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2018.04.15 (Sun)

久しぶりに日曜日に更新した

日曜日の朝、雨だった。今年の4月は珍しく快晴が続き雨が少なかったが、昨日の夕方から降りだし夜中は本降りだったようだ。それでいて今日の気温がちょうど良い。この前まで4月とは思えないほど暖かき日が続き一気に桜が満開になりもう散ってしまった。今咲いているのは八重桜が中心かも知れない。ただ八重桜の方が桃色が強く、花が幾重にも重なって見応えがあるんだけど、ただ葉も一緒に青くなるのでソメイヨシノとはちょっと重なる。それこそソメイヨシノが日本の桜の代名詞のように今は思われている。でも江戸時代末期に人間の手によって産み出された品種であるだけに花弁が先に満開になり人気に火がついた。それで全国に植樹されるようになったのがソメイヨシノである。でも個人的には山桜やその他の桜の方が小生は好きだけどな。
 それにしても眠たいなあ。ようやく春眠暁を覚えずになってきたかといっても最近は加齢と共に朝早く目が覚めるようになった。5時に間が覚めるなんて当たり前になってきた。ただ布団に入っているだけだ。昔は二度寝でも出来たがもう1度目が覚めると最近は寝れなくなってきた。でも今日は眠たい。外はまだはっきりしない天気で薄暗い。室内も明かりを消すと暗いから不思議と眠くなってくる。ここで久しぶりに日曜日の朝にPCの前に座っているけどもだんだんと眠くなってきたのでちょっと居眠りでもしようかな。といっても今日は朝の7時まで寝ていたのだけどな。
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2018.04.09 (Mon)

