2010.10.05 (Tue)
シカゴの初期アルバムを聴く


39年前のことだが、1971年6月13日の日曜日、シカゴのコンサートに行った。当時、高校生だった私は、ロックのコンサートだというとほとんど行っていた。この頃はロックバンドの初来日が相次いでいて、片っ端からチケットを購入してコンサート(今はライヴとしか言わないか)に駆けつけていた。そのためにアルバイトをやっていたのでもあるが・・・・。それでこの前年と翌年も含めて行ったコンサートは、サム&デイヴ、B・B・キング、ブラッド・スウェット&ティアーズ、バート・バカラック、グランド・ファンク・レイルロード、エルトン・ジョン、レッド・ツェッペリン、ピンク・フロイド、サンタナ、エマーソン・レイク&パーマー(チケットは持っていたが行けなかった)・・・他にも行った覚えがあるがすぐにはちょっと思い出せない。そんな中で最も印象的で盛り上がったのが、このシカゴのコンサートだった。
この頃、ブラス・ロックというものが流行った。ブラッド・スウェット&ティアーズ、チェイス、タワー・オブ・パワー等、その最も先駆けとなったのはバッキンガムズなのだが、このバンドはまだブラスが全面に出ていない。この1960年代の後半にポップスはより激しくなり多様化し、そういった中でブラス・ロックというものが出没してきたのである。これまでの電気ギター中心のロック・ミュージックにブラスセクションが加わったというものである。音楽が多様化した結果、ポップスもジャズも接点がだんだんと無くなってきて、フュージョンなんていう音楽も出てきたが、従来のエレキサウンドにブラスが加わったものがブラス・ロックだろう。そんな中で最も活躍していたのがブラッド・スウェット&ティアーズであり、このシカゴであった。
どちらのバンドも同じような頃に出てきたと思うが、当初、あまり気にもかけなかったし、ジャズのようなロックのような訳の判らないバンドが出てきたなあという印象でしかなかった。それがブラッド・スウェット&ティアーズの『スピニング・ホイール』が大ヒットし私の中で認識が変ったのである。これまでブラスはジャズ。ロックはエレキ・ギターと思い込んでいた。それがジャズとロックの見事な融合といえばいいのか。これまでのロックとは違い音色に幅が出てきた。最もあの頃、私のロック好き仲間はあんなラッパ吹き音楽はロックではないと言い張り毛嫌いしているものが多かった。
でも当時からジャズも何となく聴いていた私は俄然と興味を持ち、ブラッド・スウェット&ティアーズ初来日の時に早速、コンサートに出かけていった。でもあまり盛り上がりがなく淡々として終わってしまった。やはり日本ではブラス・ロックは駄目なのかなあという思いがある中で出かけていったのが、シカゴの初来日コンサートであった。当時の大阪は、まだ本格的にロックのライヴが出来る会場がなく(大阪城ホールが出来るのは10年後であるし、その他の会場はもっと後年に完成した)、クラシックの殿堂であるフェスティバル・ホールが会場に使われることが多かった。
そしてホールの指定された席に座って前を見渡すや、何と同級生のY君が彼女を連れて観に来てた。また、それ以外のロック好きの仲間も大勢来ていて、ブラス・ロックは嫌いといいながら、みんな生のシカゴを聴きたかったというのが本音だろう。
こうして『イントロダクション』から演奏が始まった。ステージに現れた彼ら7人。テリー・キャス(リード・ギター、ヴォーカル)、ピーター・セテラ(ベース、ヴォーカル)、ロバート・ラム(キーボード、ヴォーカル)、ダニエル・セラフィン(ドラムス)、ジェイムズ・パンコウ(トロンボーン)、ウォルター・パラゼイダー(木管楽器全般)、リー・ロックネイン(トランペット)。巨漢テリー・キャスがメインヴォーカルを勤めるが、何とバンドの中央の最前列にドラムスのダニエル・セラフィンが居座っている。面白い配置だったと記憶する。演奏は徐々に盛り上がり、シカゴの連中も自身で盛り上がってきたのだろう。休憩にはいる前半の最後には観衆の歓声が大きくなっていた。
休憩が終わり、彼らがステージに入ってきた時から観衆は既に酔っていて、2階から飛ばされた紙ヒコーキがステージの方まで飛んで行き、それを拾ったダニエル・セラフィンが客席に投げたら場内はどっとどよめき大歓声。後半のステージは狂気、乱舞した。シカゴの連中が盛り上がり過ぎて、サービス精神旺盛な彼等が、どの曲でもアドリブを余分に行うので観衆は徐々に立ちはじめ、手拍子が自然発生的に始まり、所々で踊り出す者も現れる。今では当たり前だが、あの頃のライブでは考えられない出来事であった。それまでの日本の聴衆というのは大人しく、じっと座って聴いている。時には手拍子もするが、それも演奏者に促がされて渋々やっていた場合が多い。それがこの時は観に来ていた人から燃え滾るものがあって、一気に盛り上がったのである。
