2011.04.29 (Fri)
ボブ・ディランのアルバム『追憶のハイウェイ61』を聴く

このアルバムが発売されたのは1965年8月30日だという。そんなに古いのかと改めて思った。何故ならあまりにも当時のヒットポップスとかけ離れているからである。あの頃、ビートルズの名曲『イエスタデイ』が出た。ビートルズは爆発的な人気を得て当時のポピュラー音楽の概念を変えていったが、現実的にいってこの『イエスタデイ』が出る前と出てから以降の評価は違ったものになっている。ただの人気あるビートポップス・グループから一躍ミュージシャン、アーティストの域に登って行った。同じ頃、一般受けしないが玄人には評価されていたフォーク・シンガーがボブ・ディランだったように思う。1965年より遡ること3年前、ボブ・ディランは『風に吹かれて』を出した。この曲はヒットした。ただしボブ・ディランが歌った『風に吹かれて』ではなくPPMがカバーした『風に吹かれて』がヒットしたのであった。それとともにボブ・ディランの名は有名になっていった。ギターとハーモニカで淡々と歌い上げる。しわがれ声で灰汁が強い歌い方をするので一般受けしないのだ。どちらかというとメロディよりも詩に訴えるものがあり、プロテストソング、トーキングブルースを得意としていて、ちょうど1960年代前半の公民権運動が盛り上がった時代背景も手伝って時代の代弁者としてブレークしたのである。
それが次第に時代の代弁者としてのボブ・ディランではなくなっていき、曲そのものも変化していくのであるが、アコースティックから徐々にエレキサウンドが入っていく。いわばフォークとロックの融合の様な形でボブ・ディランの新たなサウンドが確立しつつあったのが、この6枚目のアルバム『追憶のハイウェイ61』である。このアルバムは有名な楽曲『ライク・ア・ローリング・ストーン』が冒頭に入っているということでボブ・ディランのアルバムの中ではよく売れた。ただし評価については当時あまり高い評価を受けていたような記憶はない。音作りが当時の流行りとは逸脱していて先鋭的だったからであろう。それが月日が経っていくごとに、このアルバム自体が評価を上げていき、2003年になって雑誌『ローリング・ストーン』が選出したオールタイム・ベストアルバム500の第4位にランクされている。
収録曲は9曲で『Like A Rolling Stone』『Tombstone Blues』『It Takes A Lot To Laugh,It Takes A Train To Cry(悲しみは果てしなく)』『From A Buick 6(ビュイック6型の想い出)』『Ballad Of A Thin Man(やせっぽちのバラッド)』『Queen Jane Approximatery』『Highway 61 Revisited(追憶のハイウェイ61)』『Just Like Tom Thumb’s Blues(親指トムのブルースのように)』『Desolation Row(廃墟の街)』・・・・・
このアルバムが出た頃、私はまだ小学生だったので聴いたという記憶がない。ラジオもボブ・ディランの曲は滅多に流してなかったように思う。ただし姉が持っていた洋楽専門の雑誌で面白い髪型をしているシンガーがいるといった印象があり名前は覚えていた。が、ボブ・ディランの曲をラジオでも聴いたこともなかった。ラジオで流したこともあるだろうが覚えていたという印象がない。今聴いてもボブ・ディランの曲は印象に残らないかもしれない。それなら何故ボブ・ディランがここまで有名になったかというのは、『風に吹かれて』をPPMがカバーしてヒットしたように、当時、ボブ・ディランの曲を色々な人がカバーしていたからだ。『ミスター・タンブリンマン』『くよくよするな』『はげしい雨が降る』『悲しきベイブ』『イフ・ノットフォー・ユー』『いつまでも若く』等の曲は当時のヒットチャートを賑わしていた。ただし何れもボブ・ディランではなくカバー曲によってである。ボブ・ディランが歌うよりも他の歌手が歌う方がよりメロディアスだからで、本人が歌うと印象がガラっと変わるのであった。しかし、ビートルズのジョン・レノンがボブ・ディランに傾倒していると聞いて注目しないといけないなあと感じ、中学の頃、ボブ・ディランを真剣に聴くようになった覚えがあるが、なかなか馴染めなかったものだ。それは今でもそうなのであるが・・・・・・・。
ただし好き嫌いは別にして革新的アルバムであったことは確かであり、このアルバムが発売されてから以降、ロックの歌詞が認められるようになりポピュラー音楽そのものが3分間芸術なんていわれたものから大いに飛躍していったのだが、このアルバムの曲は当時のものとしては実に長い。冒頭の『ライク・ア・ローリン・ストーン』からして6分を超える曲だが、アルバム最後の『廃墟の街』に至っては実に11分に及ぶ。当時の常識を打ち破ったアルバムであり、その後のポピュラーミュージックの在り方を確実に変えた一枚であり、ボブ・ディラン自身がいうように重要でかつ革新的である。
『ライク・ア・ローリング・ストーン』を歌うボブ・ディラン(1995年)
2011.02.26 (Sat)
ジリオラ・チンクェッティを聴く

この名前を聞いてすぐに判る人は間違いなく50歳以上の方でしょう。私が小学生の頃、姉が一生懸命、聴いているラジオから若い女性の声で・・・・・ノノレターノノレターと歌っている楽曲が聴こえてきた。実際はNon ho l’eta non ho l’etaと言っていたのだが、小学生にイタリア語が判るわけはない。でも今、聴いてもそのように聴こえてしまうが。この歌はジリオラ・チンクェッティが歌う『夢みる想い(Non Ho L’eta)』という曲であった。古い人なら知っておられよう。日本人も当時よくカバーしていた。
