2010.05.22 (Sat)
住吉大社に行く
暑くなったものだ。少し前までは雨が多く気温の低い日が多かったが晴れると暑い。無理もない。間もなく6月だから当然かもしれない。もうちょっとで梅雨に入るのだろうが、今日も湿気を含んだ蒸し暑い日で、晴れてはいるが雨が近いなあと感じる風の吹き方であった。そんな今日、住吉大社へ行ってきた。
住吉大社・・・・? 住吉大社というのは大阪の住吉区にある神社である。昭和21年までは官幣大社であって、全国にある約2300社ある住吉神社の総本宮でもある。一般的には奈良や京都にある神社には総本宮というところが多いが、大阪も歴史の古いところ、この住吉大社も歴史は古い。そもそも日本書紀や古事記によると、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が、火神の出産で亡くなった妻・伊邪那美命(いざなみのみこと)を追い求め、黄泉の国に行ったものの、妻を連れ戻すことが出来ず逆に汚れを受けてしまい、その汚れを清めるために海に入って禊払いしたのである。その時に住吉大神の底筒男命(そこつつのをみこと)、中筒男命(なかつつのをみこと)、表筒男命(うはつつのをみこと)が生れたとされる。
さらに第14代仲衰天皇の妻である神功皇后が新羅に出兵する際、住吉大神の力をいただくことになり、新羅遠征により大いに国の安定が築かれたのである。その結果、住吉大神のお告げにより、この地に祭られることとなったと言い伝えられている。
よくよく考えれば当時の都が置かれていた大和盆地や山城の国は内陸で、先進地域であった隋や唐、または朝鮮半島から文化を輸入するには、どうしても難波の津から渡航することになる。だから一時期には難波京として僅かな期間、都が置かれていたのでは? という学者も少なくない。それで万葉の多くの歌人が今の大阪。当時の難波の地を歌枕に入れていることでも、難波は古くから栄えていたのだと推測されるのだ。
住の江の岸に寄る波よるさへや 夢の通ひ路人目よくらむ 藤原敏行吾朝臣
住の江とは今も大阪に残る地名で、住吉大社付近の地名である。あの頃は、住吉大社から西は梅であった。
難波潟短き蘆のふしの間も 逢はでこのよを過ぐしてよとや 伊勢
難波潟(なにわがた)とは難波の海の意味で、今でいう大阪の入り江ということになる。
わびぬれば今はた同じ難波なる みをつくしても逢はむとぞ思ふ 元良親王
澪標(みおつくし)とは船が往来するときの目印にする標。船が安全に行き来するため、大阪の海には澪標という杭が所々、打たれていたのである。それが現在の大阪の市章のデザインとなっているのだ。
難波江の蘆のかりねのひとよゆゑ みをつくしてや恋ひわたるべき 皇嘉門院別当
音に聞く高師の浜のあだ波は かけじや袖のぬれもこそすれ 祐子内親王家紀伊
高師の浜とは現在の堺市浜寺から高石市にかけての浜で、昭和30年代までは浜寺海岸として海水浴場として栄えたが、その後にコンビナートが出来、海岸線は埋め立てられてしまった。
とにかく小倉百人一首に選出された難波の歌が、上記のようなものである。でも面白いもので、今では難波(なにわ)と書くと難波(なんば)と読む人が大半だろう。今では浪速、浪花と書いてなにわと読むことが一般的になってしまった。
南海電車住吉大社駅を降りて本通を渡ると住吉大社の鳥居が姿を現す。

住吉大社の名物・太鼓橋である。反橋とも言う。

住吉大社には本宮が四つあって、これは第一本宮。底筒男命を祀っている。

第二本宮と第三本宮が見える。それぞれ中筒男命、表筒男命を祀っていて、第四本宮は神功皇后を祀っている。

太鼓橋(反橋)を渡ろうか。とにかく男の足だと斜めでないと踏めない狭さの階段状の橋である。

川端康成の短編小説『反橋』の一文を思い出した。・・・・・反橋は上るよりもおりる方が怖いものです。私は母に抱かれておりました。反橋の頂上でそのような話をするのはあまりにも芝居がかっているように思われます。ほんとうにその時五つの私が反橋を渡ったのでありましょうか。それさえ疑い出すと記憶は怪しくなります。・・・・・