こうして後半はヒット曲、『クエスチョンズ67/68』、『メイクー・ミー・スマイル』『ぼくらの世界をバラ色に』を中心に演奏し、盛り上がりがだんだんとピークに達する。そして最大のヒット曲『長い夜(25 or 6 to 4)』の頃は観衆が自分の席を離れ出し、ステージの前に集まりノリノリであった。その後、アンコールの声がやまず、彼等はアンコールを計3回行なったのではなかったかと思う。シカゴは引っ込んだが、まだ帰ろうしない客が30分もステージの前でアンコールをするように叫んでいたという。こうして盛り上がりすぎたシカゴの初来日コンサートの初日は終わった。彼等は翌日も大阪で1回行い、その後、東京の日本武道館で1回コンサートを行なった。何れも盛り上がったという。
ところでシカゴは結成された頃(1967年)、ビッグ・シングをいう名前だった。シカゴのデ・ポール大学の学生中心のバンドだった。如何にもジャズのビッグ・バンドを連想させるバンド名で、ロックにジャズ的要素を加えようとしていたことが窺える。1969年にはプロデビューし、シカゴ・トランジット・オーソリティーという名前だった。ファースト・アルバムのジャケットに書かれてある通りなんだが、2枚目のアルバム時にはシカゴという変哲もない名前に変えている。それはシカゴ交通局からの苦情があったためであるが、初期の彼らはベトナム戦争を皮肉ったっり政治的な歌詞が多く、時代を反映していたと思う。
その後、私はロックを聴かなくなり、以降の彼らは知らない。ただテリー・キャスが拳銃を暴発させて死んだという新聞記事を見て驚いたことはある。それも私が生コンサートに行ってから7年後のことだった。既に私は社会人であり、生活が忙しくなり音楽をゆっくり聴いている時間もなかった。シカゴはメンバーを入れ替えて、現在でも演奏活動を行なっているとは聞いている。今となっては聴こうとは思わないが、あのブラス・ロックを聴いて大いに盛り上がったことは青春の1ページとして私の記憶の中に確実に残っている。
シカゴの『長い夜(25 or 6 to 4)』の演奏(1974年)。
シカゴ『Make Me Smile』の演奏(1970年)
2010.09.07 (Tue)
レッド・ツェッペリンのファースト・アルバムを聴く

このアルバムが発売されたのは1969年のことである。元ヤードバーズのギタリストであるジミー・ペイジが当時、無名の3人を集めて結成されたグループである。最もグループは1968年に結成されたものであるが、ヤードバーズに在籍していたジミー・ペイジが解散直後に急遽結成したものでアルバム発売は1969年初頭となった。この頃の音楽シーンというのは日本ではまだグループ・サウンドが活躍していたし、フォーク・ソングも流行っていた。一方、海外ではビートルズ、ローリング・ストーンズ、ボブ・ディラン、ジミ・ヘンドリックス、クリーム、プロコル・ハルム、サイモン&ガーファンクル、ドアーズ等・・・・色々な毛色の音楽が巷で流れ、まさに洋楽の全盛時代というべき時代であった。そんな中で登場したのがレッド・ツェッペリンだった。
そもそもスタジオ・ミュージシャンをしていたジミー・ペイジが伝説のグループ、ヤードバーズの3代目リード・ギタリストとして活躍していたものの、レコード製作をする過程で彼の求める音楽的欲求が目覚てきて、レッド・ツェッペリン結成となったようだ。この時、ジミー・ペイジはプロコル・ハルムのドラムスであるB・J・ウィルソンをメンバーに誘ったというが断られたらしい。結局、集まったのがヴォーカルのロバート・プラント、ドラムスのジョン・ボーナム、旧友であるベースのジョン・ポール・ジョーンズだった。つまりジミー・ペイジ以外は全くの無名であったが実力は何れも折り紙つきであった。
