2012.03.10 (Sat)
誰も訪れない京都の旧跡・・・・・羅城門跡
3月になって暖かくなってきた。2月とは違って休日ともなると家にいるのがもったいない気がしてどうしても外出してしまう。もっともお金がないと物も買えず贅沢な食事もできないが、ぶらぶらと歩くのだけはタダである。この季節そういう訳で京都は急に観光客が急増するのだが、清水寺や高台寺から円山公園に抜けるあたりは人で溢れている。また例によって嵐山、嵯峨野も人だらけ。金閣寺、竜安寺、仁和寺と続く道も人が多い。銀閣寺、哲学の道あたりもしかり。また壬生寺周辺も最近は新撰組の人気もあってか若い女の子が大勢つめ掛ける有様で、どこもかしこも京都は観光客だらけということなのである。でもこんな京都ではあるが、さっぱり人の訪れない旧跡と言うのも多々ある。なにしろ1200年の歴史を誇る日本の都文化の集積地であった街が京都である。なので由緒あるところがそこら中にある。とはいえ観光案内にも殆ど載ることもなくしたがって誰も訪れない。いや歴史マニアは訪れるだろうが・・・・・・。それでこういったところにスポットを与えてみようと思い小生は今回訪れてみたのだが、それが羅城門跡である。羅城門とは羅生門ともいうが、794年に平安京遷都がなされた。所謂、これが現在の京都の始まりなのであることは歴史の授業で教わることなのであるが、その平安京の正門のことを羅城門という。
延暦13年(794年)、鳴くよ鶯、平安京じゃないけども桓武天皇によって長岡京から現在の京都市内に都が移された。それが平安京である。山背国葛野の地に南北5.2㎞、東西4.5㎞に及ぶ都が建設されたのである。形は平城京と似通っているが、大和盆地の平城京と違って周囲に大きな川があったということである。すると水運もよく四方の国の人が集まりやすいと考えられたのである。したがって最初の平安京は鴨川の西、桂川の東の平らな盆地に造営されたのである。でもこの地の選定は唐の国から伝わる風水の考えによるものともいわれるのであった。それで北東の位置に比叡山があるのだが、平安京の鬼門にあたる北東は王城鎮護の山とされたのである。一方、平安京を造営するに当たり北の起点となったのが船岡山である。船岡山は標高112mほどの丘であるが、この山のすぐ南に大内裏があってその中に大極殿が建てられたのである。こうして都の王城を中心にして都が造成されていったのだが、その大内裏からまっすぐ南に向かって造られた大きな通りが朱雀大路だった。朱雀大路は道幅が約84mという大きなものだった。そして北から南に向かって一条から九条までの大路が造営され東西南北を碁盤の目が走るような見事な平安京が形成されたのである。そして、その朱雀大路の南の正面入り口に羅城門という巨大な門が建てられたのである。いわば羅城門は平安京の玄関であったということである。
さてさてこんな歴史の重要な地である羅城門なのに、現在は寂れてしまい石碑が残っているだけというのは一体どういうことなのだろうか・・・・・・。それはその後の京都の歩んだ歴史が物語っている。まず794年に平安京が造営されたが、この平安京と言うのは今の京都市街地の位置からすると西へずれている。今の京都市内で言うと平安京の西端は今の西京極。東端は寺町だという。こんなことを書いても京都の人しか判らないかな。まあいいか。先に話を進めるとする。するとその後、京都の市街地は東に移っていったことになる。その理由であるが、朱雀大路よりも西は右京と言われるが、右京の地は当時、桂川の湿地帯にあったため平安京が造営されても一向に宅地化が進まなかったのである。とうとう100年後には平安京内では禁じられていた農地へと転用されてしまい、時の貴族たちは左京北部へ移っていったのである。それで藤原氏を始め左京北部が上流貴族の密集地となってしまったのである。一方、貧しい人達は平安京の東端よりも東の鴨川沿いに住み始め、さらに鴨川よりも東には寺院や別荘が建てられたという。そして平安遷都から200年後の980年には羅城門がとうとう倒壊してしまったのである。それで、朽ち果てた羅城門周辺は荒廃していき、周辺は治安悪化の一途をたどり夜ともなれば誰も近寄れなくなったのである。芥川龍之介の小説『羅生門』でもお馴染みだろう。いつしか羅城門は死者を捨てていくような荒れ果てた地となった。そして現在まで再建されることなく、羅城門は石碑だけが残っているのである。
さて、そんな羅城門跡を小生はこのたび訪れてみた。ちょうど京都市街地の南端辺り。ここに東西に走る大通りがある。これが九条通である。今は西半分が国道1号線と171号線に属するが平安京時代は都の一番南の大路であった。この九条通沿いに東寺があるが、その東寺の五重塔を横に見ながら九条通を西へ向かって歩くこと5、6分、すると羅城門と書かれたバス停がある。そのバス停のすぐ近くから路地に入ったところに児童公園がある。そして公園の中に石碑だけが立っている。その石碑が羅城門跡の石碑である。今から1200年前はそれこそ巨大で豪奢な平安京の正門が屹立していたのだろう。それが、今は何と寂しいことか。これだと誰も訪れはしない筈だ。しかし、遠く平安京に夢を託せば、遠方からやっと都にたどり着いた人達が心を躍らせて羅城門を見上げたことだろう。
