のある歴史画とも、現実の風景をそのまま再現した風景画とも異なるもので、現実の風景の写生を土台にしつつ、想像上の人物を配した叙情的風景画である。コローは、こうした風景画のいくつかに『思い出』(souvenir)というタイトルを与えている。ただ、人物画は、親戚、友人など親しい人々の肖像画と、モデルに民族衣装などを着せて描いた空想的人物像に分かれるのだ。

 それで、結局、コローの影響を受けた画家としては、印象派、ポスト印象派のピサロ、モネ、セザンヌ、フォーヴィスムのマティス、ドラン、キュビスムのピカソ、ブラック、グリスなど多くの画家が挙げられる。ピサロは1855年のパリ万国博覧会でコローの作品を見ており、ピカソは何点かのコロー作品を収集していた。1909年にサロン・ドートンヌで開かれたコローの人物画の特別展示はピカソらに影響を与えたことが指摘されている。また、日本でもコローは早くから紹介され、浅井忠ら影響を受けた画家が多いことも知れ渡っている。

 今回、コローの絵は100点近く展示されていたが、最も注目されていた作品は1858年~1868年にかけて描かれたとされる『真珠の女』である。この絵はダ・ヴィンチの『モナ・リザ』を意識したのか、コロー自身も非常に気に入っていたらしく、彼が亡くなる居間に飾ってあったらしい。彼としたら風景画ではなく、人物画を気に入っていたというのも興味深いが、いずれのジャンルでも、古典の伝統をふまえつつ、鋭敏なレアリスムの感覚と確かな造形力によって独自の詩的世界を作り上げ、印象派をはじめ、多くの画家たちに多大な影響を与えている。 そんな画家がジャン=バティスト・カミーユ・コローなのである。
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2008.09.06 (Sat)

モディリアーニ展に行く

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モディリアーニ展

 今、大阪・中之島の国立国際美術館で催されているモディリアーニ展に行った。暑さがぶり返し、テクテクと中之島の会場まで歩くが、陽射しは強烈。またまた30℃突破の真夏日となったが、こんな日にアスファルト・ジャングルのようなところを歩くとたまらない。ただでさえ、国立国際美術館は交通の便の悪いところにある。最寄の駅となると地下鉄の肥後橋駅かJR東西線の新福島駅だろうが、どちらからも徒歩で10分以上はかかる。10分以上というと1㎞弱はあるから、炎天下に歩くとけっこうつらいものがある。でもこの催しは来週で終わってしまうから、しかたなく今日行ったまでだ。でも真夏に美術展なんてあまり気乗りはしない。それでブラブラと堂島川沿いを歩いて、会場まで行ったが、人がそこそこ来ているではないか。やはり人気画家の一人ではあるなあと妙に感心する。

 1階のエントランスを通ってエスカレーターで地下1階に行き、そこでチケットを買い、地下3階の展示会場まで降りて行く。

 モディリアーニというと、私が高校の頃、定期入れにモディリアーニの人物画を入れている女の子がいた。やはりその頃から、一部の人に人気があったのだ。彼の描く人物画というものは、一目瞭然で誰が見てもすぐに判る。アーモンド型をした黒目の無い眼。長い首と長い顔。あまりにも特徴的である。こういった画風は何処から影響を受けてこのような絵画に到達したのだろうかと、昔はよく想像したものだが、彼の原点にはプリミティヴィズムにあるといわれる。つまりアフリカやオセアニア、東南アジアにあるような原始美術の影響を色濃く受けているという。

 アメデオ・クレメンテ・モディリアーニは1884年にイタリアはトスカーナ地方の町リヴォルで生まれ、21歳の時にパリに来ている。両親はユダヤ人で当初は彫刻家を目指していたのだ。それが画家に転じ、色々と模索している中でカリアティッドというものに出会う。ここからモディリアーニ風の絵が生まれてくるのであるが、他のエコール・ド・パリ派の画家と同様、なかなか世に出てこれるものではなかった。そんな時、彼は有力なパトロンて出会う。それがポール・アレクサンドルである。アレクサンドルは医師で美術愛好家だったが、モディリアーニの作品に最初に関心を持った人として知られ、暫くの間モディリアーニのパトロンであった。このようにしてモディリアーニが世に出てくるようになるのだが、自身が35歳という年齢で亡くなったのは至極残念である。

 ところで今回の展覧会は、モディリアーニといっても油彩は20数点に過ぎず、大部分が裸婦を描いた鉛筆のデッサンで構成されている。展示順序としてはモディリアーニがプリミティヴィズムの発見からパリに到着して、ポール・アレクサンドルと出会うまでと、実験的段階への移行、カリアティッドの人物像及び前衛画家の道へ進もうとしていた。