グループ名は当初、ニューー・ヤードバーズと名乗っていたらしいが、1968年10月の初コンサートにおいてはニュー・ヤードバーズ・フューチャリング・レッド・ツェッペリンという長ったらしい名前でステージに立っている。ジミー・ペイジによると名前の語尾にSがつく当時のポップ・グループ名の流行とは訣別したかったもので、ヤードバーズの音楽性の継承をさらに発展させ、よりヘビーなサウンドに持って行きたかったのであり、言い換えればヤードバーズ時代のヴォーカリストが下手でジミー・ペイジの音楽性にそぐわなかったため、新たにブルースを基盤とした新グループで新しいグループ名で出発したかったものと思われる。こうしてレッド・ツェッペリンはスタートしたのである。基本的にはブルースなのであるが、所謂、黒人ぽいブルースではなく白人によるブルース、それをより一層ハードにしたロックといえばいいだろうか、こういった音楽をやってみたかったというのが、このレッド・ツェッペリンのファースト・アルバムを聴けば明確である。
ところで、このアルバムが発売された当時、私は中学生である。最初、このアルバムの冒頭に収められている曲『グッド・タイムズ・バッド・タイムズ』がラジオで聴いた時、いきなりの重いサウンドに驚いたものであるが、そのサウンドに乗ってロバート・プラントの伸びのある甲高い声が重い伴奏に一つも引けをとらず踊るように唄っていたのがとても印象的であった。
しかし、このアルバムを全て聴き通したのは発売から1年あまり経ってからである。私が高校に入った頃であろうか、級友が持っていたものを借りて聴いたというのが本当のところである。今のようにロックの輸入盤CDなら1000円で買える時代ではないから、ほとんどの洋楽ファンはよほどのマニアでもない限りアルバム全曲を聴いていなかったと思う。
また、あの頃、一般的にポップスといってもバブルガム・サウンドのような音楽も一方では主流であり、どちらかというとこちらの方が、まだ一般受けしていた。そういった理由で実力はピカイチでも、レッド・ツェッペリンのような先鋭的音楽というのはファースト・アルバムの頃は、まだ受け入れられなかったように記憶している。
やがて時代が進み、ハードロック、ヘビーロック、ニューロックなんて語句が音楽雑誌に頻繁に記載されるようになり、だんだんとレッド・ツェッペリンもファンに受け入れられるようになっていったと思う。そして、1971年の秋にレッド・ツェッペリンは初来日する。そして、私はレッド・ツェッペリンの初ライヴに当然のように行ったのである。あれから40年近くなる。今では伝説のロック・グループなんていわれるが、あの頃、そのような雰囲気はなく、ただ音楽が好きな4人のイギリスの若者がステージを楽しんでいるといったものだった。
ところでLed Zeppelin(ledはleadの過去分詞)という名前は飛行船の開発者に由来するのはご存知だろうが、このツェッペリン博士の子孫であるエヴァ・フォン・ツェッペリン女史に名前の無断使用で訴えられ法廷で争われたという話も今となっては笑い話になってしまった。
最後になるが収録曲は全部で9曲、以下の通りである。『Good Times Bad Times』『Babe I’m Gonna Leave You』『You Shock Me』『Dazed And Confused』『Your Time Is Gonna Come』『Black Mountain Side』『Communication Breakdown』『I Can’t Quit You Baby』『How Many More Times』
『Good Times Bad Times』を演奏するレッド・ツェッペリン。2007年11月のライヴから。
2010.07.28 (Wed)
ピート・シーガーを聴く

ピート・シーガーって誰だ? と思われる向きもあるかもしれない。ことに若い人には馴染みない名前であろう。でも我々フォーク・ソングを聴きまくった世代にとっては大御所的な名前である。
そもそもフォーク・ソングって何だということになるが、元々は民謡のことである。民謡だからといっても日本の民謡とは趣が違っている。そこはアメリカのこと、民謡という表現はちょっとおかしいかな。いわばアメリカのトラディショナル・ソングというものだろう。でも現在でフォーク・ソングというとアメリカの商業音楽のジャンルの一つであり、ポピュラー・ソングの一翼を担っている音楽である。アメリカでの民謡というと黒人音楽もあり白人音楽もある。ジャズもあればブルースもある、カントリーもあるしゴスペルもある。それらの中で伝統的に歌われ続けた楽曲をフォーク・ソングという言い方も出来るが、細かく言うと管楽器ではなく、弦楽器、バンジョーやギター一つで歌われた曲といいたほうが判り易いかもしれない。だから当然、黒人っぽい曲もあるが、もっと細かく言うならば現在のフォーク・ソングに繋がるものとしては1940年代に始まるフォーク・リヴァイヴァル運動が挙げられる。そして、その運動の中心の1人がピート・シーガーなのである。