この曲を最初に聴いたのは1964年だったと思う。イタリアの歌姫ジリオラ・チンクェッティの出世曲といってもいい。ジリオラ・チンクェッティは1963年、この曲でサンレモ音楽祭登竜門カストロカーロ新人コンテストに優勝。さらに翌年、サンレモ音楽祭に出ていきなりの優勝を飾り一躍有名になったのである。このときジリオラ・チンクェッティは何と16歳。さらに勢いに乗ってユーロビジョン・ソング・コンテストにも出場して、イタリア人としては初の優勝。こういった経緯があって日本のラジオでも『夢みる想い』がよく流れていたのである。そういえばこの1964年は、東京オリンピックの開催された年で、新幹線が開通した年でもあったからよく記憶しているが、姉はビートルズを聴きまくっていた。それと同時にフランス・ギャル、コニー・フランシスといった女性歌手の曲も聴いていたように思う。そんな中に混じって当然ジリオラ・チンクェッティの曲もあった。当時、小学生だった私には誰がアメリカ人で、誰がフランス人で、誰がイタリア人なんて理解できない。それで姉はジリオラ・チンクェッティが歌っているのはイタリア語だといった。フランス・ギャルはフランス語で歌っている。コニー・フランシスは当然、英語である。何度も聴き比べをしているとだんだん英語、フランス語、イタリア語の響きというものが何となく判ってくる。それで日本人にとって真似をしやすいのがイタリア語だと直感したのである。
それから5年後、ジリオラ・チンクェッティが歌う『雨(La Pioggia)』が日本でも大ヒットした。すぐに覚えられるメロディで、ラジオから流れてくるのを何度か聴いていてる間に、ローノンカンビオマイ ノノンカンビオマイとメロディとともに歌詞が次第に出るようになっていた。それほどイタリア語というのは日本人とっては歌いやすかったのである。それでボビー・ソロ等のカンツオーネを始め、イタリアの曲をよく聴いていたような気がする。
さて、翌年の1970年、大阪で開かれた万国博覧会。そのオープニングのイベントの一つにジリオラ・チンクェッティが出演していた。彼女は万国博ホールで歌っていたようであるが、当日、私は会場にいたもののチケットがなく見ることはできなかった。とにかく、あの当時、ジリオラ・チンクェッティは日本で人気があった。日本人歌手の弘田三枝子、伊東ゆかりなどもカバーしていたほどである。それは本国のイタリアでの人気を凌ぐといわれていたが、その後も『つばめのように』『太陽のとびら』等ヒット曲を何度かだし、1979年に結婚。生まれた子供の育児に専念するためさっさと引退してしまったのである。それ以来、私はジリオラ・チンクェッティの名前を忘れていたのだが、何年か前にテレビのコマーシャルでジリオラ・チンクェッティの『雨』を聴いて、再び昔の記憶が蘇ってきたことがある。だが、ジリオラ・チンクェッティは1989年に復帰し、1993年にはライ日してコンサートを開催しているらしい。また最近はサンレモ音楽祭にも出ているということで、齢60を超えても活躍しているとのこと。皆目知らなかったのは私だけなのか・・・・。昨今の音楽事情に詳しくないので知らなかったが、今時の人にどのように聴こえるのだろうか・・・・。ちょっとばかり興味がある。
『夢みる想い』を歌うジリオラ。チンクェッティ。この頃、まだ17歳という若さだった。
『雨』を歌うジリオラ・チンクェッティ。CMでこの曲を知ったという方も多いだろう。
こんなのもあったなあ。『雨』日本語バージョン。
2010.12.20 (Mon)
ブリティッシュ・ビートを聴く③
この1960年代、ブリティッシュ・ビートを聴くも3回目になるが今回で終わります。
●ザ・シーカーズ
シーカーズの『ジョージ・ガール』は1967年春、イギリス、アメリカだけでなく日本でもヒットした。シーカーズはイギリスのグループではなく、オーストラリア出身のグループ。ハーモニーを重視したフォーク・グループであり、1964年に『恋はたったひとつ(I’ll Never Find Another You)』でデビュー。いきなりのイギリス・ヒットチャートで1位を獲得。その後も含めて9曲のヒット曲を世に出している。
●ジェフ・ベック及びジェフ・ベック・グループ
ジェフ・ベックというとエリック・クラプトンの後にヤードバーズに加わったギターリストとして有名だが、ジェフ・ベックはヤ-ドバーズ脱退後にソロでシングルを出している。それが『ハイ・ホー・シルヴァー・ライニング』(1967年)で、さらに翌68年『恋は水色(Love Is Blue)』を出している。この曲はポール・モーリアで有名になったインスルメンタル曲で、ジェフ・ベックがこの曲をギターで弾いている。さらに直後、ロッド・スチュワート、ロン・ウッド、ミッキー・ウォラーとジェフ・ベック・グループを結成。この時に『ロック・マイ・プリムソウル』を録音。このオムニバス・アルバムに収められている。
●キース・ウエスト
キース・ウエストとはトゥモローというグループのリードシンガーであった。1967年にヒットした『イクサープト・フロム・ア・テイーンエイジ・オペラ』がこのアルバムに収められていているが日本ではあまりヒットしなかったように思う。
●フリートウッド・マック
エリック・クラプトンがいたジョン・メイオール&ブルース・ブレイカーズ出身のギターリスト、ピーター・グリーンが中心になって結成されたバンドである。このアルバムには『ブラック・マジック・ウーマン』(1968年)が収めれれている。これは貴重である。どちらかというとカバーしたサンタナの『ブラック・マジック・ウーマン』の方が有名になってしまった感がある。
●ボンゾ・ドッグ・バンド
このおかしな名前のグループはビートルズのテレビ映画『マジカル・ミステリー・ツアー』に出演したことで知られている。ここでは『アイム・ザ・アーバン・スペースマン』(1968年)が入っている。
