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2010.05.08 (Sat)

ハーマンズ・ハーミッツのデビュー・アルバムを聴く

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 とうとう筆者は狂ったのかと思われた向きもあるかもしれない。何でハーマンズ・ハーミッツなのだ? と問われるかも知れない。大物ではないし、過去の当音楽ブログに登場したミューシャンと比較しても実力があるというのでもなく、さほど知名度があるというのでもないのに何でハーマンズ・ハーミッツなんだということなのだが、まあいいではないか。たまには趣味でこういったミュージシャンも登場いたします。

 ところでハーマンズ・ハーミッツというと、やはり50歳以上の人にしか判らないグループであろう。彼らが最も活躍したのが1960年代中頃だから、今から40年以上前に人気のあったグループなのである。何故に人気があったかというと、それはヴォーカリストのピーター・ヌーン(1947年生れ)に頼るところが多く、彼がヴォーカルをしていた関係から人気があったように思う。

 そもそもは子役として地元イギリスのテレビに出演していたピーター・ヌーンが、俳優稼業に見切りをつけて5人組のビート・グループであるハートビーツを結成したことから始まる。やがてハーマンと呼ばれていたピーター・ヌーンのグループはハーヴェイ・リスバーグ、チャーリー・シルヴァーマンという2人のマネージャーと出会う。その時、マネージャーはハードビーツという平凡な名前よりも奇抜なグループ名を考えていた。その時、メンバーのカール・グリーンが、人気アニメ『ロッキー・アンド・ブルウィンクル・ショウ』に出てくるシャーマンがピーター・ヌーン(ハーマン)に似ているということで、シャーマン&ザ・ハーミッツはどうだろうかと提案したが、結局はハーマンズ・ハーミッツという名になったのである。つまりハーマン無くしては成り立たないグループだったのである。

 こうしてイギリスのマンチェスター(リヴァプールではないところが面白い)で結成されたハーマンズ・ハーミッツは1964年にデビューする。この頃のイギリスは、ちょうどビートルズ、ローリング・ストーンズが人気沸騰の最中である。2人のマネージャーは辣腕でピーター・ヌーンのルックスを前面にアピールするつもりであったらしい。アイドル的ルックスを持つピーター・ヌーンは美男子ではないものの、母性本能をくすぐる愛らしさを持っていて、10代の女の子及び両親にも認められるアイドルとしての人気が沸騰。デビューシングル『朝からゴキゲン』『ユア・ハンド・イン・マイン』がいきなりのヒット。第2弾シングル『ショウ・ミー・ガール』『アイ・ノウ・ホワイ』は最高21位どまりだったが、第3弾『シルエッツ』『ハートがドキドキ』が再び大ヒット。

 これでイギリスにハーマンズ・ハーミッツ旋風が吹き荒れることになったのである。この勢いはやがてアメリカへ飛び火し、1965年はハーマンズ・ハーミッツ大躍進の1年で、とうとう1965年にはアメリカでのレコード盤の売り上げがビートルズを追い抜いてしまったのである。こうしてハーマンズ・ハーミッツは約1ヶ月のアメリカ公演に出発。途中、サム・クックのカバー曲『ワンダフル・ワールド』(日本ではウルフルズで有名)が大ヒット。さらに『ミセス・ブラウンのお嬢さん』も大ヒット。『ヘンリー8世君』は全米第1位。コニー・フランシス主演の映画『青春のデイト』にも出演。エド・サリヴァン・ショウにも出演。アメリカでも自他共に認められるビート・グループとしてビートルズやローリング・ストーンズに追随するグループとなったのである。しかし、人気の衰退も早かった。

 1966年に来日し、翌1967年に『見つめ合う恋』が大ヒット。この曲は後年にカーペンターズがカバーするが、そもそもハーマンズ・ハーミッツ自身カバー曲が多く、彼らのオリジナル性が問われる。そしてデビューからあまり代わり映えしない音楽性に飽きられる羽目となる。こうして1970年以降はすっかり忘れられた存在になってしまい、1971年にはピーター・ヌーンが脱退したことにより事実上解散したも同然となった。

 その後、再び結成されたという話も聞くが、今更、聴く気も起こらないので、どうなっていることやら。でも一時期であるが確かに輝いていたのが何時もハッピー、ハーマンズ・ハーミッツである。ということで、こういったグループもあったということを小生はいいたかったのである。