 その後、モディリアーニはカリアティッドからの変遷を余儀なくされ、仮面を描いていたりして何かを模索している中、トーテム風の肖像画を描き出す。でも志半ば、35歳の時にモディリアーニは結核性髄膜炎に罹り、まもなく死亡した。でも長い顔と長い首、一色に塗られた細い目が印象的なモディリアーニの絵は、徐々に人気が出たようである。それはそれまでのヨーロッパに無かったカリアティッドとして熟し、一際人気を博した。

 このようにモディリアーニは、西洋美術だけではない地域の影響を作品に色濃く残し、それでいて古典的肖像画との統合等、新しい試みを絵に反映させていった。結局、それがモディリアーニ独自の画風を生み、エコール・ド・パリの一派として彼の名は知れ渡ることになったのだろう・・・・・。結局、モディリアーニの展覧会に行ったものの、あまり印象に残ることもなく、私は淡々と観て周り、早めに会場出てしまった。でも油彩画は400点しか描いてないモディリアーニでも、まだ日本に来ていない絵は無数にあるのだろうなあ・・・・・。
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2008.06.28 (Sat)

ルノワール+ルノワール展に行く

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 京都国立近代美術館で催されている『ルノワール+ルノワール展』に行った。http://www.ytv.co.jp/event/renoir/index.html
 このところ美術展なんてご無沙汰なのだが、珍しくルノワールなんて余りにもポピュラーな画家の展覧会に行ってしまった。当初、行くつもりなんて皆目なかったのである。

 実は私の職場に1人私と同様に美術に興味を持っている者がいて、時々、そういった話をすることがある。彼は自身でも絵を描いていて、よく絵画コンクールとかに自作の絵を出展している。それで佳作程度の入選を繰り返しているが、彼が言うにはルノワールの絵を今さら観にいきたいとは思わないといった。それは私も同感であって、何を今さらルノワールだという思いがあった。

 それこそ印象派の画家ルノワールの展覧会なんて、過去にどれほど日本で開催されたことか、それに日本の美術館が大枚を叩いて買って来ては、美術館の目玉にしているところだってある。だから日本で公開されたことの無いルノワールの絵画はだんだんと少なくなっている。おそらく運搬が無理なほど大型の作品以外は、ほとんど日本の美術館で一度は展示されたことがあるのではないだろうかと思ってしまう。だからルノワールの絵には少々、食傷気味で、またかという気がしないでもない。では、なんで行ったのだと問われると困ってしまうが、それはルノワール+ルノワールという展覧会のタイトルに惹かれたからとだけ言っておこう。つまり有名な画家であるピエール=オーギュスト・ルノワールと、もう1人のジャン・ルノワールという映画監督に焦点があてられていたからである。

 日本の多くの絵画ファンはオーギュスト・ルノワールが大好きだ。特に女性はルノワールの絵が好きなようだ。今回の展覧会も予想通り多くの人で埋まっていて、半数以上は女性だった。でも彼の息子がフランス映画界の巨匠ジャン・ルノワールであるということを、どれだけの人が知っているのだろうか。父が日本で有名すぎるぐらい有名な画家であるのに対して、その息子の映画監督となると、今時は知る人ぞ知るぐらいだろう。

 あいにく私は美術も好きだが、映画も好きなので、ジャン・ルノワールの映画はよく観たものである。おそらくフランス古典映画の5大監督の1人であるといわれると驚くかもしれない。ジュリアン・デュヴィヴィエ(『望郷』『舞踏会の手帖』『巴里の空の下セーヌは流れる』)、ジャック・フェデー(『ミモザ館』『女だけの都』)、マルセル・カルネ(『霧の波止場』『悪魔が夜来る』『天井桟敷の人々』)、ルネ・クレール(『巴里の屋根の下』『自由を我等に』『巴里祭』)と並んで戦前から活躍した映画監督として、ジャン・ルノワールは高い評価をされていたのである。だから父ルノワールの名声を借りなくても立派に知れ渡っていなくてはならない巨匠なのであるが、戦後のルノワールの映画は高く評価されず、今の映画界にあっては忘れられた存在と言ってもいいだろう。だから今回、父オーギュスト・ルノワールと一緒に息子ジャン・ルノワールがクローズアップされたことは喜ばしい限りである。