●ベッドロックス
このグループはビートルズの『オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ』を他のグループと共に録音したので知れわたっている。『オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ』は幾つかのグループが録音したが、本家のビートルズ以外、日本ではマーマレードよりもヒットした。
●スキャッフォールド
このグループはコメディアンのグループである。一応、リバプール出身なのだが、メンバーの1人にポール・マッカートニーの実弟マイク・マッギアがいて、1968年にはここに収められている『リリー・ザ・ピンク』がイギリスで大ヒットした。
●ジェスロ・タル
ジェスロ・タルは今でも現役で頑張っているロックグループ。色々なジャンルに跨って音楽性を追求しているが、ここでは1969年の曲で『リヴィング・イン・ザ・パスト』が入っている。
●フリー
このグループは1967年にデビュー。1970年に『オール・ライト・ナウ』がヒットしたブルース・バンドである。
●ディープ・パープルは割愛する。
●デイヴ・エドモンズ
デイヴ・エドモンズは元ヒューマン・ベインズのヴォーカリスト。ここでは『アイ・ヒア・ユー・ノッキング』(1970年)が収められている。
『ジョージ・ガール』を歌うシーカーズ。何年か前、CMに使われたこともある曲なのでご存知の方もおられるだろう。
『ブラック・マジック・ウーマン』を歌うフリートウッド・マック。(動画はなし)
ベッドロックスの『オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ』(動画はなし)
●ザ・シーカーズ
シーカーズの『ジョージ・ガール』は1967年春、イギリス、アメリカだけでなく日本でもヒットした。シーカーズはイギリスのグループではなく、オーストラリア出身のグループ。ハーモニーを重視したフォーク・グループであり、1964年に『恋はたったひとつ(I’ll Never Find Another You)』でデビュー。いきなりのイギリス・ヒットチャートで1位を獲得。その後も含めて9曲のヒット曲を世に出している。
●ジェフ・ベック及びジェフ・ベック・グループ
ジェフ・ベックというとエリック・クラプトンの後にヤードバーズに加わったギターリストとして有名だが、ジェフ・ベックはヤ-ドバーズ脱退後にソロでシングルを出している。それが『ハイ・ホー・シルヴァー・ライニング』(1967年)で、さらに翌68年『恋は水色(Love Is Blue)』を出している。この曲はポール・モーリアで有名になったインスルメンタル曲で、ジェフ・ベックがこの曲をギターで弾いている。さらに直後、ロッド・スチュワート、ロン・ウッド、ミッキー・ウォラーとジェフ・ベック・グループを結成。この時に『ロック・マイ・プリムソウル』を録音。このオムニバス・アルバムに収められている。
●キース・ウエスト
キース・ウエストとはトゥモローというグループのリードシンガーであった。1967年にヒットした『イクサープト・フロム・ア・テイーンエイジ・オペラ』がこのアルバムに収められていているが日本ではあまりヒットしなかったように思う。
●フリートウッド・マック
エリック・クラプトンがいたジョン・メイオール&ブルース・ブレイカーズ出身のギターリスト、ピーター・グリーンが中心になって結成されたバンドである。このアルバムには『ブラック・マジック・ウーマン』(1968年)が収めれれている。これは貴重である。どちらかというとカバーしたサンタナの『ブラック・マジック・ウーマン』の方が有名になってしまった感がある。
●ボンゾ・ドッグ・バンド
このおかしな名前のグループはビートルズのテレビ映画『マジカル・ミステリー・ツアー』に出演したことで知られている。ここでは『アイム・ザ・アーバン・スペースマン』(1968年)が入っている。
●ベッドロックス
このグループはビートルズの『オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ』を他のグループと共に録音したので知れわたっている。『オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ』は幾つかのグループが録音したが、本家のビートルズ以外、日本ではマーマレードよりもヒットした。
●スキャッフォールド
このグループはコメディアンのグループである。一応、リバプール出身なのだが、メンバーの1人にポール・マッカートニーの実弟マイク・マッギアがいて、1968年にはここに収められている『リリー・ザ・ピンク』がイギリスで大ヒットした。
●ジェスロ・タル
ジェスロ・タルは今でも現役で頑張っているロックグループ。色々なジャンルに跨って音楽性を追求しているが、ここでは1969年の曲で『リヴィング・イン・ザ・パスト』が入っている。
●フリー
このグループは1967年にデビュー。1970年に『オール・ライト・ナウ』がヒットしたブルース・バンドである。
●ディープ・パープルは割愛する。
●デイヴ・エドモンズ
デイヴ・エドモンズは元ヒューマン・ベインズのヴォーカリスト。ここでは『アイ・ヒア・ユー・ノッキング』(1970年)が収められている。
『ジョージ・ガール』を歌うシーカーズ。何年か前、CMに使われたこともある曲なのでご存知の方もおられるだろう。
『ブラック・マジック・ウーマン』を歌うフリートウッド・マック。(動画はなし)
ベッドロックスの『オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ』(動画はなし)
2010.12.18 (Sat)
ブリティッシュ・ビートを聴く②