 『ワンダフル・ワールド』を唄うハーマンズ・ハーミッツ。これはサム・クックのカバー曲である。日本ではウルフルズが唄った。


 『この世の果てまでも』を唄うハーマンズ・ハーミッツ。これもスキーター・デイヴィスのカバー曲である。


 『見つめ合う恋』音声のみ、動画はなし。この曲はカーペンターズがカバーした。

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2010.02.24 (Wed)

トニー・ベネットを聴く

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 小学生の頃であるが、ラジオから魅惑的な男性の声で歌われる曲が流れていた。
 
I left my heart in San Francisco
High on a hill it colls to me
To be where little cable cars
Climb halfway to the stars
The morning fog may chill the air I don’t care
My leve waits there in San Francisco
Above the blue and windy sea
When I come home to you
San Francisco
Your golen sun will shine for me

 スローバラードの印象に残る曲であった。それで中学生の姉に何という曲なのか聞いてみた。姉は「トニー・ベネットの『霧のサンフランシスコ』」と言った。それ以来、私の中でトニー・ベネットは大人の雰囲気を持つ魅惑的な声の歌手というイメージが焼きついてしまったのである。

 トニー・ベネットは1926年にイタリア移民の子供としてニューヨークで生まれ、1950年にコロムビア・レコードと契約して歌手としてデビューし、数々のヒット曲を出したアメリカ・ポピュラー界の大御所であることは、今さら言うまでもないが、私が少年時代に聴いた『I left my heart in San Francisco』の印象が余りにも強くて、トニー・ベネット=『霧のサンフランシスコ』という認識でしかなかった。この曲は300万枚以上のミリオン・セラーになったのだから、トニー・ベネットの代表作に違いないのだが、それ以上にトニー・ベネットとこの曲が切り離せなくなったことは確かなようである。だから私なんかはトニー・ベネットは一発屋歌手だと長い間、思い込んでいたぐらいである。でもトニー・ベネットは1950年にデビューしたときの歌『Bulevard of Broken Dreams』がいきなりヒットして、若くして歌手として認められている。その後1952年に『Because of You』でミリオン・セラーを記録、さらに『Cold, Cold Heart』はゴールド・ディスクとなるヒット。その後も、『Rags to Riches』がゴールド・ディスク、ボロディン作曲の歌劇『イゴーリ公』の~ダッタン人の踊りのメロディーに詩をつけた『Stranger in Paradise』を歌って大ヒットと『霧のサンフランシスコ』を歌う以前から大物歌手として歌ってきているキャリアも何も私は当時、知らなかったのだが、あの甘い独自の声を初めて聴いたときから、当時、流行りつつあったロックビートな曲とは一線を画す大人の歌があるのだということを子供心にも覚ったものである。

 『霧のサンフランシスコ』の大ヒットから、数年後、トニー・ベネットは映画『いそしぎ』の主題歌を歌って再び登場。この頃には、トニー・ベネットが一発屋ではないということを知ってはいたが、それ以上のことは知らなかった。それからまもなくアメリカ・ポピュラー界の王道を行く歌手というものは、このような人を言うのかと納得したものである。そのようなきっかけから私は、当時よく聴いていたビートルズを始めとするリバプール・サウンド以外でもトニー・ベネットの曲はよく聴くようになっていた。

 そんな頃だろうか、トニー・ベネットが初来日した。中学生だった私は当然、トニー・ベネットの公演など行けるはずもなく、その後も、トニー・ベネットは何度か来日しているが私は残念ながら、一度も生のコンサートに行ったことがなく現在に至っている。それから間もなく、大ヒットした映画『ある愛の詩』の主題曲をトニー・ベネットが歌って、この曲もヒットする。これ以降、私は海外のポピュラーを聴かなくなってしまうのだが、その後もトニー・ベネットは歌手生活を続けているようで、円熟の域から枯淡の境へとさしかかり、4年ほど前には生誕80年の記念アルバムをリリースしたのだが、その共演者が錚々たるメンバーである。ポール・マッカートニー、バーブラ・ストライサンド、スティーヴィー・ワンダー、エルトン・ジョン、ビリー・ジョエル、ジェームス・テイラー、エルヴィス・コステロ、セリーヌ・ディオン等・・・・・・。

