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2010.12.08 (Wed)

キャノンボール・アダレイ・・・・・アルバム『サムシン・エルス』を聴く

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 今日は12月8日である。12月8日といっても何の日か判らない人も多いかもしれない。日本人にとっては太平洋戦争の始まったハワイ真珠湾奇襲の日である。この日を我々は忘れてはならないだろうし、戦争の悲惨さを風化させてはいけないだろう。なので覚えておかなくてはならない日では或るが・・・・・・・。最も私にとっては、真珠湾奇襲よりもジョン・レノンの命日といった方が身近である。今からちょうど30年前の今日、ニューヨークの自宅前でファンという男の凶弾に倒れたのだった。そのときジョン・レノン40歳。もし生きていたら70歳になる。小学生の頃、ラジオから流れる洋楽を聴きだしたが、時を同じくしてビートルズが大ブレークした。当時、中学生の姉が夢中になってビートルズを聴きだしたので、つられて聴きまくっていたものだ。それ以来、西洋のポップスというと何時もビートルズを中心に回っていた気がする。でもビートルズの活動期間は短かった。実際、デビューから7年ほどで解散してしまったから、ビートルズをリアルタイムで知っている人は少ないと思う。ビートルズのファンといっても、解散以降にファンになった人の方が今では多いだろう。それはともかく、ビートルズというと今、生きているのはポール・マッカートニーとリンゴ・スターの2人だけとなった(ピート・ベストもいるが)。でも私はジョン・レノンが誰よりも好きだった。彼の作るシンプルなメロディに何時も敬服していた。最も私の姉はポール・マッカートニーの方が好きだったようだが。でも何故、ジョン・レノンが暗殺されなければならなかったのか。こればかりは残念でしょうがない。今、生きていたら、70歳のご老人であろうが、ステージに立ちエネルギッシュに歌っていただろうに・・・・。30年目ではありますが合掌させていただきます。さて、思い出に浸っていてもしょうがないので本論に入るとする。

 キャノンボール・アダレイというと著名なアルト・サックス奏者であるが、絶えず側にマイルス・デイヴィスがいたというイメージが私の中でこびりついていてしょうがない。事実、このアルバム『サムシン・エルス』も録音メンバーに名を連ねマイルス・デイヴィスはトランペットを吹いている。また実際にキャノンボール・アダレイのジャズ・ミュージシャンとしての素養を見出したのは他ならぬマイルス・デイヴィスだったといってもいいかもしれない。

 キャノンボール・アダレイは本名をジュリアン・エドウィン・アダレイといい1928年にフロリダで生まれている。でも有名になったのは遅くニューヨークにやって来た1955年以降のことである。弟のナット・アダレイ(コルネット奏者)とのコンビでマーキュリー・レコードにアルバムを吹き込んでいるがこれといって評判にもならなかった。でも実力を高く買う人も多かった。その中の1人がマイルス・デイヴィスであった。マイルス・デイヴィスは1957年秋、セクステットのよるコンボを結成するにあたり、キャノンボール・アダレイに声をかけたのである。こうしてマイルス・デイヴィスの著名なアルバムに幾つかメンバーとして参加し、そして1958年3月9日、このアルバムが録音されている。

 メンバーはトランペットがマイルス・デイヴィス。アルト・サックスがキャノンボール・アダレイ。ピアノがハンク・ジョーンズ。ベースがサム・ジョーンズ。ドラムスがアート・ブレイキーである。余談だがアート・ブレイキーはこの年の10月には別のメンバー(ジャズ・メッセンジャーズ)で『モーニン』を含むアルバムを録音しているから、この頃はハード・バップ全盛期だったことを窺わせる。

 ところで当アルバムの収録曲は5曲。『Autumn Leaves(枯葉)』『Love For Sale』『Somethin’ Else』『One For Daddy-O』『Dancing In The Dark』であるが、『サムシン・エルス』はマイルス・デイヴィスのオリジナルで、『ワン・フォー・ダディ・オー』はキャノンボール・アダレイの実弟ナット・アダレイのオリジナルである。それ以外は何れもお馴染みのナンバーである。『ラヴ・フォー・セール』はコール・ポーターの作曲によるスタンダード・ナンバー。最近ではバディ・リッチのビッグ・バンドでよく聴かれるが本来はミュージカルの曲である。ここではキャノンボール・アダレイとマイルス・デイヴィスの掛け合いが面白い。『ダンシング・イン・ザ・ダーク』もミュージカル『バンドワゴン』のナンバーで、アダレイのサックスフォンがむせび泣くように奔放に奏でられる。

 冒頭の『枯葉』はその後の『枯葉』の演奏を決定付けたといっても過言ではない。それまではシャンソンのナンバーとしてイヴ・モンタンが最初に歌いエディット・ピアフも歌い、英語版ではビング・クロスビー、フランク・シナトラといった白人も歌い、そしてナット・キング・コールが歌いそれぞれインパクトがあった。それがジャズのインスルメンタルとしては、当アルバムの『枯葉』が決定版として今でも輝いている。ピアノとベースのイントロにアルト・サックスの音が加わり、その後にマイルス・デイヴィスのトランペットで曲の主題がゆったりと吹かれるが、この最初のタタタタという有名なフレーズで一気に引き込まれてしまう。これぞマイルス・デイヴィスだ。トランペットにミュートをつけて音を抑え、ゆったりとしたテンポで全ての装飾を省いた簡単明瞭の演奏なのだが、これが意外にも優美で典雅な格調の高い音に聴こえるのだ。一方、キャノンボール・アダレイはマイルス・デイヴィスとは違った形で切り込んでくる。こちらは自由にアドリブ展開しているが、全体的にはマイルス・デイヴィスが光っている珠玉の演奏といえるだろう。その後、ジャズの演奏でこの『枯葉』を超える演奏に出くわしたことがないという人も多いが頷ける気がする。

 ところでキャノンボール・アダレイはマイルス・デイヴィスのバンドで研鑽を積み、やがて自らのバンドを結成。弟と組んで一応の成功を収め、さらにはボビー・ティモンズ、ジョー・ザヴィヌル等と一緒に演奏したこともある。その後はソウル・ジャズやセルジオ・メンデスと組んでボサノヴァを取り入れたこともある。

 でもキャノンボール・アダレイは無類の大食い。キャノンボールという仇名もそこから来ているのだが、それに起因して糖尿病に悩まされていた。そして1975年、僅か46歳で亡くなってしまう。死因は脳梗塞だった。


 『枯葉』の演奏。マイルス・デイヴィス(tp)とキャノンボール・アダレイ(as)の掛け合いが実に面白い。しかし、名演である。(動画はなし) 


 『The Jive Samba』の演奏。

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