ピート・シーガーは1919年生れであるから、20代でフォーク・リヴァイヴァル運動に加わってウィーヴァーズのメンバーとして活動していた。ウィヴァーズというのはピート・シーガー、リー・ヘイズ、フレッド・ヘラーマン、紅一点のロニー・ギルバートからなるモダン・フォークの元祖グループと言われる。1949年にウィヴァーズは活動を開始。翌年に『グッドナイト・アイリーン』が全米で№1のヒットとなる。ところがウィヴァーズのヒットと共にピート・シーガーの政治活動が非米活動委員会の的となり、赤狩り旋風の真っ只中、ブラックリストに載ったピート・シーガー及びウィヴァーズは活動を制限されるようになる。つまりこの時代からフォーク・ソングというのはプロテストソングが多かったということになる。
ピート・シーガーは『天使のハンマー』『花はどこへ行ったの』といったフォークソングの代表曲を当時残しているが、それから10年後、よりプロテストソングの代表曲として、フォーク・ブームの渦中にあったピーター・ポール&マリーがカバーして大ヒット。こういった一連のフォークソングの流れの中で、ピート・シーガーというのは現代のフォークソングに繋がる激流の中においては源流といえるかもしれない。彼は父が音楽学者、母がヴァイオリニストという音楽一家の家庭に生まれているので、子供の頃からクラシック音楽は聴いていたにせよポピュラー音楽を聴いていたかどうかというと大いに疑問が残るが、17歳の時にフォーク・フェスティヴァルで聴いたバンジョーの音に魅せられ、ハーバード大学進学後もドロップアウトしてフォーク・シンガーの道に進んでしまう。21歳の時にはウッディ・ガスリーと出会い、オールマナック・シンガーズを結成。労働運動の集会を主に回り活動するようになる。こうしてプロテストソングとしてのフォーク・リヴァイヴァル運動へと発展していくのだが、ピート・シーガーはフォーク・ソングというジャンルの中では絶えず、第一人者であり続け、彼を慕った後のフォーク・シンガーは枚挙に遑がないぐらいだ。もしピート・シーガーが出現していなかったらボブ・ディラン、ジョーン・バエズ等、多くのフォーク・シンガー達はこの世でフォーク・ソングなるものを歌っていたのかどうか・・・・・疑問視されるだろう。
ところでこのCDに収録されている曲はフォーク・ソングの代表的な曲ばかりである。『天使のハンマー(If I Had A Hammer)』『Goodnight Irene』『John Henry』『漕げよマイケル(Michel Row The Boat Ashore)』『Guantanamera』『わが祖国(This Land Is Your Land)』『花はどこへ行ったの(Where Have All The Flowers Gone?)』『Turn! Turn! Turn!』『勝利を我等に(We Shall Overcome)』・・・・・ピート・シーガーの作によるものやトラディショナルな曲もあって、現代フォークの黎明期の曲とはこういうものだということがよく判る。こうしてプロテストソングを歌っていたシンガー達は、何時の間にかオリジナルを歌うようになり、フォーク・ソングも多様化していきロックと融合したり、日本ではニューミュージックと言われるように変化していったのだが、ピート・シーガーの歌を聴くと、洗練されていなくとも何故か心に響く。本来、フォークソングというのはこのようなものだったし、今よりメッセージ性の強いものだった。それが愛だの恋だのと歌うようになってきて、段々とフォークソングは様変わりしていったのかもしれない。つまりピート・シーガーの時代のフォーク・ソングというのは素朴で単純でありながらも社会と連動していた歌だったのだ。
今、ピート・シーガーはご老人であるが、今のメッセージ性に欠ける歌をどのように思っているかは知る筈もないが、歌は外向的なものからより内向的なものへと変化してしまった。最早、歌で市民運動を盛り上げるといった時代ではなくなってしまった。それ故にフォーク・ソングの本来の役目は終わってしまったような感じさえするのだが・・・・・・。
『天使のハンマー(If I Had A Hammer)』を歌うピート・シーガー。