 こうして今年84歳になりながらも歌い続けているトニー・ベネットであるが、私は小学生の頃に聴いた、あの『霧のサンフランシスコ』の印象の間々、甘い歌声と共に私の心の中に生き続けているのである。


 アンディ・ウィリアムズと共演するトニー・ベネット・・・・シティ・メロディを歌う

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2010.01.20 (Wed)

カーペンターズを聴く

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 1970年代のポップシーンを代表するデュオ・グループといえばカーペンターズであろう。私はけしてカーペンターズを好んで聴いていたというのでもないが、1970年代前半においては必ず、何処かでカーペンターズの曲が流れていたという印象がある。ということは老いも若きも含めて、カーペンターズの音楽は愛されていたということになるだろう。

 私が初めてカーペンターズを聴いたのは1970年のことだった。ラジオからスローバラードの『遥かなる影(Close to you)』が流れていた。

 ~Why do birds suddenly appear ?
Everytime you are near
Just like me they long to be
Close to you

 時はレッド・ツェッペリンに代表されるようにハードロック全盛の時代。そんな最中、淡々と女性の声で歌い上げるスローバラードが印象的だったのでよく覚えている。カーペンターズというから何人かのグループなのかと思ったら、ピアノを弾くリチャード・カーペンターとドラムを叩くカレン・カーペンターの兄妹デュオをいうことを知って驚いたものである。この曲は当時に人気のあったバート・バカラックとハル・デヴィッドというヒットメーカーが作詞作曲を担当していて、見事、カーペンターズの出世作となったのである。それ以降、カーペンターズはトントン拍子にヒット曲を出すようになり、日本でも人気グループとして認められるようになったことはいうまでもない。そして今回は、そんなカーペンターズを聴いてみて、色々と当時のことを思い出してみることにする。

 兄リチャード(1946年生まれ)と妹カレン(1950年生まれ)の兄弟デュオ1969年にビートルズの曲をカバーした『涙の乗車券』でデビューする。この時、2人はカリフォルニア州立大学に通う大学生だった。ドラムを叩いているのがカレンで、当時は歌を歌うよりもドラマーとしての役割の方が優先していたのか、彼女は自分自身の歌声の素晴らしさに、まだ目覚めてなかったと見える。

 もともとカレンは音楽よりもスポーツの好きな少女で、音楽的素養は兄リチャードが持っていたようである。リチャードは幼い頃からピアノを習い、少年時代から聴いたレコードの曲を分析し、よく独自のアレンジで弾いていたという。その後、リチャードは妹カレンを引っ張り込みジャズ・トリオを結成したり、大学の仲間とグループを組んでデモテープを片っ端からレコード会社に送っていた。それが何時しか功を奏し、大手のA&Mと契約することに成りデビューの運びになったのである。

 『遥かなる影』大ヒット以降のことは、今さら述べることでもないが、出す曲、出す曲が次から次へとヒットする。『愛のプレリュード』(1970年)、『スーパースター』(1971年)、『雨の日と月曜日』(1971年)、『ふたりの誓い』(1971年)、『ハーティング・イーチ・アザー』(1972年)、『愛にさようならを』(1972年)、『小さな愛の願い』(1972年)、『愛は夢の中に』(1972年)、『トップ・オフ・ザ・ワールド』(1973年)、『イエスタデイ・ワンス・モア』(1973年)、『シング』(1973年)、『ジャンバラヤ』(1973年)、『プリーズ・ミスター・ポストマン』(1974年)、『ソリテアー』(1975年)、『青春の輝き』(1976年)、『見つめあう恋』(1976年)、『スウィート・スマイル』(1978年)・・・・・・・・

 癒されるカレンの歌声と共にカーペンターズの音楽は一般受けしたのである。激しくて喧しいハードロック、ヘビーメタル、無機的なテクノポップといったものも、そろそろ頭を擡げてきた、そんな時代の真っ只中で彼らの奏でる音楽に、一体どれだけの人がやすらぎを感じたことであろうか・・・・。それがカーペンターズなのである。けしてトレンドをいっていた音楽ではない。どこか古典的でもあるが、彼ら独自のサウンドであったことは確かである。またカーペンターズを考える時、如何にカバー曲が多かったかを考えてみると判るが、オリジナルと違った見事なカーペンターズのサウンドに生き返っているのである。