この羅城門から真っすぐ北に向かって朱雀大路が伸びていたことだろうが、1200年後の今日は何処を見ても民家ばかり。昔の朱雀大路は今で言うと千本通にあたるというが、道幅の広さはずいぶん狭くなっている。京都の歴史は言い換えれば波瀾万丈の歴史と言ってもいいだろう。当時の平安京よりも今の京都の市街地は大きくなっているし、都の正門だった羅城門も今では市街地に飲み込まれてしまった。あまり変化のない街と言われる京都ではあるが、流石に1200年の隔たりは大きすぎる。今では平安京の一端を見ることは何もできないのである。
現在の羅城門跡

延暦13年(794年)、鳴くよ鶯、平安京じゃないけども桓武天皇によって長岡京から現在の京都市内に都が移された。それが平安京である。山背国葛野の地に南北5.2㎞、東西4.5㎞に及ぶ都が建設されたのである。形は平城京と似通っているが、大和盆地の平城京と違って周囲に大きな川があったということである。すると水運もよく四方の国の人が集まりやすいと考えられたのである。したがって最初の平安京は鴨川の西、桂川の東の平らな盆地に造営されたのである。でもこの地の選定は唐の国から伝わる風水の考えによるものともいわれるのであった。それで北東の位置に比叡山があるのだが、平安京の鬼門にあたる北東は王城鎮護の山とされたのである。一方、平安京を造営するに当たり北の起点となったのが船岡山である。船岡山は標高112mほどの丘であるが、この山のすぐ南に大内裏があってその中に大極殿が建てられたのである。こうして都の王城を中心にして都が造成されていったのだが、その大内裏からまっすぐ南に向かって造られた大きな通りが朱雀大路だった。朱雀大路は道幅が約84mという大きなものだった。そして北から南に向かって一条から九条までの大路が造営され東西南北を碁盤の目が走るような見事な平安京が形成されたのである。そして、その朱雀大路の南の正面入り口に羅城門という巨大な門が建てられたのである。いわば羅城門は平安京の玄関であったということである。
さてさてこんな歴史の重要な地である羅城門なのに、現在は寂れてしまい石碑が残っているだけというのは一体どういうことなのだろうか・・・・・・。それはその後の京都の歩んだ歴史が物語っている。まず794年に平安京が造営されたが、この平安京と言うのは今の京都市街地の位置からすると西へずれている。今の京都市内で言うと平安京の西端は今の西京極。東端は寺町だという。こんなことを書いても京都の人しか判らないかな。まあいいか。先に話を進めるとする。するとその後、京都の市街地は東に移っていったことになる。その理由であるが、朱雀大路よりも西は右京と言われるが、右京の地は当時、桂川の湿地帯にあったため平安京が造営されても一向に宅地化が進まなかったのである。とうとう100年後には平安京内では禁じられていた農地へと転用されてしまい、時の貴族たちは左京北部へ移っていったのである。それで藤原氏を始め左京北部が上流貴族の密集地となってしまったのである。一方、貧しい人達は平安京の東端よりも東の鴨川沿いに住み始め、さらに鴨川よりも東には寺院や別荘が建てられたという。そして平安遷都から200年後の980年には羅城門がとうとう倒壊してしまったのである。それで、朽ち果てた羅城門周辺は荒廃していき、周辺は治安悪化の一途をたどり夜ともなれば誰も近寄れなくなったのである。芥川龍之介の小説『羅生門』でもお馴染みだろう。いつしか羅城門は死者を捨てていくような荒れ果てた地となった。そして現在まで再建されることなく、羅城門は石碑だけが残っているのである。
さて、そんな羅城門跡を小生はこのたび訪れてみた。ちょうど京都市街地の南端辺り。ここに東西に走る大通りがある。これが九条通である。今は西半分が国道1号線と171号線に属するが平安京時代は都の一番南の大路であった。この九条通沿いに東寺があるが、その東寺の五重塔を横に見ながら九条通を西へ向かって歩くこと5、6分、すると羅城門と書かれたバス停がある。そのバス停のすぐ近くから路地に入ったところに児童公園がある。そして公園の中に石碑だけが立っている。その石碑が羅城門跡の石碑である。今から1200年前はそれこそ巨大で豪奢な平安京の正門が屹立していたのだろう。それが、今は何と寂しいことか。これだと誰も訪れはしない筈だ。しかし、遠く平安京に夢を託せば、遠方からやっと都にたどり着いた人達が心を躍らせて羅城門を見上げたことだろう。
この羅城門から真っすぐ北に向かって朱雀大路が伸びていたことだろうが、1200年後の今日は何処を見ても民家ばかり。昔の朱雀大路は今で言うと千本通にあたるというが、道幅の広さはずいぶん狭くなっている。京都の歴史は言い換えれば波瀾万丈の歴史と言ってもいいだろう。当時の平安京よりも今の京都の市街地は大きくなっているし、都の正門だった羅城門も今では市街地に飲み込まれてしまった。あまり変化のない街と言われる京都ではあるが、流石に1200年の隔たりは大きすぎる。今では平安京の一端を見ることは何もできないのである。
現在の羅城門跡

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