老いたピート・シーガーが歌う『花はどこへ行ったの(Where Have All The Flowers Gone?)』
『勝利を我らに(We Shall Overcome)』を歌うピート・シーガー(音声のみ)。
2010.06.10 (Thu)
デイヴ・ディー・グループを聴く

ハーマンズ・ハーミッツに続いて、また訳の判らないグループを記事に登場させてしまったが、こちらの方はハーマンズ・ハーミッツ以上に知名度がないだろう。でも1960年代の後半、日本の商業音楽界に衝撃を与えたグループ・サウンズの曲をよく知っている人なら、このデイヴ・ディー・グループは聞き覚えのある名前だと思う。何故なら、彼らのヒット曲を日本のグループがカヴァーしていたからである。たとえば『オーケイ!』はカーナビーツが、『キサナドゥーの伝説』はジャガーズがカヴァーして日本語で唄っていた。だから当時の日本のファンはグループ・サウンズの曲だと今でも思っている人がいるぐらいだ。それほど1960年代の日本人の少年少女に馴染まれたサウンドということも言えそうであるが、そのデイヴ・ディー・グループとはいったいどんなグループだったのだろうか。
日本ではデイヴ・ディー・グループと呼ばれたが、正式にはデイヴ・ディー、ドジー、ビーキー、ミック&ティックという5人のニックネームを羅列しただけという変った名前のグループである。しかし、ややこしいので本国のイギリスでもデイヴ・ディー&カンパニーという名前で呼ばれ、日本ではデイヴ・ディー・グループという名前でレコードが出されたので、我々もこのような名前で覚えていた。
メンバーはヴォーカルのデイヴ・ディー、ベースのドジー、リズム・ギターのビーキー、ドラムスのミック、リード・ギターのティックである。そもそも彼らの活動は1958年、警察学校を出たばかりのデイヴ・ディーが、ソールズベリーの友人達とデイヴ・ディー&ザ・ボストンズを結成したことに始まる。彼らは1962年にドイツのハンブルグのクラブで長い間唄っていた。これはビートルズを始め、当時のイギリスの多くのグループがそうだったように彼らも倣ったのだろう。イギリスに帰国後、彼らは64年に正式にデビューする。
初のヒットは1965年に発売された『ユー・メイク・イット・ムーヴ』で、この曲はイギリスのヒット・チャートで26位となった。だが大ヒットには恵まれず、結局、彼らの名が知れ渡るようになった曲は1967年にイギリスで4位にまで上昇した『ホールド・タイト』である。でも日本では皆目、無名。それが同じ1967年に出した『オーケイ!』がイギリスで4位だったが、日本ではこの無国籍とも言える風変わりなサウンドが受けて大ヒット。日本でも有名になった。さらにカーナビーツがカヴァーしてヒット。日本の女の子がアイ高野の真似をして唄っていたという記憶が私の中にはある。そしてデイヴ・ディー・グループの最大のヒット曲が1968年に発売された『キサナドウーの伝説(The Legend of Xanadu)』である。この意味不明の題名と共に、どこの国の音楽か判らない無国籍(ラテン風ではあるが)ぶりがまたまた受けてイギリスで1位。日本でも大ヒット。グループサウンズのジャガーズもカヴァーして日本語で唄っていた。
おー 愛に生きて死のう あなたを連れてゆこう
はるかなキサナドゥー
でもこういった典型的なビート・ポップス・グループの人気は長続きせず、1969年にはリーダーのデイヴ・ディーが抜け、残りのメンバーで活動してみたものの、大ヒットまではいかず、だんだんと忘れ去られていった。1974年にデイヴ・ディー・グループは再結成されシングル盤を出したことも聞いている。でも話題にもならず、その後は何度かメンバーが集まってチャリティー・コンサート等を行なったりしているらしい。でも、彼らの無国籍、エキゾチックな音楽性は万人受けするものではなく、今となってはそんなグループもあったなあと昔のポップスを聴いていた連中との会話のネタに挙がるぐらいである。
『OKAY!』を唄うデイヴ・ディー・フループ。音声のみ。
『キサナドゥーの伝説』を唄うデイヴ・ディー・グループ。フラメンコのようであり鞭を打ってみたり、無国籍音楽というのが受けたのか。何だかジャガーズを思い出す。
2010.06.03 (Thu)
アレサ・フランクリンの初期の曲を聴く