大阪メトロだって

 一昨日の土曜日、久しぶりに大阪の繁華街に行った。野暮用があってのことだが、久しぶりに地下鉄に乗ると大阪メトロという文字が目に入った。そうか大阪市営地下鉄がこの4月から民営化され名称が大阪メトロになったらしい。しかしちょっと待てよ。これは東京メトロのパクりじゃないか。もっと他の名称に出来なかったのかと言いたくなる。正式名は大阪市高速電気軌道と言い愛称が大阪メトロだって。ここで一言文句を言わせて貰うならばせっかく民営化に踏み切るのなら大阪市の市を除いて大阪高速電気軌道でいいのにと思う。また愛称でも大阪サブウェイとか大阪アンダーグラウンドとか大阪チューブとか大阪サブラインとか大阪U-ラインとか他に色々と考えられたのに敢えて東京と同じ名称とはまた真似したと言われるぞ。市長に言わすとメトロは都市を意味する。すまりメトロポリタンと言うことなのか。でもメトロの名称を使ってつのはフランスの地下鉄であってメトロ・ド・パリ、メトロ・ドゥ・マルセイユ、イタリアもメトロを使ってるかな。でもドイツはU-バーンと言うし、ニューヨークはサブウェイ、ロンドンはアンダーグラウンド、通称でチューブという。ただし世界中を見渡すとメトロポリタンを地下鉄の愛称にしている都市は多いから結局は大阪メトロに落ち着いたのか・・・・。まあしょうがない。
 それなら何故に民営化したのなら大阪市の市を取らなかったのかと言いたくなる。市があるかないのはどうでもいいじゃないかと言う人がいるだろうけど、これはない方がいいのだ。大阪市なんて言ったらかつて大阪市営モンロー主義があって昭和の時代まで大阪市営以外の鉄道の市内中心部乗り入れに難色を示していて、京阪電鉄なんかはそのあおりをモロに受けていた。だからせっかく民営化したら大阪市の市を取っ払って欲しかったというのが正直なところだ。それは何故かというと大阪市営の頃は大阪市の端で地下鉄の路線を延ばさずほとんど建設を停めてしまい府下に出てこないからである。出ても僅かに数キロで路線はその先に伸びていかなかった。大阪市が出費するのに何故、大阪市内でないところまで建設する必要があるのかといいうところだろう。確かに地下鉄は建設費が莫大になる。でもこのモンロー主義が蔓延していたのかおかしなところに地下鉄の終点がある。たとえば今里筋線の井高野だとか谷町線の八尾南。さらに千日前線の南巽。こんなところに地下鉄の終点があってもしょうがない。何れも住宅地だが乗る人も降りる人も僅か。それならもう少し伸ばして府下に出て行けば他の私鉄やJRと連絡できて乗降客も増え利用者も便利になる。ほとんどの路線が私鉄やJRと総合乗り入れまたは他の鉄道と連絡している東京の地下鉄と比べれば大阪の地下鉄の端っこの駅の便利の悪さはどうしようもないことが判る。今里筋線なんて府下に出ていって阪急の正雀、JRの岸辺辺りまで伸ばせば乗り換える人も増えるのにと思うのだが井高野という大阪市の北の端で止めてしまった。たったの1キロほどなのに。だから赤字路線なのだ。小生なんか岸辺か正雀で乗り換えれば大阪の東部や南部に大阪の中心部まで出なくても行けるのにと思うのだがおかしなところで地下鉄の終点があるので余計な時間とお金をかけて行かなくてはならないのだ。それを大阪市はモンロー主義の影響から考えてなかったのだろう。だから民営化するともっと自由な考えから他社と共同で便利化を共有することが出来るのにと思いながら相変わらず社名に大阪市の市が入っていたら同じことじゃないか。
 大阪市は行政区域が狭くおそらく日本の政令指定都市の中でも面積が狭い。さらにいうならば大阪府全体が大阪市でもいいぐらいの面積である。大阪府自体の面積は日本の都道府県の中でも46番目と言う狭さ。関西空港を造らなかったら香川県より狭い全国最小と言うほど狭い。つまり大阪府全体が市街地みたいなものである。山間部というのは北部の豊能地域、南部の南河内、南泉州ぐらい。かつての大阪市の周りは田んぼという時代とは違う。状況は昭和30年代とは違うのだ。大阪は東京よりも先に郊外が衛星都市として開発された歴史がある。だから民営化されたのなら府下に路線を伸ばしてもっと他社乗り換えの便利良さを考えてくれともいいのにとは思う。
 ただ日本は人口減少の時代に入っている。問題は利用者の数が減っていってると言うことだ。唯一、東京圏は人口の社会増加が未だ続いている。これは一局集中が顕著であるからで、かつて大阪発祥の企業が全て本社機能を東京に移しているのも多大に影響している。関西でも大学を出たが働く企業が東京に本社を移すので行かざるを得ないという事実がある。今はインバウンドの影響で大阪の繁華街も賑わっているが、今里筋線のような繁華街を通らない路線は乗降客も少ない。でもせめてもう少し伸ばして他社と連絡機能を考えてくれれば乗降客も多少は増える。これから確実に日本は考えていかないと人口は減っていくのだ。だからモンロー主義から脱皮して民営化に踏み切った大阪市営地下鉄も多岐に渡って経営を考えていかないと行けない時代になっている。他社の私鉄も同様で経営は鉄道だけでは儲からない時代になっている。だが鉄道は公共性のあるものだからまず乗降客の利便性をもっと考えてもらいたい。


EDIT  |  22:25  |  鉄道  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2018.04.01 (Sun)

ソメイヨシノも散りかけで

 今年の桜は開花が早かった。先々週まで寒の戻りで桜の開花は今年は遅いのかなと思ったが、なんのなんのその後は一気に気温が上がり、関西では史上最も開花が早い年となった。一体どうなってるんだ。気温が下がった後は初夏のような気温になりソメイヨシノもびっくりしたんじゃないだろうか。先週に一気に満開になりその後も雨が降らず快晴の日が続いている。こんな年も珍しい。毎年、今頃は三日晴れが続くとその後は雨が降ったりして、花散らしの雨と恨まれるのに今年に限っては早く開花して、雨で散らされずに時期が過ぎて少しずつ散っていきやがて葉桜になりそうだ。
 それはそうと4月1というと例年だとそろそろ満開になるかなという頃なんだが。今年は例年より開花が早かったからそろそろ散りだしている。小学校の入学式の頃はもう桜が散ってそうだな。でも小生は徒歩の途中だとか電車の中から満開の桜を観るだけ。桜の満開の下で酒を飲んでバーベキューをして騒ぐという気にはなれない。あれは眺めているだけで良いんではないかなあと思うが。
EDIT  |  09:37  |  ちょっとした日常  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2018.03.25 (Sun)

メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調を聴く

 正直言って世の中のヴァイオリン協奏曲で一番有名ではないかと思う。俗にベートーヴェン、ブラームスのヴァイオリン協奏曲を含めて3大ヴァイオリン協奏曲と言うそうだ。さらにチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を入れると4大ヴァイオリン協奏曲になるそうだ。こんなこと誰が言い出したのかな。
 でも日本では最も演奏回数も多く最も人気があるバイオリン協奏曲ではないだろうか。これには異論もあるだろうが、小生はそのように思ってる。それは冒頭からいきなり例のメロディが出て来るからだ。この冒頭が一番有名なのである。しかしであるこの曲が始めって5分、6分すると聴くのをやめてしまう人が多い。つまり冒頭があまりにも有名なヴァイオリン協奏曲と言っていいだろう。考えてみれば姉が小学生の頃に何故かヴァイオリンを習いだしたことを思い出す。それというのもこのメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を聴いたからだ。この曲の冒頭を聴き感銘を受け弾いてみたいと思ったという。でも難しいらしい。当たり前だ。結局、姉は一年もしないでヴァイオリンを習うのを辞めてしまった。だから少しばかりドヴォルザークのユーモレスクなら弾けたのかな。でもノコギリのような音だった。ただしメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲といっても第1楽章しか姉は聴いたことがないのではないだろうか。この曲全部で3楽章、30分ぐらいある。まあおそらく冒頭は知っていてもこのヴァイオリン協奏曲を全て聴いた人の方が世の中、少ないだろうけど。クラシック音楽なんてみんなが聴かないのは長すぎるからで、サビの部分、有名な旋律なんて僅かしかない。だから3分芸術なんていう安直なポピュラー・ミュージックにみんな走ったのであるが・・・・。
 ところでメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調と敢えて記したのはメンデルスゾーンにはもう一曲、ニ短調のヴァイオリン協奏曲があるからだ。こちらは若書きで曲のできもホ短調に比べると難がある。だからメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲というのはこの曲のことを一般的に指すのである。通称でメンコンと呼ばれることも多くそれだけ有名な曲と言うことである。最もメンデルスゾーンと言うのはモーツァルトと同じく早熟の天才と言われたが、34歳で書いた同曲の出来が傑出していて、メンデルスゾーンの他の曲でいいなあと思うのは小生が聴いてもあまりない。他には交響曲(以前、当ブログでスコットランドを紹介した)やピアノ協奏曲、そして有名なピアノ曲『春の歌』、管弦楽曲『フィンガルノ洞窟』とかあり、それに誰でも知っている『真夏の夜の夢』の中の結婚行進曲がある。この結婚行進曲はワーグナーの同曲と共に結婚式では有名だが、これさえもほとんどの人はメンデルスゾーンの作曲によるものだと言うことを知らないみたいである。だから早熟の天才と言われ38歳で早く亡くなったのはモーツァルト同様だが、現在でも愛され続けている曲の数となるとモーツァルトに比べるとメンデルスゾーンの曲は遥に少ないと言えよう。
 これは彼がユダヤ人であったこととも関係しているみたいでもあり、ドイツではヒトラーのユダヤ人迫害があり彼の音楽を高く評価しないという気風みたいなものもあったようだ。ただメンデルスゾーンは作曲以外でも功績を残していて、若くしてライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者に任命されバッハの復興にに勤め、30代になってからはライプツィヒ音楽院を開校し院長となり後進の指導に当たり1847年、38歳で亡くなった。

アンネ・ゾフィー=ムター(ヴァイオリン) クルト・マズア指揮

EDIT  |  10:46  |  音楽(クラシック)  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2018.03.21 (Wed)