先日、懐しのブリティッシュ・ビートを紹介したが、今回はその続きである。それではまずはアニマルズから。
●ジ・アニマルズ
アニマルズというとエリック・バートン。そしてアラン・プライス。ビリティショ・ビート・ポップスが灰汁の抜けたサウンドばかりというのでもなく、ローリング・ストーンズとこのアニマルズに関しては、他のイギリスのグループとは違っていたような感じがする。両グループともブラック・ミュージックの影響が強く、アニマルズに関してはアラン・プライスのオルガンが異色な音質に聴こえたし、エリック・バートンの声がR&Bを歌うのに適していたようでもある。代表曲『朝日のあたる家(The House Of The Rising Sun)』『悲しき願い(Don’t Let Me Be Misunderstood)』はトラディショナル・ソングとニーナ・シモンの曲。何れもアメリカの黒人色が強い曲で、当時、私は彼らがイギリスのグループではなくアメリカのグループと思っていたほどである。
●ハニーカムズ
あんまり馴染みないがヒット曲『ハウ・アイ・ザ・ライト』は知っている。所謂、典型的な一発屋といっていいかもしれない。その後のヒット曲を知らないからなあ・・・。このグループは女性ドラマーがいたグループとして雑誌に載っていたような気がするが、あまり覚えていない。
●ハーマンズ・ハーミッツは以前に記事で取り上げたので割愛します。
●ザ・ヤードバーズ
伝説のグループ、ヤードバーズだが、このオムニバス・アルバムにはヤードバーズの曲が2曲入っている。『フォー・ユア・ラヴ』『リトル・ゲームス』である。『フォー・ユア・ラヴ』は1965年のヒット曲。この曲が流行った頃はエリック・クラプトンがメンバーにいた。でも曲自体、気に入らなかったのかエリック・クラプトンはこの曲がヒットチャートを賑わした直後に脱退する。『リトル・ゲームス』は1967年に英国でヒットしたが、この時にはジミー・ペイジがメンバーにいた。またレコ-ディング時には後にレッド・ツェッペリンに加わるジョン・ポール・ジョーンズも参加している。
●ザ・ホリーズ
ホリーズというとグレアム・ナッシュのいたグループとして有名であるがヒット曲も多い。『バス・ストップ』『キング・マイダス』『ごめんねスザンヌ(Sorry Suzanne)』『兄弟の誓い(He Ain’t Heavy He’s My Brother)』等とあるが、日本ではとりわけ1966年にヒットした『バス・ストップ』が最も有名な曲だろう。彼らはマンチェスター出身で、アメリカではイギリスほどの人気を得られなかった。最もグレアム・ナッシュは『キング・マイダス』のヒットの後に脱退。アメリカに行き、クロスビー・スティルス&ナッシュを結成する。
●ジョン・メイオール&ザ・ブルース・ブレイカーズ
ヤードバーズに在籍していたエリック・クラプトンが、ヤードバーズを脱退して加入したグループがブルース・ブレイカーズだった。エリック・クラプトンはポップス指向が強くなったヤードバーズに嫌気がさし、当時ブルースを追求していたブルース・ブレイカーズに参加。エリック・クラプトンがこのグループ在籍時にヒットした曲は『オール・ユア・ラヴ』で、クラプトンはまたまたブルース・ブレイカーズを出ていってしまう。
●ドノヴァン
そういえばドノヴァンというフォークシンガーもいたなあ。イギリスから出たフォーク・ロック・シンガーで、イギリスのボブ・ディランとも言われていた時期があった様に思う。でもボブ・ディランとは似て非なるシンガーである。当時の風貌から言ってヒッピーだし、ビートルズとも交流があったし、曲も一風変わっていたような・・・・・『サンシャイン・スーパーマン』がこのアルバムに収められている。
『朝日のあたる家』を歌うエリック・バートンとアニマルズ。
『フォー・ユア・ラヴ』を歌うヤードバーズ。エリック・クラプトンがこの曲を気に入らずヒット直後にグループを脱退する。
『バス・ストップ』を歌うホリーズ。
『オール・ユア・ラヴ』ジョン・メイオール&ブルース・ブレイカーズの演奏(動画はなし)。ヤードバーズを脱退したエリック・クラプトンが在籍。この後にクリームを結成。
●ジ・アニマルズ
アニマルズというとエリック・バートン。そしてアラン・プライス。ビリティショ・ビート・ポップスが灰汁の抜けたサウンドばかりというのでもなく、ローリング・ストーンズとこのアニマルズに関しては、他のイギリスのグループとは違っていたような感じがする。両グループともブラック・ミュージックの影響が強く、アニマルズに関してはアラン・プライスのオルガンが異色な音質に聴こえたし、エリック・バートンの声がR&Bを歌うのに適していたようでもある。代表曲『朝日のあたる家(The House Of The Rising Sun)』『悲しき願い(Don’t Let Me Be Misunderstood)』はトラディショナル・ソングとニーナ・シモンの曲。何れもアメリカの黒人色が強い曲で、当時、私は彼らがイギリスのグループではなくアメリカのグループと思っていたほどである。
●ハニーカムズ
あんまり馴染みないがヒット曲『ハウ・アイ・ザ・ライト』は知っている。所謂、典型的な一発屋といっていいかもしれない。その後のヒット曲を知らないからなあ・・・。このグループは女性ドラマーがいたグループとして雑誌に載っていたような気がするが、あまり覚えていない。
●ハーマンズ・ハーミッツは以前に記事で取り上げたので割愛します。
●ザ・ヤードバーズ
伝説のグループ、ヤードバーズだが、このオムニバス・アルバムにはヤードバーズの曲が2曲入っている。『フォー・ユア・ラヴ』『リトル・ゲームス』である。『フォー・ユア・ラヴ』は1965年のヒット曲。この曲が流行った頃はエリック・クラプトンがメンバーにいた。でも曲自体、気に入らなかったのかエリック・クラプトンはこの曲がヒットチャートを賑わした直後に脱退する。『リトル・ゲームス』は1967年に英国でヒットしたが、この時にはジミー・ペイジがメンバーにいた。またレコ-ディング時には後にレッド・ツェッペリンに加わるジョン・ポール・ジョーンズも参加している。
