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2010.05.01 (Sat)

唐招提寺に行く

 薬師寺に行ったからには当たり前のように唐招提寺にも寄り道した。唐招提寺は薬師寺のすぐ北側にある日本律宗の総本山の寺院である。創建は759年で建立した人は鑑真である。鑑真とは中国・唐時代の高僧で聖武天皇の寵招に応え、授戒の師として日本へ来ることになったが、鑑真が奈良の東大寺に到着するまでの12年間、5回に及び渡航に失敗している。だが、それにも拘らず初志貫徹で、とうとう6回目の渡航にして成功。この時、鑑真は失明していたという。・・・・この話は井上靖が『天平の甍』という題で小説にしているから知っている方もいるだろう。こうして鑑真は日本の地に降り立ったが、まず手始めに東大寺大仏殿の近くに戒壇院を設け大勢の僧に授戒した。こうして日本は仏教国家として実態を伴うようになり、鑑真和上からは多くの僧侶が巣立っていったのである。その後、東大寺戒壇院を離れて建立した寺院がこの唐招提寺であった。

 さて蘊蓄はこの程度にして、唐招提寺は10年間も長々と金堂の大修理を行なっていた。それで昨年の秋、ようやく終了し落慶法要が行なわれ、今は南大門を入ると我が国現存最大の天平建築である金堂が姿を現す。見事な形式美であるが、唐招提寺は廃仏毀釈の影響をモロに受け、創建当初の大伽藍は見られるべくもないが、国宝17件、重要文化財200余件を擁する名刹である。


 南大門から入ると大修理を終えた金堂が目に入る。
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 天平時代の金堂では唯一の遺構として君臨する。風雪1200年以上になる大棟の両側に鴟尾(しび)が誇らしげに見える。
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 これは校倉造りの宝蔵である。正倉院と並ぶ天平時代の代表的建築物である。
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 ところで唐招提寺は境内は広いが、整備された観光寺院ではない。したがって講堂が金堂の北側にあるが、その他の建築物は分散していて、多くの文化財を収蔵している新宝蔵や、鑑真和上像を安置する御影堂、東山魁夷の障壁画がある宸殿も常時公開されているのでもない。でも時代の重さを体現できる渋い寺院である。

 唐招提寺をあとにして近鉄電車に乗ると、たったの4駅で奈良駅に着く。駅前は平城遷都1300年祭の垂れ幕や飾り付けがしてあり、流石に奈良の表玄関だと認識させられる。商店街を抜けて猿沢の池まで来て興福寺の五重の塔をバックに入れて写真を撮る。これは定番の撮影ポイントである。
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 法相宗大本山興福寺の見事な五重の塔である。高さから言うと京都の東寺の五重の塔に次ぐ高さである。
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 興福寺に来た目的は、久々に帰って来た阿修羅像を拝見するためである。東京、福岡と展示の為、興福寺を暫く離れていた。ようやく戻ってきて、国宝館に安置された。ここは国宝の像が多く、阿修羅といってもさほど目立つというのでもないが、とにかく顔が三つ、腕が六本の阿修羅像は人気がある。僅か1.5mほどの像であるが、ここは人盛りが出来ている。阿修羅像の正面には5mもある千手観音像が構えていて、小さな阿修羅像と向かい合っていて面白い。以前はガラスで覆われていて見辛かったが、今回の国宝館のリニューアルでガラスが取り除かれ見やすくなっていた。それにしても西ノ京と違って奈良の中心街にある興福寺は人が多くて参った。
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