2014.07.06 (Sun)
ペレス・プラードを聴く

ペレス・プラードって誰だって若い人は思うだろう。所謂、ラテン音楽というジャンルでの中のマンボの王様といわれたのがペレス・プラードである。昭和40年代後半から50年代にかけてザ・ドリフターズの『8時だよ!全員集合』という人気番組が生放送されていたが、この中で加藤茶がつるつる頭の鬘を被り突然寝転がると場内が暗くなり赤いスポットライトが浴びせられる。すると艶めかしい音楽が流れる。すると加藤茶はストリッパーのような演技を行い「ちょっとだけよ。あんたも好きね」と囁く。それを見ていかりや長介が止めに入るという何時もお馴染みの一場面が展開される。毎週、この演出が行われるのだが、観に来ていた人(子供が多かったが)がやんやの喝采を送る。これを観るために大勢つめ掛けていたような気もするが、この曲が当時は話題になったものである。つまりこの曲の元がペレス・プラード楽団の『タブー』である。
ペレス・プラードは1916年にキューバで生まれた。当時はまだ社会主義国家ではないキューバだった。父が新聞記者で母が教師というインテリ家庭に生まれ幼い頃からピアノを習っていたので音楽の素養が身に付き、何時の間にかハバナのクラブで演奏するようになる。そして既に既存の音楽であったルンバにアメリカで流行っていたスウィング・ジャズの要素を入れマンボ音楽を演奏するようになった。でもキューバではあまり受け入れられることもなく彼はメキシコへ渡る。これが第二次世界大戦終結から3年後の1948年である。彼の地でペレス・プラードは自らの楽団結成し人気を博すようになる。なので我々はメキシコの人だと言ったイメージがある。
やがてペレス・プラード楽団はヒット曲を立て続けに出すようになりショウ・ビジネスの本場アメリカに進出。最初のヒット曲は1949年の『エル・マンボ(Que Rico El Mmbo
)』で、翌年の1950年『マンボNo.5』が世界的にヒットし一躍有名になるのである。その後、『マンボNo.8』、1955年には映画『海底の黄金』で使われた曲『セレソ・ローサ』は何とアメリカのヒットチャートで10週間連続1位、26週連続チャートインという快挙を成し遂げる。さらに1958年『パトリシア』は全米のヒットチャート1位であり40万枚の売り上げを記録するなど一世を風靡するほどであったが、その後のロックンロール等の台等でマンボは次第と下火になりペレス・プラードは活躍をメキシコへと移すのである。
でも日本には人気絶頂期の1956年に初来日以降、17回も来日していることなど隠れた人気を得ていた。1950年代の日本の若者がズボンの裾を細くしたマンボズボンと言うものを穿くなどして影響も少なくなかったのだ。謂わばラテンブームの火付け役で在り、マンボスタイルの楽団が日本でも数多く結成されたことは言うまでもない。日本ではロカビリー・ブームというものがあったが、一部ではマンボ・ブームのようなものもあったらしい。実際、その時代を私は知る筈もないが、後のフォーク・ブーム、エレキ・ブームが起こる前は、そういったジャンルの音楽が若者の間で流行っていたということである。それが時代を経て、突然、ドリフターズのコントにペレス・プラードの『タブー』が使われるということは、当時のミュージシャンの中には影響を受けた者が数知れずいたということであり、ペレス・プラードの名は後世まで轟いているのである。しかし、ペレス・プラードは1989年にメキシコで亡くなっている。地元メキシコでは彼の足跡を讃え派手に葬式を行ったが、母国キューバは社会主義国家と言うこともあり、その死は僅かな報道で伝えられただけであった。
Mambo No.5
Tabu(動画はなし) 「ちょっとだけよ あんたも好きね」
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