●ザ・ホリーズ
ホリーズというとグレアム・ナッシュのいたグループとして有名であるがヒット曲も多い。『バス・ストップ』『キング・マイダス』『ごめんねスザンヌ(Sorry Suzanne)』『兄弟の誓い(He Ain’t Heavy He’s My Brother)』等とあるが、日本ではとりわけ1966年にヒットした『バス・ストップ』が最も有名な曲だろう。彼らはマンチェスター出身で、アメリカではイギリスほどの人気を得られなかった。最もグレアム・ナッシュは『キング・マイダス』のヒットの後に脱退。アメリカに行き、クロスビー・スティルス&ナッシュを結成する。
●ジョン・メイオール&ザ・ブルース・ブレイカーズ
ヤードバーズに在籍していたエリック・クラプトンが、ヤードバーズを脱退して加入したグループがブルース・ブレイカーズだった。エリック・クラプトンはポップス指向が強くなったヤードバーズに嫌気がさし、当時ブルースを追求していたブルース・ブレイカーズに参加。エリック・クラプトンがこのグループ在籍時にヒットした曲は『オール・ユア・ラヴ』で、クラプトンはまたまたブルース・ブレイカーズを出ていってしまう。
●ドノヴァン
そういえばドノヴァンというフォークシンガーもいたなあ。イギリスから出たフォーク・ロック・シンガーで、イギリスのボブ・ディランとも言われていた時期があった様に思う。でもボブ・ディランとは似て非なるシンガーである。当時の風貌から言ってヒッピーだし、ビートルズとも交流があったし、曲も一風変わっていたような・・・・・『サンシャイン・スーパーマン』がこのアルバムに収められている。
『朝日のあたる家』を歌うエリック・バートンとアニマルズ。
『フォー・ユア・ラヴ』を歌うヤードバーズ。エリック・クラプトンがこの曲を気に入らずヒット直後にグループを脱退する。
『バス・ストップ』を歌うホリーズ。
『オール・ユア・ラヴ』ジョン・メイオール&ブルース・ブレイカーズの演奏(動画はなし)。ヤードバーズを脱退したエリック・クラプトンが在籍。この後にクリームを結成。
2010.12.15 (Wed)
ブリティッシュ・ビートを聴く

先日、タワーレコードの洋楽コーナーにおいて、オールディーズの棚を物色していたら、『British Beat 1963---1970』と書かれたオムニバスCDを発見。早速、購入して聴いてみた。感想から言うと実に懐かしい。所謂、60年代ポップス。私が洋楽に目覚め、最も熱心に耳を傾けていた時代である。ポップスがポップスらしい最後の時代であり、まだヴォーカルが中心だった頃の話である。この後、1970年代に入るとより高度な音楽性が求められ音楽のジャンルも細分化していき、ギターテクニックがどうのドラムスが巧いだの、ソロにもアドリブが要求されるようになり、演奏時間が飛躍的に長くなる。当然、素人では真似が難しく、また鼻歌で歌えなくなる楽曲が増えていく。そんな過渡期といえるのが1960年代の終盤だったと思うが、このCDに収められているのは、それ以前のブリティッシュ・ビートといわれるビート・グループのオムニバスである。
1960年代初頭まで世界のビート音楽の主流はアメリカだった。それがアメリカのロックンローラーの影響を受けたイギリスの多くの若者達。彼らが電気ギターを持ちグループを作り、その多くの中からビート・グループが生まれた。イギリスのビート・グループ達、彼らはアメリカのグループとは一味違った独自のサウンドを生み出し後にアメリカへ進出しだす。その先鞭となったのがザ・ビートルズである。それまでイギリスのポップスはアメリカでなかなかヒットせず辛酸をなめていた。それがビートルズのアメリカでの成功、世界的大ヒットからイギリス勢の世界的進出が始まった。そして今回、一発屋も含めて、このCDに収録されているビート・グループ達の紹介と楽曲を紹介してみようと思う(数回に亘ると思う)。
小生は基本的にはオムニバスは嫌いなのだが、多くのイギリスのビート・グループは何曲もヒット曲を出してなくてアルバムが手に入らないので、その名も忘れてしまったグループも多い。それが、こうして一発屋の唯一のヒット曲を、こうして他の多くのグループと一緒に収録されていると、かつて忘れていたグループ名と共に曲を思い出してしまい懐かしくもある。そういった意味ではオムニバスは有り難くもある。
ところでイギリスのビート・ポップスはアメリカン・サウンドの泥臭さがなく当時から洗練されているところがあったと記憶している。もっともブリティッシュ・ビートとは異なるローリング・ストーンズのようなブラックぽいサウンドもあったが、相対的にアメリカのビート・ポップスとは違っていたこと確かである。それで小生はそんなブリティッシュ・ビートが、あの当時好きだった。そして俗称でリバプール・サウンドとも言われた(ビートルズがリバプール出身だったことに端を発する)。その後、日本のエレキバンドがリバプール・サウンドに憧れて、日本にエレキブームが到来した(何もヴェンチャーズだけがエレキブームの一因ではない)ことは言うまでもない。それでは話が長くなるので、この辺りで一つずつグループ名と楽曲を紹介していくとする。
●ジェリー&ザ・ペースメイカーズ
リバプール出身のグループでビートルズの弟分といわれた。マネージャーもビートルズを世に出したブライアン・エプスタインで、プロデュサーもジョージ・マーティンというまさにビートルズ・ファミリー。