 ただ今回の展覧会は、オーギュスト・ルノワールの日本初公開の作品が何点か含まれているものの展示作品が50点ほどと少なく、ボリューム感の無い展覧会であったが、著名な『田舎のダンス』なんて作品も展示してあった。ただいえる事は、もうルノワールの絵は見飽きているといえばルノワールのファンに失礼であるが、個人的にはルノワールの絵はあまり好きではない私からすると、何度観ても新しい発見は無く、流形的な筆触によって描かれた柔らかいフォルムを眺めていると、心が癒されるもののこれといって感動はなかった。それにオーギュスト・ルノワールの絵画の展示スペースの間に、ジャン・ルノワールの撮った映画のシーンが映されていて、人でごった返すギャラリーの中では異彩を放っているものの浮いている印象があって、企画としては失敗ではなかったかと思う。今まで絵画の間に映像が流されていた展覧会など、あまりお目にかかったことが無く、また多くの人は残念ながらジャン・ルノワールの映画にはあまり興味を示さない。

 つまり対象となる映画が古すぎて、今日ではジャン・ルノワールの映画を熱心に観たことがあるという世代は65歳以上ということになってしまう。そもそもジャン・ルノワールという映画監督がいたことさえ知らない人が多いのに、何を今さら『女優ナナ』『ラ・マルセイエーズ』『大いなる幻影』『ゲームの規則』『フレンチ・カンカン』『河』『草の上の昼食』だといいたくなる。

 画家ルノワールの次男ジャン・ルノワールは、1894年に生まれた。つまりオーギュスト・ルノワール54歳の時の子供ということになる。第一次世界大戦の時、参戦療養中にチャップリンの映画を観て影響を受け映画監督を志し、無声映画の頃から映画を撮り始める。やがて1937年に発表した『大いなる幻影』で一躍有名になり、最近では1939年に撮った『ゲームの規則』の評価が高く、世界映画史上屈指の名作といわれている。

 このようにフランスやアメリカで、父ルノワールの名前を抜きにしても超一流監督であるジャン・ルノワールが、今日、日本で知る人が少なくなったというのも何だか寂しい。今回、父の絵とコラボレーションという形で紹介されたが、これをきっかけにもっと知れ渡って欲しい映画監督である。

 とにかくイタリアのネオ・リアリズムを始め、世界中の映画作家に影響を与えているフランス映画の巨匠なのであって、かのフランソワ・トリュフォーが師と仰ぐほど慕っているのだから、その繊細な作品作りは父の遺伝子を受け継いでいるとも思える。ただ、戦後に忘れられた存在となってしまったジャン・ルノワール。時代のテンポについていけなかったのか、古色蒼然とした映画を1950年代になっても作っていた。その後、フランスに帰らずアメリカで1979年まで生きていたのだから、最近の人なのである。

 これを期にジャン・ルノワールの評価が再び、日本でも高まるといいのだが・・・・・・・。父オーギュスト・ルノワールの話は今さら何も語ることがないので割愛します。
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2008.01.26 (Sat)

浮世絵名品展へ行く

http://www.city.kobe.jp/cityoffice/57/museum/ 

 当ブログのカテゴリーの中に美術というものが含まれているのに、一向に美術関係の記事がないと不満の声が聞こえてきそうである。もしかして筆者は美術が苦手なのではないかとも思われているかもしれない。でも嫌いではない。いや、美術館にはよく行くし、絵や彫刻や工芸品を鑑賞するのは文学作品を読む以上に好きである。でも、最近はすっかり美術館にも足が遠のいてしまったし観にいかなくなった。

 けして出不精ではないのであるが、週一回の休日に、わざわざ美術館に行ってまで美術を鑑賞しようなどと、考えなくなったからかもしれない。それでも若いときは、片っ端から美術館、博物館等に足繁く通っていたものである。ところが、最近は美術品を前にしても感動が薄くなったというか、若いときのような感受性もなくなったというべきか、芸術のジャンルにおいて凡そ美術というものに、最も興味、関心がなくなったからかもしれない。

 かつてはレンブラント展、エルミタージュ展、印象派展、プラド美術館展、バルビゾン派展、ピカソ展、ゴッホ展、ルノワール展、シュールリアリズム展、モネ展、ベラスケス展、ルネッサンス展、セザンヌ展、アングル展、エコール・ド・パリ展・・・・それこそ行かないものは無いほど展覧会通いをしていたものである。それで、ほとんど美術誌に掲載されているような絵は見尽くしてしまった感がある。ところが私には弱い分野というものがある。それが日本画なのである。だから、これからは同じ美術展に行くにも日本の美術を重点的に観るべきではないかと考えた次第である。それで今日は神戸まで『浮世絵名品展』を観にいってきた。