小生が小学校から中学校にかけての頃であるが、ソウル・ミュージックがよくラジオで流されていた。その頃はソウル・ミュージックがどのようなものかも当然、知るはずもないが、黒人が唄う音楽だということだけは理解していた。といってもジャズも黒人の音楽、ブルースもそうである。それらが渾然一体となって小生の頭の中に沁みこんでくる。いったいどれがジャズで、どれがブルースで、どれがソウルで、どれがゴスペルでといった具合で訳も判らず、それらを全て洋楽というジャンルで一纏めにしていたような記憶がある。
レイ・チャールズ、ルイ・アームストロング、サム・クック、ナット・キング・コール、ウィルソン・ピケット、スモーキー・ロビンソン、サラ・ヴォーン、フォー・トップス、テンプテーションズ、オーティス・レディング、B・B・キング、サム&デイヴ、シュープリームス、ディオンヌ・ワーウィック・・・・・年数が経ち次第とそれらの黒人が奏でる音楽の色分けが出来るようになったが、特色として白人と違うのは声の質が違うということは子供ながらも認識していて、声に粘り気があってリズム感があって、とにかく唄が上手いという印象は当時からあった。
そんな頃に一人の唄い手を知った。それがアレサ・フランクリンである。あの頃のアレサ・フランクリンはソウルフルでエネルギッシュな唄い方は勿論だが、今よりも美声であった。後年に映画『ブルース・ブラザース』で相変わらずパワフルな唄を披露していたが、若いときの彼女はもっと澄み切った声でみずみずしさがあった。
最初にアレサ・フランクリンの名を意識したのはオーティス・レディングのカバー曲を唄い大ヒットした『リスペクト(Respect)』だったが、オーティス・レディングよりもより白人が唄った様な唄い方で、垢抜けしているといった雰囲気があった。その直後にはバート・バカラック作曲、ハル・デヴィッド作詞の曲で一度ディオンヌ・ワーウィックでヒットしている『小さな願い(I Say a Little Prayer)』を唄ったのであるが、小生はアレサ・フランクリン・バージョンを聴いて思わず唸ってしまった。それからというものは気になるシンガーとして現在まで続いているのだが・・・・・最近のことは余り詳しくはない。
アレサ・フランクリンは1942年にテネシー州のメンフィスで生まれた。メンフィスというとプレスリーを生んだ土地柄で、こういったアメリカ南部の音楽が育まれたきた豊な土地である事が判るが、アレサ・フランクリンが育ったのはモータウン・ミュージックで有名なデトロイトである。父が牧師で3人姉妹の末っ子だったアレサは、子供の頃からゴスペルを唄っていた。さらには父と帯同してアメリカ中を唄って周り、すでに天才歌手として通っていた。アレサ11歳の時、父はレコードをリリースする。ここでアレサは2人の姉のバックコーラスをする。さらにアレサは16歳の時、マイナーレーベルでソロデビューすることになる。これがコロンビア・レコードのジョン・ハモンドの目に留まりとうとうメジャー・デビューとなった。だが、この頃は不本意な結果しか出ず、1966年にアレサはアトランティック・レコードに移籍する。こうして最初にヒットしたのが『リスペクト』(1967年)だった。こうしてアレサ・フランクリンは日本にも知れ渡るようになったのである。
ところでこのアルバムは初期の代表的な曲ばかりが収められている。『Chain of Fools』『Save Me』『Try a Little Tenderness』『I Say a Little Prayer』『Dr.Feelgood』『It Ain’t Nessessarily So』『A Natural Woman』『Do Right Woman,Do Right Man』『See Saw』『I Apologise』『Think』『My Guy』『The House That Jack Built』『I Never Loved a Man』『I’m Sitting on the Top of the World』『Respect』
主に1960年代にアレサ・フランクリンがリリースした曲が収められていて、聴いていて懐かしさがこみ上げて来た。あれから40年にはなるが、アレサ・フランクリンは一旦、2003年に引退したが、現在は撤回して歌手活動を続けているようである。1987年には女性歌手としては初のロック殿堂入りを果し、これまでグラミー賞受賞は20回。2005年秋には大統領自由勲章を授与。今やアレサ・フランクリンはすっかり大御所となってしまったが、小生には何時までも40年前のアレサ・フランクリンのパワー溢れた唄の記憶のまま現在に至っている。