寒の戻りか

 春分の日だってね。それにしては一日雨。気温も低い。ここに来て寒の戻りか。今日はこのような天候なので墓参りに行けなかった。仕方がない。昨日は大阪で桜の開花宣言があったらしい。えらい早いな。それでいて今日の気温は参ったな。でも関東は雪が降っているらしい。気温も真冬並みだって。いや驚いた。こちらはそこまで寒くない。小生が思うところ京阪神よりも関東の方が気候条件は厳しいな。北関東のカラッ風。それに雪もよく降るし雨も多い。あれだけ広大な土地があるのに古代の人は関東に都を築かなかったのかというのは答えが出ているように思う。つまり気候条件が厳しかったのだ。太平洋側に面して関東平野が開けているが、徳川家康まで日本の中心にならなかったのだから・・・。もっとも家康も秀吉に命じられたから江戸へ参じたわけであって、その後は静岡で隠居しているからな。つまり現在の複雑な機能を持つ大都市を造成するには関東平野は都合が良かったが、戦が絶えずあった大昔においては広い関東平野だと要塞の意味をなさなかったのかも知れない。だから周りが山で囲まれた奈良盆地や京都等に都が長い間置かれていたのかしれない。それにどちらかというと京阪神は南に紀伊半島の山岳があり。北側も丹波の山々がある。つまり雪や強風、雨はそれらの山岳が遮ってくれていたのだ。だから手狭の関西の平野や盆地に都がおかれていたことかもしれない。それに隋や唐に行くのには瀬戸内海が近く船で行きやすかったということだろう。それが家康の時代に平和が訪れ戦がなくなると要塞都市の意味がなくなり江戸が巨大化して行くには関東平野というのは都合が良かったと言うことだろう。ただ自然条件は変えられず、京阪神に比べると雪も多く雨も多いなあとつくずく感じる。ただこちらは暑いけど。
EDIT  |  16:15  |  ちょっとした日常  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2018.03.16 (Fri)

