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2012.03.07 (Wed)

芥川龍之介・・・・・『蜘蛛の糸』を読む

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 子供の頃といっても小学生の高学年になっていただろうか。芥川龍之介の短編集を読んだものだ。とはいっても芥川龍之介の作品のほとんどは短編なんであるが、小学生にとって長編小説というのは荷が重いというかとても読みこなせない。そこで芥川龍之介の作品群が登場するのであるが、読書慣れしていない小学生にとって、芥川の短編小説はちょうどいい教材だったのかもしれない。また学校の方でも夏休みの読書感想文用に芥川龍之介の小説の幾つが指定図書にリストアップされていたものだ。たとえば『羅生門』『鼻』『芋粥』『地獄変』『杜氏春』『藪の中』『トロッコ』『河童』『歯車』・・・・・といった著名な小説がある。これらの多くは当時の小学生が読むように教師から薦められ読んだものである。各自、理解できるかどうかは個人差があるので推し量ることが出来ないが、こういう私も芥川龍之介の小説は短編とはいえ理解していたとは言い難い。つまり短編が多いが、その短い小説の中にも中身が濃いというか長編にも匹敵するほど多くの意味が凝縮されているので、小説の大意とするもの意図とするものが判りにくかったというのが本音である。

 そんな中でよく覚えている短編が一つある。それが『蜘蛛の糸』である。文庫本にしてたったの5ページにしかならない小説。でも、とても短い小説の中にも、籠められている意味が成長途上の少年の心に突き刺さるかのように心の中に入ってきたものである。あらすじを言うと・・・・・お釈迦さまがあるとき、極楽の蓮池を通して遥か下にある地獄を覗いてみた。その地獄には多くの罪人たちが苦しみもがいているのであった。そんな中に犍陀多(カンダタ)という男が目に留まったのである。カンダタは生前に人を殺したり放火をしたり色々と悪事を働いたのだが、それでもたった一つ善いことをしたのだった。それは小さな蜘蛛を踏み殺そうとしたが思いとどまり命を助けてやったということであった。お釈迦様はそれを思い出し、それだけの善いことをしたのならカダタを地獄から救い出してあげようと一本の蜘蛛の糸を地獄へ下ろしたのである。

 ある日、ガンダタは自分の頭の上に銀色に光った蜘蛛の糸が垂れ下がっているのが眼に入り、この糸を辿っていけばきっと地獄から這い上がれ、うまくいくと極楽にも行けるかもしれないと考え蜘蛛の糸を昇り始めたのである。どんどんと昇っていくのであるが、地獄と極楽の間には何万里もある。流石に罪人のガダタも疲れ果て一休みするつもりで糸にぶら下りながら下を見たのである。一生懸命昇ってきた甲斐があって血の池も針の山も遠ざかってしまい、このまま昇っていけば地獄から抜け出すのも存外わけがないと思い「しめた。しめた」と笑ったのである。ところがふと気がつくと、下からは自分が昇ってきた蜘蛛の糸を罪人どもが蟻の行列のように続いて昇っているのである。このままでは蜘蛛糸が重さに耐えきれず切れてしまうだろう。ガンダタは恐れて「この蜘蛛糸は己のものだぞ。下りろ下りろ」と喚いたのである。すると、その瞬間に糸は切れてしまいガンダタは再び地獄に落ちてしまったのである。

 以上が『蜘蛛の糸』のあらすじである。簡潔な小説であるが、この中には色々な意味が込められていると思う。人間には善人と悪人がいる。何処で区切るかは難しいが、殺人や放火をしているからガンダタは悪人なのだろう。それで罪人として地獄に落とされた。でも一度だけ善い事をした。それが蜘蛛を踏みつけようとせずに助けたということ。それで一度、地獄から這いあがれるチャンスを与えたということ。罪人の中にも善の心は持っている。その心さえあれば改心出来るチャンスはあるので苦行の末に地獄から這いあがらせてあげようというものか・・・・・・。しかし、ガンダタが自分のあとから糸を昇って来るのを見て、糸が切れては大変だ。糸は俺のものだ。と喚いた瞬間に利己的な欲求だけが込み上げてきた。釈迦はそれを見て、再びガンダタを地獄に追いやった。つまり他人を思いやる心と利己的な欲求は表裏一体であるものの、自分だけが助かろうと身勝手な思いが勝った瞬間、ガンダタは地獄に舞い戻っている。釈迦がどれだけ慈悲の心を持とうとも受け取る側の人の精神が腐敗しているとご加護を受けることが出来ないということなのか。

 この短編小説の言わんとするところは凡そそのようなものかもしれないが、実はもっと深い意味がそこには込められているかもしれない。残念ながら小生の読解力では判りかねるが、世の中のほとんどの人間の持つ醜さというものは罪人ガンダタと大して変わらない。もし、自分とてガンダタと同じような状況に追い込まれたならば、ガンダタと同様にこれは俺の糸だと叫ぶであろう。ガンダタがけして愚かな奴だなんて思えないし彼が自業自得だなんて笑えない。おそらく人間の本質というものはガンダタのようなものだと思う。

人間には色々な煩悩が多い。煩悩は我執から生ずる。その煩悩を捨て去り、無我な境地に昇りついてこそ仏の心が宿るのだとしたら、我々、凡庸な人間たちは全て地獄から這いあがることなどで出来ないのではないだろうか。結局のところガンダタという罪人は世俗の人間そのものではないのか・・・・・・。つまり世の中に生きるほとんどの欲深い人間の姿なのかも。
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