 デビュー曲からしてビートルズの曲であったように、『ヘルプ』(ビートルズ)、『プリーズ・ミスター・ポストマン』(マーヴェレッツ)、『ふたりの誓い』(ラリー・メレディス)、『見つめあう恋』(ハーマンズ・ハーミッツ)というようにカバー曲でありながら、オリジナルとは色合いの違う再構築している。また場合によってはカレンの声の魅力と共に、オリジナルよりも洗練された曲に仕上がっていたりするので、カーペンターズの方がオリジナルだと思っている人も多い。

 そんなカーペンターズであるが、1983年2月4日にカレンが亡くなることにより、突然、カーペンターズの存在が消え去ってしまった。死因は一般的に拒食症だと報道され、我々はびっくりしたものだが、どうやら報道が一人歩きしたようなところがある。拒食症は拒食症だったらしいものの、亡くなる前日には普通に食事を摂取していたそうだ(それもシュリンプサラダ2人前にタコス)。本当の死因は心不全で、彼女は痩せるために様々な薬を使用していたらしく、その中で毒性のある薬剤も混ざっていて、それが心臓停止につながったといわれている。享年32歳。

 カレン・カーペンターは32歳の若さで亡くなった。これによりカーペンターズは消滅。2度とカーペンターズを聴くことは出来なくなった。今あるのは過去のカーペンターズが歌った歌声が残るのみ。あの曲の歌詞の意味を思い出しながら・・・・・・・歌ってみようか。

When I was young
I’d listen to the radio
Waitin’ for my favorite songs
When they played I’d sing along
It made me smile
Those were such happy times
And not so long ago
How I wondered where they’d gone
But they’s back again
Just like a long lost friend
All the songs I loved so well

Every Sha-la-la-la
Every Wo-o-wo-o
Still shines
Every sings-a-ling-a-ling
That they’re startin’ to sing
So fine
(以下、省略)

 出世作『遥かなる影(Close to you)』を歌うカーペンターズ。 


『Yesterday once more』を歌うカーペンターズ。

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2009.12.07 (Mon)

サイモン&ガーファンクルのアルバム『明日に架ける橋』を聴く

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 サイモン&ガーファンクルの曲を初めて聴いたのは確1966年だったと思う。ラジオから聴こえてきた『サウンド・オブ・サイレンス』という曲に聴き入った。その時の印象は綺麗な曲だなあという印象でしかなかった。それが、映画『卒業』のテーマ曲として使われ、こんなにいい曲だったのかと再認識したものであり、その時に『スカボロー・フェア』『ミセス・ロビンソン』等もヒットし、すっかりサイモン&ガーファンクルは日本でも有名なフォーク・デュオとなった。とにかくアート・ガーファンクルの美声と、ガーファンクルに絡むポール・サイモンとのハーモニーが見事であった。

 彼らは共に、1941年、ニューヨーク郊外のユダヤ人の中産階級の家庭に生れた。出会いは小学校の学芸会というから、ポールとアートは幼馴染だったのである。彼らは何かと趣味が合い意気投合しフォーク・デュオを組み、トム&ジェリーというふざけた名前で10代のときに既にヒット曲を出しているそうだが、サイモン&ガーファンクルという名で1964年にデビューし、最初のアルバム『水曜の朝、午前3時』をリリースしたのである。そして、この時に挿入されていた曲が『サウンド・オフ・サイレンス』であり、彼らの最初のヒット曲となった。でもこの時の『サウンド・オフ・サイレンス』は、後年にヒットした同じ曲と違って、ドラムスもエレクトリック・ギターもベースもなく、アコースティック・ギターだけの伴奏によるシンプルな曲であった。それが2年後にエレクトリック・ギターとベースとドラムスが加えられてフォーク・ロックの名曲として再ヒットし、その時に私はよく聴いたのだと思う。こうしてサイモン&ガーファンクルは日本でも認知されるような、有名なフォーク・デュオとなった。

 そして、1970年になって早々、サイモン&ガーファンクルは一枚のアルバムを出す。それが『明日に架ける橋』である。その前の年、彼らの『ボクサー』という曲がヒットし、その曲も『明日に架ける橋』に組み込まれていた。それで私は、彼らが出した新アルバム『明日に架ける橋』の同名タイトル曲を聴いたのだった。

 When you’re weary, feeling small,
 When tears are in your eyes, I will dry them all,
 I’m on your side. When times get rough
 And friends just can’t be found,
 Like a bridge over troubled water
 I will lay me down.
 Like a bridge over troubled water
 I will lay me down.