ちょっと話題としては古いが

 今、カーリングの混合ダブルスの日本選手権が青森で行なわれていて既に開催日全てのチケットが完売しているという大人気。それというのも平昌オリンピックで日本カーリング女子が銅メダルを獲ったからの影響力が大きいと言うことになるだろう。そして既に彼女たちが試合中に言っていた「そだねー」が大流行。ちょっとこの現象に苦笑したが、「そだねー」を主に言っていたのは吉田知那美であって藤澤五月は言ってない。藤澤は北見でも常呂町出身ではなく北見市街の出身だから「そうだねー」と言ってるだろ。もっとも小生は北見へは一度しか行ったことがない。それは20歳の頃、北見のばんえい競馬を観に行ったときだったが、随分寂しい街だなあという印象しかなかった。そんなことはどうでもいいが、小生、初めてカーリングという競技があるのを知ったのは小学生の時に観たビートルズの映画『ヘルプ!4人はアイドル』(1965年)で、カーリングをやっているシーンを観てあれは何をやっているんだろと思ったのが最初である(後にスコットランドがカーリング発祥の地と知った)。次は高校生の頃、またまた映画でカーリングのシーンを観た。『女王陛下の007』である。その頃は日本でボーリングが大流行。中山律子の時代だったかな。だからカーリングのことなんて頭の中になかったしなんて言う競技なのかも知らなかった。ただタイル掃除のブラシのような物で氷の表面をこすっているところに興味が湧いたのを覚えている。
 それが何時だったろうか。もうシーズンが過ぎていたからスケート場がすいていた頃だった。スケートの上手い女性と大阪は難波にあったスケート場に行ったときカーリングのストーンが置いてあった。ストーンの周りを数人がいて、これから練習するという。それでストーンをスケート靴を履いたまま持とうとしたが重くて上がらなく氷の上だったので転げてしまった。するとカーリングの人たちが「ストーンを持ち上げようとする人なんていませんよ」と笑われた。
 そのときカーリングという競技が日本でも行なわれていると言うことを知った。何年頃だったのかな。小生がまだ20代だったから1980年代の前半だったと思う。面白いのでしばらくスケートをやめてカーリングの練習を観ていたのを思い出す。固定した蹴り台のハックから足を踏み出しストーンを滑らしていく。あいにくここにはハウスという円が描かれてなくストーン滑らしたりカーブをかけたり弾いたりスイープ(カーリングの氷と質は違うのでスイープの意味はあまりないが)する練習をしていた。まだ日本ではカーリング場もほとんどなかったのではないかな。
 それがいつの間にか長野オリンピックから正式競技に加わり、このときBS放送で何試合か観た。そしてルールも用語も覚えたのである。でも盛んなのはヨーロッパと北米で日本は新参者。厚い壁が立ちはだかっていた。それに試合時間が長すぎてくたびれた。これが映画『ヘルプ!4人はアイドル』で観たカーリングという競技の初めての試合生観戦であった。
 その後、カーリングはすっかり冬季オリンピックでお馴染みとなるが、長野の時は日本は選抜選手で出ていたんだな。でもこの競技はチームワークがいるので次のソルトレークシティ五輪からは予選を勝ち抜いたチームが代表としてオリンピックに出るようになったみたいだ。そして2002年の五輪には後に映画化されたシムソンズが代表になる。頭がカーリーヘアで爆発したような髪型をしたことのある加藤章子がスキップとしてで出ていたかな。それと林弓枝、小野寺歩なんてよく覚えている。みんな常呂町の常呂中学出身だと言うことに驚いたりもした。その4年後のトリノ・オリンピックはシムソンズのメンバーが大量移籍したチーム青森が代表になっている。このときスキップの小野寺歩、サードの林弓枝に加え19歳の愛らしい選手・本橋麻里が加わっていた。よく笑うしムードメーカーだったんだろなあ。どうも常呂中学の後輩だと言うことも知った。常呂町はにはカーリングのリンクがあって小学生からみんな練習をしていると聞いてびっくり。その頃であろうか、日本選手権でこのチーム青森を破った中学生チームがあった。それが常呂中学の2年生で組んだチームである。それが吉田知那美、鈴木夕湖、小野寺佳步だった。何れも後に日本を代表する選手になる。
 2010年バンクーバー・オリンピックもチーム青森が代表だった。そして、その頃からカーリングの日本選手権はチーム青森ではなく長野の軽井沢に本拠地がある中部電力が突如強くなっていった。それは天才スキップとして高校卒業と同時に入った藤澤五月がいるからだった。とにかく司令塔として優れていて、ジュニアの時代から世界の大会に出ていて頭角を現していた。一度、BSでどんな選手か観てやろうと思いテレビで試合を観たことを思い出す。意外と小柄。でもあまり笑わない。真剣な眼差し。表情も厳しい。一度、タイムをかけたかと思ったら審判に抗議を申し出てた。そのときはきつい印象があった。20歳か21歳かそこらで、まだガキのような年齢なのにチームの大黒柱として背負っているから必死だったのかな。顔に余裕がなかった。それは5年か6年前だった。
それ以降カーリングも観ていないし事情も知らなかった。ただ2014年のソチ五輪には強い中部電力ではなく小野寺歩が結婚して改名・小笠原歩率いる北海道銀行が代表だった。あれ!と思った。そして先月のオリンピックである。もうあまりスポーツに関心がなくなっていて、カーリングも生で見ていない。でもニュースでよく採り上げられるから知っていた。何とLS北見という北見出身者ばかりのチームを本橋麻里が立ち上げてオリンピック代表になっていた。本橋麻里がコーチングボックスに座り、スキップが中部電力で天才と言われたあの藤澤五月。もう26歳になっていたんだ。そして吉田姉妹に鈴木夕湖らは12年前にチーム青森を破った常呂中学の選手達だった。吉田知那美は前回のソチ五輪で北海道銀行のサブとしてメンバー入りしていたが、主力の小野寺佳步がインフルエンザで急遽、吉田知那美が出て活躍していたから顔は覚えている。それが吉田姉も藤澤もLS北見にいてオリンピックに出ていた。この間、何があったのかなと思った。その辺の事情は最近知っただけだが色々あったのだろう。それになにより一番驚いたのが藤澤五月の変貌振りである。もっともこのメンバーで2年前に世界選手権銀メダルを獲得していると後で知るのだが・・・・・。藤澤五月は今回ではピンチになってもニコニコして笑顔を絶やさず厳しい表情はしていなかった。そしてこの人気沸騰。銅メダル獲得。4年の間に苦労し色々と成長したんだろうと思える。でも、この人気も一過性のものとならずに継続していくことこそ競技の発展とに繋がると言うことである。
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