2015.02.11 (Wed)
プルースト『失われた時を求めて』を読む
フランスのマルセル・プルーストが書いた『失われた時を求めて』という未完の小説がある。この小説も長編も長編、大河小説である。これも大学生の頃に読んだかな。兎に角長い。小説を読み慣れてないと途中で挫折するのではないかな。それ故に20世紀の小説に一大転回を記した大巨編として知られている。
一杯の紅茶に浸して口に含んだプチット・マドレーヌが話者の私に喚起する少年時代の回想からこの話は始まる。少年が毎年休暇を過ごす田舎町コンブレーには二つの散歩道がある。一つはブルジョワ、スワンの別荘に向かう道であり、そこには娘のジルベルトがいる。もう一つは中世以来の名門、ゲルマント公爵夫人の城館に向かう道である。それらは少年の私の心の中に住む二つの情景の方向であるが、小説はこの二つの世界が世紀末から第一次世界大戦直後までの時代を背景に互いに交錯し融合していく様を軸にして展開して行くのである。
話者はパリで再会したジルベルトとの淡い初恋に破れた後、祖母とノルマンディ海岸のバルベックへ出かけ、浜辺で知り合った花咲く乙女たちの一人アルベールチーヌに心ひかれる。社交人の集まるこの避暑地では、またゲルマンと一族のサン=ルーやシャルリュスの知己を得る。が、パリに帰ると、彼等に導かれて憧れのサン・ジェルマン街の貴族社会に少しずつ入り込んでゆき、またシャルリュスを中心とした奇怪なソドムの町も垣間見る。一方、話者はバルベック以来のアルベルチーヌとの交わりが深まるにつれて、彼女がゴモラの女ではないかという疑惑をつのらせ、嫉妬のあまり彼女を自分の家に閉じ込めて真相を知ろうとするが、やがてアルベルチーヌの出奔と死によって、この地獄的な同棲生活も終結する。
人生への夢も作家への希望も失って索漠たる気持ちで二度目の転地療養からパリに帰って来た話者は、招かれてゲルマント大公邸のマチネに赴く途中、邸内の中庭の不揃いな敷石につまずく。すると突然、言い知れぬ幸福感が全身を浸しサン・マルコ寺院の洗礼場の敷石の感覚と共に、ヴェネチアの町が蘇る。それはマドレーヌ体験と同じ無意志的記憶の現れである。話者はこれら過去と現在とに共通の超時間的な印象こそが存在の本質を開示し、そして、此の奇跡だけが『失われた時』を見い出させる力を持っていることを理解する。
サロンで会った旧知の人々はみな驚くばかり年老いてる。死んだサン=ルーとジルベルトの間にできた娘が目の前に現れた時、彼はこの少女の中に、彼の少年時代の憧れであった二つの方向が一つに結びあわされているのを見る。かくして彼は時の破懐を越えた永劫不壊の世界の存在を知り、いよいよ念願の書物に着手しようと決意する。
大河小説を簡単に纏めるというのは難しいが要約すると以上のような内容になるかな。バルザックやスタンダールの小説とかに比べると、この『失われた時を求めて』は少し変わった小説である。この小説には『幻滅』『パルムの僧院』のような情熱的行動によって、ストーリーを展開させていく人物は一人もいないからだ。ゲルマント公爵夫人、シャルリュス、ブロックなどのように忘れがたい印象を残す人物の存在するが、彼等にしても行動によって性格を示すのではなく、謂わば、印象派の絵画のように様々な時間と空間の中で少しずつ点描されながら次第に複雑な全体を現してゆくのである。主人公も作品の中では活きるというよりも観察することを旨としており、心に映ずる自然界の官能的な美しさや社交界の微細で醜悪な人間模様な精巧なレンズのように写し撮ったり、おのれの内面に寄せては返す感情と感覚の起伏をじっと味わい尽くしたりすることを主要な任務とする一種の虚点、言葉の性格な意味での反=主人公である。