 その時の第一印象は何て美しい曲なんだろう・・・・・。それが今でもその時の印象を保ちつつ、『明日に架ける橋(Bridge over troubled water)』は名曲であるという認識が私にはある。メロディもいいし、ハーモニーもいいし、何しろ詩がいい。これを名曲といわないなら何を名曲というのか・・・・・・。もっとも今時のビートのきいた曲を聴き慣れた人の中にとっては反論があるかもしれない。でも20世紀のポップス史において残しておきたい曲の一つに入ることは間違いがないだろう。でも、私の姉はビートルズの『Let it be』に似ているから嫌いだといったが、何処が似ているのだろうか・・・・・?

 1970年春、万国博覧会がちょうど大阪で開幕した頃、この『明日に架ける橋』がアルバムからシングル・カットされ流行っていた。当然、この曲がコピーしたくなり友人とギターを片手に早速2人で歌ってみたが、とても無理だったことを思い出す。あのガーファンクルの声は到底、我々のような素人では真似できないものであり、自分のどうしようもない低音を恨んだものである。

 尚、このアルバムは全部で11曲収録されていて、タイトル曲の『Bridge Over Troubled Water』『El Condor Pasa』『Cecilia』『Keep The Customer Satisfied』『So long, Frunk Lloyd Wright』『The Boxer』『Baby Driver』『The Only Living Boy In New York』『Why Don’t You Write Me』『Bye Bye Love』『Song For The Asking』・・・・この中で『コンドルは飛んで行く』は、ペルーのフォルクローレに基づき、民族音楽家ダニエル・アロシアス・ログレスが1913年に発表した曲にポール・サイモン詩をつけてシングル・カットもされ、『バイ・バイ・ラヴ』もシングル・カットされたが、元はエヴァリー・ブラザースのヒット曲である。エヴァリー・ブラザースというのは彼らのアイドルであったというから、何れはカヴァー曲として彼らはステージでよく歌っているのである。しかし、今聴いても心が洗われるような曲が多く耳に心地よい。

 サイモン&ガーファンクルはこのアルバムを残してデュオを解散した。その後はポール・サイモンはソロとして歌い、アート・ガーファンクルは映画に出たりして、別々の路を歩んだりしていたが、1982年だったろうか、2人がデュオとして来日し大阪と東京でライヴを敢行したことは忘れない。当時、私はポップスというものをほとんど聴かなくなっていたが、久しぶりにチケットを購入し、会場の甲子園球場へ出かけていった。場内はオールド・ファンで埋っていたが、若いファンもいて彼らの日本での人気の高さが窺えるが、ポール・サイモンがヤンキースの帽子ではなく、阪神タイガースの帽子を被って登場したことはご愛嬌であろう。こうして『サウンド・オブ・サイレンス』以下、20曲ぐらい歌ったのだろうか(流石に昔のことで覚えていない)。当然、『明日に架ける橋』を歌ったことはいうまでもないが、今年の夏だったろうか、彼らが再びデュオを組んで来日し、ライヴを行なったようである。私は行かなかったが、今でもガーファンクルはあんな美声が出るのだろうか、2人のハーモニーは息がぴったりなのだろうかと思いながら、私の青春時代を駆け巡った当時を懐かしんだのでもある。

『明日に架ける橋』を歌うアート・ガーファンクル(今年の夏のシドニーでのライヴから)・・・高音域が出にくくなっているね。往年の美声はやや褪せたか・・・・・


 『ボクサー』を歌うサイモン&ガーファンクル。2人とも歳をとりました。

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2009.11.05 (Thu)