ヒット曲はビートルズでもお馴染みの『恋のテクニック(How Do You Do It)』『ユール・ネヴァー・ウォーク・アローン』『マージー河のフェリー・ポート(Ferry Cross The Marsey)』等。63年から65年までヒットチャートに顔を出していたと思う。その後は知らないが、今でも彼らの曲を思い出す時がある。
●ビリー・J・クレイマー&ザ・ダコタス
こちらはマンチェスター出身のグループ。彼らもマネージャー、プロデュサーがエプスタインとジョージ・マーティン。エプスタインはソロで歌っていたイケメンのビリー・J・クレイマーのバックバンドにザ・ダコタスをくっつけた。いわばクリフ・リチャード&シャドウズのようなもの。
デビュー曲はビートルズ・ナンバーの『Do You Want To Know A Secret』で英チャート1位になった最初の曲が『バッド・トゥ・ミー』、3枚目のシングルが『アイル・キープ・ユー・サティスファイド』で何れもビートルズのレノン・マッカートニー作品というのも期待の現われだった模様。彼らは今どうしてのかな。
●フレディ&ザ・ドリーマーズ
あまり覚えていないが63年から65年にかけてヒット曲があった。代表曲『心の傷(If You Gotta Make A Fool Of Somebody)』『好きなんだ(I’m Telling You Now)』『君はぼくの君(You Were Made For Me)』
●フォアモスト
このグループもエプスタイン、G・マーティンの手により売り出されたリバプール出身のグループ。最もヒットしたのが『ハロー・リトル・ガール』というレノン・マッカートニー作品。しかしヒットしていたという記憶がない。
●ザ・スウィンギング・ブルージーンズ
ここもリバプール出身のグループ。かの有名なキャヴァーン・クラブでアマチュア時代のビートルズと何度も共演したという。しかし、彼らのヒット曲というのは『ヒッピー・ヒッピー・シェイク』ぐらいなもの。この曲もチャン・ロメロのナンバーで、ビートルズがよく歌っていたから彼らも取り上げたという。
●ピーター&ゴードン
『愛なき世界(A World Without Love)』で一躍有名になった。この曲、いい曲だなあって流行っている頃、思っていたが後で聞いたらポール・マッカートニーの作品であった。それというのもピーターの妹ジェーン・アッシャーとポール・マッカートニーが交際していたという事実があり、小生はこの2人が結婚するものと思っていた。その後はパッとせず消えていったが、ピーター・アッシャーは後にジェームス・テイラーのプロデュサーとして活躍する。
●マンフレッド・マン
ポール・ジョーンズとマンフレッド・マン、マイク・ハグを中心に他2人を加えた音楽性の高いグループだったが、最初のヒット曲は『ドゥ・ワ・デイデイ・デイデイ』を彼らの本懐にあらず。次のヒット曲は『プリティ・フラミンゴ』後年にエルヴィス・コステロ、ブルース・スプリングスティーンの愛唱歌として知られるようになる。このグループには、かつてクリームのジャック・ブルースも在籍した音楽集団だった。
『恋のテクニック(How Do Toy Do It)』を歌うジェリー&ザ・ペースメイカーズ。この曲はビートルズも歌っているから聴いてみるべし。
『アイル・キープ・ユー・サテスファイド』を歌うビリー・J・クレイマー&ザ・ダコタス この曲はレノン・マッカートニー作品である。
『愛なき世界(A World Without Love)』を歌うピーターとゴードン。この親しみやすいメロディとハーモニーは如何にもポール・マッカートニー作品らしいところである。
『ドゥ・ワ・ディディ・ディディ』を歌うマンフレッド・マン。
つづく・・・・・
2010.10.11 (Mon)
ビートルズのアルバム『フォー・セール』を聴く
左がCDで、右がLP盤。LP盤は1970年に買ったものでアップル盤。アップル盤はステレオだが、その前に姉が買ったモノラルのオデオン盤も持っていた。オデオン盤はボロボロになるまで聴きまくったので、5年後にアップル盤を購入したのである。

とうとう我がブログでもビートルズを採り上げる。思えば私が洋楽を聴くきっかけになったのもビートルズなら、洋楽を熱心に聴かなくなったのもビートルズ解散以降のことである。だから私が最も西洋のポップスを聴いていたのは1960年台後半ということになる。そして、絶えずその中心であり、核だったのがザ・ビートルズである。
一昨日の10月9日はビートルズのリーダーだったジョン・レノンの生誕70年の日であった。あったといってジョン・レノンは1980年の12月8日、ニューヨークの自宅前でファンという男にピストルで撃たれ40歳で亡くなっているから本人は生きている訳でもない。でもよくベートーヴェン生誕200年だとかモーツァルト生誕250年だとかいってクラシック音楽の世界では記念コンサートが行なわれたり、記念アルバムが出たりする。それでそういった慣習に倣っていうならばジョン・レノン生誕70年ということになる。また1980年に亡くなっているので、死後30年ということもいえる。
ところで今回、記事にしたアルバムは『フォー・セール』である。本家のイギリスではビートルズ4枚目のアルバムとして1964年12月4日にリリースされた。デビューから2年を経過し、ビートルズがビートルズらしいサウンドを創作しだした頃のアルバムであり、これまでのアイドル・グループらしき様相から徐々に脱皮し、音楽性がより確かなグループになりつつあった頃である。収録曲は全14曲である。彼らのオリジナルも8曲となり、初期のアルバムの頃と同様、そこへカバー曲が加わっている。ただし初期の頃のビートポップス的な曲から進化し、明らかにビートルズ・サウンドらしきものが現れより曲が洗練されている。