この小説の眼目は現実界で起こるような様々な事件をそのまま描出するのではなく、主人公という観察器械を通して体験された言葉で言い表すことのできない困難な感覚や心理を異常に息の長い喚起的な文体を用いて明るみに引き出すことにあるのかもしれない。
一杯の紅茶に浸して口に含んだプチット・マドレーヌが話者の私に喚起する少年時代の回想からこの話は始まる。少年が毎年休暇を過ごす田舎町コンブレーには二つの散歩道がある。一つはブルジョワ、スワンの別荘に向かう道であり、そこには娘のジルベルトがいる。もう一つは中世以来の名門、ゲルマント公爵夫人の城館に向かう道である。それらは少年の私の心の中に住む二つの情景の方向であるが、小説はこの二つの世界が世紀末から第一次世界大戦直後までの時代を背景に互いに交錯し融合していく様を軸にして展開して行くのである。
話者はパリで再会したジルベルトとの淡い初恋に破れた後、祖母とノルマンディ海岸のバルベックへ出かけ、浜辺で知り合った花咲く乙女たちの一人アルベールチーヌに心ひかれる。社交人の集まるこの避暑地では、またゲルマンと一族のサン=ルーやシャルリュスの知己を得る。が、パリに帰ると、彼等に導かれて憧れのサン・ジェルマン街の貴族社会に少しずつ入り込んでゆき、またシャルリュスを中心とした奇怪なソドムの町も垣間見る。一方、話者はバルベック以来のアルベルチーヌとの交わりが深まるにつれて、彼女がゴモラの女ではないかという疑惑をつのらせ、嫉妬のあまり彼女を自分の家に閉じ込めて真相を知ろうとするが、やがてアルベルチーヌの出奔と死によって、この地獄的な同棲生活も終結する。
人生への夢も作家への希望も失って索漠たる気持ちで二度目の転地療養からパリに帰って来た話者は、招かれてゲルマント大公邸のマチネに赴く途中、邸内の中庭の不揃いな敷石につまずく。すると突然、言い知れぬ幸福感が全身を浸しサン・マルコ寺院の洗礼場の敷石の感覚と共に、ヴェネチアの町が蘇る。それはマドレーヌ体験と同じ無意志的記憶の現れである。話者はこれら過去と現在とに共通の超時間的な印象こそが存在の本質を開示し、そして、此の奇跡だけが『失われた時』を見い出させる力を持っていることを理解する。
サロンで会った旧知の人々はみな驚くばかり年老いてる。死んだサン=ルーとジルベルトの間にできた娘が目の前に現れた時、彼はこの少女の中に、彼の少年時代の憧れであった二つの方向が一つに結びあわされているのを見る。かくして彼は時の破懐を越えた永劫不壊の世界の存在を知り、いよいよ念願の書物に着手しようと決意する。
大河小説を簡単に纏めるというのは難しいが要約すると以上のような内容になるかな。バルザックやスタンダールの小説とかに比べると、この『失われた時を求めて』は少し変わった小説である。この小説には『幻滅』『パルムの僧院』のような情熱的行動によって、ストーリーを展開させていく人物は一人もいないからだ。ゲルマント公爵夫人、シャルリュス、ブロックなどのように忘れがたい印象を残す人物の存在するが、彼等にしても行動によって性格を示すのではなく、謂わば、印象派の絵画のように様々な時間と空間の中で少しずつ点描されながら次第に複雑な全体を現してゆくのである。主人公も作品の中では活きるというよりも観察することを旨としており、心に映ずる自然界の官能的な美しさや社交界の微細で醜悪な人間模様な精巧なレンズのように写し撮ったり、おのれの内面に寄せては返す感情と感覚の起伏をじっと味わい尽くしたりすることを主要な任務とする一種の虚点、言葉の性格な意味での反=主人公である。
この小説の眼目は現実界で起こるような様々な事件をそのまま描出するのではなく、主人公という観察器械を通して体験された言葉で言い表すことのできない困難な感覚や心理を異常に息の長い喚起的な文体を用いて明るみに引き出すことにあるのかもしれない。
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