大社前の本通には大阪で唯一残る路面電車・阪堺電車がグオーングオーンと音をたてて通過して行った。何となく昭和30年代を思い出す光景だ。

住吉大社・・・・? 住吉大社というのは大阪の住吉区にある神社である。昭和21年までは官幣大社であって、全国にある約2300社ある住吉神社の総本宮でもある。一般的には奈良や京都にある神社には総本宮というところが多いが、大阪も歴史の古いところ、この住吉大社も歴史は古い。そもそも日本書紀や古事記によると、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が、火神の出産で亡くなった妻・伊邪那美命(いざなみのみこと)を追い求め、黄泉の国に行ったものの、妻を連れ戻すことが出来ず逆に汚れを受けてしまい、その汚れを清めるために海に入って禊払いしたのである。その時に住吉大神の底筒男命(そこつつのをみこと)、中筒男命(なかつつのをみこと)、表筒男命(うはつつのをみこと)が生れたとされる。
さらに第14代仲衰天皇の妻である神功皇后が新羅に出兵する際、住吉大神の力をいただくことになり、新羅遠征により大いに国の安定が築かれたのである。その結果、住吉大神のお告げにより、この地に祭られることとなったと言い伝えられている。
よくよく考えれば当時の都が置かれていた大和盆地や山城の国は内陸で、先進地域であった隋や唐、または朝鮮半島から文化を輸入するには、どうしても難波の津から渡航することになる。だから一時期には難波京として僅かな期間、都が置かれていたのでは? という学者も少なくない。それで万葉の多くの歌人が今の大阪。当時の難波の地を歌枕に入れていることでも、難波は古くから栄えていたのだと推測されるのだ。
住の江の岸に寄る波よるさへや 夢の通ひ路人目よくらむ 藤原敏行吾朝臣
住の江とは今も大阪に残る地名で、住吉大社付近の地名である。あの頃は、住吉大社から西は梅であった。
難波潟短き蘆のふしの間も 逢はでこのよを過ぐしてよとや 伊勢
難波潟(なにわがた)とは難波の海の意味で、今でいう大阪の入り江ということになる。
わびぬれば今はた同じ難波なる みをつくしても逢はむとぞ思ふ 元良親王
澪標(みおつくし)とは船が往来するときの目印にする標。船が安全に行き来するため、大阪の海には澪標という杭が所々、打たれていたのである。それが現在の大阪の市章のデザインとなっているのだ。
難波江の蘆のかりねのひとよゆゑ みをつくしてや恋ひわたるべき 皇嘉門院別当
音に聞く高師の浜のあだ波は かけじや袖のぬれもこそすれ 祐子内親王家紀伊
高師の浜とは現在の堺市浜寺から高石市にかけての浜で、昭和30年代までは浜寺海岸として海水浴場として栄えたが、その後にコンビナートが出来、海岸線は埋め立てられてしまった。
とにかく小倉百人一首に選出された難波の歌が、上記のようなものである。でも面白いもので、今では難波(なにわ)と書くと難波(なんば)と読む人が大半だろう。今では浪速、浪花と書いてなにわと読むことが一般的になってしまった。
南海電車住吉大社駅を降りて本通を渡ると住吉大社の鳥居が姿を現す。

住吉大社の名物・太鼓橋である。反橋とも言う。

住吉大社には本宮が四つあって、これは第一本宮。底筒男命を祀っている。

第二本宮と第三本宮が見える。それぞれ中筒男命、表筒男命を祀っていて、第四本宮は神功皇后を祀っている。

太鼓橋(反橋)を渡ろうか。とにかく男の足だと斜めでないと踏めない狭さの階段状の橋である。

川端康成の短編小説『反橋』の一文を思い出した。・・・・・反橋は上るよりもおりる方が怖いものです。私は母に抱かれておりました。反橋の頂上でそのような話をするのはあまりにも芝居がかっているように思われます。ほんとうにその時五つの私が反橋を渡ったのでありましょうか。それさえ疑い出すと記憶は怪しくなります。・・・・・

大社前の本通には大阪で唯一残る路面電車・阪堺電車がグオーングオーンと音をたてて通過して行った。何となく昭和30年代を思い出す光景だ。

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