 イギリスにあるヴィクトリア・アンド・アルバート美術館所蔵の浮世絵が大挙して展示してあるというので、久々に神戸まで行ってきた。神戸に行くのは半年振りぐらいである。昔は友人に会う為に頻繁に神戸へ行ったものであるが、最近はあまり行かなくなった。阪急で三宮まで特急を乗り継いでいくが、乗車駅が増えて昔よりも所要時間がかかるようになった。阪急は、これから日本の人口増が見込めなくなったから、乗客を拾おうと考えたのか、昔よりもやたらめったら停車駅を増やしてしまった。これだと京都から神戸に行くのには、何かと便利が悪い。近くまで電車で行くぐらいならいいだろうが、50km以上の距離を移動するのには、やりにくい時代になってきた。京都から大阪まで行くのにも停車駅が多くなったとぼやいていたのに、大阪の十三から三宮まで行くのにも、西宮北口、夙川、岡本と停車する。このせいで時間が予想以上にかかってしまった。ああ、昔が懐かしい。

 ようやく、三宮に到着して、神戸の旧居留地まで歩く。この付近は先の震災でズタズタにやられたが、今では見事に復興していて、超高層ビルもチラホラと目立つようになってきた。今回、『浮世絵名品展』が行われている神戸市立博物館は、整然とした居留地の一画にある。さっそく1100円を払って館内に入る。

 3階と2階が展示場であるらしい。さてさて、3階まで階段で行くが、3階の入り口に行くやいきなりの行列である。

 鈴木春信、歌川国貞、歌川豊春・・・・浮世絵師の作品が額縁に入れられて並べてある。それを人が囲むように凝視しているのであるが、浮世絵だけに一枚の絵の大きさはしれている。西洋の油絵の大作のように巨大なものはない。したがって、縦50cmもないし、横も3、40cmぐらいの小品ばかりである。それを多くの人が集るように観ているので、なかなか前に進まない。浮世絵というのは版画だけに、同じ絵柄の作品は世界中に散らばっているだろうが、それでも江戸時代に摺られた版画ばかりだから紙そのものが弱っている。だから館内の照明を暗くして、温度と湿度を一定に保って展示している。だから、作品も近付いて観なくては詳細まで窺い知れない。だからこれは参った。

 人が皆目、動かない。美術展には慣れきっているものの、人が多いときは確かに落ち着いて観れたものではない。平日に行けばいいものであるが、平日なんか行けない立場の者には、祝日や土、日に行くしか術がない。本当に困った。人垣の後ろから首を伸ばすようにして垣間見る始末。かつて日本から大量に海外へ持ち出された浮世絵が、こうして里帰りして展覧会を開くというのも妙だが、外国人によって評価され、それによって日本人が再評価するというのもこの国にはありそうだ。浮世絵は明治の初期には見向きもされなかったというから、時代によって随分と評価は違うものだ。そういえば、私の姪が言ってたが、伊藤若冲なんて絵師はアメリカ人によって評価され、最近は国内でもたいへんなブームだというから、日本人って案外、自分の足元を見ていないのかもしれない。外国の絵ばかり観る人が多いが、これからは今一度、日本古来の文化を見直すよい時期にきているのかもしれない。もう、既に西洋画はほとんど日本で紹介されつくしているだろう。門外不出というのは、規格外の大作か、寺院の壁に画かれたフレスコ画ぐらいのものではないだろうか・・・・・。これからは日本画を再認識する人が増えてくるように思う。これはいいことだ・・・・。

 さて、今回、喜多川歌麿を始め、歌川国芳、鈴木基一、渡辺崋山、といった珍しい浮世絵も多かったが、目玉は葛飾北斎の富嶽三十六景と歌川広重の東海道五十三次の版画展示だろう。北斎の富士の絵は、お馴染みの『神奈川沖波裏』『凱風快晴』である。『神奈川沖波裏』は記念切手にもなっているが、かつてドビュッシーが、その絵を観て作曲をしたというから、フランスの人にとっては度肝を抜かれるほど衝撃的で印象的な絵だったのだろう。『凱風快晴』は例の赤富士である。北斎の富嶽三十六景は計10点の展示であった。一方、歌川広重(安藤広重)は東海道五十三次、近江八景、面白いことに『摂洲天保山』を画いた作品まである。今の大阪天保山の姿を観たら、広重はあまりの変わりように仰天しそうだが、京都で終わらずに大阪まで出向いて浮世絵を残していたとは驚いた。

 さて、日本初公開163件あって、なるほどと感心しながら館を後にしたのであるが、いったいどれほどの浮世絵が海外に持ち出されたのか気になった。本当に明治維新というのは、日本の文化にとって良かったのかそれとも・・・・・・考えさせられる1日だった。
                                
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