ディープ・パープルのアルバム『マシン・ヘッド』を聴く

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  ディープ・パープルというハードロック・グループがある。今でも現役だというが、結成は1968年だから41年も前になるから古いバンドである。日本では何故か格別に人気があって、なにしろ1972年8月に来日した時(15日、16日、大阪厚生年金会館。17日、日本武道館)のライヴ盤が日本限定で発売されたぐらいだから、如何に日本での人気が特化していたかということになる。そのおかげで、そのアルバムの中からシングルカットされた『スモーク・オン・ザ・ウォーター』がアメリカでヒットし、ようやくアメリカでも注目されたバンドなのである。ならば日本でどうしてそんなに人気があるかというと、実に判り易いハードロックを演奏していたからである。あの頃、日本はやたらとハードロックが受けたのである。でもディープ・パープルは結成当初、ハードロックばかりを演奏するバンドではなかったのだ。

 結成当初のメンバーはジョン・ロード(キーボード)、リッチー・ブラックモア(ギター)、イアン・ペイス(ドラムス)、ニック・シンパー(ベース)、ロッド・エヴァンス(ヴォーカル)で、ライヴでにおいてはジャズやクラシックの要素を含んだ即興演奏をこなすなど、どちらかというとイギリスのバンドらしいプログレッシブ的な音楽を好んで演奏していたのだが、アルバム3枚を出したものの大ヒットは出せなかった。つまり大衆性がなかったということになり、独自の音楽性を構築していただけであった。

 それが1969年にバンド内で対立がありメンバーが入れ替ることになる。こうしてジョン・ロード、リッチー・ブラックモア、イアン・ペイスに加えて、ロジャー・グローヴァー(ベース)、イアン・ギラン(ヴォーカル)が参加。この時期、レッド・ツェッペリンに象徴されるようなハードなサウンドをするべきだとリッチー・グラックモアが訴えると、ジョン・ロードは今までのような幻想的なサウンドで進めるべきだと意見が対立。その結果、一度だけハードロック路線を志向したアルバムを作ろうとリッチー・ブラックモアの意見が通り、その結果『ブラック・ナイト』がイギリスと日本でヒットしたのである。だから日本ではディープ・パープルはハードロックといったイメージが強いのだと思う。でもアメリカで火がついたのは、先ほど述べたように『ライブ・イン・ジャパン』のアルバムが出てからのことである。

 さて、当アルバム『マシン・ヘッド』は1971年12月、スイスでアルバム『マシン・ヘッド』が録音された。収録曲は『Highway Star』『Maybe I’m a leo』『Pictures of home』『Never before』『Smoke on the water』『Lazy』『Space Truckin’』の7曲である。この中にはお馴染みの曲がいくつか含まれていて、1972年の春、このアルバムが発売されることになるが、当然のようにベストセラー・アルバムとなる。

 こうして『ハイウェイ・スター』や『スモーク・オン・ザ・ウォーター』等は今でも、ハードロックの傑作曲として必ず名前が挙げられるようになるが、ディープ・パープルは必ずしもハード・ロックばかりを追求していた訳ではないということを知って欲しかったのである。

 その後、ディープ・パープルは例によって、何度かメンバーの入れ替えがあり、解散、再結成と何かと忙しく、その度に音楽性も微妙の変遷しているようだが、やはり最もディープ・パープルが輝いていた時期というのが、当アルバムを生み出した1969年~1973年の第2期のメンバーの頃であろう。


 『Highway Star』を演奏するDeep Purple(1972年)



 『Smoke on the water』の演奏(1973年)。イントロが余りにも有名な曲である。

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2009.10.19 (Mon)

ザ・フォーク・クルセダーズを聴く

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 先週の土曜日(10月17日)、加藤和彦が軽井沢のホテルで首吊り自殺をしたという。まさかと思ったが本当だった。彼の身の上に何があったのか知らないがとにかく驚いた。でも今の若い人は加藤和彦といっても知る人は少ないだろう。かつて昭和40年代の前半に一世を風靡した音楽制作集団ザ・フォーク・クルセダーズの中心的人物であったといえばいいだろうか。とにかくやることなすこと全てが斬新でお洒落であった。

 思えば私は少年の頃からポップスは洋楽一本で聴いてきたが、唯一、日本ではザ・フォーク・クルセダーズに興味を持った。何故かと言うと余りにも衝撃的に音楽シーンに登場したからである。昭和42年の秋だろうか、私の姉がラジオで洋楽を聴いていたと思ったら、或る日、ラジオから聴こえてくるのは日本語のおかしな歌だった。