『Respect』を唄うアレサ・フランクリン。
『I Say a Little Prayar(小さな願い)』を唄うアレサ・フランクリン。
2010.05.20 (Thu)
プレスリーの初期の曲を聴く

最近は過去の色々なミュージシャンのコンプリート・アルバム輸入版が1000円以下の安価で売られていて思わ何枚か買ってしまった。その中にエルヴィス・プレスリーのCD3枚組みアルバムがあった。これも980円で購入した。収録曲は48曲。実質上のデビュー曲とも言える『That’s All Right』から『Love Me Tender』あたりの曲まで入っているから、1954年~1956年の間に出されたシングル盤が網羅されているということになるだろうか。
この中には最初の全米1位を記録した『Heartbreak Hotel』もあれば『I Want You, I Need You, I Kuve You』もあれば『Hound Dog』『Don’t Be Cruel(冷たくしないで)』『Blue Suede Shoes』も入っている。ただし『監獄ロック』は1957年のヒット曲なので入ってない。
プレスリーの存在を私が知ったのは、小学生低学年の頃、無理やり連れて行かされて観た映画『ブルー・ハワイ』からであろうか。内容はほとんど覚えていないが、その後にも何度か観ているので、記憶を辿って書くと、確かハワイを舞台にした映画で、観光ガイドのプレスリーが、観光団体一行をガイドしている最中に大乱闘となり解雇され、ついでに恋人との結婚も御破算となる。が、やがて新しい仕事をみつけ、何時しか恋人と結ばれるというつまらない映画であったように思う。何だか加山雄三の『若大将』シリーズみたいな映画だが、この『ブル-・ハワイ』の中でプレスリーはハワイアンを含めかなりの曲を唄っていた。だから私はエルヴィス・プレスリーというと、当時はハワイアン歌手だとばかり思っていた。それが或る日、当時の芸能雑誌『明星』『平凡』のグラビアで、プレスリーは靴を100足以上持っていると、写真付きで紹介されていた。何と「ええかっこしー」(京都ではよく言った)な奴だと子供ながら思ったものだが、姉に聞いたらとんでもないロックンロール・シンガーであるという。でもあの頃、ロックンロールというものがどんな音楽なのかも私は知らなかった。
それから間もなくラジオでプレスリーの『監獄ロック』が流れていて、これがロックンロールなのかと思ったが、随分と激しくて喧しい音楽なんだと認識した覚えがある。でも、その後のビートルズの出現で、ロックンロールが激しい音楽だ何て皆目、思わなくなったから不思議である。
それにしてもエルヴィス・プレスリーは凄い歌手である。彼がデビューした頃にはロックンロール歌手が他にもいたが、何故に彼だけが突拍子もなく人気が出たかは、彼の歌を聴けば判ると思うが、とにかく光っているし惹き付けられる。やはり天性のスターなのだろう。彼はカール・パーキンスやチャック・ベリー等、同時代のロックンロール歌手の曲もカバーしているが彼が唄うと違う。そこがプレスリーなのである。どこかスマートで灰汁がなく、セクシーであり、それでいてパンチがある。ただ余りに凄い人気が出て、例の腰振りスタイルは物議を醸したという。彼に群がる少女も多かったことから顔をしかめた父兄を始め、ロックンロール自体が非行の原因であるかのように中傷されたという。当然、プレスリーはその渦中にあったから、槍玉にあがったのだが、彼がテレビに出て唄う時でもテレビの画面は上半身しか映さなかったといし今から考えれば隔世の感がある。まあ、何時の時代でも伝統的な慣習をぶち壊す者は叩かれていたから、彼は伝統的音楽の革命者の一人でもあった訳である。
プレスリーはデビューから42歳で亡くなるまでの21年間で出した曲の中で、アメリカのヒットチャート100位以内が146曲もあり、ベスト10にも38曲が顔を出している。またビルボードのベスト・シングル獲得が18曲というから凄い。これは史上2位(1位はビートルズの曲)であり、1977年の真夏、突然、プレスリーがこの世を去ったことは残念でならない。まだ生きていて唄っていてもおかしくない年齢であったのに・・・・・。
『That's All Right』を唄うプレスリー(1968年のカムバック・コンサートで)。
最初の大ヒット曲『Heartbreak Hotel』を唄うプレスリー。
『Love Me Tender』を唄うプレスリー。