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2014.06.25 (Wed)

You Tubeで1966年ワールド・カップ・イングランド大会の決勝を観る

 今日の早朝、ワールド・カップの日本VSコロンビア戦が行われ、結果はご存じのとおり1対4で敗れ日本は1勝もできずグループリーグで敗退が決定した。予想できたことだが、ここまで完膚なきまでにやられると口惜しいとかの言葉も出ない。全てはコートジボワール戦で逆転負けしたことが歯車を狂わしたような気がする。この試合でせめて引き分けに終わっていたら、その後の戦い方も変わっていただろう。この試合で敗れてから、得点を取らないとえけないという焦りから全てが空回りしてしまったようだ。パスの精度も欠き、スピードも不足しているし、劣勢に立った時は挽回できない。今日の試合なんかいらないPKを与えてしまいマイナスからのスタート。どうにか前半終了間際に同点に追いついたが、此処までだった。後半はとにかく点を入れないといけないと判っているので、攻撃的にいったが守備が疎かになり反対にカウンター攻撃を受け致命的な3失点。もうどうすることも出来ない。ズタズタのボロボロである。現在の日本のサッカーの限界を此処に見た気がする。昨年のコンフェデレーションズ・カップではイタリアと好勝負し、親善試合でオランダと引き分けたから今回もと言う期待はあっただろう。しかし、本番のワールド・カップとなるとちょっと違う。何処も本気だから簡単には勝たせてくれない。何時ものことだが相変わらずの決定力のなさ。ある程度ボールを支配しても、結局は得点が獲れない。これは今に始まったことではなく今後も続く永遠の課題となりそうだ。取り敢えず今回のワールド・カップでの日本の戦いは終わった。これからまた4年後に向けて厚い壁と戦ってもらうとするか。