~おらは死んじまっただ おらは死んじまっただ おらは死んじまっただ
 天国に行っただ
 長い階段を 雲の階段を おらは登っただ ふらふらと・・・・・

 何だこれはと思った。テープを早回しした奇妙な声で歌っている。こんな変な歌が流行っているのかと思った。いわばこれがザ・フォーク・クルセダーズとの出会いだった。姉に聞くと、京都の大学生仲間で結成されたフォーク・グループが自主制作で作って自ら歌っているという。それがシングル盤で280万枚売れた大ヒット曲『帰って来たヨッパライ』だった。メンバーは加藤和彦、北山修、平沼義男、芦田雅喜の4人だという。

 そもそも1965年の夏、龍谷大学の学生だった加藤和彦が雑誌『メンズクラブ』に「フォーク・グループを作りませんか」という呼びかけをした。すると京都府立医科大学の学生だった北山修が、その呼びかけを見て急遽、妹の自転車に飛び乗って、何と京都駅の近くにある自宅から、伏見区深草にある加藤和彦の家まで会いに行ったという。こうして結成されたのがザ・フォーク・クルセダーズである。その後、メンバーの移動があったものの、約2年間アマチュア・グループとして活動し、彼らが大学を卒業する間際になって、解散するのだから、記念に自主制作アルバムを作ろうということになり、アルバム『ハレンチ』を300枚製作する。だが名もない素人集団のアルバムなど売れるわけがない。それで仕方なく自ら関西の放送局にアルバムを持って行き置いていったという。するとラジオ関西(現ラジオ神戸)で『ハレンチ』の中の曲『帰って来たヨッパライ』をかけて電波に流したところ、凄い反響でリクエストが殺到したのである。ちょうどその頃、私の姉は聴いていたということになる。

 こうして彼らの名は一躍、全国的に知れ渡り、レコード会社からプロデビューの話が持ち上がり、加藤和彦、北山修に端田宣彦を加えて、1年だけという期限付きで新生ザ・フォーク・クルセイダーズがスタートしたのである。

 その後、『イムジン河』の発売禁止があり、その代わりに出した曲が『イムジン河』のテープ逆回しから生れたという『悲しくてやりきれない』・・・・・そして『水虫の唄』『さすらいのヨッパライ』『戦争は知らない』『何のために』『青年は荒野をめざす』等・・・・。結局、一年だけ活動してザ・フォーク・クルセダーズは解散する。つまり、これが伝説のフォーク・グループ『ザ・フォーク・クルセダーズ』である。そして、その音楽的支柱が加藤和彦だったのである。その後、加藤和彦は一度、北山修とのコンビで『あの素晴らしい愛をもう一度』をヒットさせているが、主に表舞台に登場せず、新人歌手への楽曲提供、またはプロデュースをするようになった。その後、サディスティック・ミカ・バンドなんていう私的なバンドも持ったが、彼の曲は他人に提供した『白い色は恋人の色』(ベッツィ&クリス)、『初恋の人に似ている』(トワ・エ・モア)、『妖精の詩』(アグネス・チャン)等で聴くことが出来たのであるが、そういえば井上陽水がアンドレ・カンドレという名前で歌っていた頃に『花にさえ鳥にさえ』という加藤和彦から曲の提供を受けているし、吉田拓郎のヒット曲『結婚しようよ』や泉谷しげるの『春夏秋冬』の音楽プロデュースをやっていたのも加藤和彦である。

 結局、フォークル解散後は、自分自身あまり積極的な演奏活動をせず、他のシンガーへの楽曲提供、または音楽プロデュースを手がけていた加藤和彦である。彼から影響を受けたシンガー・ソング・ライターが非常に多く、加藤和彦がいなければ、その後のフォーク・ブームもニューミュージックももっと違ったものになっていたかもしれず、日本のポップス界に与えた影響力は大きいだろう。でも何故に自殺したのだろうか・・・・・。もうやる音楽がなくなったと書かれた遺書が見つかったらしいが、私から言わせて貰うならば、音楽性の欠片もない曲が大手を振るう昨今を見ると思わず納得してしまう。もはやレコード大賞なんて何の意味もなさない・・・・・・。だから私はジャズやクラシックばかり聴いているのだが・・・・・・。




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