収録曲は『No Reply』『I’m A Loser』『Baby’s In Black』『Rock And Roll Music』『I’ll Follow The Sun』『Mr. Moonlight』『Kansas City~Hey,Hey,Hey』『Eight Day’s Week』『Words Of Love』『Honey Don’t』『Every Little Thing』『I Don’t Want To Spoil The Party』『What You’re Doing』『Everybody’s Trying To Be My Baby』以上である。
頭の『ノー・リプライ』を初めて聴いた時、衝撃を受けた。いきなりのジョン・レノンがシャウトして曲が始まるが、ビートルズが本当にビートルズらしくなりオリジナル性を発揮した曲の代表であろう。私にとっても『ノー・リプライ』はジョン・レノンによる珠玉の名曲である。ビートルズの中でも好きな曲の一つであり、何時聴いても新鮮な気持ちで聴けて、今でもこの曲を聴くと心が洗われる。『アイム・ア・ルーザー』は、ジョン・レノンがボブ・ディランを意識して書いたとされるが、ボブ・ディランをビートルズが意識していたというのも面白い。『ベイビーズ・イン・ブラック』ジョンとポールの共作だという。ビートルズにしては珍しい12拍子。『アイル・フォロー・ザ・サン』はポールの作。ポールお得意のバラード。この曲も私はよく鼻歌で歌ったものだが。
LPではB面の頭になるが、『エイト・デイズ・ア・ウィーク』はジョン、ポールの共作で、如何にもビートルズらしいメロディラインで、イギリスではシングル盤は発売されずアメリカでシングル盤が出された。そして当然のようにヒットチャート1位を記録。『エヴリー・リトル・シング』ジョン・レノン作の可愛らしい曲。ドラムスではなくティンパニをリンゴが叩いていて、リードをジョージではなくジョンが弾いている。ところでエヴリ・リトル・シングというと私よりもずっと若い世代では日本のグループ名だという。でも我々より上の世代では誰もグループ名を連想しない。やはりビートルズの曲名を連想してしまう。もっとも日本のグループも名前をビートルズの曲名から頂いたのだろうが・・・・・。『アイ・ドント・ウォント・トゥ・スポイル・ザ・パーティ』は『パーティはそのままに』という本題がついているが、当時は邦題がつけられることが多かった。ジョンとポールの共作で明るく楽しい曲である。『ホワット・ユー・ドゥーイング』はポールの曲で、片手間で作ったのかポールはあまり覚えてなく、ジョンが作ったといったらしい。
以上がビートルズのオリジナルで、残りの曲はカバー曲である。実を言うとビートルズは全てをオリジナルにしたかったらしいが、1964年というとビートルズの人気が絶頂であった。この年の9月21日にアメリカ公演から帰国し、10月9日からはイギリスの国内ツアーが控えていた。そんな中でレコーディングが開始され、それもEMIの強い要望でクリスマス商戦にアルバムを出すことになり、短期間の間に作曲せねばならなかったが、8曲は用意したが、アルバムを出すには曲が少ないということで残りがカバー曲になってしまったのである。
『ロック・アンド・ロール・ミュージック』はいわずと知れたチャック・ベリーの曲。ジョンのヴォーカルで光っているが、この曲は来日公演でオープニングを飾った曲として有名であり、またザ・ピーナッツが紅白歌合戦で『ピートルズ・メドレー』として歌っていた。・・・・恋をするならロックン・ロール・ミュージック・・・・・と、だから私はビートルズの曲かと思っていたぐらいだ。『ミスター・ムーンライト』も印象的な曲である。オリジナルはドクター・フィールグッド&インターンズだが、ほとんどの人はビートルズの曲と思い込んでいるようだ。あと『ハニー・ドント』『エヴリバディズ・トライング・トゥ・ビー・マイ・バイビー』は等ブログでも何年か前に記事で紹介したことのあるカール・パーキンスの曲である。でもカール・パーキンスの曲をビートルズは幾つかカバーしているが、それはジョージ・ハリスンがカール・パーキンスのファンだったからでもある。
さて、このアルバムを久しぶりに聴き返して感じたことであるが、このアルバムまで、ビートルズはジョンのバンドであるということが窺える。それが次の『ヘルプ!』あたりからポール・マッカートニーが才能を発揮しだし、次第とポール中心のバンドとなっていくのが判る。そしてただのビートポップ・グループから真のミュージシャン、アーティストとしての評価が段々となされるようになるのである。
『ノー・リプライ』の演奏。動画はなし。
1966年6月、ビートルズ来日時のコンサート。E・H・エリックの司会のあとに登場したビートルズがオープニングで『ロックン・ロール・ミュージック』を歌う。残念ながら、この日のジョン・レノンは声のはりがない。
この初日の武道館でのコンサート。テレビで生中継され、姉と一緒になって歌っていた覚えがある。もう、44年も前のことになった。

とうとう我がブログでもビートルズを採り上げる。思えば私が洋楽を聴くきっかけになったのもビートルズなら、洋楽を熱心に聴かなくなったのもビートルズ解散以降のことである。だから私が最も西洋のポップスを聴いていたのは1960年台後半ということになる。そして、絶えずその中心であり、核だったのがザ・ビートルズである。
一昨日の10月9日はビートルズのリーダーだったジョン・レノンの生誕70年の日であった。あったといってジョン・レノンは1980年の12月8日、ニューヨークの自宅前でファンという男にピストルで撃たれ40歳で亡くなっているから本人は生きている訳でもない。でもよくベートーヴェン生誕200年だとかモーツァルト生誕250年だとかいってクラシック音楽の世界では記念コンサートが行なわれたり、記念アルバムが出たりする。それでそういった慣習に倣っていうならばジョン・レノン生誕70年ということになる。また1980年に亡くなっているので、死後30年ということもいえる。