 さて話は変わって1958年、1962年のワールド・カップ決勝の模様をYou Tubeで観てきたが、今回はイングランドVS西ドイツである。1966年ワールド・カップは近代サッカーの母国イングランドで行われた。かつてイングランドはワールド・カップに参加していなかった。それは母国の意地と言うものだろうか。なにしろワールド・カップを開催している協会FIFA(国際サッカー連盟)よりもイングランドのサッカー協会の方が設立が早いし、我こそが世界最強と自負していたのだろう。何しろ19世紀の1863年にFA(フットボール協会)が存在していたのである。そこで疑問が湧く。1966年のワールド・カップの記録映画を観た頃、小生は中学生だった。この時、イギリスではなくイングランドという名前でワールド・カップに出ていたから、いったいこれはどういうことなのかと思ったものだ。その後に、イギリスには既に4つのサッカー協会(イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランド)が存在していたということで、それらの協会が別々のチームでワールド・カップに出ているという現実を知るのである。つまりFIFAが1904年に国際サッカー連盟を設立する以前に、すでに大英帝国の4団体(イングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランド等)が設立していたので、FIFAが後に設立していても英国4団体は加盟しなかったのである。
 さらに言うならばこれ等の4団体はサッカーやラグビーに関しては、イギリスで出ることに抵抗があり、それぞれが一つの国家意識でワールドカップに出ているということを認識するのであるが、言い換えると我々こそが世界一であり、英国4団体以外のサッカー等を認めないというようなものだろう(オリンピックのサッカーには、イギリスはこういった理由で出場しないのだ)。ところが第二次世界大戦後に英国4協会はFIFAに加盟し、1950年のワールド・カップに参加した。でもイングランドは初参加したブラジル大会で、よりによってサッカー不毛の地といわれたアメリカに敗れてしまう。これは世紀の番狂わせと言われたが、世界のサッカーは何時の間にか進化しイングランドは置き去りにされていたという現実を知ることになる。こうしてイングランドは世界と歩調を合わせワールド・カップを目指し、国際大会へも参加するようになる。しかし結果がなかなか出ず、そんな中でも1966年の地元イングランド大会開催を迎えるに当たり、イングランドはいい成績を残さねばならなかった。それでイングランド代表監督に名将アルフ・ラムゼーが就任したのである。ラムゼーは1955年イングランド3部リーグのイプスウィッチ・タウンの監督になるや翌年には3部優勝。2部リーグ昇格してからも3年目には2部でも優勝。1部リーグ昇格の初年度にいきなり優勝するなど手腕が高く評価され、1962年のチリ・ワールド・カップ大会後に代表監督に就任したのである。
 ラムゼーはFWのウイングを外しHBの運動量を重視するために4―4―2の布陣をとった。実際にはFWが3人でHBも3人の4―3―3なのだが、試合の中ではハースト以外は中盤に下がることが多く、現在のサッカーに通じるところもあり、1962年当時よりもより近代的なサッカー・スタイルであった。
 さて、1966年のイングランド大会であるが、ブラジルは3連覇を目指してイングランドへ乗り込んできた。ただしメンバーは新旧交代期であり大幅に入れ替わっていた。大会2連覇時のババ、ジジ、ジト、ザガロ、ニウトン・サントス等はいなかった。結局、GKジウマールとDFジャウマ・サントス、そしてペレとガリンシャが残っていた。ただペレは25歳と最も脂の乗り切った頃で手がつけららないほどの選手になっていた。でもガリンシャは峠を過ぎていた。それでブラジルは緒戦のブルガリア戦、ペレとガリンシャのFKで勝った。しかし、勝つには勝ったがブルガリアの激しいタックルにペレが狙われ、ガリンシャも執拗にマークされ倒された。ブラジルの個人技を封じるには負傷させればいいという汚い考えが浸透していたのか、ペレは徹底的に狙われ脚を負傷した。まだこの当時はイエローカード、レッドカードと言うものがなく、選手交代も認められてなかったので、ペレは片脚を引きずりながらプレーした。それでもなんとか勝ったが、ブラジルはハンガリー相手に敗れ、ポルトガルにも敗れた。それもブルガリアと同じ手を使われペレやガリンシャはファウル攻めにあった。予選リーグで敗退してイングランドを去るペレは「2度とワールド・カップに出ない」と言った。ブラジルが去る中で番狂わせがあった。イタリアが北朝鮮に1対0で敗れ世紀の番狂わせと言われた。
 決勝は地元の声援を受けたイングランドと2度目の優勝を狙う西ドイツの対決となった。メンバーはイングランドがGKバンクス、FBコーエン、J・チャ-ルトン、ムーア、ウィルソン、HBスタイルズ、R・チャールトン、ピータース、FWボール、ハースト、ハント。西ドイツがGKチルコフスキー、FBヘッティゲス、シュルツ、ウェーバー、シュネリンガー、HBハーラー、ベッケンバウアー、オベラート、FWゼーラー、ヘルト、エメリッヒである。イングランドは中盤の要にボビー(ロバート)・チャールトンがいて、それを徹底的にマークしたのが若き日のベッケンバウアーである。
 1966年7月30日、ロンドンのウェンブリー・スタジアムに93000人の観衆を集めて試合が開始された。試合は観てもらえば分かるが、ブラジルとは違いどちらも組織サッカーである。ただイングランドはイングランド内のリーグ戦と違い、ロングパスがが少なく、比較的にグローバルなサッカーをしている。こうしないと勝てないとラムゼーは思っていたのかもしれない。とにかくこの当時のイングランド・リーグのサッカーと言うのは長い縦パスを入れ、そこからセンターリングかクロスを入れ、それをヘディングなり脚なりでシュートするというサッカーが主体だったのである。
 さて、試合は13分、西ドイツのハーラーがディフェンスのこぼれ球を決め先制。しかし、19分、イングランドはムーアのFKをハースト頭で合わせて同点。後半に入り78分、西ドイツのクリアミスのボールをピータースが蹴り込みイングランドがリード。時間も89分になりイングランド待望の初優勝が目の前に迫ったが、ここで西ドイツがFKを得る。FKから相手にあたり跳ね返ってきたボールを処理する両チームの選手たちが混乱する中でウェーバーが蹴り込み同点。とうとう延長戦に突入。
 延長に入ってからしばらくはイングランドがボールを支配する。そして問題のゴールが101分に起こる。右サイドを抜けたボールからペナルティエリア内にいるハーストにボールが出るとハーストはシュート。そのボールはクロスバーに当たり真下に落ちて跳ね上がる。所謂オンラインだ。ゴールかノーゴールか。判定はゴール。すぐさま西ドイツの選手が抗議するが覆るものではない。これが今でも伝説になっている疑惑のゴールである。これで3対2、勢いづいたイングランドは延長後半の120分。縦のロングパスを受けたハーストが持ちこんでゴール。これで決勝戦にジェフ・ハーストはハットトリックを記録する。しかし、この頃のイングランドは確かにいいチームだったことは確かである。マンチェスター・ユナイテッドに所属しているボビー・チャールトンは若い時、ミュンヘンで飛行機事故に遭い一命をとりとめたが、そのことが何時までも心の傷として残っていたが、この事故が人間的に成長させ、同時にクラブチームとしてもマンUは全盛期にあった。なお、この当時、ボビー・チャールトン以外にもジョージ・ベスト、デニス・ローが同クラブにいたが、ジョージ・ベストは同じイギリス人でも彼は北アイルランド代表、デニス・ローはスコットランド代表なので、当然のようにイングランド代表には加わらない。もしこの当時、このイングランドにジョージ・ベスト、デニス・ローが加わっていたら凄いチームだと想像するが、現実では有り得なくて本当にイギリスはサッカーに関しては何時までも保守的である。
 
この試合は延長になったので部分的にカットされています。

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