ところで今回、記事にしたアルバムは『フォー・セール』である。本家のイギリスではビートルズ4枚目のアルバムとして1964年12月4日にリリースされた。デビューから2年を経過し、ビートルズがビートルズらしいサウンドを創作しだした頃のアルバムであり、これまでのアイドル・グループらしき様相から徐々に脱皮し、音楽性がより確かなグループになりつつあった頃である。収録曲は全14曲である。彼らのオリジナルも8曲となり、初期のアルバムの頃と同様、そこへカバー曲が加わっている。ただし初期の頃のビートポップス的な曲から進化し、明らかにビートルズ・サウンドらしきものが現れより曲が洗練されている。
収録曲は『No Reply』『I’m A Loser』『Baby’s In Black』『Rock And Roll Music』『I’ll Follow The Sun』『Mr. Moonlight』『Kansas City~Hey,Hey,Hey』『Eight Day’s Week』『Words Of Love』『Honey Don’t』『Every Little Thing』『I Don’t Want To Spoil The Party』『What You’re Doing』『Everybody’s Trying To Be My Baby』以上である。
頭の『ノー・リプライ』を初めて聴いた時、衝撃を受けた。いきなりのジョン・レノンがシャウトして曲が始まるが、ビートルズが本当にビートルズらしくなりオリジナル性を発揮した曲の代表であろう。私にとっても『ノー・リプライ』はジョン・レノンによる珠玉の名曲である。ビートルズの中でも好きな曲の一つであり、何時聴いても新鮮な気持ちで聴けて、今でもこの曲を聴くと心が洗われる。『アイム・ア・ルーザー』は、ジョン・レノンがボブ・ディランを意識して書いたとされるが、ボブ・ディランをビートルズが意識していたというのも面白い。『ベイビーズ・イン・ブラック』ジョンとポールの共作だという。ビートルズにしては珍しい12拍子。『アイル・フォロー・ザ・サン』はポールの作。ポールお得意のバラード。この曲も私はよく鼻歌で歌ったものだが。
LPではB面の頭になるが、『エイト・デイズ・ア・ウィーク』はジョン、ポールの共作で、如何にもビートルズらしいメロディラインで、イギリスではシングル盤は発売されずアメリカでシングル盤が出された。そして当然のようにヒットチャート1位を記録。『エヴリー・リトル・シング』ジョン・レノン作の可愛らしい曲。ドラムスではなくティンパニをリンゴが叩いていて、リードをジョージではなくジョンが弾いている。ところでエヴリ・リトル・シングというと私よりもずっと若い世代では日本のグループ名だという。でも我々より上の世代では誰もグループ名を連想しない。やはりビートルズの曲名を連想してしまう。もっとも日本のグループも名前をビートルズの曲名から頂いたのだろうが・・・・・。『アイ・ドント・ウォント・トゥ・スポイル・ザ・パーティ』は『パーティはそのままに』という本題がついているが、当時は邦題がつけられることが多かった。ジョンとポールの共作で明るく楽しい曲である。『ホワット・ユー・ドゥーイング』はポールの曲で、片手間で作ったのかポールはあまり覚えてなく、ジョンが作ったといったらしい。
以上がビートルズのオリジナルで、残りの曲はカバー曲である。実を言うとビートルズは全てをオリジナルにしたかったらしいが、1964年というとビートルズの人気が絶頂であった。この年の9月21日にアメリカ公演から帰国し、10月9日からはイギリスの国内ツアーが控えていた。そんな中でレコーディングが開始され、それもEMIの強い要望でクリスマス商戦にアルバムを出すことになり、短期間の間に作曲せねばならなかったが、8曲は用意したが、アルバムを出すには曲が少ないということで残りがカバー曲になってしまったのである。
『ロック・アンド・ロール・ミュージック』はいわずと知れたチャック・ベリーの曲。ジョンのヴォーカルで光っているが、この曲は来日公演でオープニングを飾った曲として有名であり、またザ・ピーナッツが紅白歌合戦で『ピートルズ・メドレー』として歌っていた。・・・・恋をするならロックン・ロール・ミュージック・・・・・と、だから私はビートルズの曲かと思っていたぐらいだ。『ミスター・ムーンライト』も印象的な曲である。オリジナルはドクター・フィールグッド&インターンズだが、ほとんどの人はビートルズの曲と思い込んでいるようだ。あと『ハニー・ドント』『エヴリバディズ・トライング・トゥ・ビー・マイ・バイビー』は等ブログでも何年か前に記事で紹介したことのあるカール・パーキンスの曲である。でもカール・パーキンスの曲をビートルズは幾つかカバーしているが、それはジョージ・ハリスンがカール・パーキンスのファンだったからでもある。
さて、このアルバムを久しぶりに聴き返して感じたことであるが、このアルバムまで、ビートルズはジョンのバンドであるということが窺える。それが次の『ヘルプ!』あたりからポール・マッカートニーが才能を発揮しだし、次第とポール中心のバンドとなっていくのが判る。そしてただのビートポップ・グループから真のミュージシャン、アーティストとしての評価が段々となされるようになるのである。
『ノー・リプライ』の演奏。動画はなし。
1966年6月、ビートルズ来日時のコンサート。E・H・エリックの司会のあとに登場したビートルズがオープニングで『ロックン・ロール・ミュージック』を歌う。残念ながら、この日のジョン・レノンは声のはりがない。
この初日の武道館でのコンサート。テレビで生中継され、姉と一緒になって歌っていた覚えがある。もう、44年も前のことになった。